城郭探訪

yamaziro

観音寺城(御屋形・大手道・観音寺城・桑実寺) 

2018年04月29日 | 山城

画像に含まれている可能性があるもの:木画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外、自然

画像に含まれている可能性があるもの:木、屋外、自然、水

山麓の御屋形跡の土塁画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、植物、屋外、自然

 

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然本丸

 

「戦国の近江」地域の魅力発信事業・連続講座「近江の城郭 足利将軍と近江」第5回足利将軍と近江

  応仁元年(1467年)に始まる応仁・文明の乱は、約11年間にわたり、全国を戦乱の渦に巻き込みました。その結果、室町幕府の権威は衰退し、各地に実力で領国支配を成し遂げる戦国大名が台頭します。戦国時代の幕開けです。

しかし、近江では強力な権力を持った戦国大名は誕生せず、鎌倉時代から近江守護であった六角氏の支配が織田信長の上洛まで続きます。一方で、室町幕府の権威が衰退した結果、畿内での政争に敗れた足利将軍が京都を離れ、有力守護の領国に在国する事態が頻発します。近江へは守護六角氏の支援を求めて12代将軍義晴や13代将軍義輝がやってきており、足利将軍と深いかかわりを持つところが、「戦国の近江」の特徴の一つとなっています。

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1041648435997731画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1041650929330815

今回は、12代将軍足利義晴が約3年間滞在した桑実寺とそれに続く近江守護六角氏の居城観音寺城の現地探訪

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然桑実寺御所跡

参考資料:

本日の訪問ありがとうございす!!

 

 


絹川(衣川)陣所(天満宮の遺構) 近江国(大津)

2018年04月28日 | 陣所

画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、橋、屋外、自然

お城のデータ

別 称:天神社の遺構

所在地:大津市衣川3丁目 map:https://yahoo.jp/t_zBtZ

現 状:神社・山林

区 分:丘陵/陣城

築城期:織豊期

築城者:浅井・朝倉軍

遺 構:平削地・土塁・櫓台・

目標地:衣川天満宮

駐車場:天満宮の路上駐車

訪城日2017.4.16、2018.4.26

お城の概要

堅田駅から徒歩約1.3km、明神橋近くに衣川天満宮があり、明神橋を渡るとき、参道脇は桜が咲いてました。今は衣川天満宮で、背後に丘陵があり、天満宮の駐車場を利用この日は、祭礼であった(普段は見ることが出来ない神輿も)。

 春日山から南東に舌状に伸びる、衣川天満宮の丘陵に、城郭遺構が残る。詳細不明であるが、築城期は志賀の陣の絹川陣所である。

お城の歴史

『來迎寺要書』一  真雄和尚

元亀元年坂本合戦時、当寺什物悉ク手・・・・

 一、九月十八日、浅井備前守長政、朝倉左衛門義景、其勢二万八千余騎ニテ、江州志賀郡江打出、小塚山ヲ為本陣、苗鹿、雄琴、乳野、仰木、飯室、絹川(衣川)、堅田辺迄取陣也、此時宇佐山之取出森三左衛門可成五百余騎ニテ志賀表ニ人数ヲ伏置、・・・・云々。

志賀の陣の浅井・朝倉軍の陣所。

訪城日:2018.4.26

天満宮の由緒https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1044819262347315

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/944526269043282画像に含まれている可能性があるもの:空、植物、木、橋、屋外画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、空、橋、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、橋、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、空、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、立ってる(複数の人)、靴、屋外画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、橋、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、座ってる(複数の人)、バイク、木、屋外

画像に含まれている可能性があるもの:空、木、雲、植物、屋外、自然

 参考資料:『滋賀県中世城郭分布報告』『來迎寺要書』

本日の訪問ありがとうございす!!


田部城 近江国(長浜市木之本町田部)

2018年04月28日 | 居館

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、空、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、空、植物、家、屋外

お城のデータ

所在地:長浜市木之本町田部  map:https://yahoo.jp/_K2sHI

現 状:寺社地、宅地

区 分:居館

築城期:室町期

築城者:田部氏

遺 構:田部家墓

標 高:145m  高差:-

駐車場:西光寺前駐車場スペース

目標地:西光寺

訪城日:2016.6.4、2018.7.21

お城の概要

木之本町田部集落の西光寺の門前の宅地が。「遺跡ウォーカー」の比定地である。

遺構は破壊されているが、田部集落の墓地には立派な「田部家」がある。https://www.facebook.com/photo.php?fbid=1042126439283264&set=pcb.1042126992616542&type=3&theater

お城の歴史

当初は浅井氏の家臣の田部氏の居館(城)

元亀争乱の際には朝倉氏が駐屯し、その後は、丁野の中島宗左衛門も在城しました。

『江州佐々木南北諸氏帳』には「田部山城主 住 佐々木随兵 田部民部少輔信頼 元勢州田部義士後弾正正義氏男」とある。

信長公記』 巻六 元亀四年

11、決壊  阿閉謀叛の事

 8月8日になり、江北の土豪阿閉淡路守貞征が信長公へ内通してきた。すると信長公は夜中にもかかわらず岐阜を出陣し、そのまま敵城月ヶ瀬城へ攻め寄せ、翌晩までに開城させてしまった。そして10日には旗下の諸勢を大嶽北方の山田山に集結させ、越前への主通路を遮断した。このため越前から出陣してきた朝倉義景の二万の援軍は小谷に近付くことができず、余呉・木之本・田部山方面に布陣しなければならなかった。

 また近年になって浅井久政は大嶽山麓の焼尾という地に砦を築いて浅見対馬に守らせていたが、この浅見も阿閉貞征にならって信長公へ通じた。

 参考資料:信長公記、江州佐々木南北諸氏帳

本日の訪問ありがとうございす!!


田部山古墳群砦(仮称田部山砦) 近江国(木ノ本・川合)

2018年04月25日 | 

画像に含まれている可能性があるもの:1人https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1042186799277228

お城のデータ

所在地:長浜市(旧伊香郡)木之本町川合 map:https://yahoo.jp/MF1cE4
現 状:山林(古墳)
区 分:砦(陣城)
築城期:織豊期
築城者:朝倉氏?

標 高:155m  比高差:25m 

遺 構:古墳・曲輪・低土塁・土塁・犬走り・帯廓・堀切(竪堀)
目標地:国道303号城山トンネル
駐車場:国道303号城山トンネル駐車場
訪城日:2018.4.21(城郭フォーラム)

お城の概要

木之本町川合の国道303号城山トンネルの上に位置する。

登り口は、城山トンネルの東側の電飾道路表示板を北に入る。

東西約100m×南北約70m程のL型に7つ古墳があり、砦要塞されている。

お城の歴史

近年、城郭研究家長谷川氏が発見され。この日初めて現地説明会を実施された。踏査図で、現地説明をされた。

歴史的、資料はない。

 元亀争乱時に朝倉軍の陣城か??、或いは、賤ヶ岳合戦時の羽柴秀吉軍の本陣(木ノ本地蔵院)の後詰め砦か???。

写真の説明はありません。 下剋上の織豊期にロマンは膨らむ!!!

 

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、屋外、自然円墳で発見された石臼破片

画像に含まれている可能性があるもの:橋、屋外城山トンネルの上の杉の木の辺り主郭。

 

参考資料:城郭フォーラム(長谷川博美氏の踏査図)

本日の訪問ありがとうございす!!


高野館  近江国(高月)

2018年04月25日 | 居館

写真の説明はありません。

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1042189115943663

お城のデータ

所在地:長浜市(旧・伊香郡)高月町高野map:http://yahoo.jp/2UVOXO

現 状:寺社地、宅地

区 分:居館

築城期:弘安6年(1283年)

築城者:高野の臣

遺 構:土塁・空堀・石垣?

標 高:145m  高差:-

駐車場:高野神社前駐車場スペース

目標地:満願寺(高野太子堂)・高野神社

訪城日:2018.4.21

お城の概要

比定地は高野集落の背後の山裾に位置す、高野神社。

滋賀県中世城郭分布調査に記録が無く、遺跡ウォーカーや長浜市の遺跡リストに丸山城遺跡と検索できる。

高野神社に高野太子堂(観音堂)・満願寺が同居する、集落側は石積みで、両脇・背後は土塁で囲む。

お城の歴史

城郭の歴史は不詳ながら、寺院や神社の歴史・由緒は明確に残されている

寺院・神社の由緒

満願寺の伝・伝教大師坐像、像内に墨書があり、これによると鎌倉時代、弘安6年(1283)仏師院信によって造像されたことが判明し、国の重要文化財に指定されている。良源は観音菩薩の化身といわれ、鎌倉時代には「法華経」に説く観音三十三応現身の数にちなんで、33あるいはその倍数66の大師像が盛んに造像された。頭部は前後に三材を寄せ、内刳りを施し玉眼を嵌入。体部は左右に各一材を、さらにその両脇に一材を寄せ内刳りを施すなど、細かく寄木している。朱唇・衲衣の黒色などがわずかに残り、頭髪・顎髭の毛筆を写実的に描くなど洗練された手法が認められる。

高野観音堂

大師堂に安置されている像は、天台宗の開祖・伝教大師(最澄)の肖像と伝えますが、そのお姿から比叡山中興の祖・慈恵大師良源(元三大師)を表しているとみられます。弘安6年(1283年)仏師院信によって作られたことが判明し、国の重要文化財に指定されました。

木造伝教大師坐像 
  高月町高野・高野神社(大師堂安置)
  一躯 鎌倉時代 弘安6年(1283)院信作

  檜材 寄木造  彩色 玉眼  像高75.8cm
伝教大師最澄像と伝えるが、鋭く前方を凝視し、右手に独鈷杵、左手に念珠を執る姿から「叡山中興の祖」と称された慈恵大師良源(元三大師)の肖像と考えられる。
頭部は前後に三材を寄せ、内刳りを施し玉眼を嵌入。体部は左右に各一材を、さらにその両脇に一材を寄せ内刳りを施すなど、細かく寄木している。朱唇・衲衣の黒色などがわずかに残り、頭髪・顎髭の毛跡を写実的に描くなど洗練された手法が認められる。
像内に墨書があり、弘安6年(1283)仏師院信によって造像されたことがわかる。
良源は観音菩薩の化身といわれ、鎌倉時代には『法華経』に説く観音三十三応現身の数にちなんで、33あるいはその倍数66の大師像が盛んに造像された。伊香郡最古の寺院が己高山諸寺であり、境内には関係の己高山満願寺と称する薬師堂がある。

社伝によると、高野の臣が始祖大名草彦命を祀ったのを始めとする。伊香郡最古の寺院が己高山諸寺であり、境内には関係の己高山満願寺と称する薬師堂がある。己高山諸寺とは己高山五箇寺として法華寺、石道寺、観音寺、高尾寺、安楽寺、観音寺別院として飯福寺、鶏足寺、圓満寺などがあり、鶏足寺の末寺が己高山満願寺である。

  高野神社 滋賀県長浜市高月町高野297 

「高野の祝」が、その始祖大名草彦命を奉祀するという。
この地は伊香郡最古の寺院、己高山諸寺(五ヶ寺)であり、境内には関係の己高山満願寺と称する薬師堂がある。
飛地境内地に式内天比々伎命神社がある。

薬師堂と社叢
祭神  大名草彦命、大山咋命

鳥居と拝殿

由緒

 『近江伊香郡志』によると、「神亀元年(724)創建、式内、往昔高野の臣此の土地を開拓し祖神大名草彦命を奉祀す。」とある。『新撰姓氏録』の和泉国神別によると、大名草彦命之後也として高野がある。紀の国造の紀直と同じ祖。
 社伝によると、「高野の祝」が、その祖大名草彦命を奉祀するによってその始めとしている。
 後、この地は伊香郡最古の寺院と認められる己高山諸寺が存していた。現在、境内に己高山満願寺と称する薬師堂がある。己高山諸寺に含まれる観音別院の鶏足寺の末寺が己高山満願寺にあたる。行基菩薩がこの地で薬師の像を刻み一堂を立てたと言う。
 また最澄が薬師如来に詣で、百日の参籠をなし、願満ちて薬師堂を建立し、満願成就に因み、己高山満願寺と号したと伝えられる。この時、最澄が天台の守護神である大山咋命を合わせ祀ったと寺伝、社伝で伝えている。

本殿 間口五尺・奥行き五尺の流れ造。天保年間(1830~)再建。
 道路の正面には薬師堂が建っている。西向き。南側が神社の境内だが、神社の正面は釣り鐘、その北側に池があり、石組みが整っている。 背後は山林。

 高野の集落に入る所に「野大神」が鎮座している。

神池と釣り鐘堂

 

参考資料:作図:長谷川博美氏、遺跡ウォーカー、高野神社・満願寺HP

  本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


小谷城清水谷 発掘調査概報

2018年04月24日 | 発掘調査

小谷城総図 長浜城歴史博物館蔵

画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然

画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外、自然写真の説明はありません。写真の説明はありません。

 浅井三代の暮らし跡を初確認 長浜・小谷城

長浜市は18日、国史跡「小谷城跡」(同市)のうち、戦国大名の浅井三代が暮らしたとされる「御屋敷跡」で、初めて遺構が見つかったと発表した。御屋敷跡の存在自体は絵図などから推定されていたものの、実際に人が暮らした痕跡は確認されていなかった。 

 発掘調査で見つかったのは、生活の跡を示す石組みの溝と、敵の侵入を防ぐ土塁。

 溝は長さ二・五メートル、幅二十八センチ、深さ三十センチで、自然石を二段に重ねて並べてある。形状などから、生活排水を流すための水路と推定できるという。

 土塁はもともと、地表にわずかな盛り上がりがあり、存在は推定されていた。今回の発掘調査で埋まっていた部分が新たに分かり、高さ二・五メートルの土塁と特定した。

 周辺からは銅銭や皿、水がめの破片など約百二十点が出土。十六世紀後半の戦国時代の遺物とみられ、当時、人が住んでいたことを裏付けると。

 御屋敷跡は、江戸時代後期に描かれた「小谷城跡絵図」など複数の絵図で以前から位置などが推定される一方、発掘調査は手つかずだった。市は将来の史跡公園化に向けて基礎史料を得るため、二〇一六年七月から調査を続けている。

 市歴史遺産課主幹の牛谷好伸さんは「今回の結果は絵図を裏付ける内容。今後は、見つかった溝の用途を特定し、周辺に建築物があったことを示す礎石がないか調べる」と話す。

 二十一日に一般向けの現地説明会があった。参加希望者は、午前十時半に小谷城戦国歴史資料館前に集合。予約不要で無料。雨天時は、同市湖北町の雲雀山交流会館で開く。

 (問)同課=0749(65)6510(渡辺大地)

 <小谷城> 浅井亮政(すけまさ)、久政、長政の3代が居城とした山城で、小谷山(495メートル)に築かれた。浅井三姉妹の出生地。織田信長によって1573年に落城したが、攻略に3年を要したほど堅固な城として知られる。

 城跡面積は147万平方メートル。本丸などの「城郭跡」(93万平方メートル)と家臣団屋敷などの「清水谷」(54万平方メートル)で構成される。「御屋敷跡」は清水谷のごく一部。(中日新聞社)

その他の写真  https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1042100902619151

[PDF]35. 小谷城清水谷 発掘調査概報

www.shiga-bunkazai.jp/download/dayori/017.pdf

35. 小谷城清水谷 発掘調査概報 滋災保軒先刻哨湖北町議:五に位鐙する小谷山詰茶答 lこ、農業用水の水路が敷設されるよとになり、路線部 分にあたる帽3m、長さ 150mについて、 ßl3病]53~7 月末より8月にかけて絢主主を実施した。http://www.shiga-bunkazai.jp/download/dayori/017.pdf 

参考資料:発掘調査報告書・中日新聞社・長浜市HP・長浜市歴史博物館

本日の訪問ありがとうございす!!


星ヶ崎城(鏡山城) 近江国(竜王)

2018年04月23日 | 山城

画像に含まれている可能性があるもの:空、木、屋外画像に含まれている可能性があるもの:屋外

お城のデータ 

所在地:蒲生郡竜王町鏡   map:http://yahoo.jp/Sca-1H

別 名:鏡山城

現 状:山林

区 分:山城 

標 高:247m  比高差:130m

築城期:室町中期

築城者:鏡久綱

遺 構: 石垣・曲輪・土塁・竪堀・池・石碑

目標地:道の駅「かがみの里」

駐車場:道の駅「かがみの里」駐車場

訪城日:2018.3.31

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、立ってる(複数の人)、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、空、屋外画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外写真の説明はありません。

お城の概要

 星ガ崎城へは、道の駅「かがみの里」から西光寺跡を経ても登れる。旧中山道へと入る。旧中山道の鏡地区の中ほど山手側の住宅地の横から細い山道が星ガ崎城へと続いている。

 中山道に面しているこの道が星ガ崎城の大手道。山形が比較的なだらかであるだけに道が分かり難いが、所々木にぶら下がっている「星ヶ崎城址」の表示板を目印に登ると尾根道に出る。尾根筋には堅堀らしきものが幾つかみられる。小さなピークを二つほど越え、登り初めて約30分ほどで山頂に着く。

 山頂の主曲輪はおおよそ50m×20mほどで、城址を示す石碑が建てられている。
南側斜面に高さ3m、長さ20mほどの石垣がしっかりと残り、北東側の斜面にも長さ2mほどの石積みがみられる。また主曲輪の東側虎口にも石が散乱しており、当時は主曲輪周囲に石積みがなされていたであろうことを窺わせる。

なお、北側山麓には鏡氏の居館である井上館がある。画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:屋外

お城の歴史

築城者は、竜王町鏡の土豪、鏡氏とされるが、定かではない。

伝承によると、鎌倉時代、鏡久綱の居城であったが、承久3年(1221)の承久の変に破れ、鏡氏は滅亡する。その後、馬渕氏、六角氏が城主となる。

永禄9年(1566)に起きた観音寺騒動の際に、反旗を翻した家臣の永原氏が永原城に立て籠もったのに対して、六角承禎が星ケ崎城に入って対峙したという記録がある。

仕え星ヶ崎城は佐々木氏の支流鏡氏代々の居城で、鏡山の星ヶ峰にある。

鏡氏は佐々木定綱の二男定重を祖とし、定重の子久綱が鏡庄を領有して鏡氏を称した。

 久綱は承久の乱に官軍に属して尾張で戦死し家系は絶えたが、京極氏より入りこれを継がせたとある。鏡高規とその子定頼は、後に織田信長に仕えた。

城の立地状況は、観音寺城の東の陣城とされた佐生城とよく似ています。佐生城は愛知川を前面に置き、東からの攻撃に対しての橋頭堡となる城で、しかも石垣が築かれています。

星ヶ崎城もこれより西にある信長時代には佐久間信盛が江南の支配拠点に置いた永原城があります。永原城の東の抑えになる陣城で前面には日野川があり、橋頭堡となる城です。石垣を主郭のみに用いる点も共通しています。

織田が近江侵攻を計った時に、六角義治が十八の支城で侵攻を阻止しようと試みたとあり、そのうちの一つという説もあります。

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1041139442715297

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1041184852710756

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1041186402710601 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、城歩会資料・作図:長谷川博美氏(城郭研究家)

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景清道 近江国(安土)

2018年04月23日 | 番外編

景清道

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/grid?lst=100004577532882%3A100004577532882%3A1552802155

観音寺山麓の景清道伝説によると景清道は、 

平景清が平氏再興の祈願をするため尾張国より京都の清水寺へ通った道とも
寄寓していた近江八幡の旅庵寺より桑実寺の薬師如来に眼病平癒のために日参した道ともいわれている。

景清道は 近年 ルートの調査がされましたが全てがはっきりとわかっていませんが信長の下街道建設以前から中仙道(東山道)の間道として使われていたようです。
湖東地方に古くから「景清道」と言う道があり、古来より多くの人々が往来してきた。「景清道」は道の名称であるが、源平時代の武将名が道の名に定着している。景清道は、人里離れた山の中や、田の畦のようなところをくねくねと走っているのは、景清が関所を通過せずに、通行しようとして作ったためといわれている。

(中近世古道調査報告書 朝鮮人街道 滋賀県教育委員会)画像に含まれている可能性があるもの:屋外画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、植物、屋外、自然

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、屋外、自然

本日の訪問ありがとうございす。


講座:戦国の敦賀城(まぼろしの敦賀城)

2018年04月15日 | 講座

写真の説明はありません。

日 時:2016年12月18日

画像に含まれている可能性があるもの:屋外

写真の説明はありません。

写真の説明はありません。画像に含まれている可能性があるもの:1人以上画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、屋外画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、屋外画像に含まれている可能性があるもの:足立 厚さん、座ってる、テキスト写真の説明はありません。

敦賀城の歴史

1575年(天正3年)に織田信長により越前は平定され、1583年(天正11年)に本能寺の変によって信長が明智光秀に討たれると、羽柴秀吉が台頭。その家臣だった蜂屋頼隆が敦賀の地に入り三層の天守を持つ敦賀城を築城したが、まもなく頼隆は九州平定中に病死したため、代りに1589年(天正17年)大谷吉継が5万石で敦賀城に入城した説、また大谷吉継の前に秀吉の甥である豊臣秀勝が城主となったという説がある。

吉継は敦賀城を水城として大改修した。1600年(慶長5年)に石田三成が秀吉死後に秀吉の遺命を無視し、豊臣家を崩壊させようと画策する徳川家康の打倒を訴えて立ち上がると、再三にわたり「三成に勝機なし」と説得。しかし三成の堅い決心を知り、熱意に感じ入ると、敗戦を覚悟して西軍に加担した。関ヶ原の戦いでは奮戦したが敗北、自刃し、戦後は所領は没収された。その後、城は吉継の家臣蜂屋将監によって東軍に引き渡され、結城秀康によって代官が派遣されていたが、1616年(元和2年)に一国一城により、敦賀城は破却された。

 廃城以降、主郭部には小浜藩の役所(奉行所、代官所)とお茶屋(陣屋)が置かれた。小浜藩は、1624年(寛永元年)に京極忠高の所領となったが、1634年(寛永11年)に京極氏は松江城へ転封となり、代わって酒井忠勝が小浜藩主となった。

 以降、幕末までの240余年を酒井氏が支配する。なお、分家である敦賀酒井氏(敦賀藩とも鞠山藩ともいう)の陣屋は旧金ヶ崎城近くに建てられた。明治に入ると、廃藩置県により1871年(明治4年)に県庁舎が置かれたが、さらに警察署、裁判所、病院と変遷した。1909年(明治42年)には、敦賀尋常高等小学校が移転、現在は敦賀西小学校になっている。

現在の敦賀城

敦賀城伝承地は、北は結城町の赤川、南は三島町の霊山院から稲荷神社、東は水路の残る旧笙の川沿い付近で西小学校・八幡神社・西蓮寺が連なるライン、西は真願寺から敦賀病院を経て霊山院のライン、で囲まれる南北500m、東西300mの範囲という。現在、城跡には城塁を含め、その面影を偲ばせるものはないが、以下の遺構などがある。

  • 敦賀西小学校正門の真横に敦賀城の案内碑があり、慶長年間の国絵図に描かれた三層の天守も刻まれている。2009年、新校舎建設に伴い、小学校グラウンドの発掘調査を実施したところ、敦賀城の時代に相当する建物遺構が発見された。
  • 来迎寺の山門は、城の中門を移築したと伝えられる。
  • 来迎寺の書院には、腰高障子13枚が残る。敦賀城破却時に移されたと伝わる。
  • 真願寺には、敦賀城の礎石が残る。本寺は敦賀城域の北西隅に当たるという。
  • 真願寺から東へ延びる赤川は、敦賀城の堀の遺構と言われる。また伝承範囲の南側と東側にも部分的に水路が残っている。
  • 八幡神社には、敦賀城主大谷吉継が寄進したという本殿の龍の木彫、石灯籠、石鳥居がある。
  • 西蓮寺の西隣には三の丸趾の木柱が建ち、そこから南の稲荷神社付近には三の丸地蔵尊の祠もあり、西蓮寺から稲荷神社の付近が三の丸であったようである。
  • 関ヶ原合戦後、福井藩主となった結城秀康によって、代官が派遣されたことから、結城町の地名が残る。写真の説明はありません。画像に含まれている可能性があるもの:1人写真の説明はありません。
  • https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1041621709333737
  • https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1041623436000231
  • 参考資料;『ウィキペディア(Wikipedia)』、講座:敦賀城レジュメ
  • 本日の訪問ありがとうございす。

小川西之城  近江国(信楽 小川)

2018年04月15日 | 丘陵城

お城のデータ

所在地:甲賀市(旧甲賀郡)信楽町小川小字伊吹谷 map:http://yahoo.jp/UvSxeh

現 状:山林

区 分:丘陵城

築城期:室町期

築城者:鶴見(小川)行俊

標 高:370m  比高差:40m

遺 構:堀切、空堀、土塁、畝状竪堀、井戸

目 標:清光寺

駐車場:清光寺の登り口駐車城

甲賀市指定史跡

訪城日:2018.4.14

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1041137289382179

写真の説明はありません。画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、屋外、自然

お城の概要

小川集落にあり、清光寺西側の丘陵部に位置している。中手川を隔てた南東の丘陵部には小川中ノ城が、また、小川中ノ城の東南東の山上には小川城が所在している。
小川の地は、京都から伊賀・伊勢方面への交通の要衝に位置し、勢力をのばした多羅尾氏が多羅尾からこの地に支配の拠点を移した。城の遺構も甲賀・伊賀方式から脱皮した構造が見られる。
 この城が築かれる以前は、現在、城の北側の谷に所在する大光寺の前身である大興寺があったと云われ、応仁の乱を避け信楽庄に避難した近衛政家がこの寺に応仁2年(1468)8月19日から10月19日の二ヶ月間にわたり滞在したとの記録が残り、政家の対面の場となった「清故庵」は、城の東、丘陵先端部にある清光寺の位置と伝えられている。

城の構造は、南側の東へ伸びる尾根に築かれた東城と、西から北東方向に伸びる尾根に築かれた西城とに分けることができる。東城は丘陵頂部に主郭、その東側に空堀で区画しされた二郭、三郭が続く。西城は北東と北西の尾根筋を二条ずつの堀切で遮断し、北から南西に四郭、五郭、六郭が配される。両城とも連郭となっており、単郭方形を基本とする甲賀方式とは異なる構造である。
主郭は、東西70m、南北50mで南側を除く三方に土塁の痕跡が残存し、東から北側に空堀がめぐる。虎口は南側に開口している。東斜面には畝状竪堀も見られる。空堀を隔てた東側が二郭で、東西35m、南北30m、北面と東面の一部に土塁が残り、東側を除く三方に空堀がめぐる。さらに空堀を隔てた東側に三郭があり、西面を除く三方を土塁で囲繞され、西面に虎口が開口し、空堀を通路としている。これら三つの郭は、南北軸より少しずつずらせてあり、横矢が効く様にしている。なお、南側の下方に東西に細長い平坦地が付帯しているがどの部分まで城域か判断出来ないようである。
東城の北西端の鞍部を隔てて西城となる。西ノ城は、西端頂部に東西15m、南北20mの櫓台状の六郭を置き、東側と西側に堀切を敷設している。西側の堀切の北西外50m程にもう一条堀切を設け、それらを横堀で結び「エ」の字状とする特異な形態となっている。東側の堀切を隔てて西面に櫓台状の土塁を伴った郭があり、その北東一段下がって東西35m、南北50m程の西面と北面に低土塁が残る四郭を配している。五郭は、六郭東側の堀切を南に通り抜けた南側に設けられている。四郭の北東方向60m間隔で二条の堀切を穿ち尾根続きを遮断している。

歴 史

 築城年代は定かでないが小川氏によって築かれたと伝わる。その後、近衛家領信楽荘の荘官の多羅尾氏が整備したと考えられている。
なお、同氏は、15世紀代に信楽庄を支配して中央に進出し、三好氏の被官になった一族がいたと考えられ、河内国の守護代となり、永禄6年(1566)6月松永久秀に与して、淀城に籠った多羅尾常陸介は同族と見られている。

鶴見長実の子、鶴見行俊は小川氏を称して代々続いたが、長享元年(1487年)に多羅尾和泉守に敗れた小川成俊は山城国和束庄へ逃れ、以降は多羅尾氏の所領となった。

 天正10年(1582年)本能寺の変によって織田信長が倒れた際、堺見物をしていた徳川家康が伊賀越えで所領に戻る際に設楽で一夜を明かしたのが、この小川と伝えられる。 文禄4年(1595年)に多羅尾光太の娘が豊臣秀次に嫁いでいたことから、秀次に連座して改易された。

その後に徳川家康に召し出されて旗本となり、江戸時代には多羅尾代官陣屋を構えている。これは多羅尾光俊・光太父子が守護した恩に報いたものといわれる。

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、植物、屋外、自然

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀の城、武家家伝多羅尾氏、

 本日も訪問、ありがとうございました。


小川城(城山城・小川鶴見城)   近江国(甲賀・信楽)

2018年04月15日 | 山城

画像に含まれている可能性があるもの:屋外

城山城画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、空、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、立ってる(複数の人)、屋外

 

お城のデータ

別 称:小川鶴見城・城山城 

所在地:甲賀市信楽町小川(旧:甲賀郡信楽町小川) map: http://yahoo.jp/ba8ETw 

区 分:山城

標 高:470m   比高差:120m 

現 状:山林・公園

遺 構:曲郭・土塁・堀切・石垣・説明板

築城期:室町期・・嘉吉三年(1305)

改築期:織豊期(天正年間)

築城者:鶴見伊予守定則(道宗)

改築者:多羅尾光俊

廃 城:文禄四年(1595)

駐車城:主郭すぐ5分

目標地:林道の入口は県道138号線天満宮の鳥居のやや北東側に小川城の道標が出いる。

訪問日:2018.4.14

画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、草、空、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:屋外画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、草、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:屋外

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画像に含まれている可能性があるもの:木、草、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、植物、草、屋外、自然

お城の概要

車で林道を進み5分程度登りますが、(対向車のないこと祈りながら)。山頂の主郭のすぐ下まで林道があり、普通車クラスなら車で登ることができる。林道の入口は県道138号線天満宮の鳥居のやや北東側に小川城の道標が出ており、これにしたがって林道を進めばよい。

小川城は小川集落の南東にある標高470.4mの通称城山山頂に築かれている。

 主郭は南西から北東方向に伸びた山頂部に築かれており、南西端に櫓台を設けた土塁で囲まれた曲輪で、北西側に虎口があり力石がある。土塁が屈折した形状で草で覆われ確認できないが、礎石が残されているという。北東側は土塁で区画された削平、小段と続き、南西側は堀切で区画され東屋の建つ曲輪がある。南へ続く尾根は堀切で遮断され、北西の中之城に続く尾根にも一郭あり、尾根は土塁と堀切で遮断されている。

大光寺には近衛家基とその子経平そして多羅尾氏の祖となった高山太郎師俊の墓があり、多羅尾氏の墓所もある。

城址は整備され、思った以上の規模と遺構に満足。主郭は土塁が巡り、遠くから主郭を見ると半地下状に見えて印象的です。また、僅かですが土塁の内側に石垣も見ることができます。さらに、南側の谷を挟んだピークに出丸と思われる箇所も認められます。城址よりは信楽中心部が見渡せ、眺望がとてもいいです。

中の城へも案内が!。案内板には中の城と小川城の間は1.5Km(中の城と県道までは500m)と表記ありますが、ここもそんなに長い距離とは思えません。途中には小郭が二箇所、堀切が数箇所認められ、本城と支城の間の連絡道が完存してる支城と本城との繋ぎ道。写真の説明はありません。画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、草、屋外、自然

歴 史

小川城は嘉吉三年(1305)に鶴見伊予守長実によって、あるいは、富永俊盛によって築城されたと伝えられる。

しかし、山頂城址からの出土品などによって、正安二年(1300)に鶴見伊予守定則(道宗)の築いたとするのが 定説となっている。

永享元年(1487)、鶴見氏を逐った多羅尾氏の拠るところとなり、天正年間、多羅尾光俊が 改築したものがいまに残る城址という。


天正十年(1582)、本能寺の変に際して甲賀から伊賀を通って三河へ逃げ帰った徳川家康が、甲賀で一夜を 明かしたもは小川城であったとも伝えられている。が?

画像に含まれている可能性があるもの:1人、屋外近年、大光寺を宿所にしていた文書が発見された!

信長死後、豊臣政権に生き残った多羅尾氏であったが、 文禄四年(1595)、豊臣秀次の罪に連坐した多羅尾氏は没落、 小川城も廃城となった。

城址を歩くと土塁、堀切、虎口などがよく保存・整備され、石垣もわずかだが残っている。 城址からの展望は抜群で、登山の疲れを一気に吹き飛ばしてくれる風景が広がる。 

永禄11年(1568)、織田信長からの近江路案内役の依頼を断った佐々木氏は、信長に居城・支城をことごとく攻略されてしまう。そして天正9年(1581)、信長は安土城に4万6千の大軍を集め、全滅作戦「天正伊賀の乱」を決行したのである。こうして近江の雄、佐々木氏の時代は去っていったのだが、この時、甲賀忍者集団が積極的に佐々木氏を支援しなかったのが大きな敗因でもあった。

 実はこの裏では、徳川家康が動いていた。家康は早くから忍者の実力に目を付け、永禄元年(1558)には甲賀・伊賀の忍者を合わせて270名雇い入れていたという。信長の佐々木氏攻めに甲賀忍者が動かなかったのは、佐々木氏に加担しないことを条件に、家康が甲賀攻めを回避したからだといわれている

 もともと甲賀忍者の生き方は、決して攻撃的なものではない。あくまでも自分たちの生活を守るために武力を行使してきた。

 今までは近江の一大勢力であった佐々木氏と手を結び、協力することが必要であると判断してきたが、佐々木氏の衰退を見た忍者たちは、信長寄りの姿勢を固めていったといえる。信長の力の前に甲賀忍者は屈したが、信長には内心は反発していたようだ。その実力・手腕を認めながらも、強引なやり方には反感を持っていたし、また信長も甲賀忍者には警戒の目を向けていた。

「天正伊賀の乱」からわずか8ヶ月後の天正10年(1582)、本能寺の変が起こる。信長の家臣・明智光秀が、京都四条の本能寺において、信長の不意を襲って自害に追い込んだのである。この時、信長の招きで都見物に来ていた家康は旅先でこの大事件を聞き、一刻も早く本拠三河に帰ろうとしたが光秀勢に帰路を阻まれ窮地に追い込まれていた。

 しかし甲賀忍者の好意的な援護により、宇治田原から信楽へ入り、甲賀53家の1人・多羅尾家で一泊した。その先は、服部半蔵ら伊賀忍者等に護られ、伊賀から加太(かぶと)越えし伊勢の白子浜に着き、そこから海路で三河まで逃れることができた。この「伊賀越え」の功績により、多羅尾氏は後に代官に取り立てられ、伊賀忍者たちも尾張の鳴海に呼ばれ、伊賀二百人組が組織された。

このように先の見通しを早くから察知して、天下の成り行きを十分把握していたのが忍者の活躍の特徴である。信長・秀吉・家康、この3人の実力者の内、時の流れの一歩先を見越して、最後に天下を取るのは三河の家康であろうと見通していたかのように思われる。また戦国大名の中では、家康が一番見事に忍者を活用していたといえよう。

 甲賀の忍者たちが江戸に移り住むようになるのは寛永11年(1634)で、伊賀忍者たちの江戸移住よりおよそ50年程後になってからのことである。というのも、甲賀忍者は合議制の伝統が続いていたこともあって、先祖代々の土地を離れて江戸に移住することに反対するものも多かったためである。しかし将軍の度々の勧めを断り続けるわけにもいかず、ようやく大原氏以下数人の者が江戸移住を決意したことで、甲賀百人組もようやく江戸に舞台を移すことになった。

画像に含まれている可能性があるもの:空、木、屋外、自然小川城遠望

画像に含まれている可能性があるもの:5人、、スマイル、立ってる(複数の人)、屋外

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城、

本日の訪問ありがとうございす。



古城山城(岩倉城・弥勒寺城・桜本城) 近江国(野洲)

2018年04月04日 | 平山城
 山上 虎口付近の石垣

古城山城(岩倉城・弥勒城・桜本城)へ
 
祠には、携帯電話が1つお供え
ノミの跡が上4つ、下に1つははっきりと
唯一、コイワカガミは咲いてました
 
古城山へ
   
お城のデータ
別 称:岩倉城・弥勒寺城・桜本城
所在地:野洲市(旧・野洲郡野洲町)大篠原   map:http://yahoo.jp/AgceJ1
現 状:山林
区 分:平
山城
築城期:室町期
築城者:馬淵奏信
  画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外大笹原神社の由緒・応永21年(1414・室町中期)--岩倉城主・馬淵定信が本殿を再建(棟札あり)
遺 構:郭・堀切・土塁・石垣
標 高:245m   比高差:150m
目標地:国道8号線脇の【ヒラタ機工】の東側に「小堤山城の案内板」ある、
小堤山城から尾根を東へ案内板ある
駐車場:林道ゲートの前に駐車場ある

訪城日:2013.4.15

古城山(ふるしろやま)と岩倉城・桜本坊と桜本池
 小字岩倉にあり、西方は小堤、辻町に接し、東は立石山に接している。昔、馬淵氏がここに城郭を築いたため古城の名があるが、今は石垣の一部が残るのみである。頂上近くに池があり、明治時代の記録では、「桜本の池」と称し、干ばつの時も水が枯れたことがないと言い伝えられている。山頂への参道は、古くから表坂と裏坂と呼ばれる二つのルートがある。表坂は光善寺川を越え、ほぼまっすぐに尾根を伝い、屏風岩を通って山頂に至る。
 一方、裏坂は光善寺川の源流となる谷の一つに沿っており、途中で大きく左手に向きを変え、山頂直下の桜本池に達する。
 桜本坊は応永年間(約600年前)に岩蔵寺(がんぞうじ)が再興されたときに造られた六坊の一つで、古城山山頂に位置する。桜本坊は他の坊が荒廃し消滅する中で最後まで続き、明治新政府の神佛分離令によって神道化し、桜本社と称することになった。明治二十七年には瓦葺の小さな社殿が建立され、例祭行事(古城祭)の他、大干ばつ時には雨乞い祭りも行われた。
 しかし、第二次大戦の頃、その例祭行事が断絶してしまい、その後は古城山山頂周辺に石積、社殿の瓦、それに石灯籠を残すのみになった。    
       (大篠原郷土史会)

城郭分布調査3、「当城は、正安2年(1300)築城の岩蔵城、もしくは応永8年(1401)築城の弥勒寺城のいづれかに該当するものと考えられる。両城とも六角氏が築き家臣の馬淵氏が守備したと伝えられるが、立地の点では東山道より6?以上も奥まった山中にあり、六角氏の端城の1つであろう。その後、西方500mの尾根伝いに小堤山城が築かれてからは、同城の出城となったようで、北東と北西に開口する虎口付近には戦国末期に後補された石積が残る。」・・・遺跡ウォーカー 
池は桜本池という池があり、底なし池で日照りでも枯れないらしいです
小堤城山城より先に築城された城、西側10m超の大土塁。
 
お城の概要
主郭は山頂ではなく、山頂より東側の一段下がったところが主郭(40m四方程度の平坦地)です。主郭の西側に小尾根があり、これが大土塁となっています。斜面の上には土塁がL字に残る郭があります。主郭の北から東側には土塁が巡ります。さらに南側に細長く平坦地が延び、東側は土塁が続きます。この細長い郭の西側は池で南側と東側に虎口があり、南側虎口には石垣も残ります。南側の虎口を出て少し進むと土塁で桝形状になっているような箇所があり、ここは南側の防衛ラインでしょうか?。また、主郭東側虎口を出てすぐ左の斜面を進むとこの先端の虎口にも石垣の痕跡がありました。
また、落城時に、この池に金の唐びつを投げ込んだとか、元旦の朝に馬の蹄の音が聞こえるなどの言い伝えがあるとの事です。最近、地元の有志で説明板が設置されていました。これによると、戦前までは小さな神社があり、江戸期以前には寺があったようで、城跡はこれの改変があるかもしれません。
 
古城山には、正安2年(1300)築城の岩倉城、もしくは応永8年(1401)築城の弥勒寺城と考えられる。六角氏の築城・家臣の馬淵氏が守備したと伝えられ、六角氏の端城であった。
 
馬淵氏とは、
 佐々木定綱(1142--1205・経方の曾孫)の5男・広定が野洲郡馬淵に住んで馬淵と名乗った佐々木氏の傍流で、後に佐々木氏の嫡流・六角氏(佐々木氏は定義の孫の代に六角氏・京極氏などに別れている)に仕え馬淵氏・岩倉城(野洲市大篠原小字岩倉)の城主だったという。

希望が丘の北稜にあたる小堤城山から鏡山間には3~5つの山城があっ
たとされる。『小堤城山城』は永原重秀、古城山には『岩倉城(桜本城・弥勒寺城)』に馬渕泰信、鏡山星ケ峯に『星ケ崎城主』鏡久綱が城を構えた。石岩倉城は古城山と同一とされている。弥勒寺城も馬渕高昌が城主と明治30年ころの村誌に記載されている。画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外https://www.facebook.com/photo.php?fbid=1309612055868033&set=a.123291404500110&type=3&theater

城郭分布調査3には、「当城は、正安2年(1300)築城の岩蔵城、もしくは応永8年(1401)築城の弥勒寺城のいづれかに該当するものと考えられる。両城とも六角氏が築き家臣の馬淵氏が守備したと伝えられるが、立地の点では東山道より6?以上も奥まった山中にあり、六角氏の端城の1つであろう。
その後、西方500mの尾根伝いに小堤山城築かれてからは、同城の出城となったようで、北東と北西に開口する虎口付近には戦国末期に後補された石積が残る。」 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査・現地説明板・遺跡ウォーカー・大篠原神社の由緒
 本日の訪問ありがとうございす!!