めろめろ

とまったままのまま(09年6月25日) 2011.1.15ひさしぶりのぶり

真のクライマックスはここからなのだった

2005年03月30日 | 紅色
 ひるめし。冷えたようなカレーだった。それで、O先生からのお話
 「まだ晴れているので、上手くいけば雨は降りそうにありません」
 ・・・しかし、しかしである。実は後々これまたものすごい事になってくるので読者は今後の展開に乞うご期待! なのであるけれども、そうこうしているうちにご飯も食べ終わり
 「あ~、んじゃあもうひと描きしてくるか」
 ということになった。それで左手にカンバス右手にパレットを持ってのらりくらりと午前と同じ場所に向かっていたのだが、その途中の海沿い道路でのこと。も、ものすごい横ッ風! 俺ふらついてカンバスが風にあおられて、パレットは風をもろに受けて僕の顔に飛びついてきたわけである。
 つまりこれは僕とパレットとの顔面キッスあるいは濃厚的灼熱野郎接吻、である。僕の顔には青絵の具べっとり。風が格段に強くなっているのだ。ひええッと叫んでみたところでどうにかなるわけでもなくて、仕方がないからそこいらの草や葉っぱでとりあえず顔を拭いて、時々風で飛び上がりそうになるカンバスを右手で、そしてコーフン冷め切らぬパレットを太ももでおさえ、どうにか僕はそれでも描き続けたわけである。どこか近所でトタンが鳴る。雨戸を閉める音がする。
 むむ、これはちょっとまずい気象状況になるのでは? と考えたのだがまだ絵は途中だし、止める訳にもいかないのだが・・・むむむむ困ったぞ。そんな時そこの家に住むおばちゃんLが勇んでドアを開け、たったの一言
 「危ないから、早くそこを逃げなさい」
 は、は、ハイッ! 地元すごいッ! なんだか初めての土地に疎い僕にとって地元の人々は、なんちゅうか神的な、そういうオーラを放っているような感じなのだ。だから地元の人が言ったことは絶対服従さもなくばお前は死ぬッ! というところが少なからずある。
 だから持ってして僕はその場を退散したのであった。まだ描きはじめて一時間しか経っていない中で、野外制作を中止するというのはこう見えて結構勇気のいる事なのだが、僕はしだいに「あ、早めに切り上げて良かった!」と思うようになった。窓の外はみるみるうちに曇り、とうとう雨が降り出した。雲の流れは速く、波も高く防波堤を一跨ぎして港内に入り込んでいた。
 小走りに帰ってくる人々を上から眺めながら僕はおばちゃんLに感謝するのであった。

 かくして雨はやんだ。その後に出た夕焼けは、やっぱり絶景だったし、きつ過ぎる風が意外と気持ちよかった。窓から隣の旅館を見てみれば風呂場に灯り。
 むむむッと思い身を乗り出すと、それは男であって、見たくもない尻をさらけ出していた。あまりにもバカバカしくて、このままでは人生がダメになってしまいそうだったので早急にその場から退散した。

話はいよいよクライマックス的になってゆくのだ

2005年03月28日 | 紅色
 二日目は、なんと五時に目覚ましが鳴ってしまい、周りの方々に多大なるご迷惑をお掛けしてしまったのでここに謝る事としたい。ごめんなさい。さて、それで、五時に目覚ましが鳴り、僕も僕でそれで起きたわけでもなくて、外を見ると「まっくらけ!」であったので二度寝を決め込んで、結局のところ起きたのは六時であった。
 早速着替えて外に出る。今日は雨もやんでいて、所々に水溜り、空は微妙に晴れていた。うっすらと、山の合間合間から太陽が昇り始めていた。犬が「ワンッ」と吠えて「ヴヴヴヴ・・・」とうなり猫が「のあ~っ」とやってきて一生懸命体をすり寄せてきた。こらこら、そこの猫よ俺はお前のものではないぞ。
 とにかく立ち止まってスケッチをしていても寒いだけなので、できる限りこの美しい朝の町を歩いてみようと思った。横にはクラスのベストオブ天パーDくんがいて、それで小一時間歩いた。途中ちょっとスケッチしたり写真をとったりした。

 今日は午前中が勝負だッ! できうる限り午前中に仕事を済ませてしまおう、とO先生は言った。午後から天気がまた荒れてくるらしい。それより僕は、宿のおそろしく冷えた布団の中で、無理矢理温まろうと身体を丸めて眠っていたので腰中心とした節々が痛んでしょうがなかった。まったく、酷い宿だッ! しかも布団が小さいのでさらに身体を丸めなければならない。そしてさらに、十六畳超の広間に古びた、すぐ止まるガスストーブが一台だけで、しかも窓はもろに風を受ける仕組みになっているので部屋が冷えて冷えて、また僕はさらに身体を丸めるのであった。
 前日地塗りを済ませたカンバスと、至急作り上げた手製のパレットを持って僕は例の古びた倉庫のようなところへ向かったのだった。細い道の突き当たりにそれはあり、僕はそこに腰を下ろしてしばらく眺めたあと、描き出した。
 と、ひとりのおばちゃんAが「ちょっとごめんね~」とやってきて、狭い道を横切っていった。
 そしてもうひとりのおばちゃんBが「すみませーん」と言って、同じように道を横切った。
 さらに後に続いたおばちゃんCが「失礼します・・・」と言って、堂々とその道を同じ方向に歩いていった。
 めいめいのおばちゃんの左手には生ゴミ入れたポリ袋が一掴み掴んであり、後々引き返してきたおばちゃんRによって「今日はゴミの日」ということが判った。
 どうやら今日はゴミの日らしい。
 そしてこの細い、都会で言うと路地のような道がゴミ収集所へ続く「ゴミロード」であったのだった。この「ゴミロード」は同時に「通学ロード」でもあるらしく、黄帽被った小学生や自転車担いだヘルメット中学生、セーラー服の女子高生など、実に多彩な学生がここを通っていくのだ。通るたんびに僕はパレットをどかしてカンバスを横にずらさなければならなかったが、それは観ていてなぜか面白い光景だった。
 アレ? と思ったのは、和歌山県はまだ学校があるのかナ? ということだった。まあそういう所もまだまだいっぱいあるだろうけど。

 僕は僕で、自分で言うのもなんだけど結構集中して描いたぞ。例えおばちゃんの一人や二人がじっと僕の絵を覗き込んだとしても、知っていて知らないふりをしていたぞ。まあ、ちょっと話してみたい僕は、とうとう我慢できず
 「階段、大変ですか?」
 と聞いてみたりするのだが、今まで絵を見ていたおばちゃんはそこで
 「そりゃーもう、下にしか店がないから、大変!」
 と言った。そりゃそうである。
 しかし、そんな不便が僕たちにとっては魅力的・・・という不思議な想いのゆがみの上にこの町は成り立っているわけであって(む、ブンガクテキ表現。ええぞええぞ)地元の人はこの家並みに誇りを持って、もっと傲慢になるべきである、と僕は思う。「不便、不便」だけではない、住めば都、なのである。
 そうして話をしているうちに、あっという間にお昼になってしまうのであった。ここの時点ではまだ微妙に雲の隙間から日がのぞいていたのだが・・・。

そして話は続いてゆくのだ

2005年03月27日 | 紅色
 一日目の晩ご飯はSUKIYAKIであった。
 「肉は最後ッ」
 とセンパイが言うので、それならそれでいいやと、僕はすばやく味の染み込んだ「ふ」をひたすら食べつづけていた。
 「タカハシは『ふ』が似合いすぎる!」
 む、何とでも言えッ! そして最後のお楽しみのような牛肉をどかどか入れて、それから食べた。おばあちゃん従業員が「お出汁少ないのとちゃうか~」と言って、急須を持って机から机へ渡り歩いていた。

 スケッチの途中見つけた、パリの一角のような建物(写真がそれなのだけど、画像が悪い、悪すぎる)が気に入って、それを三枚続けてスケッチをした。描き終えて今度は写真に収めておこうと思い、宿に戻りかけたときにちょうどセンパイAくんに出会った。
 「あ、ひょっとして自分、アレ描こうと思ってる?」
 とAくんは言った。僕は-これちょっと気まずい雰囲気になってしまうかもしれないぞ-的思いをはせつつ
 「はい」
 と言ったらAくんはいとも容易く
 「ソッカ・・・これ、今回狙ってたんやけど・・・まあ、早い者勝ちか。きみに譲ったる」
 と言って、向こうの方へ歩いていった。その時僕としては「むむっ、これはなんとしても、いい絵を描かないことにはAくんに顔向けできないッ」と思ったわけなのである。つくづく僕にはいいセンパイがおるのだなぁ、と思った。

 そんなこんなで夜のミーティング。O先生が自慢の重低音ボイスで「あー、んで、んぐんぐゴロゴロであるからして、もぐもぐなわけである。ごそごそぶつぶつ、以上」と解説のような心得のような話をして、さて今日したスケッチの見せ合いをしましょうという事になった。みんなウマイから(この場合の「うまい」は「美味い」や「旨い」ではなくて、一番適切な意として「上手い」が挙げられる)、出すのが困難になってくるわけでして、それでなくても「お前のスケッチはスケッチと言うよりクロッキー」という意外と心に重くのしかかる一言を浴びせられた僕にとっては緊張の連続なのであった。
 そうしていると、突如F先生が「そりゃッ」てな具合に僕の左手からスケッチブックを引っ手繰り、さらに「どりゃどりゃどりゃッ」とページをめくり始めたのだった。朝に僕の心境「のわー!」である。F先生はさんざん見た挙句「ふんふん」という、なんだか中途半端的未消化生煮え及び曖昧な頷きをして、僕にスケッチブックを返したのだった。
 僕はもう、ああ、まあいいやもういいやどうもいいや波状光線ビビビビッうわわー的にガックリでアゴがあばら骨にめり込んで三本ぐらい軽く折れてしまいそうな消沈加減であった。

 しかし運命とは分からないものでして(さだまさし「雨やどり」のノリで)O先生は畳の上にホッポリ出された僕のスケッチブックを手に取ってみまして
 「お前これなかなか絵になっているよ」
 と言ってくれまして・・・気が付いたらあなたの腕に雨やどり・・・。
 こうして一日目の波乱は幕を閉じて、ようやく眠りについたわけなのであった。

ひとまず話は最初から始まるのだ

2005年03月26日 | 紅色
 さて、えーと、合宿初日。僕は緊張して前日あまり眠れなかったのだが、朝になると不思議なもので、サッと起きてご飯食べて歯ぁ磨いて、それで荷造りして、準備完了いつでも行ってきます! という状態及び心境になったわけなのだ。それで、前日調べておいた所要時間の紙も持ったし、よっしゃよっしゃ! もう何も言うことなし! いつでも行っといで! のハズだったのだが、なんとそれは南海難波駅で脆くも撤回させていただく運びとなるわけである。
 早い話、南海難波駅では、十一時に和歌山市駅現地集合だから、50分発急行に乗らなければならないのだが、なんと50分発の急行がなかったのだッ! 
 アレッ! おかしい、オカシすぎる(この場合『犯しすぎる』や『侵しすぎる』ではなくて、『可笑しすぎる』が適当な意だと思います)。45分に難波駅に着き、二つのかばんにまとめた荷物をぜいぜい言いながら、よっこらしょと降ろして待つこと十五分、十時七分発の急行がようやく到着、うおおおおッ! 完全に遅刻こんなのありかよチョットおかしい! いやいやちょっとどころかものすごく、果てしなくおかしい!
 あー、もうダメだ俺はもうダメだ、良い絵描けない・・・。と思うや否や、すぐにF先生に電話をしたことは正解であって、普段鈍い自分でもこれだけ迅速に行動できるのだなぁうむうむ的感傷に浸っていたのであった。
 その後電車は順調に岬町を越え、見事大阪を抜け出し花の都(?)和歌山へ一路突入したのであった。ぬるい雨の中、なんだかひどくお粗末な鉄橋を渡り、なんとか和歌山市駅到着。到着してみて気付いたけれども結構遅刻者が多い! のでなんだかちょっとだけ安心した。やっぱりウィンドウズ98の「駅すぱあと」はもう古いので使わないでおこう、と痛烈に思った。

 小雨の降る中、今後の予定は午後いっぱいスケッチ、であった。晴れて春うららかな小春日和! となったのであれば、これほど楽しいスケッチはなかったのだろうが、なにしろ雨が降っているわけだから、紙がぬれて黒鉛が乗りません状態突入するわけであり、すると楽しいはずのスケッチはたちまち一転「びしょびしょになって俺一体何やッてんだ思考型スケッチ」になってしまうわけであった。
 おまけに雨がどんどんひどくなる一方だから、もう俺やる気なくなるしこのままじゃカメラも携帯電話も壊れッちまう嗚呼こんなことで無事三日間を終えるとは思えない、くそーッ和歌山雑賀めッ! パンチの一つや二つ入れないと気が済まないぞ! なのであった。
 ことにもう、最後の風雨はものすごく、海沿いなんて歩いたら傘持ったまま空中に浮いて、そのまま淡路島まで流されてしまうのではないだろうかと思った。強い風なので傘を閉じようと思ったら、傘のやつホネがぴーんッ! と折れて、紐がちぎれて傘の布が「はらり」と剥がれたのであった(はらり、て何か厭らしい表現だなぁ。誰が発明したのだろうか)。
 身体が冷えすぎて、寒気がしてきたのでそのまま風呂場に直行。ところがこの風呂場がまた限りなくオカシイ風呂場で、狭い浴槽をさらに狭めるべく、浴槽の中に一本柱! という工夫を凝らした代物なのであった。一本の太い柱をぐるりと囲むようにして浴槽があり、円形で向かい合えるはずの浴槽で、顔が見えないのである。
 「おすもうさんの張り練習の柱みたいだなぁ・・・」
 と誰かが言った。いや、柱のせいで誰が言っているのか分からないのである。しかしその湯船の温かさは、やっぱり天国のようであり、いっぺんに寒気は吹き飛んでしまったのであった。結局今日は六枚しか描けなかった。十五枚は描いてやろう! としていた僕からしてみれば、ちょっと気落ちするような結果であった。

雑賀崎

2005年03月26日 | 紅色
 合宿から帰ってまいりました。いや、本当にもう、これ以上に無く濃い密度の三日間であった。ただいま両手は油絵の具で、指の先なんかはちょっと肌の色とは思えないような感じになっているのだが、まず大まかな印象と今一番ココに書いておきたいことを書こうと思う。

 まず宿。二泊した宿が、これまたひどい宿で、O先生曰く
 「ここの旅館は、僕たちが合宿に来るか来ないかでその年一年赤字か黒字かが決まる」
 らしい。なにしろ従業員三人、うち二人はお婆ちゃん及び残りの一人はその旅館の主人。この主人、やたらと腰低で、もうただひたすら「スミマセンスミマセン」なのであり、後々とある訳アリで僕がダンボールを貰おうと、この主人に話し掛けたところ
 「あ、さいですか、はいはいはい、こちらでございます」
 と言って、ご丁寧に一枚あれば十分なダンボールを
 「これもどうぞ、あ、これも、あとこれとこれとそれもどうぞ、どうぞどうぞ、あ、あ」
 と、何枚も勧めるので、僕はただ困惑してしまい「いえいえ、もう大丈夫です、ハイ。お世話様でした」なんつって誘惑を振り切ったわけである。
 そして、いつもニット帽(?)を被ったお婆ちゃん従業員。わっせわっせと曲がった腰で朝飯昼飯晩飯を運んできては、平べったい声で
 「よぉーく噛んで、よぉーく食べんなっさい! いい絵描けんなさったか?」
 と聞くのである。そして、二日目の昼ご飯。カレーだったのだが、ルーのおかわりは無いけどご飯ならあるから、おかわりするならご飯だけ、ご飯だけ食いなさい、と言うのである。そこでお婆ちゃん従業員登場!
 「・・・たしか・・・」
 と言って、大広間から出て行ったお婆ちゃん従業員はしばらくしてどんぶりを持って再登場した。
 「ありましたよ、カレーのルーがありましたよ」
 と言って、どんぶりの中でおそろしく冷えたルー(ごくわずか)を持ってきたのだった。

 そして、雑賀崎。雑賀崎、と書いて「さいかざき」と読むのである。僕はしばらく「ざつが、ざつが」と言っていたので、ちょっと恥ずかしくなってしまったぞ。階段の多い町並みで、車なんかではとうてい無理なのである。よって、この町には信号が無い。路地のように細い道が縦横に張り巡らされていて、例によって猫や犬やおばあちゃんが多い。典型的な漁村の町で、港には漁船がズラリ。
 よく話をされる人たちで、階段をヨイショヨイショと登っていたおばあちゃんは
 「下まで行かんないと店が無いからしんどいんよ」
 と、こう言ったが、そこに住む人々にとっては不便この上ない地形が、よそ者にとってはこの上なく魅力的である、というところに僕はしばらく考えてしまった。たしかに港から細い階段を延々と登らなければいけない生活、というのは本当につらいはずである。

 宿泊の宿はちょうど崎の頂上あたりにあり、左を見れば漁村が、右を見れば造られた海岸線と、和歌山市街工業地帯がどすどすと煙を吐いているのが見えるのであった。というわけで、三日間ここで絵を描く事になり、それは想像以上にちょっとキビシイ戦いのようなものなのであった。

いざ

2005年03月23日 | 紅色
 合宿です。これより戦いに挑んできます。ところで・・・、先日先生が去年の合宿で描いた絵を見せてもらったのですが、みんなできていないそうで、F先生なんかは「お願いします、もう恥ずかしいからあまり見せないで下さい・・・」と、半ば本気でそう言っていた。
 一日で油絵一点仕上げる、というのはなかなか困難を極める作業だと思います。それでなくても雨が降っているのに・・・。呪いでもかけておきましょうか・・・「晴れろ~、晴れろ~」。
 さて、いってきます。

サイクリングやったろう!

2005年03月21日 | 紅色
 今日はほとほと暇です。昨日ちょっとバットを振っただけなのに、背中が痛いし、腹筋も痛い。こりゃ相当な運動不足! であります。

 23日よりクラブの合宿へ行きます。いい空気吸って初めての場所見物して絵をチョット描いて、楽しんで来ようかと思っていますが。あ、あ、そういえば以前S村くんに「日記書くとき『~の高橋です』で始めてみて!」と言われていたのを思い出しました。
 というわけで・・・バッティングセンター行ったのはいいけどまったく当たらず(カスリもしなかったからね)それでもって筋肉痛でウンウン唸っている、高橋です。クソーッ、笑いたきゃ笑えッ! これで終わると思うなよバッティングセンターめ・・・こちらと大金はたいて券買ったんだからな。リベンヂを忘れちゃ困るよ明智君・・・。
 ところでこの写真は、以前琵琶湖へ行ったときに撮った瀬田川です。見てくださいこの緑! いや川の緑色! これほど毒々しい色は他にない!
 さてこのたび琵琶湖一週サイクリングの日程が決まりました。同伴してくれるのはスポーツ万能Tさん(シニア野球日本代表)。
 いやー、本当に行ける! 今度はパンクしないようにせねば。なにしろ一泊二日、何しろ琵琶湖。がんばりますッ。

満月の夕・平林叙情

2005年03月20日 | 紅色
 昨日、NHKの歌番組を見ていると「満月の夕」という曲の演奏が始まった。と、反射的に僕はリモコンを握り締め、ボリュームを二、三上げた。
 「な、なんちゅうイイ曲なのだッ」
 久しぶりに聴くいい歌に、僕の耳は釘付け。
 アーアアー アアーアアーアー
 くぎづけ! くぎづけ! 誰かそばにいて~ぇ♪
 それで、とにかく最近胸に来る曲、というのは少ないのだがこの曲は僕の胸に「ドッスーン」と来て、うへーッ! 参りました第一印象からキメてました今年のマイテーマソング決定ッ! であった。
 そもそも「満月の夕」というのは(この歌を聴いた後インターネットで調べましたよー)十年前、阪神大震災直後に作られた曲で、十年経った今もさまざまなアーティストに歌い継がれている、という曲で、なぜ俺は大阪人なのにこの曲を知らなかったのだろう・・・と思った。本当に十年前にできた曲で、しかも阪神大震災をテーマとした曲なのに僕は今まで知ることがなかった。うーむ、これも何かの偶然。
 さらにインターネットで調査を進めていると、ナント「満月の夕」を無料で聴けるサイト発見! ぜひ聴いてください。関西人なら、いや日本人ならぜひ聴くべきだ、聴くべきなのッ! ココ→http://www.geocities.jp/oga1228/page019.html

 今日は大阪南港平林へ、先日無印良品で買った使い捨てカメラを持って写真撮影へ行った。天気は曇り、湿度温度気候的透明度曇り具合も絶好で、まさに「どんどん撮ってくださいッ」と言っているようだった。
 どこへ行けども工場か倉庫、はたまた運河を見つける。興産的な町並みで、今日は休日、ということもあって人はほとんどおらず、おかげで僕は人目をはばかることなく写真を撮ることができた。ただ犬があたりそこからやってきて甘~い声を出し出し擦り寄ってきたり、はたまた遠くから「どわんどわん」と吠えたてたりした。僕がそっちの方向に走っていくと、犬は「うッ! 変なのが来た!」と思うのか、「わひゃわひゃわひゃん」と言って走り出す。
 ・・・
 アーアアーアアーアアーアー
 走りだす! 走りだす! 誰かそばにいて~ぇ♪

 犬はこんなにいるのに、猫が一匹も見当たらなかった。さすが平林は木材流通拠点、木の匂いがするし、大きな貯木場へ行くと、熱帯雨林に生えているような大木が転がっていたりした。

 さんざん犬に吠えられて全27枚を撮り切り駅前の「吹田の写真屋さん」という写真屋さんで現像。一時間後受け取りに行くと
 「こちらでよろしかったでしょうか」
 といって、店員さんは趣のある錆びたトタン小屋の写真を僕にチラッと見せたのだった。
 「はい」
 と僕は言った。

川と行政

2005年03月19日 | 紅色
 という、今回はなんだかひどく重苦しい題名になってしまいましたが、あえてカテゴリーは「笑える記」にしておくことにします。
 突然ですが、今、ダムのない川は日本に一本もありません! すべての川のどこかにダムがあるわけである。正直言って、日本にそんなにたくさんのダムは要らない! 僕が思うに、不景気の世の中、どうにかして国の収益を上げなければならないッと内閣総理大臣もしくは環境庁長官は、そう思っているわけである。
 国にとって「川」というのは、言ってみれば金の成る木同様なのである。公共事業を増やしたければ川を工事、整備する。日本に残されたのは「自然を変える公共事業」しかないわけである。
 ここでひとつ、野田知佑さんの本に書いてあったことを、ちょっと要約してここに書いておく。野田さんは大の「環境庁嫌い」である。
 A川にダムができた。周辺の住民は猛反対的デモやダム反対運動を続けていたらしい。それで、とうとうダムができてしまったのだが、最後に政府は
 「堰ができてもずっと開けておくから、魚も上ってこれるし水量も水質も、周りの自然環境も変わらない。だからダムを作らせてくれ!」
 と言ったそうだ。
 まったく笑ってしまうようなできごとだが、ずっと開けておくダムの必要性とは一体何なのか?

 家の近所の安威川(といっても、道をひとつはさんだ堤防に上ればそこが安威川)にもダムができた。目的は「治水と利水」であるそうだ。環境庁が古くから使う「利点だけの説明」である。それで、今日の朝刊とともに「安威川ダムニュース」というものが我が家に配達されてきた。表紙を見ると「治水も利水も、どちらも大切です。だから、わたしたちには安威川ダムが必要です。」だってさ。俺、ひとつもそんなこと言っとらん! と突っ込みたくなるような歯がゆい表紙! 
 二百年に一度の豪雨でも洪水にならないという安威川に「治水」はあまり効果ない。いまや完全にコンクリートで固められた安威川だが、これ以上どうするというのだ。安威川には特別天然記念物のオオサンショウウオもいる。ダムができて環境が変わるときっと異変が起こるのは目に見えているのだ。
 ダムができて、水量が減って、水が濁るのも分かりきったことなのだ。それよりも二百年に一度の洪水が怖いというのなら、そこに住まなければいい! 富士山のてっぺんにでも住めば生涯洪水に見舞われることはないだろう。川沿いに住む人、というのはそれぐらいの準備と寛容な心を持っていなければならない。言っておくが、きっと洪水になりやすくなったのは、コンクリートのせいではないかな、と思う。コンクリートは水をそのまま下流に流してしまうから、一気に水量が増えるのだ。
 行過ぎた開発は、これからどうやって自然を破壊していくのだろうか。

進化する無印

2005年03月18日 | 紅色
 無印良品に行ってきた。地下鉄なんば駅下車で、最初はビックカメラ地上七階にある百円ショップ「キャン☆ドゥ」へ行く予定だったのだが、フト案内表示を見たら「無印良品 なんなんタウン七番出口→スグ 無印良品のすべてがここに」なーんていう表示があるので僕は
 「ナニッ! すべてがッ? そんなことが果たして可能なのかしら」
 と思い、僕の場合思いついたら、どうも行動せずにはストレス的なモヤモヤが溜まる性質なので、勝手に足が横道へ逸れていくわけである。あ、あ、ビックカメラはそっちじゃないのに・・・と後ろ髪引かれつつ、七番出口。
 一歩足を踏み入れるとですね、そこはもう「シンプルイズベースト!」的空間が広がっていて、ビックカメラの未練はどこへやら、ずかずかと僕は無印良品店内を冷やかしはじめたわけである。

 余談。「無印良品」のロゴデザインは、太陽の塔で有名な故田中一光氏がデザインされたものだったのですね。僕はこの前初めてそれを知り、田中一光を近くに感じる気がした。以上余談終わり。

 さて閑話休題、エレベーターで上へ上がっていくと、いわゆる僕が一番好きな「紙」などを扱った売り物のコーナーについた。「紙」というのはつまりノートであったり、そういう身の回りの筆記用具及び学校で使いそうな小物・・・である。
 なぜか僕はこのコーナーが大好きで、近所のダイエーなんかに行っても「まず文房具屋」なのである。おかげで自室には使わなかった紙の束がどっさりある。買っても買うだけで満足してしまうのだ。
 それで、無印の消しゴム・・・やっぱり無印、と言うから無印。「他社の消しゴムに比べ何パーセント消しやすく消えやすい・・・」なんていう宣伝事は書いておらず、ただそれは「消しゴム」として存在しているわけである。ノートにしても、メモ帳にしても、店内のものはとにかくシンプルの極み、なわけであって、僕は文字を少なくすればするほどキレイに見えるような気がした。
 そして僕は一体なぜ「無印・シンプル」なものに魅力を感じるのだろう、と考えた。シャーペンにしてみても、ここで見つけた透明樹脂でできたベストオブ・シンプルなシャーペンを前に、なんともいえないヨロコビが湧き上がってきておもわず口元ピクピク絶対店員さんに変な目で見られた! てな表情及び心境になってくるわけである。
 そういう派手な模様のない、落ち着いた外見がそのヨロコビの原因なのだろうか。今もってなぜ僕は無印良品的シンプルなものが好きなのか、ということは自分でも分からない。

 ところでこういうものを見つけた。文庫本サイズ100ページノート&244枚ノート。文庫本サイズなのだ。背表紙もちゃんとあって、一工夫すればこれは立派な「文庫本」いなり得る! と僕は思って、ついつい手が出てしまった。値段もお手ごろ百円台。そして、出ました「週刊誌ノート」。文庫本ノートがあるのだから、これはもしやひょっとすると・・・とは思っていたのですが、「女性セブン」とか「ヤングマガジン」の、あのサイズあのページ数で背表紙のない、ホッチキス二ヶ所止めの、真っ白な表紙のノート。これも百円台とお手ごろだったので僕は「持ち歩くスケッチブックにちょうどいい」と思いそれにも手が出ました。補足しておくと、無印良品には本当のスケッチブックもありましたが、値段は三百円台。僕はプロじゃないし、練習用だし、できればお金もかけたくない。そういう僕と同じ考えの人は、「週刊誌ノート」の方がページ数もあるしいいと思います。
 そしてついでにカメラにも手が出てしまった。27枚撮り「高機能」フラッシュ付き使い捨て。これは六百円台。フムフム、と頷きながら僕はレジへ向かうのであった。とりあえず、衝動買いしてしまった「文庫本ノート」をどうするべきか・・・。(ちなみに単行本サイズもありました)