城郭探訪

yamaziro

百々(とど)館 近江国(彦根・鳥居本)

2013年04月30日 | 居館

国道8号線横のトラックターミナル付近とされている

所在地:彦根市鳥居本町・佐和山町 map:http://yahoo.jp/FivX9P

現 状:トラックターミナル

遺 構:なし

区 分:居館

築城者:百々盛道(通)

築城期:嘉吉年間(1441-44)

訪城日:

 
 
 

 トラックターミナルから見る佐和山城

滋賀県教育委員会の「中世城郭調査分布図」によると、佐和山城の東約1km、国道8号線横のトラックターミナル付近とされているが、遺構は何も残っていない。目前には台形状をした佐和山の山容が大きく広がっている。

 百々屋敷から南東へ約500m、新幹線を越えたひとつの尾根上に丹羽長秀の砦とされる丸山城がある。
この丸山城登る途中に "百々某" の骨塔がある、この百々某は百々氏関係の者であろうと考えられるが詳細は判らない。

 

 また、京極氏・上平寺館の大手道右手に隠岐屋敷がある。この隠岐というのは京極氏の守將であるが、浅井三代に百々隠岐守盛実の名が見え、「佐々木南北諸士帳」には佐和山東麓百々館とあり、浅井氏との関係が窺える。

【城郭の歴史】
 元亀元年(1570)の姉川の合戦後、佐和山城に立て籠もる浅井の重臣・磯野員昌に対し、信長は四つの付城を配したとされる(佐和山包囲網・・・・磯野山城、丸山城、里根山城[彦根カントリークラブ]、金亀山[彦根山=現彦根城])。その東の付城が、この百々館であるが、現地に立ってみると佐和山の山容が目前に広がり、意外な近さに驚かされる。佐和山城大手門からも500mとは離れていない。

 佐和山の東、中山道が摺針峠にかかる付近に"百々屋敷の地"名があるといい、信長の築いた付城としては、摺針峠付近、若しくは丸山砦と考える方が妥当。

 


百々氏の祖である百々盛道(通)は伊予国出身の豪族で、河野三郎越智通春が嘉吉年間(1441-44)に当地に居住したことに始まる。盛道の母は、近江守護京極氏一族の京極高経の娘で、高経が京極氏から戦功として小野庄百々村を賜り、盛道が百々村に居住するようになり、応仁の乱では摺針峠に置かれた関所を守った。

 

 佐和山城界隈は六角・京極・浅井の領地争いの境目であったため、百々氏は臨機応変に3者に属しながら生き延びた。浅井氏に属してからは佐和山城の城代を務めていたが、永禄4年(1561)六角承禎による佐和山攻略により、城代百々隠岐守盛実は自刃した。

 その後、信長に仕えた百々越前守は摺針峠の監視役を務め、さらに羽柴秀吉の家臣として天正10年(1582)の山崎の合戦に従軍するなど、戦国時代以降は時の名将に仕えた。江戸時代に入ると一族の中には井伊家に仕えるものもいた。
 江戸末期には7軒の百々姓が鳥居本に居住していたが、その1人百々彦右衛門元信は、長野主膳の弟子で、自ら「本照亭主人」と名乗っている。祖盛道から数えて12代目の子孫は慶応元年には横目という村の役職につくなど百々氏の系譜は引き継がれた。

 天台宗の百々山本照寺が盛道の菩提寺と伝わるが、信長の鳥居本攻撃によって本照寺は廃絶した。その後梅本坊なる者が本照寺持仏堂の永続をはかり本尊を奥の別院に隠し、境内に八幡宮を建て、表向き八幡社としながら本照寺持仏堂として守ってきたという。大正8年の調査で奥の院の阿弥陀如来が確認された後に、山田神社に合祀し、従来の神社を阿弥陀堂と改め、今も地元の人に守られている。

 今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました.

 

 


「蹴り奴振(やっこぶ)り」2013.4.29

2013年04月30日 | 番外編

掛け声響かせ「蹴り奴振り」 米原で厄年男性ら巡行

足を蹴り上げる独特の振りで練り歩く蹴り奴振り(米原市宇賀野・坂田神明宮)

 

坂田神明宮
滋賀県米原市宇賀野83-2

 

 滋賀県米原市宇賀野の坂田神明宮の春季祭礼で29日、地域に伝わる独特の「蹴り奴振(やっこぶ)り」が行われた。法被姿で奴装束の厄年の男性がかかとを高く蹴り上げながら集落を練り歩いた。

 蹴り奴振りは、地元の旧近江町域に残る三奴振りの一つ。1733年に彦根藩主井伊直惟(なおのぶ)が同宮の神殿を造営した際、藩主らの参拝行列が蹴り奴だったため、氏子有志がまねて始まったとされる。

 神事に続き、蹴り奴振りの16人を先頭に約40人の行列が、宇賀野神社までの往復約2キロを約2時間かけて巡行した。奴振りは隊列を組み、伊達箱や槍、立傘などを持って「イーハーヨンヤセー」「ヨイトマカセー」などの掛け声を響かせて進んだ。

 氏子総代の一人の田中直夫さん(77)は「親戚も集まり、祭りは区民の絆づくりになっている。伝統を守っていきたい」と話していた。

 

     

 

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました


米原城 近江国(米原)

2013年04月30日 | 平城

お城のデータ

所在地:米原市米原177-1

    map:http://yahoo.jp/4lIVW3この地図のURL

区 分:居館

築城期:室町期

 

築城者:吉田安芸守

 

現 状:米原警察署

遺 構:無

目標地:米原警察暑 

 

城 主: 吉田

 

駐車場:米原警察署に駐車場

 

訪城日:2013.4.29

 

 

 

お城の概要

 

 米原城は江戸時代は、中山道と北国街道の分岐点を北国街道側に約200mの所、米原警察署(元米原中学校の跡地)一帯とされる。

 

 城域は校舎が建てられていた北側の高盛上地及びグランドや東側部一帯と思われ、北国街道が城域内を横断する形となる。

 街道の要所に築かれた平城であり、街道筋を掌握する目的の城館であった事は間違いない。

遺構は見当たらない。

 米原城は、現在のJR米原駅東口でR8沿いに建つ米原警察署付近にあったとされる。

最近米原中学校の移転に伴い、跡地に米原署が建った。

現在は遺構どころか町割も変化し往時を偲ぶものは何もない。

歴史

江南守護六角氏の家臣吉田安芸守の名が見えるが詳細は判らない。
吉田氏は太尾山城を守備していた時期に平時の居館として米原城に居たのではないかと推測する。

永禄4年(1561)浅井長政に属した今井定清が太尾山城を攻略した際、共に落城したのではないか。

南東の山上には江北と江南の境目の城として争奪戦が繰り返された太尾山城がある。
北・東側にはすぐ山には太尾山城が迫る手狭な感のあるこの付近だが、北国街道が通るこの地は元々は米原の中心地であり、江戸期には彦根藩主井伊氏により米原湊が開削され宿場として発展した。

参考資料;:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、坂田郡志

         本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


新緑の名勝旧彦根藩松原下屋敷(お浜御殿)庭園特別公開

2013年04月29日 | 館跡

新緑の名勝旧彦根藩松原下屋敷(お浜御殿)庭園特別公開

 

 名勝「旧彦根藩松原下屋敷(お浜御殿)庭園」は、11代当主井伊直中(なおなか)により文化7年(1810)ころに琵琶湖畔に造営された下屋敷です。彦根藩のもう一つの下屋敷である槻(けやき)御殿(玄宮楽々園)とは立地や趣も異なり、公式性を離れた井伊家の内向きの庭園を主体とした下屋敷でした。
 松原下屋敷の庭園は、優れた造園技術を駆使し、琵琶湖の水や山の自然を活かして造られています。琵琶湖の水位と連動して汀線(ていせん)(波打ちぎわ)が変化する汐入形式の手法を用いた池を中心に、西側は洲浜(すはま)の広がる穏やかな景観とし、東側は築山(つきやま)(庭に築いた小さな山)が折り重なる深遠な趣となっています。13代当主井伊直弼の時代には、「がけ之御茶屋」「南台之御茶屋」「通天之御茶屋」「菊之御茶屋」の4棟の茶室も要所に設けられていたようですが、現存していません。
 明治4年の廃藩置県後、彦根における井伊家の居宅はこの屋敷が用いられ、明治22年には玄関棟や大広間が増設されました。庭園については、昭和57年度に奈良国立文化財研究所(現在の奈良文化財研究所)により調査が実施され、彦根市教育委員会でも平成12年度に庭園や歴史的建造物の調査、植生調査、そして測量調査などを行いました。これらの調査により、松原下屋敷の庭園が玄宮楽々園とは様相の異なる大名庭園であり、近世の大名文化を理解する上で欠くことのできない貴重な文化財であることが明らかになりました。そこで平成12年度には彦根市指定文化財(名勝)に指定し、さらに翌平成13年度には国の名勝指定を受けました。また、平成14年度からは彦根市が管理団体となり庭園の維持管理に努めております。昨年度で
公有地化を完了し、今後、国の補助と指導を得ながら、庭園や歴史的建造物の保存修理を実施し、一般公開を図っていく予定です。

 本庭園は、彦根市民の大切な宝であり、新たな観光資源としても期待されます。そこで、いまだ整備の途中でありますが、新緑の季節の観光シーズンに合わせて皆さんに特別公開するものです。

 

※汐入形式:海水の干満を利用して池の景色を変える庭園技法。汐入式の池をもつ旧大名庭園としては、浜離宮恩賜庭園(はまりきゅうおんしていえん)(東京都)や養翠園(ようすいえん)(和歌山県)などが知られていますが、松原下屋敷の庭園は淡水(琵琶湖の水)を利用した汐入形式の手法を用いた、わが国唯一の庭園です。

【春の特別公開】
1 公開期間 平成26 年4 月26 日(土)~5 月6 日(火)
期間中無休
2 公開時間 午前9:00~午後5:00(入園締切午後4:30)
3 場 所 彦根市松原町515 番地
4 料 金 無料
5 そ の 他 

 

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました


特別記念講演 「近江の城が信長に見せたもの」 講師:中井 均氏(県立大学准教授)2013.4.28

2013年04月28日 | 歴史講座・フォーラム

 

 

安土考古博物館に、平成25年4月20日(土)~6月16日(日) 
平成25年春季特別展「しのぎをけづり 鍔をわり-近江の城、信長とかく戦えり-」

特別展「しのぎをけづり、鍔(つば)をわり」~信長と戦う城の知恵を紹介 近江八幡で特別展

横山城の戦いで使われた石礫などを見る来場者(近江八幡市安土町下豊浦・安土城考古博物館)

 滋賀県近江八幡市安土町下豊浦の安土城考古博物館で、近江の各城が織田信長とどう戦ったかを紹介する特別展「しのぎをけづり、鍔(つば)をわり」が開かれている。絵図や武器など約250点で戦国時代の城の攻防戦を伝える。

 浅井氏が立てこもった小谷城(長浜市)の展示では、城跡から出土した刀や鉄砲玉が並ぶ。「小谷城跡絵図」は、山の尾根伝いに本丸や郭(くるわ)が連なる城の堅牢(けんろう)ぶりを伝え、織田軍がなぜ苦戦したかが分かる。

 小谷城近くにあった横山城についても、城跡から出土した石礫(つぶて)3点を展示。直径約10~30センチで、城を守る浅井軍が城から織田軍に投げ落としたと考えられており、ありとあらゆる物を用いた戦いのすさまじさを伝える。

 6月16日まで。月曜(祝日の場合は翌日)休館。4月30日は開館する。午前9時~午後5時。大人860円。4月28日から関連の連続講座も始める。同館TEL0748(46)2424。【京都新聞】

レジュメ

◆はじめに

・近江は城の国⇒1329ヶ所にのぼる城館跡の存在と確認【滋賀県教育委員会が1982年から10ヶ年かけて実施した分布調査の結果】

・近江は城郭の宝庫⇒ただ分布数が多いだけではなく、様々な機能や構造をもつ城館が分布【甲賀郡中惣の城郭群、巨大な守護・戦国大名の居城、寺院の要塞化、近世城郭の始祖安土城est・・・】

◆信長が見た近江の城

◆信長侵攻団塊の近江の城

◆石垣の系譜

◆安土築城と近江の築城技術

◆おわりに

・近江の城の先進性⇒土の城から石の城へ【しかし信長の築城にはその技術は採用されなかった】

・観音寺城の石垣と建物⇒戦国時代の到着点を示す【しかし、従来の観音寺城の評価は屋敷の集合体であり、軍事的評価は低い】

   石垣築く財力【肥沃なな近江】と家臣を山上に集住させる権力⇒はたして守護六角氏はの権力は脆弱だったのか?

・信長はなぜ、近江安土に新たに築城したのか⇒岐阜・京都間の中間、街道の要衝?【答えは出ていない】

 


【高山城 飛騨国】

2013年04月27日 | 平城

 高山城跡は、高山市街の東方にそびえる標高686.6mの通称城山にある。金森長近によって天正16年(1588)に築城が開始され、慶長5年(1600)までに、本丸・二の丸が完成し、更に、金森可重によって三の丸が築かれ、慶長8年(1603)通算16年をかけて完成したとされる。現在遺存しているのは、三の丸曲輪の堀、二の丸曲輪の広場、用水の名残りをとどめる小池、本丸、天守閣の礎石10数個、南東隅石垣の一部、本丸の搦手門、太鼓櫓下部の石垣である。
 金森氏6代の居城であったが、元禄5年(1692)頼旹が出羽国(山形県)に移封され、金沢藩が城番を勤めた。

しかし、元禄8年(1695)幕府の命により高山城は完全に破却された。

 また、高山城跡は野鳥生息地として天然記念物にも指定されている。鳥類研究家老田敬吉(故人)の調査[昭和31年(1956)5月]によると、野鳥の種類27科80種が確認されたという。都市に近接する野鳥生育地として珍しく貴重である。

 平成7年度には、三の丸堀発掘調査が実施され、江戸時代の墨書薄板屋根材や隅木などが出土した。また、平成9年度には、城郭復元工事、三の丸堀修景整備工事等が行われ公園として、より整備された。

 

高山城(たかやまじょう)は岐阜県高山市にある戦国時代から江戸時代前期の城である。

構造

標高686.6メートルの城山(臥牛山、巴山ともいう)に築城された平山城で、曲輪、堀、石垣、土塁などの遺構が残る。望楼型2重3階の非実戦的な天守を持つ御殿風の古い城郭形式は、織田信長が築城した安土城の影響を受けたものと見られている。

歴史

  • 室町時代、文安年間
飛騨守護・京極氏の被官、多賀出雲守徳言が天神山城(多賀山城)を築城。
  • 永世年間
高山外記が山頂部に天神山城を築城。付近を高山と呼ぶようになったというが異説もある。
  • 戦国時代
三木自綱が高山へ進出、飛騨を平定、松倉城を築城した。越中の佐々成政と同盟し、豊臣秀吉に対抗したことから、1585年(天正13年)豊臣秀吉の命を受けた越前大野城主金森長近が三木氏を攻め、飛騨を制圧し、飛騨3万3千石の領主となる。当初、長近は鍋山城を居城としたが、1588年(天正16年)天神山城跡を利用して高山城を築城。1600年(慶長5年)までに本丸・二の丸を完成させ、その3年後までには三の丸が整備された。築城と同時に城下町の整備も進められ、高台に家臣屋敷を建設し、下段の三町を町人の町とした。そして京都に倣って東山に寺院を集めた。
  • 1692年(元禄5年)
金森頼時の出羽国上山藩への国替えにより、高山城は加賀藩主前田綱紀が預かった。
  • 1695年(元禄8年)
天領となったため、幕命により高山城は前田綱紀により破却される。

現在は、岐阜県高山市空町城山公園。城跡は県指定史跡であるとともに、野鳥生息地として天然記念物にも指定されている。 高山市天性寺町62  法華寺本堂(県重文)は高山城の一郭を移築したものといわれている。

城主(金森氏)

  • 初代:金森長近
  • 二代:金森可重
  • 三代:金森重頼
  • 四代:金森頼直
  • 五代:金森頼業
  • 六代:金森頼時

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました


小川城 近江国(能登川) 

2013年04月27日 | 平城

 

元亀二年(1571年)織田信長方の攻撃を受け、小川城主、小川土佐守祐忠は7人の人質を進上して許しを乞い、戦火から区民を守りました。その時、城は焼失し祐忠は信長の一武将となりました。後、伊予の国(愛媛県)今治に七万石の所領を得、城主となり、関ヶ原合戦(1600年)に西軍の一大名として2000人の部下と共に従軍しました。 <現地案内板より>

お城のデータ

所在地:東近江市(旧:神崎郡能登川町)小川町  map:http://yahoo.jp/aAOFT 遺跡ウォーカーの比定地

目標地:小川老人憩いの家

区 分:平城

現 状:駐車場・竹藪・公園・宅地

遺 構:堀・説明板

築城期:戦国期

築城者:小川土佐守祐忠

城 主:小川土佐守祐忠

駐車位置:小川老人憩いの家・清和源氏浅原氏邸石碑の横駐車場

訪城日:2013.4.27・2016.5.1


お城の概要

 現在では小川城址であることを示すものは、「小川老人憩いの家」の前に建つ案内板だけである。
しかし、この案内板とて建てられたものではなく、城址はここより西側の小さな川に挟まれた小字名で「城」と呼ばれている東西70~80m、南北150mほどの一画である。この城域の西側に位置する川は現在も堀跡であるといわれている。

 この川が堀跡であることを示すものとして、福堂今線の道路を越えた北側には川が不自然な形で二俣に分岐されており、当時の堀であったことを暗示しているようである。

 小川老人憩いの家前に小さな林があり、この林の中には高さ1~1.5mほどの土塁がわずかながら残されている。

堀カ!

清和源氏浅原氏邸跡の碑   小川町  map:http://yahoo.jp/gtUIE0

   井戸か? 


浅原広場碑 

        

城址は憩いの家より北に200mのところとありますが、正明神社周辺で、憩いの家の前の道を北のほうに進むと正明神社裏手付近に「清和源氏浅原邸跡」という石碑がありましたが、詳細不明です。集落内は水路が巡っており堀跡なのでしょう。

お城の歴史

『佐々木南北諸氏帳』には、「神崎郡 小河 佐々木隋兵 小川左馬」と記す。

『淡海国木間攫』には、神崎郡 小川村「往古下河辺庄司行平カ末葉此地ニ来住ス、小川左京進ト号ス、永和ノ頃公方衆ニ奉仕ス、又小川土佐守ト云人居住スト云、小川佐馬ト云人城主ナリト云、是等ハ皆左京進ノ子孫タルベシ、小川氏後僧トナリ、躰光寺村弘誓寺ノ住持トナルト云、」

  追加

「一説ニ曰、小川伯耆守入道宗沢・息左近大夫賢武ハ元来新村河南一家ナレバ、近辺催シ三年堅固ニ楯籠ル処、新村落居ノ以後信長公ヘ降参ス、依テ土佐守ニ改、息ハ佐馬亮ニ被仰付、所々ノ働重ク大身ニ御取立ノ処、本能寺崩ノ節、明智光秀旧交有ニヨリテクミスル処、池田伊予守景雄・小川土佐守賢武両人ハ光秀ガ行跡ヲ察シテ秀吉公ニ降参ス、小川氏ハ下河辺庄司行平ノ末流ナリ、始ハ下川ト名乗シカ、後小川ト改ト云、」と記す

 元亀元年(1570)6月の姉川の戦い後、9月になると本願寺11世法主顕如は三好三人衆、および、浅井・朝倉氏と手を結ぶと共に、各地の一向宗門徒に檄を飛ばし織田信長に宣戦布告(石山合戦)した。

 この顕如の檄に応じて、近江の一向一揆衆は金ヶ森城(金森道場)を中心に、志村城(新村城)や小川城に楯籠もって信長に対抗するが、元亀2年(1571)に信長軍に攻められ落城した。

----------------------------現地案内板より
 小川土佐守祐忠と小川城址
 元亀2年(1571)9月1日織田信長勢の攻撃を受け、小川城主、小川土佐守祐忠は7人の人質を進上して許しを乞い、戦火から区民を守りました。
 その時 城(館)は焼失し祐忠は信長の一武将となりました。後、伊予の国(愛媛県)今治に七万石の所領を得、城主となり関ヶ原合戦(1600年)に西軍の一大名と して2000人の部下と共に従軍しました。城址は此の地より北方150mの高台にあります。「小川の歴史」より抜粋 
----------------------------ココマデ

【信長公記の元亀二年の項】
 「信長公記」の元亀二年の項に小川城の記述があります。
------------------------
志むら攻め干さるゝの事
 八月廿八日、信長公、佐和山へ御出で、丹羽五郎左衛門所に御泊。先陣は一揆楯籠り候小川村志村の郷推し詰め、近辺焼き払ふ。
 九月朔日、信長公、志むらの城攻めさせ御覧じ、取り寄する人数、佐久間右衛門、中川八郎右衛門、柴田修理、丹羽五郎左衛門、四人仰せつけられ、四方より取り寄せ、乗り破り、頸数六百七十討捕る。これによって、並郷、小川の城主小川孫一郎、人質進上候て、降参申すの間、御赦免なさる。
------------------------

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、信長公記、淡海の城、淡海国木間攫、遺跡ウォーカー

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!


垣見城 近江国(能登川)

2013年04月27日 | 平城

 

お城のデータ 

所在地:東近江市垣見町(旧神崎郡能登川町垣見)map:http://yahoo.jp/Lfe_LY

区 分:平城

築城期:室町期

築城者:垣見氏

城 主: 永田栄俊 

訪城日:2013.4.27

歴   史  

応仁元年(1467)から始まった応仁・文明の乱の戦いの中で、六角氏と京極氏は垣見で戦い、元亀元年(1570)六角氏再興戦にも籠城したと伝える。応仁の乱の時に六角氏と京極氏がここで戦ったという。 元亀2年(1571年)佐々木義治知行宛行状で永田栄俊が在城していたことが知られる。

お城の概要  

垣見城は垣見集落のどこにあったのかは定かではない。 「殿屋敷」、「姫屋敷」と呼ばれる伝承地があり、周囲より微高地となっているが、民家が建ち並んでいる。 垣見城は垣見地区にあって、射光寺川が蛇行しながら流れる一帯であるとされるが、その場所は特定されていない。
 しかし、地元には金剛寺の東隣と南側に、それぞれ姫屋敷,殿屋敷と呼ばれる伝承地がある。
また金剛寺の西側に射光寺川を周囲に巡らせ、周囲よりも一段高い一画があり、この一画が垣見城跡ではないかと推定される。

  躰光寺川=堀

 殿屋敷

姫屋敷の堀

垣見会議所

 応仁の乱から永禄年間まで史料に現れる城のようですが、築城時期・築城者は定かではないようです。

徳應寺

 金剛寺

 垣見城は垣見地区にあって、射光寺川が蛇行しながら流れる一帯であるとされるが、その場所は特定されていない。
 しかし、地元には金剛寺の東隣と南側に、それぞれ姫屋敷,殿屋敷と呼ばれる伝承地がある。
また金剛寺の西側に射光寺川を周囲に巡らせ、周囲よりも一段高い一画があり、この一画が垣見城跡ではないかと推定される。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!


北津田城 近江国(近江八幡)

2013年04月27日 | 平城

お城のデータ

所在地:近江八幡市北津田町~島町  
現 状:山林・公園・神社
区 分:丘城  

標高: 比高差:20m 

遺構等:郭・土塁

築城期:

築城者:

駐車場:奥島神社

目標地:奥津島神社

訪城日:2013.4.27

お城の概要

 北津田城は奥津島神社の南、小高い丘の頂部を中心に築城されている。公園のような形で整備されているため、主曲輪を中心とした一帯は曲輪の状況などは非常に判りやすくなっている。

 主曲輪は東西40m、南北20mほどで、東と西にそれぞれ袖曲輪を、主曲輪北側には帯曲輪を配し、南西には腰曲輪を配している。
主曲輪の東の袖曲輪には低土塁が残り、虎口状の地形が認められる。

 津田地区は長名寺川の河口に位置し、昭和初期に干拓された地域でもあり、当時は南西3km先の水茎岡山城と同様、琵琶湖の入江に面した城であったことが推察される。

歴 史

詳細は不明であるが、

観音寺城や水茎岡山城(東約1km)の六角氏の支城・円山城などとの関係か?

池の上が北津田城

寺の裏山が北津田城

 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました


大岩山砦 近江国(余呉)

2013年04月27日 | 

 余呉湖畔

お城の概要

大岩山砦は賤ヶ岳から東に延びる尾根の先端に築かれ、東には高山右近が布陣した、岩崎山砦と隣接している。

 木之本町黒田の大澤寺の階段横から3~4m幅の山道を約10分登ると、賤ヶ岳へと続く尾根道のハイキングコースに出る、更に10分ほどで大岩山山頂に着く。
 途中には秀吉が敗走する佐久間盛政の追撃戦の指揮をとったとされる “猿が馬場” や、戦死した中川清秀の首を洗ったという “首洗い池” 等があり、これらを見ながら歩くと、大岩山山頂までは距離を感じさせない。

 大岩山山頂の砦は南北20m,東西40mほどで、北~東~南には高さ0.7~0.8mほどの土塁が残る。また、東端には中川清秀主従の供養塔が建てられており、中川清秀の墓には「浄光院殿行誉荘岳大居士」と彫られている。

 大岩山砦の東側虎口は一見、平虎口のようであるが、虎口に通じる現在の道は後年のハイキング道で、従来の道は尾根から2度折れして虎口に至っており、虎口構造は他の秀吉軍の陣城同様に、技巧的な縄張りを見ることができる。

 一方、山頂の砦から北に延びる三つの支尾根にはそれぞれ曲輪が設けられているが、その他の防御施設は、“猿が馬場”の北に1条の竪堀が確認出来るだけで、虎口構造と比較して防御施設の貧弱さが目立つ。

 防御施設の貧弱さは、対峙する柴田軍との間には賤ヶ岳砦などが位置しているという安心感からきているのであろうか。天正11年(1583)に佐久間盛政が行市山砦から賤ヶ岳砦を迂回してこの岩崎山砦を攻撃目標に選んだ理由も頷ける。

 大岩山の山頂からは柴田軍主力部隊が陣を構える行市山が11時の方向に、また左手(西)には余呉湖周囲の山並みが手に取るように見え、佐久間盛政が行市山から余呉湖の周囲約10kmの山道を迂回して攻め込んできたルートを一望することができる。

 なお、大澤寺にある鐘突堂の梵鐘は、天正11年(1583)大岩山砦に駐留する佐久間盛政軍が、大垣から秀吉軍が帰陣したことを味方に報せるために乱打したものと伝えられている。この梵鐘は応永19年(1412)の作とされ、木之本町文化財に指定されている。
 なお、鐘突堂からは、秀吉の本陣である木之本が一望される。


沖島坊谷城 近江国(近江八幡)

2013年04月27日 | 平山城

滋賀県中世城郭分布調査 4 旧蒲生・神崎郡の城

 お城のデータ

所在地:近江八幡市沖島町坊谷  map:http://yahoo.jp/DulFfT

現 状:山林

区 分:平山城

築城期:室町期

築城者:島民

遺 構:坊跡地・土塁・見張り台

標 高:220m  比高差:135m

目標地:堀切新港より定期船で沖島港へ・沖島小学校・沖島町の東端厳島神社

駐車場:堀切新港の周辺空き地に路上駐車(桟橋周辺は沖島住民の駐車場で駐車禁止)

訪城日:2013.4.19

お城の概要

湖岸を北へ厳島神社に、東側の梯郭式で、160m付近の土塁ある、東部220mは主郭で見張り台か?

 沖島は、(おきしま・おきのしま・沖ノ島)などと呼ばれ、琵琶湖のほぼ中央、近江八幡市の沖合約1.5kmに浮かぶ琵琶湖最大、約350人が居住する有人島である。島の沿岸周囲は約6.8km、面積は約1.5k㎡を誇るが、ほとんどが山林に覆われ、南西沿岸のわずかな平地に集落が営まれている。

 坊谷城は、島の面積のほとんどを占める尾山のほぼ中央南斜面に位置し、尾山最高所の宝来ヶ嶽(標高225m)と南端沿岸に突出した赤崎を結ぶ尾根筋中ほどに築かれている。山麓の赤崎側より尾根筋には梯郭式に11段の曲輪が配置され、この最上部より東側には谷を隔てて9段の曲輪が連立して下降する。曲輪の随所には石積みが見られる。頭山城や尾山城に見られる斜面一帯に設けられた削平地はなく、坊谷城の名にあるように坊跡を利用して築かれたようにも見える。梯郭式縄張の上方約80mの標高150m付近には比較的広い曲輪が3~4段築かれていて、主郭部ではないかと思われ、加工された石が散在している。さらに上方約60mの標高160m付近には土塁、そのすぐ上方通路は堀切に土橋が架かったような遺構が見られ、尾山頂部からの侵入に備えているようである。

お城の歴史

 尾山麓にある浄土真宗本願寺派の西福寺は保元・平治の乱(1159)の際、近江源氏の落ち武者である七氏の一人、茶谷重右衛門なる者の末裔が本願寺第八世蓮如上人に帰依し、庵を建てたのが開基とされ、坊池城もこうした近江源氏の落ち武者との関連が示唆されるが、詳細は不明

室町時代に将軍義政により湖上監視が命じられ、湯谷ヶ谷(番所山)に施設が設けられたとあり、これが沖島坊谷城ではないかと

 沖島坊谷城は沖島のほぼ中央部の尾山(標高220m)の南尾根の中腹に築かれており、沖島港の東約1kmの地点から山中に入ると約5分で城域に入り、最高所の曲輪までは約20分。

 沖島の頭山城、あるいは尾山城等と同様に尾根斜面に雛壇状に曲輪を配した山城である。この坊谷城が他の2つの城と多少違うのは、道の両側に曲輪を配置し、尾根の斜度がなだらかなこともあって個々の曲輪が大きい。主曲輪と考えられる最高所の曲輪は30m×40m
ほどもあり、寺院による改修とも考えられている。築城時期や目的など詳細は判っていない。縄張の手法も鎌倉期から戦国期まで中世全域でみられるものである。
沖島は、沖合から縄文土器や和同開珎が発見され、古くから人々の往来はあったようだが、本格的に人が住むようになったのは、保元・平治の乱(1156-1159)による源氏の落武者7人が山裾を切り開き漁業を生業とし居住したことに始まると言われ、彼ら(南源吾秀元、小川光成、西居清観入道、北兵部、久田源之丞、中村磐徳、茶谷重右衛門)が現在の島民の祖先とされている。
南北朝期には南朝方が越前と新田義貞軍の中継基地として頭山一帯に城を構えたとされ、室町8代将軍足利義政は湯谷ヶ谷(番所山)に島民に湖上を行き交う船の監視と取締りを命じたとされる。
また応仁2年(1468)には比叡山延暦寺に敗れた堅田衆4千人が、約2年間沖島に避難生活をしたとされる。
戦国時代に入っても関所が設置され、琵琶湖水運の重要拠点として機能した。当初は近江守護六角氏の影響下にあったが、後に本願寺系自治区堅田の保護を受け、更に織田信長の近江平定に従って関所の存続が許され、少なくとも豊臣政権下の天正13年(1585)頃までは存在していた。そんな背景の中、沖島は戦乱の世に重用され続けた。

  尾山麓にある浄土真宗本願寺派の西福寺は保元・平治の乱(1159)の際、近江源氏の落ち武者である七氏の一人、茶谷重右衛門なる者の末裔が本願寺第八世蓮如上人に帰依し、庵を建てたのが開基とされ、尾山城もこうした近江源氏の落ち武者との関連が示唆されるが、詳細は不明。 

 

また、沖島資料館には、「織田信長や羽柴秀吉の安堵状・感謝状」が大切に保存されおり、入館料(閉館していれば、沖島コミセンにお願すれば開錠して頂ける)が必要だが拝見できる。

沖島資料館の古文書

 



最高所の曲輪から約15分ほども登ると尾山山頂につく。山頂は雑木が刈り取られ、対岸の安土山や観音寺城のある繖山など、琵琶湖に浮かぶ島ならではの景色が楽しめる。

CIMG8837.JPG伊崎半島が綺麗に見えます。
繖山(観音寺城址)・安土山(安土城址)・箕作山(小脇城址)・・・遠望に鈴鹿山脈も!

近江八幡の城

 近江の国は、古より人々や物資の往来が盛んで様々なものが行き交いました。近江の国を舞台にした戦いが数多くあることを示すものとして「近江を制するものは天下を制する」という言葉も残されています。
戦に欠かす事の出来ない「城」は、滋賀県内に1300を越える数に及びます。この数は、都道府県別では全国で4番目の多さで、分布密度で見れば全国で最も高くなります。
 近江八幡市が属する東近江地域は鎌倉時代より活躍した近江守護の佐々木氏やその家臣が築いた城が多く、その築城技術の高さは一見の価値があります。今回はその中から代表的なお城を紹介いたします。

織田 信長   豊臣 秀次
▲織田 信長 ▲豊臣 秀次

近江八幡の城マップ

 
近江八幡市内の主な城跡
1八幡山城宮内町 12久郷屋敷西宿町 23馬渕城 馬渕町
2浅小井城浅小井町 13倉橋部城 倉橋部町 24牧村城牧町
3宇津呂館 中村町 14小森城中小森町 25円山城円山町
4岡山城(水茎館)牧町 15金剛寺城(金田館)金剛寺町 26安土城下豊浦
5沖島尾山城沖島町 16田中江城 田中江町 27観音寺城(佐々木城)石寺、宮津
6沖島頭山城沖島町 17谷氏館(友定城) 友定町 28香庄館香庄
7沖島坊谷城沖島町 18 長光寺(瓶割城)長光寺町 29金剛寺城 慈恩寺
8長田城長田町 19西宿城 西宿町 30常楽寺城(木村城)常楽寺
9小田城(高畠氏館)小田町 20野村城野村町 31平井館下豊浦
10北津田城北津田町 21船木城 船木町  
11北之庄城北之庄 22本郷城(久里城) 金剛寺町  

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、近江八幡の城

       今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました!!


沖島尾山城   近江国(近江八幡)

2013年04月26日 | 平山城

  滋賀県中世城郭分布調査 4 旧蒲生・神崎郡の城

お城のデータ

所在地:近江八幡市沖島町 map:http://yahoo.jp/IGWHjP

現 状:山林

区 分:平山城

築城期:室町期

築城者:島民

遺 構:削平地・土塁・見張り台

標 高:130m  比高差:75m

目標地:堀切新港より定期船で沖島港へ・沖島小学校

駐車場:堀切新港の周辺空き地に路上駐車(桟橋周辺は沖島住民の駐車場で駐車禁止)

訪城日:2013.4.19

お城の概要

 沖島尾山城は沖島港の北、ケンケン山と呼ばれる山の中腹に築かれており、沖島コミセンから幅1mほどの道がつけられている。登り始めると、すぐに斜面につくられた狭いスペースを利用した墓地が続く。これら墓地は尾山城の小曲輪を利用しているようだ。また、沖島小学校の東側から登り、ケンケン山から西に下ると遺構が明瞭に確認できる。

 山林に入ると左右に階段状の曲輪が延々と続く。一説によれば、曲輪の数は400以上あるという。曲輪数を数えたかは不明だが、無数に削平地残るが、畑地・田地として後世で利用してようだ。
 山頂に近づくと尾根は平坦になり、階段状の曲輪はなくなる。どうやら曲輪をつくることが目的ではなく、沖島頭山城と同様に島の傾斜地を利用して切岸に。尾根道は沖島の尾山のハイキングコースで、ササユリやコイワカガミ・シュンラン・ヤマザクラ・郁子(むべ)等四季折々の山野草も、・・島から景色を楽しめる。

また、標高220mの尾山山頂から坊谷城を経て沖島海水浴場や沖島小学校へ下山することができる。

旧沖島小の背後付近の石積み

お城の概要

 沖島尾山城は、築城時期や目的など詳細は判っていない。縄張の手法も鎌倉期から戦国期まで中世全域でみられるものである。
沖島は、沖合から縄文土器や和同開珎が発見され、古くから人々の往来はあったようだが、本格的に人が住むようになったのは、保元・平治の乱(1156-1159)による源氏の落武者7人が山裾を切り開き漁業を生業とし居住したことに始まると言われ、彼ら(南源吾秀元、小川光成、西居清観入道、北兵部、久田源之丞、中村磐徳、茶谷重右衛門)が現在の島民の祖先とされている。
南北朝期には南朝方が越前と新田義貞軍の中継基地として頭山一帯に城を構えたとされ、室町8代将軍足利義政は湯谷ヶ谷(番所山)に島民に湖上を行き交う船の監視と取締りを命じたとされる。
また応仁2年(1468)には比叡山延暦寺に敗れた堅田衆4千人が、約2年間沖島に避難生活をしたとされる。
戦国時代に入っても関所が設置され、琵琶湖水運の重要拠点として機能した。当初は近江守護六角氏の影響下にあったが、後に本願寺系自治区堅田の保護を受け、更に織田信長の近江平定に従って関所の存続が許され、少なくとも豊臣政権下の天正13年(1585)頃までは存在していた。そんな背景の中、沖島は戦乱の世に重用され続けた。

  尾山麓にある浄土真宗本願寺派の西福寺は保元・平治の乱(1159)の際、近江源氏の落ち武者である七氏の一人、茶谷重右衛門なる者の末裔が本願寺第八世蓮如上人に帰依し、庵を建てたのが開基とされ、尾山城もこうした近江源氏の落ち武者との関連が示唆されるが、詳細は不明。 

近江八幡の城

 近江の国は、古より人々や物資の往来が盛んで様々なものが行き交いました。近江の国を舞台にした戦いが数多くあることを示すものとして「近江を制するものは天下を制する」という言葉も残されています。
戦に欠かす事の出来ない「城」は、滋賀県内に1300を越える数に及びます。この数は、都道府県別では全国で4番目の多さで、分布密度で見れば全国で最も高くなります。
 近江八幡市が属する東近江地域は鎌倉時代より活躍した近江守護の佐々木氏やその家臣が築いた城が多く、その築城技術の高さは一見の価値があります。今回はその中から代表的なお城を紹介いたします

 

織田 信長織田 信長豊臣 秀次豊臣 秀次

沖島資料館の古文書

 

近江八幡の城マップ 

 

近江八幡市内の主な城跡

1八幡山城宮内町 12久郷屋敷西宿町 23馬渕城 馬渕町
2浅小井城浅小井町 13倉橋部城 倉橋部町 24牧村城牧町
3宇津呂館 中村町 14小森城中小森町 25円山城円山町
4岡山城(水茎館)牧町 15金剛寺城(金田館)金剛寺町 26安土城下豊浦
5沖島尾山城沖島町 16田中江城 田中江町 27観音寺城(佐々木城)石寺、宮津
6沖島頭山城沖島町 17谷氏館(友定城) 友定町 28香庄館香庄
7沖島坊谷城沖島町 18 長光寺(瓶割城)長光寺町 29金剛寺城 慈恩寺
8長田城長田町 19西宿城 西宿町 30常楽寺城(木村城)常楽寺
9小田城(高畠氏館)小田町 20野村城野村町 31平井館下豊浦
10北津田城北津田町 21船木城 船木町  
11北之庄城北之庄 22本郷城(久里城) 金剛寺町

 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、近江八幡の城

  今日も問して頂きまして、ありがとうございました


秋葉城   近江国(余呉)

2013年04月26日 | 山城

お城のデータ

所在地:長浜市(旧伊香郡)余呉町文室  map:http://yahoo.jp/v0n75j

現 状:山林

区 分:山城

築城期:織豊期

築城者:

遺 構:曲廓・堀切・土橋・

標 高:413m  比高差:196m 文室:217m

目標地:秋葉神社跡・権現坂

駐車場:権現坂近くの林道に路上駐車

訪城日:2015.4.25

お城の概要

 権現坂/秋葉超えの北にすぐ。賤ヶ岳の合戦に向け、作事・築城には遺構は立派な造作がされいる。

賤ヶ岳の合戦以前に、土豪が築城し、権現坂・秋葉超えの往来を監視・管理をしていたか?

お城の歴史

賤ヶ岳の合戦で前田軍・佐久間軍の軍道として、秋葉城の北側を利用していたようだが。詳細不明。

 

『余呉町秋葉城』城郭遺構の再踏査図

                               

余呉・文室へ

  深山イカリソウ

林道脇の旧秋葉神社跡  

 

文室集落に下山 鳥居扁額

 集落内の北野神社 

境内社の足前神社に関して。

かつて、余呉湖の西に足坂という坂があり、権現神が祀られていたという。
足坂は、足前の変化であると考え、式内社・足前神社の古跡であるという。
そこに祀られていた蔵王権現の石像を北野神社境内へ移して祀ったものが、この足前神社。

    

    

参考資料:城郭フォーラムレジュメ・余呉観光協会・賤ヶ岳合戦記・ウィキペディア

  本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


丁野山城 近江国(湖北)

2013年04月24日 | 戦国山城

滋賀県城郭分布調査より『東浅井郡志』(丁野山古砦図)を転載

 お城のデータ

 住所地:長浜市(旧・東浅井郡湖北町)小谷丁野町 map:http://yahoo.jp/bbxo8lこの地図のURL

 区 分:山城

 現 状:山林

 築城期:織豊期

 築城者:浅井備前守亮政

 標 高:170m 比高:60m 

 遺 構:曲廓・土塁・堀・堀切・竪堀・説明板

 駐車場:駐車場(日本硝子独身寮の)に!

訪城日:2016.2.20

お城の概要

丁野は小谷城浅井氏の発祥の地と言われています。丁野山城も永正十五年(1518年)に浅井備前守亮政によって築城とされます。天正元年(1573年)の織田信長の小谷城攻略時に、ここには浅井氏を加勢に来た越前朝倉氏が立て籠もりましたが、織田勢に攻められ落城しました。 <現地案内板より>

この山は低い山で丁野山城まででも比高は60m程度。5分で尾根の鞍部に出て、右側のピークが中島城(80m先)、左のピークが丁野山城(330m先)です。 ここは2006年大河ドラマの功名ケ辻のおかげで、二つの城跡ともに周囲の木々が伐採され、大変見学しやすくなっています。おまけに時期的に下草も無くなおいい感じでした。城址は岡山山頂にあり、大嶽城を小型にした印象です。主郭は20m四方ほどで主郭周囲に 堀が巡り、南北双方に副郭のピークとその先に堀切、それに続く竪堀がある。

丁野山城は主曲輪を中心として南側と北側に袖曲輪といった連郭式の曲輪配置で、主曲輪は約30m×25mで曲輪の周囲は横堀を巡らし、南側尾根と北側尾根には堀切を配している。

 北側の曲輪からは北国脇往還道を挟んで小谷山は目前で、小谷城の支城として築城されたことが容易に推定できる。

丁野から、丁野城を見上げる

お城の歴史

 丁野山城は永正15年に浅井亮政が小谷城の西、北国脇往還道を挟んだ岡山の山頂付近に築いた城で、天正元年(1573)には浅井長政が岡山の東尾根に中島城を築き、丁野山城の支城とした。

信長公記 巻六 元亀四年

12、追撃  大筒・丁野攻破らるるの事

 信長公に通じた浅見対馬は、8月12日みずからが守る大嶽下の焼尾へ信長公の人数を引き入れた。その夜はことのほか風雨が激しかったが、信長公は虎御前山の本陣に嫡男信忠殿を残し、みずから馬廻を率いて大雨の中をずぶ濡れになりながら大嶽へ攻め上がった。大嶽には斎藤・小林・西方院らの越前衆五百ばかりが番手として籠っていたが、信長公直々の攻撃の前にたまらず降伏した。

 降伏した越前兵は、すべて討ち果たされて当然のところであった。しかし夜の闇に加えて折からの風雨が敵方の視界をさえぎり、当の朝倉義景がこの大嶽陥落を気付いていないおそれがあった。そこで信長公は降兵たちの命を助けて朝倉本陣へ向かわせ、彼らに大嶽が落去してもはや戦勢を支えがたくなった事実を知らせさせた。このとき信長公は、このまま一挙に朝倉義景の陣所を抜く考えを固めていた。

 信長公は大嶽に塚本小大膳・不破光治・同直光・丸毛長照・同兼利らを置くと、すぐさま丁野山(湖北町小谷丁野)の攻撃にかかった。ここには越前平泉寺の玉泉坊が籠っていたが、これもまたたく間に降伏して退散した。

 大嶽・丁野の要害が落ちた今、信長公は朝倉勢が今夜のうちにも越前へ退却を始めると読んだ。そして先手の諸将へその旨を伝え、敵勢退却のときを逃さぬよう覚悟せよと再三にわたって命じた。しかしそれでも信長公は焦りと苛立ちを抑えきれず、13日夜ついにみずから先駈けをして越前衆陣所へ攻め入った。

 このとき先手として越前勢に近く布陣していたのは、佐久間信盛・柴田勝家・滝川一益・蜂屋頼隆・羽柴秀吉・丹羽長秀・氏家直通・安藤守就・稲葉一鉄・稲葉貞通・稲葉典通・蒲生賢秀・蒲生氏郷・永原筑前・進藤山城守・永田刑部少輔・多賀新左衛門・弓徳左近・阿閉貞征・阿閉孫五郎・山岡景隆・山岡景宗・山岡景猶ら歴々の諸将であったが、信長公よりの度々の下命にもかかわらず油断しきっていた。そこへ信長公先駈けの報が伝わってきたため、彼らはあわててその後を追った。そして地蔵山①でようやく信長公に追いつき、神妙な顔で御前に並んだ。信長公は「数度も申し含めたにもかかわらず懈怠するとは、なんたる曲事か。この比興者どもめが」と彼らを激しく叱責した。

 

 「朝倉始末記の越州軍記 義景地蔵山へ陣替之事」に丁野山の記述がある。

 元亀四年八月十日ニ、「信長殿大ヅクノ城・丁野ノ城ヲ可被攻」ノ由ゾ聞ヘケル。依之、義景ヤナガセヨリ地蔵山ヘ着陣アリ。其時ノ大ヅクノ番手ノ衆ニハ、小林・斉藤民部丞巳下、纔ニ(わずかに)四、五百計ナリ。
丁野ノ城ノ番手ニハ平泉寺玉泉坊・宝光院以下是五百計ニ過ザリケリ」

 朝倉義景が着陣した地蔵山というのは木之元地蔵(浄信寺)と推定され、丁野山に籠もっていた平泉寺玉泉坊とは福井県勝山市平泉寺の波多野玉泉坊である。

 朝倉始末記の記述から、元亀4年当時、丁野山城には浅井氏を支援する朝倉氏の軍勢が立て籠もっていたことが判るが、朝倉氏の本城である一乗谷城、およびその周辺の城にも横堀は使われておらず、おそらくは天正11年の賤ヶ岳の戦いにおいて秀吉軍が北国脇往還道(現国道265号線)の監視、押さえのために、小谷山の支尾根の山崎丸、福寿丸と共にこの丁野山城を改修したものと考えられる。

 

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。

 


市子殿(いちごどの)城 近江国】2013.4.24

2013年04月24日 | 平城

市子殿城は市子殿の信号北にある円光寺一帯とされ、円光寺の裏手、あるいは西の竹藪の中に土塁が残る。


 滋賀県中世城郭分布調査報告書によると、「市子殿の集落内には雨宮の北側に「奥の藪」と呼ばれる藪があり、一部に土塁状の土盛りもみられる」とあるが、「奥の藪」とは円光寺の山門正面の竹藪カ!

市子殿城の詳細については不明であるが、「近江輿地志略」には、武藤与助家明は市子庄の出と記されている。

公民館前に

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。