城郭探訪

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武藤助左衛門屋敷 近江国(安土)

2017年04月15日 | 居城

誰も知らない【武藤屋敷助左衛門屋敷】 近江国(安土城)

『蒲生郡志』には、案内板の縄張図には他に、七曲り道、搦手道、東門道などが描かれており当時は多くの城道が使われていた事が分かります。

『近江蒲生郡志 増補 昭和篇』に綴じ込まれている「大正4年11月測量の縄張図も安土城の全貌を知るのに役立ちます。

これらの道の多くは立ち入りが禁止されていますが、東門道道は現在でも立入が可能です。(中心部への通り抜けはできません)そしてこの東門道からは、尾根を経てて観音寺城に直行する事ができます。 

 また東門道の道沿いには、安土城築城以前に目賀田城が置かれていたとされる馬場平があります。この東門道については ” 安土城|もう一つの登城道・東門道 ” で詳しく紹介しています。

安土城が出来る前にあった「江藤氏屋敷」
無料駐車場の脇を上ったところにあり、屋敷跡と安土城側の石垣で囲まれた空堀があります。

お城のデータ

所在地:近江八幡市安土町下豊浦   map:http://yahoo.jp/rNM5qE

区 分:居館

築城期:織豊期

築城者:武藤氏(織田信長の家臣)

現 状:森林 (現・安土城祉・山麓館跡) 

遺 構:平削地(曲輪)・石垣・土塁・空堀・

目標地:安土城跡

訪城日:2017.4.4

お城の概要

安土城が出来る前にあった「武藤氏屋敷」
無料駐車場の脇を上ったところにあり、屋敷跡と安土城側の石垣で囲まれた空堀があります。

空堀の西側に登ると平削地は五段、石垣に圧倒される!大手道の伝前田邸・伝徳川邸と谷筋を挟んで東側に位置する。

なお、見学コースではないのて見学会資料は、近江蒲生郡志の大正期の測量図で、

安土城が完成する前にあった「武藤氏屋敷」
 安土城図江州安土古城図

お城の歴史

 

信長公記 巻七 天正二年

2、越前擾乱  前波生害、越前一揆蜂起の事

 正月19日、越前の前波吉継①が国中の諸侍に攻め潰されて死んだとの報が岐阜の信長公へもたらされた。前波は先年より信長公によって越前国守護代に任ぜられていたのだが、地位に溺れるあまり恣意の振舞いが多く、かつての同僚に対しても万事につき無礼な態度をとっていた。そのため国内の地侍たちは憤激し、一揆を結んで前波を攻め殺してしまったのである。地侍たちはその上で国境の地に要害を構えて防備を固めたため、越前国は一揆持ちの国と相成ってしまった。

 これに対し、信長公はひとまず羽柴秀吉・武藤宗右衛門舜秀・丹羽長秀・不破光治・同直光・丸毛長照・同兼利および若州衆を敦賀へ遣わし、備えを固めさせた。

 ①前波吉継は別名桂田長俊、前波長俊とも


武藤 舜秀(むとう きよひで)

生年未詳~ 天正7年7月3日1579年7月26日))は戦国時代から安土桃山時代にかけての武将織田信長の家臣として仕えた。通称は宗左衛門、宗右衛門、惣右衛門、弥平兵衛。子に康秀

生涯

尾張馬寄城主。尾張国出身といわれるが、信長に臣従するまでの経緯は、はっきりしたことが分かっていない。出自についても、美濃国土岐氏系の武藤氏の一族や武蔵国から美濃国へ移住した藤原氏系の武藤氏の一族などが、尾張国へ移住した武藤氏の一族。 または、若狭国武藤氏の一族など、ではないかといわれている。信長に降った時期も不明であるが、元亀年間という説が多い。

1574年(天正2年)、越前国守護代である桂田長俊越前一向一揆によって殺害されると、一向一揆に備えるため、舜秀は羽柴秀吉丹羽長秀らとともに、敦賀郡へ出陣した。一向一揆軍が勢いに乗って、木ノ芽峠を越えて南下しないための措置だった。一段落すると、不破光治とともに敦賀郡にとどまって、郡の行政にたずさわる。1574年9月16日、光治とともに、敦賀郡西福寺に土地を寄進した文書が残っている。(『西福寺文書』)

1575年(天正3年)3月、舜秀は朝倉家旧臣・堀江景忠を敦賀に迎え、その降伏を信長に仲介している。(『朝倉記』)6月、越前国衆・建部周光への宛行状に副状を発給している。8月、信長は越前の一向一揆討伐へ取りかかる。8月6日信長入国のため、舜秀は立石惣中に清掃を命じている。(『立石区有文書』)敦賀に着陣した信長は、舜秀の敦賀城(花城山城)に逗留した。舜秀は敦賀郡より越前へ侵攻し、越前一向一揆の殲滅に貢献した。その後、秀吉・明智光秀稲葉良通細川藤孝万見重元簗田広正とともに加賀に攻め入って、能美郡・江沼郡の南二郡を平定している。

信長は越前の国割りを行い、舜秀は敦賀郡を与えられた。1576年(天正4年)7月6日、西福寺に対して、違乱する者を捕らえて出すよう、命令を出している。(『西福寺文書』)1577年(天正5年)4月15日、川船衆に以前通り売買することを許可している。(『道川文書』)柴田勝家を長とした軍団には組み込まれず、舜秀は独立した遊撃軍団の長として、各地を転戦する。主に1577年(天正5年)紀州征伐手取川の戦い1578年(天正6年)神吉城攻め、有岡城攻め(有岡城の戦い)等に参戦している。

1579年(天正7年)7月3日、有岡城攻めの最中、付城・古屋野城にて急死する。舜秀の死を聞いて、信長はその死を惜しんだと言われている。

参考資料:『近江蒲生郡志』、『信長公記』Wikipedia、雪野山♡しもはねだ里山天国

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