千の天使がバスケットボールする

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「夜想曲集」カズオ・イシグロ著

2009-09-12 11:21:20 | Book
世間では、ハワイ在住の某日本人作家のノーベル賞受賞の期待が高まるが、私の中では最もノーベル賞にふさわしい日本人作家は、英国籍の英国人だが人種的には日本人のカズオ・イシグロ氏である。そのイシグロの初の短編を書くための短編集が「夜想曲集」(音楽と夕暮れをめぐる五つの物語)。

タイトルと副題のとおり、音楽と音楽家と彼らにまつわる愛を中心に奏でられる夜想曲は、一時はミュージシャンをめざしていたというイシグロの音楽的センスや趣味を感じられる。モーツァルトのセレナーデや、ショパンのノクターンのけがれのないピュアな音符からつまびかれるまっすぐな純情とは少し違う。かっては一世を風靡したが今は忘れられた老いた歌手、日本でいえばさまようフリータのアメリカの古いブロードウェイ音楽を愛好する中年男性、プロをめざすギタリストの若者、整形手術をしてハリウッド進出をめざすサックス奏者、なんとかして演奏家としての足がかりをつかもうとするチェリスト。彼らが奏でる音楽は、ほろ苦くもそこはかとなく虚しさが漂ってくる。大島弓子さんの漫画「たそがれは逢魔の時間ではないが、昼から夜にかけてあわい夕暮れは人生の黄昏とあいまって、彼らはぼんやりとした現実と空想のあいまにただようばかりである。いずれもはっきりした起承転結があるわけではなく、短編の名手と言われる作家がもつ絶妙な落としどころも用意されているわけでもない。読者は、主人公の「私」「ぼく」「おれ」の一人称の語りを聞いているわけだが、彼らを中心とした展開の物語そのものに嘘、空想、瞑想、仮想がはいりこんでいて、それを読者は読まされているのではないか、という不思議な感覚や疑問が残る。以前、つなさんが「わたしたちが孤児だったこと」の作品で、イシグロ・カズオを「信頼できない語り手」と評していたのだが、そういう意味だったのかっっ・・・、とようやくわかってきたような気もする。現実と非現実の不確かさが、イシグロ作品の作風の持ち味でもある。

「信頼できない作家」の作品を読み解く、もうひとつのキーワードが才能。考えてみれば、作家としては大成功しているイシグロだが、本書からは作家自身の音楽への深い愛情(たっぷりとした未練や執着?)が感じられる。「ミュージシャンになりたい」。そう熱望する若者は世界中にどれだけいるのだろうか。他人の天から恵まれた才能を嫉妬もあれば、しかし、秀でた才能さえあればなんとかなれるものでもない。ミュージシャンになりたかった青年が、書く才能をいかして世界的な作家という地位を築いたイシグロが、「売れ行きのことは気にしない。こういうものが好きな人に楽しんでもらえばよい」と書いた物語。こんな余裕も、作家になりたかった元青年には「夜想曲集」はビター過ぎるかも。

ところで、本書のあとがきでわかったのだが、英国では5月に発売されて多くの書評がすでに出ているとのことだが、欧米では短編集のマーケットは小さく、同一作家では長編の1/4以下になる。短い時間で完結する短編集は、ちょっとした通勤時間でも気楽に読めると思っていたのだが、日本でも欧米ほど極端ではないが似たような事情だそうだ。
また、イシグロ氏のインタビューで残りの人生を考えるとこれまでのペースで書ける作品の数はそんなにないことに気がついた、という記事を読んだ記憶がある。4~5年に一作のスローペースの作家は、実は長編を書くたびにプロモーション活動で2年近く海外を回って無数のインタビューに応えるというアタッシュケースをもったセールスマンのような”ビジネス活動”もこなしていたのだった。そういえば、「わたしを離さないで」でも多くの新聞、雑誌のインタビューに登場していた。こんなに課外活動に時間をとられて神経を消耗したら、質の高い作品を”数多く”と望むのは無理。「夜想曲集」で書かれていた、ミュージシャンとして成功したプロになるための”活動”も、作家にとってはプロモーション活動となるわけだ。作家も音楽家も、才能さえあれば、書いて、歌っていればよいという時代ではない。ちなみに今回の短編集は、出版社側が「ビジネス上の都合」により、そういったビジネス活動を一切しないと決めたそうだが、それも売れない短編集だからだろうか。そして、各国のインタビューを通して、翻訳されるという前提で英語でしか通用しない洒落や語呂あわせはさけるようになったそうだ。

■こんなアーカイブも

「日の名残り」
「わたしたちが孤児だったころ」
「わたしを離さないで」


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