国道8号線横のトラックターミナル付近とされている
所在地:彦根市鳥居本町・佐和山町 map:http://yahoo.jp/FivX9P
現 状:トラックターミナル
遺 構:なし
区 分:居館
築城者:百々盛道(通)
築城期:嘉吉年間(1441-44)
訪城日:
トラックターミナルから見る佐和山城
滋賀県教育委員会の「中世城郭調査分布図」によると、佐和山城の東約1km、国道8号線横のトラックターミナル付近とされているが、遺構は何も残っていない。目前には台形状をした佐和山の山容が大きく広がっている。
百々屋敷から南東へ約500m、新幹線を越えたひとつの尾根上に丹羽長秀の砦とされる丸山城がある。
この丸山城登る途中に "百々某" の骨塔がある、この百々某は百々氏関係の者であろうと考えられるが詳細は判らない。
また、京極氏・上平寺館の大手道右手に隠岐屋敷がある。この隠岐というのは京極氏の守將であるが、浅井三代に百々隠岐守盛実の名が見え、「佐々木南北諸士帳」には佐和山東麓百々館とあり、浅井氏との関係が窺える。
【城郭の歴史】
元亀元年(1570)の姉川の合戦後、佐和山城に立て籠もる浅井の重臣・磯野員昌に対し、信長は四つの付城を配したとされる(佐和山包囲網・・・・磯野山城、丸山城、里根山城[彦根カントリークラブ]、金亀山[彦根山=現彦根城])。その東の付城が、この百々館であるが、現地に立ってみると佐和山の山容が目前に広がり、意外な近さに驚かされる。佐和山城大手門からも500mとは離れていない。
佐和山の東、中山道が摺針峠にかかる付近に"百々屋敷の地"名があるといい、信長の築いた付城としては、摺針峠付近、若しくは丸山砦と考える方が妥当。
百々氏の祖である百々盛道(通)は伊予国出身の豪族で、河野三郎越智通春が嘉吉年間(1441-44)に当地に居住したことに始まる。盛道の母は、近江守護京極氏一族の京極高経の娘で、高経が京極氏から戦功として小野庄百々村を賜り、盛道が百々村に居住するようになり、応仁の乱では摺針峠に置かれた関所を守った。
佐和山城界隈は六角・京極・浅井の領地争いの境目であったため、百々氏は臨機応変に3者に属しながら生き延びた。浅井氏に属してからは佐和山城の城代を務めていたが、永禄4年(1561)六角承禎による佐和山攻略により、城代百々隠岐守盛実は自刃した。
その後、信長に仕えた百々越前守は摺針峠の監視役を務め、さらに羽柴秀吉の家臣として天正10年(1582)の山崎の合戦に従軍するなど、戦国時代以降は時の名将に仕えた。江戸時代に入ると一族の中には井伊家に仕えるものもいた。
江戸末期には7軒の百々姓が鳥居本に居住していたが、その1人百々彦右衛門元信は、長野主膳の弟子で、自ら「本照亭主人」と名乗っている。祖盛道から数えて12代目の子孫は慶応元年には横目という村の役職につくなど百々氏の系譜は引き継がれた。
天台宗の百々山本照寺が盛道の菩提寺と伝わるが、信長の鳥居本攻撃によって本照寺は廃絶した。その後梅本坊なる者が本照寺持仏堂の永続をはかり本尊を奥の別院に隠し、境内に八幡宮を建て、表向き八幡社としながら本照寺持仏堂として守ってきたという。大正8年の調査で奥の院の阿弥陀如来が確認された後に、山田神社に合祀し、従来の神社を阿弥陀堂と改め、今も地元の人に守られている。
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