千の天使がバスケットボールする

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「迷路」(上・下)野上弥生子著

2009-12-27 12:36:47 | Book
”女流作家”という名称がある。女が小説を書く時、女流作家と呼ばれたら、それは作家の世界では、同じ土俵でものをかく扱いを受けていないと私は考える。誤解を招きそうなので念のため断っておくが、女性蔑視や差別とは違う。しかし、昔流の文壇では、林芙美子も瀬戸内晴美も女流作家は対等な仲間もしくはライバルではなかったのは事実ではないか。しかし、野上弥生子は別格である。彼女の骨太の構成で重層的に組まれた精密な作品は、女流作家の範疇をはるかに凌駕している。

野上弥生子は1985年、大分県臼杵市に醤油製造家に生まれ、1900年上京して明治女学校に入学する。夏目漱石の門下生の野上豊一郎と高等科を卒業すると結婚。07年に漱石の推薦で「縁」を発表して作家として出発する。15歳の菊池加根を主人公にして明治の女学生や青年たちの瑞々しい群像を書いた自伝とも言える「森」を未完のままに、1985年に亡くなる。生涯現役の作家のまま、近代日本の畢生100年を生きた。

本書は岩波文庫で上下1200ページをこえる量質ともに長編大作。『迷路』は昭和11年に「黒い行列」の題名で「中央公論」に掲載されたが、社会情勢により書き続けることが許されなくなり中断、戦争がおわった24年「世界」に「江島宗通」を掲げて再開、31年に連載されて完結した経緯がある。

「菅野省三はそんなことを思い出してもいなかった。ほとんど写字生に近い今の仕事のため、ノートを二三冊買いながら・・・」

最初の文章が”そんなこと”で始まる巧みな文章で、読者はやがて本書の主人公の菅野省三が、大分県の町の二大勢力の領主、酒造一族の次男である良家の息子ながら、左翼運動に身を染めて滝川事件に連座して大学を放校になり、一族から疎んじられている青年だということを知る。(余談ながら、この事件をモデルにした黒澤明の映画『わが青春に悔いなし』は好きな作品である)作家は省三を中心に、出自の異なるインテリゲンジャーの友人たちの”その後”の苦しみに満ちた青春を描きながら、また一族のふるまいや考え方を通して当時の日本人像を鮮やかに再現し、支配層につらなる人々の暮らしや思想を精緻にあぶりだしていく。

現代でも世界的不況の大寒波におおわれた日本であるが、1931年の経済恐慌は省三のような転向した知識階級にも無慈悲で、「アカ」のシミは額に押された烙印に等しかった。おりしも時代はファシズムに向かっていく。彼は思想的な英雄ではなく、むしろ端整な顔立ちが特徴な平凡な若い知識人として描かれている。彼らの知性に現代日本を生きる私は、とても考えさせられる。ところが、この行動しないごく普通のインテリゲンジャ、現代だったら一流大学を卒業した頭脳明晰な若手サラリーマンになるのだが、彼、彼らのあらわれ方がいっそ清々しくも本物の知性が宿っている。若い省三は、性の欲望に負けるだらしなさや優柔不断さもありながら、徴兵回避の姑息な手段を捨てる愚かさと頑固さもある。野上弥生子は人間像の描き方が巧みである。様々な登場人物を決して類型的な役割をふらせることがなく、時代の波にのまれていく人間の愚かさとしたたかさを投影していく。

また、彼らを俯瞰する人物に生涯独身を貫き藩主の後裔者で能狂いのエゴイスティックな老人、江島宗通を配することで、達観した哲学で最後の幕引きも成功している。苦悩しながらも、生き生きとした彼らがやがて戦争であっけなくも命を失い、また生き延びる者にも民主主義の戦後の社会が待っていることを考えれば、この長編小説自体もひとつの「能」の世界とも考えられる。すべてはあわい夢の如し。

「女性である前にまず人間であれ」
そう提案した女流作家の感性を利用しないで書かれた本作には、実は何気ない文章にとてもエロスを感じられる部分があって、理性的な文章に矛盾しや不思議な印象もした。そして、野上弥生子をこえる、いや並ぶ”女流作家”もいない。

省三が中国の戦地で、たったひとりマッチをする描写が胸にせまってくる。
「むしろ火というものを、非常に久しぶりに見た感じであった。はじめは、なにか小枝にふと咲いた花のように揺らいでいたのが、すぐ金いろの鞠なりの小さな光にちぢまり、それがまた青っぽく透明な芯を持ったまま、か細く、鮮麗に、紅い燃えさしをあとに残しながら、軸づたいに這っていく。省三は感動をもって眺めた。指先が熱くなるまで捨てなかった。」


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