めろめろ

とまったままのまま(09年6月25日) 2011.1.15ひさしぶりのぶり

スナックさとみの怪

2004年09月29日 | 紅色
 先日僕の高校では、文化祭が盛大に執り行われた。いつもは生徒以外、だーれもいないような所なのに(参観日でも、『遠いから』という理由で一人か二人しか見に来なかった)今日に限っては他校の生徒、多数の大人たち、そしていつもの校舎ではみられないほどに色とりどりの看板や飾り付け、活き活きとした生徒たちの姿があっちこっちで見られた。先生のため息が聞こえてきそうであった。
 「はぁー、普段の授業でもこれぐらい活発に手を上げて声を張り上げてくれればこちらとしても嬉しい限りなのだが・・・」

 僕は高校生活初めての文化祭をめ一杯楽しむべく、おなじみ友達のO君と綿密な計画を立てた(ウソ)。まあ計画を立てたのは本当なのだ。本当なのだッ! ぬぬぬ、なかなか信じないなッ。よろしい、それでは極秘にしておくはずだった計画の全てを明かしてしまおうではないかッ! それじゃあここからを読む人は腰を抜かさないようにしっかりと己の身体をよく支え、入れ歯が吹っ飛ばないように入れ歯接着剤をしっかりと塗りこんで口にはめてここからの行を読みなさい。準備は良いかね?

 文化祭のに、三日前に配られた文化祭の出し物の総目録を見て僕は「ん~、どこに行こうかなぁ、どこが面白そうかなぁ」なーんてことを思っていたわけだが、不意に「ん?」と目が硬直した。
 「二年一組 スナックさとみ・・・高校の女くらを生かして二年一組はスナックさとみを・・・」
 スナック・・・スナック・・・スナックさとみッ! 行かなくてはッ! である。しばらくしてO君がやってきて、
 「おい、スナックさとみ、行かなくてはならんぞッ」
 と言った。やはりO君も同じ事を考えておったのだ。僕たちはうむうむ、それは絶対に行かなくてはならないッ、必ず行かなくてはならないッ、ただちに行かなくてはならないッ、たちどころに行かなくてはならないッ! とお互いの胸に誓い合った。

 で、文化祭当日。人々はみんなおおはしゃぎで飛び交い、笑い声、冗談を言い合う人、別の学校の、見たこともない制服、誰かのお父さんお母さん・・・ 僕とO君は十時の開店から店番をして、十一時にクラスの模擬店を飛び出しさっそうとスナックさとみへ直行した。 壁に貼ってあるチラシを見ると、なんと十一時から「サービスタイム」となっておるではないかッ! 二人はそりゃもう興奮して興奮して、マッハ六ぐらいのスピードでスナックさとみについた。
 店頭では呼び込みの女の子(いずれも二年生)が「まだ間に合うッ! まだ間に合うッ!」と客を呼び込んでいた。
 僕とO君は「まだ間に合ったッ! まだ間に合ったッ!」と言いながらやや興奮で気分が悪くなりつつも、真っ暗い二年一組の「スナックさとみ」へと足を踏み入れた。ちょうどショーが始まったばかりのようで、司会者が挨拶をしていた。
 「さあさあ皆さあん、ティッシュの準備は良いですかぁ? それでは始まりますッ! サービスターイム!」
 僕は「ティッシュの用意」と聞いたところで「あ、これはひょっとしてひょっとして、あんな事やこんな事をするのではなかろうかッ」と本気で思ってしまった。今思えば、高校生があんな事やそんなことをやったらすぐさま逮捕されてしまうではないかッと、あの時少しでもそう思ってしまった自分を責めたい気持ちで一杯である。
 暗幕が開き、七人のダンサーが現れる。服はちゃんと着ているけれど、服にブラジャーのペイントが施されていた。それで、踊りだした。一曲、二曲、三曲目・・・ずっと踊っていた。やがて、司会者も踊りだした。ダンサーの目がみんな輝いていた。観客は手拍子を打つのみ。
 「・・・・高橋君、出ようか・・・」
 とO君が言った。
 その後スナックさとみから、一人また一人と客が逃げていったのは言うまでもない。

O田先生、H先生、O久保先生

2004年09月26日 | 紅色
 以前ここに書いたように僕たちのような、思春期なんでも大げさに見えたり感じたりしちゃうんだ俺たちぃ! な精神状態の僕たちだから、目に見えるちょっとしたできごとがどうしても大げさに見えてしまう。そんなオーバーな目から見て感じた先生のちょっと変わった行動および口癖。

 O田先生は顔の長い・・・いや、身長も高いから圧縮機にかけられたみたいな顔身体立ちをしている。しかもその先生の発する声がめったやたらと低いので体育館に実によく響く。床が揺れそうになる声だ。
 で、その先生は、笑うときが面白い。普通に「はっはっはっは」と笑えばいいのに、O田先生は顔が普通のまま「はっはははっ・・・はっはっははっ」と不規則に「は」がつく。聞いていると犬が今しがた走ってきて息切れしているんですぅ状態の時の、犬の呼吸にそっくりなのだ。顔色を変えずに笑うというのがまた変だ。補足として付け足すが、O田先生が笑うのは、自分が言った事だけに対して、だ。

 H先生はクラスの担任だ。そして古文の先生でもある。もう白髪の多さから八十歳はゆうに超えているのではないだろうかと思わせる風貌をしており、やたら眠くなる授業を展開してくれる。
 H先生は語尾に「ネ」をつける。なぜひらがなの「ね」ではなくカタカナの「ネ」なのか、それには深ーい訳があることもない。読者に知ってもらうためここにH先生の文章を書き写してみる。
 「じゃあネ、教科書のネ・・・えーとネ、の135ページ開いてネ、ネ、ネ、ネ。僕もネ最近目が遠くなってきてネぇ、えっへっへネ。じゃあネ、いきます、稚児の空寝」
 なにもそこまで「ネ」を多用する事はないのではないかッ? と僕は思って、一時間で「ネ」を何回使うのか調べてみた事があった(なんでやねんッ)。結果はとんでもなかった。十分か十五分で二〇〇回を越えた。恐るべき「ネ」パワー。僕はくたびれて「ネ」を数えるのをやめた。「ネ」を上げたのだった。

 O久保先生は数学の先生で、この学校の中では唯一洒落も言わない真面目な先生だと僕は思っていた。ところがつい先日の事である。
 「ここの角度が四十五度で・・・ん? よんじゅう、ご・・・ヨンジュ・・・う、ヨン様か」
 その時僕の中のO久保先生像はもろくも崩れ去り、ネオンピカピカの「新・O久保先生像」が早くも建立した。それからというもの、一次関数のグラフを描いていたときのこと、生徒が
 「そこの目盛りの、横線に短い縦線って、野球ボールのツギみたいですねぇ」
 と言った。するとO久保先生は
 「何を言う、野球のボールとはこうだッ!」
 と言って丸描いてちょんちょんちょんちょんと、なぜか野球のボールを描いてしまったのだ。僕的には早く授業を進めてくれいと叫びたかった。

 ま、早い話、ここの学校にまともな先生は一人もいなくなってしまった。

大和川河川敷にて 後編

2004年09月26日 | 紅色
 文化祭が昨日終了! お楽しみはもちろん最後の打ち上げッ! あー盛り上がった、うまかった。っと、文化祭のできごとは後々書く事にして、今回は前回の続きである「大和川」を書ききらねばならないッ! それにしてもねぇ、文化祭、僕が期待していた「スナックさとみ」はあまりにも期待外れはなはだしかった・・・。

 さて本題。
 で、僕とOと二年生のS木くんは支給されたゴミバサミとポリ袋と軍手を着用、装備し、大和川河川敷へと降り立った。んもう河川敷、ありえないぐらいひどかった。本当にここは河川敷で、こっちには川が流れておるのかッ? そこの所どうなんだ安部幹事長! と指差して言ってやりたかったが残念な事にそこに安部幹事長はおらず、僕は肩うなだれてゴミバサミで発泡スチロールの魚とか入っていそうな容器をポリ袋に投げ込んだ。
 まあ、要するにものすごく汚かったのだ。なに? 汚いようには聞こえない? ようし、これならどうだッ! 川は濃い緑色でところどころ茶色く変色していて原付きのバイクが川岸に埋まっておってだな、それでもって河原には石が下に敷き詰めてあるのだがそれに覆い被さるようにしてダンボールだの金網だの発泡スチロールだのお菓子の包み紙、包装容器だのプラスティックのコップだの子供用の靴だの大人用のハイヒールだの、とにかくここを探せばない物はないというぐらいの廃品が転がっておって、もうとにかく下の石はゴミの隙間からわずかに顔を出す程度であって僕が一歩ゴミの河川敷に足を踏み入れるとでっかいコオロギがピョンピョン跳ねて逃げていった ―という始末であった。
 少しは大和川河川敷のひどさを想像する事ができたであろうか。
 「くさいなぁ」
 とS木君が言った。むんむんと漂う廃棄臭というか、生ゴミ、ヘドロのにおいが僕の鼻の奥を突付いた。
 「そっれでは皆さんッ、ゴミ収集を始めてくださあい」
 と誰かが言った。クリーンキャンペーンに参加していたのは、僕の高校のほかに平林自治区なんたらかんたらどうたらこうたらの人たち、N小学校(だったかな)の生徒諸君、ボーイスカウトの青年少年、その他おばちゃんおっちゃんの、計一〇〇人と数人であった。
 僕は、あたり一体の臭さに慣れ、黙々とゴミ拾いをしていたのだが、O君がもっと水面に近うよりたいと言うので仕方なく僕はズンズンと川に近づいていった。そこで僕はでっかいカメの死骸を見つけた。先にここを通ったO君はこんなにもでっかいカメの死骸に気が付かなかったらしく、僕が声をかけると振り向いて「おああッ」と叫んだ。
 面白半分でゴミバサミでカメを持ち上げると、振動に驚いたのかカメの口からわさわさっと虫が出てきた。そこでまたO君は「おああッ」と叫んだ。さすがにそのカメはゴミ袋に入れることができず、後で先生が川に投げ捨てた。
 「自然のものは自然にかえしてやろう」
 と先生はのちに言った。

 「ところで」
 と僕はしばらくゴミ拾いに熱中していた手を休めると言った。
 「これだけありとあらゆるものが揃っている川原なのだからひょっとして例のブツもあるのではないのかッ」
 とOに言った。O君は
 「あるかぁ? ありそうやなあ」
 と言った。例のブツとはそう、あれである。俗に言う大人の玩具とか、近藤、あるいはムサシ、まあ合わせて言うと近藤ムサシ、コンドームとかそういうモノがひょっとしたら落ちているのではないか? と僕は考えたわけだ。実際何が落ちていてもおかしくない雰囲気だったし、川底には死体の一つや二つ、三つや四つ沈んでいたって「やっぱりな」程度で済んでしまうのではないかッ? 的状況だった。

 しばらくして、S木君が僕らを呼んだ。
 「こ、これなんだろう」
 と僕に見せたもの、それは紛れもなくアレだった。
 筒状になっていて、筒の内側にイボイボイボイボッと突起物がたくさんついていて、明らかにゴム製でぶよぶよしていた。
 「これはあれっスよ、玩具じゃないスか」
 とO君が言った。うむうむ、そうとしか考えられない、と僕も頷いた。実物を初めて見るのでちょっと感動した(・・・こんな事で感動するのかッ)。
 「おおお、そうか、玩具か」
 と心なしかS木君も喜んでいるように見えた。
 さらに、今度はO君が恐るべき発見をした。
 「たたたた、高橋君、とうとう見つけたとうとう見つけた」
 とO君が言うのでなんだなんだと僕は現地に駆けつけた。O君はピンク色の、薄っぺらい変なものを差し出した(ゴミバサミで)。
 「こ、これは・・・」
 僕は言葉に詰った。まさしくこれは近藤ムサシ、つまり正式名称コンドームではないかッ! しかもそのムサシは、真ん中で結ばれていたのだ。使用済み、密封封印というところだろうか。結局なぜ結ばれていたのか、というところが今一つ分からないまま(仮説は何通りか立てたが)「大和川クリーンキャンペーン」は終わった。
 なかなか面白かったので来年も行こうと思う。

大和川河川敷にて 前編

2004年09月23日 | 紅色
 今日、秋分の日だというのに朝から僕はボランティアで「大和川クリーンキャンペーン」に参加した。最近こうして日常の生活を文章に書く事が多くなって、僕はなるべく行事に参加している。参加すれば何か面白い事が起こるのではないかッ? という期待感が僕を行事に参加させているようである。

 朝八時に集まったのはおなじみ絵画部の友達Oくん、そしてバスケット部のKくん他二名、それとあとNGくん、そして残りはほとんど女子だった。合わせて約二十人、僕たちは先生の後ろについて大和川に向かった。学校からすぐのところに大和川はあって、もうあと三・四〇〇Mぐらい行けば海に出るほど河口付近だった。ものすごおく川幅が広くて、河口の方にフェリーが見えた。大和川の両端は工場地帯になっていて、右から左へ高速道路が川をまたいでいた。
 そして。
 川岸にものすっごい量のゴミ! なななな、何じゃぁこれはぁ! と僕は叫んでしまった。大和川! これが大和川なのか、川岸、きたねぇなあ! である。

 高速道路の高架下で開会の挨拶が行われ、軍手やゴミバサミ、ポリ袋をもらい、さぁ出発・・・の前に僕は支給されたジュースをもらい飲んだ。よく冷えとって美味いじゃないか。見るとOくん、お前、おいッ! ジュース二つも貰うなんて汚いぞッ! 僕はO君がうらやましかったが、もう一度ならんで貰いに行くなどという度胸を僕は持ち合わせていなかったため、ただただ僕はOくんがうまそうに飲むジュースに見とれていたのであった。
 「高橋君も貰いや、二回ならんだとか絶対にバレんから」
 とO君は言ったが、僕はバレるのを恐れてブルンブルンと首を横に振った。
 仕方がないから一本だけのジュースを飲み干しパックをグシャッと潰してゴミ箱に放り込んだ。すると、間髪入れずにコーヒー牛乳を持ったおじさんがすたたたたーッと現れて
 「もう一本いかが?」
 などと言うのだ。僕は嬉しくて嬉しくて一本もらった。そしてそのコーヒー牛乳をごくごく―ッと飲み干した。
 「はー、うまかった」
 と言って一息つくとO君が
 「高橋君、後で貰えるのと知っていたからあの時一本だけで我慢したのか!」
 と言った。僕は「いいえ」と言うのもなんだかバカバカしいので
 「そうさッ、僕はもう一本もらえると見越していたのさ! ぬわははははッ!」
 と大笑いしておいた。
 飲み干してゴミ箱にパックを捨てると、なんとまたもやおじさんが
 「もう一本いかが?」
 と言って僕の前に現れた。僕は「は、はぁ」などと言ってもう一本コーヒー牛乳を受け取った。するとそれを見たO君と二年生のS君は「やあやあ、どうもどうもどうもどうも」と言って二、三本コーヒー牛乳を受け取り僕が背負ってきたリュックに入れた。O君が「後で飲もう」と言った。
 で、リュックにコーヒー五・六本をしまい終えるとまたまたおじさんが現れて
 「きみたち、もう一本いかが?」
 などと言うのだ。いい加減コーヒーの味にウンザリ来ていた僕達だったが貰える物は貰おうではないかッという大阪人的哲学に従ってまたまた各自二本ずつ受け取り、そして僕の鞄の中に入れた。
 結局僕の鞄の中はコーヒー牛乳十本、リンゴジュース二本、計十二本もの紙パックジュースで満たされてしまった。
 これはずいぶん得をしたなぁ、と思いつつ今背負っているリュックの重さはちょっとシャレにならない。重いのだ。たくさん貰ったのはいいが、結局僕しかリュックを持ってきていなかったので紙パックジュースは全て僕の鞄の中に詰め込まれた。僕はこれを背負ってゴミ拾いをしなければいけないのかと思うと、今からガックリとしてしまった。おなかの中でチャポンと、飲んだコーヒー牛乳がひと揺れした。

 まだゴミひろいまで書いていないのにこんなにも行数を使ってしまった。ゴミ拾い編は、次回書くことにする。あー本当にお腹の中、気持ち悪い。

風邪→入院

2004年09月21日 | 紅色
 僕は昔とぉってもよく風邪とか熱で学校を休んだ。土日ちょっとだけハイテンションになって次の月曜日疲れて熱が出て学校を休み、下痢だ嘔吐だといってさんざん苦しめられた記憶がある。

 小学六年生の冬休み(だったかな?)、例のごとく僕は月曜日から体調を崩し祖母の付き添いでI元医院へ行った。その時は、その前の週ぐらいに熱が出てやっと金曜日に治ったばかりの病み上がり、この土日でまた体調を崩してしまったのだ。もう通い慣れたいつもの道筋で医院に行き、先生に「ここがこうこうこうだから」と病状を説明して聴診器と尿検査という簡単な検査をしてもらった。そのあとに先生は思いもよらない事を言った。
 「これは・・・ちょっと我々の設備では見れないので、川沿いにあるS病院へ行って検査を受けてきてください」
 僕は「あれれ?」と思った。いつもここの医者で薬をもらって、はい後は自宅で安静にぃというような過程だったのに、今日に限って大きな病院に行って検査を受けなさいと言うのは一体全体なぜなのか? 僕は祖母と一緒になんだかだるい、自分の体でないような体を引きずってS大病院に行った。
 そこで言い渡されたのは考えもしなかった「入院ッ!」の一言だった。
 「にににに、入院ッ?」
 僕はわが耳を疑った。先生はそう言うと、
 「今すぐに入院。入院ったら入院なのッ! はいはいはい、キミキミ、患者なんだからそこに横になっていなさい。もうすぐ部屋に案内するから」
 と続けて言った。
 僕と祖母は顔を見合わせて苦笑い。言う言葉が見当たらない。ただの風邪のはずが大病院に案内され、血液検査や尿検査などの検査を経て挙句の果てに「入院」である。しばらくして祖母が
 「お母さんに電話、してくるわ」
 と言って席を立った。にににに、入院ッ! である。あともうしばらくで卒業式、そして明日に迫った誕生日。結局僕は年の暮れまで入院した。三週間ぐらい入院したのではないだろうか。入院生活は何とか耐えられたものの、それより何より僕は当時まだ小学生、話そうにもここは小児科、赤ちゃんや保育園児ばっかりで話し相手がおらず、んもう本を読むしかなかった。
 そのおかげで本が好きになったといえばそうなのだが・・・。

思春期の心は激動なのだ

2004年09月20日 | 紅色
 それで、前回からの続き。だから、これを初めて読む人はまず前回の「鉛筆画今昔」を読んでからこの文章を読んでほしいと思う高橋である。

 最初に先生から何も指示されずに描いたドラム缶の鉛筆画は大失敗に終わり、僕は半ば意識不明状態でフラフラと家に帰った。絵が自分の最も得意とする分野だと思ったのに、こんなレベルだったとは、と僕はんもうものすごおく落ち込んだ。鉛筆画がなんじゃいっ、俺は将来漫画家になるんだから鉛筆画なんか描けなくてもいいんじゃいっ、とぶつぶつ言った。
 その次の週、僕は嫌々ながらもアトリエに行って二回目の講習を受けた。そしてそこでも見事鉛筆画は撃沈した。そのまた次の週も、そしてそのまた次の週も撃沈、撃沈、やっぱり撃沈した。しかし、僕はわずかな手応えを感じていた。ぬぬぬ、なんだか鉛筆画が分かってきたような気がせんこともない事もない気もしない事もないではないか。
 よし、次こそは完璧に描いてやるッ! もう高橋完全に本気モードだからねッ、甘く見るなよ先生ッ! 昨日の俺は俺にあらず、一週間たった俺はまったくの別人「ベストオブ鉛筆画・スーパー高橋」となってアトリエに現れるであろう、うわはははは!
 で、僕は胸をいからせて次の週、ズンズンとアトリエに入っていった。
 「はい、じゃあ今日も鉛筆画をします。2Hから6Bまでの鉛筆を用意して~」
 と先生が言った。この先生は猫なで声のくせにやたら核心を突いてくるから小心の僕にとってはかなり堪える。といって、その先生が嫌いとかそういう訳ではなくて、むしろその先生は大好きだった(念のため、念のために言っておくが別の僕がその先生に恋心を持っていたというわけではないぞッ、ただ単に尊敬していただけなのだッ! 分かったか? 分かったのか? 誤解しないでね、ね)。

 で、今日は何を描くのだ? と思って待っていたら机の上に現れたのは本立て。あの、本とかを整理する時に使う銅版一枚の、真ん中をくり抜いて支えにしている、あの本立てである。今までぐしゃぐしゃにした紙とか、欠けたブロックとか、そういう複雑なものばかり描いていたので今回の「本立て」という単純な物体が課題ということに少々驚いた。これはすぐにできてしまうのではないか? と思ったりもした。自分で言うのもなんだが、通い始めて二ヶ月目になる僕の鉛筆画の腕は、ほんの少し上達していて円柱とか立方体なんかはサラサラ―ッと描いちゃうもんね的考えを持っていた。
 しかしこれが、やってみるとなかなかのくせもので、どうしても上手くいかない。こんな単純極まりない本を立てるためだけにあるようなものが、どうして俺には描けないのだぁ! と僕はもう嫌になってしまった。
 で、結局最後まで上手く描けないまま時間が来て、先生の批評が始まった。そして僕の絵を見て
 「腕も少し上達してくるとね、今度は逆に単純な構造の物ほど描きにくくなってしまうものなのだよ」
 と言った。え、それはそれは・・・僕の腕が上がっているということですか? そしてさらに先生の一言
 「どうや高橋君、君、この絵難しかったやろ?」
 正直この言葉は嬉しかったなぁ。

鉛筆画今昔

2004年09月19日 | 紅色
 先日自転車をこいで走っていると前方ウンチョス注意注意で避けたのはいいけれどその次の十字路からおばあさんがのっしのっしと現れてうわわわこれは危険危険で思わず急ハンドルを切ってしまい腰を痛めたという噂の、高橋です。

 突然だが僕は鉛筆画が大好きだ。現在絵画部所属、油絵を毎日描いている僕だが、それでも鉛筆画が大好きだ。できれば鉛筆画と結婚したいと思う(こんな書き出しで前も書いたような・・・)のだが、残念ながら法的にそれは許されない。
 なぜ鉛筆画がそれほどまで好きになってしまったのか?
 原因は以前通っていた「Mアトリエ」にあるのだ。コノヤロコノヤロっ。僕は小学五年生から毎週土曜日「Mアトリエ」に行って絵を描いて楽しませてもらっていた。中学生となり、クラブが忙しくなったためアトリエを一度やめたのだが、絵を描きたいなぁと言う想いは日々やまず、クラブのない日曜日にアトリエへ行くようになった。
 そして中学三年生。僕は「美術高校受験コース」というクラスに入った。もう説明のし様のないほどに名前がハッキリしているのだが、つまり(説明しなくてもいいけど・・・)美術高校の受験でやる実技の練習をするクラスなのである。
 受験コース? 一体何をするのだろう? と僕は頭の上に五つぐらい「?」マークをつけながらアトリエに行った。待っていたのはヒゲ面の先生で森進一に氷川きよし÷2を足した感じの声で
 「やあ来たか。じゃあ始めようか」
 と言った。そのクラスには、僕と他に女の子が一人いるだけだった。先生は奥からでっかい画用紙と厚紙の版みたいなのを持ってきて
 「これは画板と言って、この上に画用紙を針金でとめて描くんだよぉ」
 と教えてくれた。
 へぇ~などと言って僕はそれに見入っていると、
 「じゃ、鉛筆で描いてみようか」
 などと先生が言うのだ。そして、ドラム缶を僕たちの目の前に持ってきて
 「じゃあ始め。描いてくださーい」
 と言って、とうとう先生は奥の準備室に入ってしまった。僕はと言うと、もう頭の中は「???」である。目の前にあるのは真っ白な紙とドラム缶。もう一人の女の子はせっせと描いている。ぬおおおおッ! まずいぞ・・・初日からこんな事になるなんて。絵の事を知っているつもりで、僕は一つも知っちゃいなかったのかッ? 父さん母さんごめんなさい、僕はもうダメでぇす! と僕は早くもお手上げ状態になってしまった。
 ドラム缶を見れば見るほど頭が混乱してくるッ! この総天然色の物体を、どのようにして黒一色で表現すればよいのだ? 開始十分も経たないうちに僕の頭の中は「???」から「????????」になっていた。残る道は・・・。
 僕はこっそり隣の女のこの絵を見る。その女の子は、一生懸命に縁取りをしていた。そうかそうかそうか、まず縁取り、うん、そうかそうかそうなのか!
 僕は一人合点してさらさらさら―ッと縁取りをした。

 やがて先生がやってきて僕の絵を見て
 「・・・ちょ、ちょっと変わって・・・」
 と言って先生は僕の席に座り、苦労して縁取った僕の線をケシゴムでほぼ全部消してしまった。
 「なななななんでやね~んッ?」
 と僕は脂汗タラタラでケシゴムをかけられてゆく縁取り線を見ながら(心の中で)叫んだ。そんな僕の反応をよそに先生は
 「鉛筆画というものはね、まず大まかな形、線をとってタッチの差で明暗を分けていってそれから鉛筆の濃い薄いでもう一度調子をつけてナンタラカンタラ」
 と、僕に「基本的な鉛筆画の描き方」という題名がつくほど丁寧に鉛筆画の一から十までを教えてくれた。そして僕はと言うと、ああ、そんなこと、最初に言ってくれよと思うばかりであった。

 ところが後になって、先生が最初に何も言わず僕に鉛筆画を描かせたことは正しいのではないか、と思うようになった。その一回の大失敗のお陰でそれ以上の大きな間違いを起こす事なく受験コースを最後までやってゆけた。先生に感謝、感謝である。
 この話は長くなるので次回に続ける事にする。ふふふ、懐かしいなぁ。

文化祭、迫る

2004年09月18日 | 紅色
 高校では来る文化祭に向けて、今日も数人集まって作業をしていました。
 文化祭。いい響きではないか。言うのもなんだけど僕は文化祭が大好きだ。文化祭と言う響きも好きだし、秋という季節が好きなせいもあるのかもしれない。

 今年の文化祭。というのは僕にとって高校最初の文化祭になるわけだが、僕のクラスでは模擬店をやる事になった。まず模擬店で何をするか、クラスで話し合ったのだが、んもう僕は本当に虚しくて虚しくて逃げ出そうと何度考えた事か。
 なぜ逃げ出そうとまで考えるようになったのか。今日はその原因であるクラス会議の様子をここに書こうと思う。

 「えーっと、文化祭では模擬店をやる事に決まりましたぁ」
 と実行委員の人が言った。「決まりました」と言っても、いつどこで誰が決めたのかまったく分からない。もうしょっぱなから僕は意味が分からなくなってしまった。
 「それでぇ、その模擬店の名前、何をするかを考えてほしいです」
 と実行委員が言った。
 「まず名前から、決めましょう」
 「本田屋ッ!」(なぜ本田屋なのか。それは、担任が本田先生と言う名前の人だから。いやいや、「本田」が名前で語尾の「先生」は職務名。本田先生の本名は「本田」・・・なんとかさん。)
 「○○屋ッ!」「××亭!」「△□屋!」
 と、方々で女子の高い声が響き渡る。その端っこの方で男子は
 「あの・・・ナンタラカンタラ屋さんがいいと思います・・・あの、あのぉ・・・そのぉ・・・」
 とちっちゃい声でぼそぼそッと喋っていた。僕もなんちゅうか、その女子の気迫に押されて押されてあぁ―ッ危ない! 高橋危険ですッ! 退却! 状態になっていた。むむむぅ、これでは言おうにも言えないではないか・・・。僕はその時とっておきの名前を思いついていたのだが恥ずかしさと女子の気迫の凄さのあまり、とうとう言い損ねてしまった。
 もうこの時点で僕の体力およびやる気は半減されてしまったわけだが、さらにやる気がなくなってしまったのは準備に取り掛かる時。

 僕は射的の班に分配され、射的かぁ、どんどん準備しちゃうぜぃと鼻をおっぴろげながらフガフガと射的の場所に行った。
 ところが、である。射的班十人あまりの女子が輪っかになってぼそぼそと予算の事や景品の事について話し合っているのだ。
 射的班の男子は僕とO君とS君とK君がいたのだが、女子は輪っかになってその中に入れようとしない。仕方なく僕と三人はしょぼんと輪っかの外で不純な話をしていたわけだ。今思うと実にかわいそうな光景が目に浮かんでくるわけだが、なぜあの時女子は僕ら男子を輪っかに混ぜてくれなかったのか、そこのところがちょっと不満なのである。

S先生、I 先生

2004年09月16日 | 紅色
 今日、体育があって、最後のプールだった。どうして夏はこんなにもすぐに終わってしまうのだろうか。僕は平泳ぎをしながらそんな事を考えていたのだが、この夏気になっていた事をここで一気に書いてスッキリしてしまおうと考えたわけである。

 その一 先生の視線
 我が高校の体育教師の一人、S先生についての事。S先生は男子にとおっても厳しい先生なのだが、今日も例外ではなく水泳帽を忘れたO君に
 「ええ加減にせぇや!」
 と言ってO君の毛、ではなかった頭をガツーンっと殴ったのだ。
 とまぁ、S先生はそれほどまでに教育熱心というか、情熱的というか、感情的というか、ただの怒りん坊というか、まあそんなところかな的存在なのである。
 まあ、そんなS先生なのだが、今日も手始めに「じゃあ十往復、よーい、始めッ」と言った。
 十往復というのは、もちろん泳いでだ。すでに僕は気が遠くなりつつ頭を必死に支えて、プールにザブンと体を沈めた。その時ッ、果てしなく快い快感が僕の体の隅ずみまでいきわたった・・・と書くと、なんだか限りなくエロティックな文書になってしまうが、決してそんな文章でもなければそんな体験をした訳でもないけん。実際今日のプールの水温は、ちょうどよくて気持ちがよかった。
 気持ちいいッ! チョー気持ちいいですッ!

 で、なんだかんだ言いつつ五往復めにさしかかった時、ふと僕はS先生の視線に気がついた。S先生は、紛れもなく女子のほうを向いてほんの少し嬉しそうな感情を、顔に表していた。そして、うんうん、と頷いたのだ。
 こここのヤロォ! なーに見て笑って頷いて頬のヒゲむしって髪の毛のない頭をつるりと撫でているんだよぉ! もう勘弁ならねぇぜッ! 僕は殴りたかったが恐かったのでやめた。というわけである。もう今日のあの行動で僕の中のS先生に対する想いの数値は一気に半減したのだわッ(0,001から0,0005に半減)。

 その二 先生の言動
 これは別に体育の先生の事ではないのだが、まあ、言ってみれば我が校の先生は、ほとんど変だ。大人から見ればそうは思わないかもしれないが、今僕たちは血の気たっぷりお色気ムフムフあっちの世界やこっちの世界に興味しんしんなんですぅ的精神状況のさなか、ほんの些細な先生の行動であってもそれは今の僕たちが見ると「変だッ!」と映るものなのである。
 例えば社会のI先生。この先生は、授業中寝ている生徒がいると起こさして、起立させる。その起立させる時のかけことばが、「おいお前、スタンドアップ!」なのである。スタンドアップ、スタンドアップなのである。
 例によって僕とO君は「スタンドアップ」とは一体どこが立つことなのかッ? ということを議論した。結果、男の象徴的部分が起立するのではないか? という結論に達した。そんなこと、ほんのわずかも知るはずのないI先生は相変わらず今も「スタンドアップ」と言い続けている。

トランクス困惑日記

2004年09月15日 | 紅色
 もともと僕はトランクス派ではなかった。中学生まで僕はブリーフ少年だった。まあ履き心地も良かったし、ブツを自由にさせておくことに少し抵抗を感じたためでもある。
 それに、トランクスという言葉自体昔から知っていた訳ではなくて、僕がトランクスを知ったのは小学六年生の頃であった。体育の授業。みんなは教室で着がえ始める。と、ズボンを脱いだのはいいのだが、ズボンの下にまたまた派手な短パンのようなものをみーんな穿いているではないか。
 僕は親友のHに疑問をぶつけた。
 「ねーねーH君、その、短パンみたいなのはなんなのだ?」
 「え? 知らねぇの? トランクスだよ」
 と、Hは僕がトランクスを知らないという事に少々驚いた様子であった。これが、僕とトランクスとの出会いである。

 しばらくして、徐々にトランクスが普及し始めると、ブリーフはいつしか「汚い」「湿っている」「黄色い」のレッテルが貼られ、「ブリーフの奴は笑われる」の印が押された。実はこれ、僕をたいそう落ち込ませたわけなのである。
 「ブリーフは時代遅れなのかッ!」
 僕は人に見られるのが恥ずかしくて一人でコソコソ体操服に着替えていた。
 親に「トランクス欲しい欲しい欲しい欲しい」とねだってみても
 「贅沢いわないのッ! トランクスなんてダメダメ、時代遅れなんだから。ブリーフだとホラ、暖かいし結構締まりも良くて・・・」
 と、ダイエーに行ってはせっせとブリーフを買いだめする母であった。周りはほとんどトランクスなのに、僕だけブリーフ。んもうこれで若き青春の図太い、それでいて驚くほど壊れやすい僕の心はメキメキ―ッと音を立てた。
 「ブリーフ=カッコ悪い」
 これが僕の図式である。もう本当に嫌で嫌でしょうがなかった。体育の授業がなくなればいいのに! と本気で考えた。あ・・・明日、水曜日・・・たたた、体育だぁ! 休もうかしら・・・。である。

 高校に入って、ようやくトランクス三着を買ってもらった。以前に、K君のおっちゃんからトランクスを二枚貰った(なんでそんなものを貰ったんだろう・・・)のがきっかけで、僕はトランクスばかりはいていた。それを見かねたのか、あれほどトランクスはダメダメッ! と言っていた母が、僕のトランクス買え買え攻撃にようやく首を縦に振った。
 僕は嬉しくて嬉しくて朝から晩までトランクス、夜寝る時もトランクスであったが、長年ブリーフを穿いていたものだからどうも・・・その、男のモノをブランブランと野放しにしていて本当に良いのか? これで世界は平和を保てるのだろうか? 小泉総理、早く改革をッ! と思ったりもした。自分のモノがこんなに垂れ下がっていても良いのか? 俺の未来は大丈夫なのだろうか、と未来に不安を抱いたりもした。

 今ではもう完全にトランクス一本になった僕だが、最近タンスの奥にへばりついておったブリーフを発見して、これを書いた。