千の天使がバスケットボールする

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『ダウト~あるカトリック学校で~』

2009-03-15 16:23:29 | Movie
恒例の雑誌「FRAU」で特集された2009年前半・新作映画の中で、最も観たいと思った映画が『ダウト ~あるカトリック学校で~』。
教会にも”チェンジ”の波が届こうとしている1964年、ニューヨーク・ブルックリンにあるカトリック系の教会学校。信仰と信念のもと、強い意志をもつ生徒からも恐れられる厳格なシスターの校長アロイシス(メリル・ストリープ)は、進歩的で生徒や信者にも人気と人望のあるフリン神父(フィリップ・シーモア・ホフマン)が気にかかる。彼が、校内唯一の黒人生徒をとりわけ目をかけている点に、小さな”疑惑”を抱きはじめる。ひそかな疑惑とは、立場を利用してフリン神父が黒人学生と不適切な関係に及んでいるのではないだろうかと。
或る日、若い修道女の教師シスター・ジェイムス(エイミー・アダムス)から、その黒人生徒の息にお酒の匂いを嗅いだことなどの報告を受け、校長の”疑惑”の芽は一気に広がり、彼女にとっては単なる疑惑をこえてもはや既成の事実となり、フリン神父の必死の否定や釈明も心には届かない。
そんなふたりの口論を聞きながら、人を疑うことよりも信じたい純粋なシスター・ジェイムスは、まるで心に根をはってひろがった”疑惑”に支配されたかのような校長にとまどいと違和感を隠せないのだったが。。。

果たして、アロイス校長の”疑惑”は偏狭な彼女の単なる妄想だったのか。それとも進歩派を装いつつ、人望のあるフリン神父こそは、実は狡猾な小児性愛者だったのか。

本作は、2005年にトニー賞及びピュリッツアー賞を受賞した舞台劇を脚本を書いたジョン・パトリック・シャンリイ自らが監督を務めて映画化した作品である。ケネディ大統領が暗殺されたアメリカとしても暗い時代背景の雰囲気が、映画に郷愁のような趣を与えている。人種差別も色濃く残っていた当時、フリン神父のような自由で革新的な聖職者は、最初とても魅力的な人格者に見える。ところが、さすがにそんな神父役を演じたのが名役者フィリップ・シーモア・ホフマンである。全身を黒のシスター服に諸々の俗な欲望を閉じ込めたきわめて禁欲的な生真面目なシスターたちに比較し、彼が素晴らしい説教をすればするほど、豪華な法衣に隠された太ったフィリップ・シーモア・ホフマンの肉体から、なんともいえないいかがわしさと胡散くささを感じるようになったのは、私だけであろうか。校長の疑惑の芽が、私の体内に飛んできたわけではない。この劇の意図としては、どんなに理路整然と疑惑を否定しても、優れた神父から観客に疑惑を残す必要があったのではないか。『カポーティ』でその演技力を感嘆させられたフィリップ・シーモア・ホフマンの独特の存在感が、他の神父が凡庸なまぬけに見えるくらいきわだっているのである。

その一方、すべてに対照的である保守的な校長を演じたメリル・ストリープは、映画に登場した時からその歩き方、口のゆがめ方から期待どおりの名演技を楽しませてくれる。この映画でメリル・ストリープらしさを感じたのが、音楽が流れる食堂でお酒を呑み、煙草を吸いながら大声でジョークを楽しみながら食事とする神父たちとは対照的に、私語を禁止し、食事の席でも厳格で真面目な態度を貫く場面である。視力が劣り殆ど目が見えなくなった老シスターをかばい、神父たちにわかると施設送りになることを彼女は心配する。厳格な校長は、頑固で冷たい面だけではなく、老シスターを思いやる優しさをあわせもつ複雑な役は、メリル・ストリープらしい知性が光る演技である。同時に、単純に善と悪に分けることができない点や、”疑惑”に敗北していく人間の深淵に、これまでのハリウッド映画とは違うところに、あの9.11に影響をうけたアメリカの良心を感じる。ピュリッツアー賞受賞という評価の根拠を理解する。そして、校長室に神父とシスター・ジェイムスを呼んで尋問をはじめる場面では、神父は部屋に入るやさりげなく両者の立場をわからせるかのように、校長がいつも座っている執務机の椅子の方に当然のように座るのである。ここでは映画『マグダレンの祈り』でも感じた男性優位の教会における女性の低い立場を示唆しているとも思える。

もうひとつの見どころは、なんと言っても黒人生徒の母親を演じたヴィオラ・デイヴィスの演技である。
忙しい仕事のあいまに校長の呼び出しに応じた彼女は、帽子をかぶりきちんと上品に正装している。清掃の仕事に従事している貧しい労働者階級ではなく、息子のために息子の将来のために、校長と対等に話をするためにやってきた母親としての威厳がその服装に表現されている。彼女にとっての戦闘服は、母として息子を思う必死さの現われである。校長を独身だと思っていたのが、実は戦争で死別した夫がいた、つまりそれなりの性体験があるという経歴を知ったことが、後の息のつまるような校長との白熱した議論の伏線として生かされている。このあたりは、実に緻密な脚本となっていて、またヴィオラ・デイヴィスの演技に主役級がかすむくらいだ。

もともと舞台劇だったことから、無駄なく核心にせまるセリフと、俳優たちの迫真の演技に、すっかり映画を堪能した。・・・と、私は大満足だったのだが、例の「FRAU」の女性ジャーナリストの批評では「ストーリー自体のあまり盛り上がりがないため、退屈はしないものの、全体的に地味な印象はぬぐえない。やはり映画より舞台向けの素材のようだ」ということになるらしい。。。う~~ん、よくあることだが、残念ながら映画というものをわかってないジャーナリストのようだ。

監督:ジョン・パトリック・シャンリイ


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