城郭探訪

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川守城(野寺城)の城主・・・・弓道 日置吉田流弓術

2012年06月29日 | 番外編

 

近代弓道の礎となった優れた技術、そして高い精神性

日置吉田流弓術(へきよしだりゅうきゅうじゅつ)

 

日置弾正、吉田重賢へ伝授の図(生 弓斎文庫蔵)
弓道と竜王町…一見何のむすびつきもないように思われます。

しかし日本の弓道史において大変重要な意味をもつ人物を多く輩出し、近代弓術確立の舞台となったのが、ここ滋賀県蒲生郡竜王の地なのです。

弓道は、諸武道奨励の気運が高まった明治半ばまで、「弓術」と呼ばれていましたが、その弓術の歴史をたどりながら、あまり知られていない町の横顔にふれてみましょう。

室町中期までの弓術は、武田・小笠原流などの「古流」といわれる流儀が主流でした。
これは技そのものよりも、弓馬諸式の儀礼的故実様式として大成されたものです。

しかし戦乱の世となり、もっと実戦的な威力を示す弓術の必要性を感じ、新しい射術の改良工夫を行ったのが日置弾正正次(へきだんじょうまさつぐ)でした。彼は愛田村(現在の三重県伊賀町)生まれと言われ、若いころから弓術に秀で、数々の勇名を馳せています。

彼は弓術を極めるために諸国を遊歴し、苦労の末、飛・貫・中の奥義を身につけ、彼独自の新射術を開発しました。彼は近江の六角佐々木氏に従い、その新しい弓術で大いに奮戦したと伝えられています。日置弾正については架空の人物との説もあります。

さて、近江の國、蒲生郡河森・川守城(野寺城)(現在の滋賀県竜王町川守)の城主であった吉田氏は、近江源氏・六角佐々木氏に仕え、代々弓馬の武功に名高い一族でした。

その十一代目の吉田出雲守重賢(よしだいずものかみしげかた)(将軍足利義晴弓術指南役)について、次のような伝説が残っています。

それは、吉田重賢が生まれる前のこと。
彼の母親は、彼が生まれるとき、三日月が自分の胸に入っていく夢を見ました。
三日月の形からの暗示でしょうか。

彼女は「この子はきっと弓道の名誉を得るに違いない」と確信し、重賢の弓術修行にたいへん熱心でした。
母親の思ったとおり、彼は年若いうちから才能を発揮し、その技は妙域に達したそうです。

やがて彼が壮年になって、吉田八幡宮に参籠したときのこと、満願の暁に白髪の老人から一本の矢を与えられる夢を見ます。
不思議に思いつつもさらに修行を積んでいると、その翌年、齢五十余りの老人が突然現れ、重賢に弓術の奥義をことごとく伝授しました。

この老人が日置弾正(へきだんじょう) であることは言うまでもありません。
こうして重賢と、その嫡子の重政(しげまさ)は、七年の間彼のもとで日夜親しく従学しました。
重賢は、その教えに自分なりの工夫を加え、ついに「日置吉田流」(へきよしだりゅう)「日置流」を完成させます。

この流儀は「新派」と呼ばれ、以後近代弓術の基礎として多くの弓の名手を輩出し発展していきます。

日置弾正架空説は、「吉田流」を編み出した本来の元祖である吉田重賢が、日置弾正正次なる人物を自分の上に創造し、弓術の全ての奥義を伝授したとすることにより「日置流」流儀の重み付けを図ったと言う説もあります。

この「日置吉田流弓術」「日置流」は、血統による一子相伝もしくは唯授一人の精神を貫くことを基本としていました。

しかしそのためにひとつの紛争が起きました。
重賢の子、重政は父とともに将軍足利義晴(あしかがよしはる)の弓の師範を務めるなどすばらしい腕の持ち主でした。

この吉田重政の門人で、主家の佐々木義賢(ささきよしたか)は、どうしてもその秘伝を伝授してほしいと重政に迫りました。

しかし重政は、いくら主家であっても、他家へ渡すことはできないと、一子相伝の掟を守り、それを許さなかったため、二人の間には不和が生じ、一時吉田重政は越前一条谷に引きこもってしまいました。
結局数年後、朝倉義景(あさくらよしかげ)のとりなしにより、二人は養子縁組を結び、佐々木義賢は日置吉田流の奥義一切を受け継ぎます。

その後、佐々木義賢(よしたか)は逆に吉田重政の息子の重高を自分の養子として秘伝を返したと伝えられています。

この紛争がもたらしたものは、同流派の分立化です。
吉田重政から佐々木義賢、そして吉田重高 へという流れは、いわゆる出雲派と呼ばれ、その後重綱(しげつな)=豊隆(とよたか)=豊綱(とよつな)=豊覚(とよかく)…と続き、阿部藩の庇護を受けて明治維新まで発展します。

これに対して、佐々木義賢と、吉田重政の対立を憂い、吉田流弓術の危機を感じた吉田重賢が、重政の四男で孫に当たる重勝(しげかつ)「雪荷」(せっか)に直接真伝を伝授したことから、本流とは違った別の流派が生まれました。
これを雪荷派と呼び、吉田流の技術的な要素は雪荷派に多く伝えられているとも言われています。

重勝は諸国を周遊して弓術修行に励み、その門人は数百人にものぼりました。
蒲生氏郷(がもううじさと)・秀郷親子(ひでさとおやこ)、森刑部(もりぎょうぶ)、羽柴秀長(はしばひでなが)、豊臣秀次(とよとみひでつぐ)、細川幽斎(ほそかわゆうさい)などが高弟として有名です。
その後、この二つの流派からさらに分立が進み、総じて日置六派もしく七派と呼ばれるようになりました。

吉田重高の嫡子重綱の娘婿・吉田源八郎重氏(旧姓:葛巻)は、一水軒印西と言い日置流印西派(日置當流)の祖として後世に名を残します。
「日置流印西派」は徳川将軍家弓道指南役にもなり「日置當流」と言われる様になりました。

大和日置流(吉田流)
    ├出雲派----------寿徳派
    |  |       └ 印西派(いんさいは)
    |  ├山科派
    |  ├左近右衛門派---大蔵派---山科派
    |  └大心派
    └雪荷派(せっかは)(日置當流)----道雪派

本流はどこなのかという点については諸説がありますが、いずれにしても吉田家という一族が、何代にもわたり弓道で名を挙げたことは事実であり、たいへん希有なことだといえるでしょう。

1543年ポルトガル人により伝えられた鉄砲は、日本の戦術に大きな変化をもたらしました。特に織田信長による鉄砲戦術以降、武器としての弓や矢の役割は衰退していきます。
しかし武士が指導力を持っていた江戸時代には、弓は士気鼓舞のための武士教育に用いられるようになりました。

そして個人的な弓の技術を確認するだけでなく、武士の力を民衆に誇示するため、京や江戸で三十三間堂の通し矢が盛んになりました。
中でも出雲派の流れをくむ大蔵派の創始者、吉田茂氏(しげうじ)は、前後七回にわたってその技を試み、次々に自己の記録を更新し、天下一の名声を独占しました。

明治維新以後弓術は、西洋文化を重んじる気風に押されて一時衰退の色を見せましたが、現在では、学校体育にまで取り入れられ、男性のみならず、女性にも愛弓者が増えつつあります。
現代の弓道は、ただ目標に射当てるだけでなく、何事にも動揺することのない精神性を身につけるスポーツ弓道ですが、その根幹にあるのは、日置吉田流という大きな流れです。

現在の雪野山付近(滋賀県蒲生郡竜王町川守)は、代々の弓の名手たちにまつわる遺跡が多く残っています。
このあたり一帯は川守城址(吉田城址)であり、川守には「吉田出雲守重賢居宅跡」(よしだいづものかみしげたかきょたくあと)」と江戸時代の文献に記された小祠城八幡があります。

また東南に位置する葛巻(かずらまき)は、吉田重高の嫡子重綱の娘婿・吉田源八郎重氏(旧姓:葛巻)徳川将軍家弓道指南役・日置流印西派(日置當流)の流祖・一水軒印西輩出の地であると伝えられています。

南の宮川は、重賢の隠れ場所のあったところで、雪荷派(せっか)の祖吉田重勝が二十五、六歳のころ祖父に秘伝を教えられた地であるとも言われています。

弓に関する地名では「弓削」(ゆげ)と言う字が竜王町には残っています。

竜王町七里の石部神社「弓始め神事」と「弓納め神事」また、弓道発祥の地であることが伺える行事に、竜王町七里の石部神社の「弓始め神事」と「弓納め神事」が今も残っています。

このように滋賀県竜王町と弓道は深い結びつきがあることをおわかりいただけたかと思います。

弓道をされる方は是非竜王町にお越し頂き、かつて弓の道を極めた男たちのロマンを静かに感じ取っていただいてはいかがでしょうか。


お問合せ・担当課 竜王町観光協会 0748-58-3715

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%BD%AE%E6%B5%81


鏡(かがみ)の里周辺の見どころ

2012年06月29日 | 番外編
鏡の宿 義経元服ものがたり
義経元服の地 鏡(かがみ)の里周辺の見どころ
古今和歌集にも詠われた
鏡山(かがみやま)と雲冠寺(うんかんじ)跡

歴史に知られている鏡山は、古今集にも数多くの歌人たちが詠ったように風光の秀麗と史跡が豊富であります。
山頂近くには聖徳太子26歳の時(600)に自ら観音像を彫られ創建された雲冠寺(うんかんじ)跡があります。
嵯峨天皇(809~823)の時、伝教大師(最澄)(767~822)に勅旨が下り再建。往時(おうじ)は、堂塔僧坊五堂、精舎千坊(1000坊)が立ち並び朝夕には梵鐘(ぼんしょう)が響き全山にこだまして、さながら釈尊(しゃくそん)の祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)を偲ばせたといわれます。
雨の神・水の神ともいわれる八大竜王の一つ摩耶斯竜神(まなしりゅうじん)が竜王宮としてまつられ霊山、竜王山としても有名です。
詩興(しきょう)豊かなこの秀峯は和歌、俳句、漢詩に百余首と幾多墨客(ぼっかく)の歌枕となり近江の名山に数えられた歴史と文化の里山です。
鏡山
鏡山 君に心や うつるらむ
 いそぎたたれぬ 旅衣かな
         藤原定家(ふじわらのていか)
      かがみ山 老いぬるかげを はづかしみ
         たれこめてはが 行くと見るらん
               本居宣長(もとおりのりなが)
吾妹子(わぎもこ)が
 鏡(かがみ)の山のもみぢ葉の
  うつるときにぞ 物はかなしき
   大伴家持(おおとものやかもち)
ほととぎす 鳴くやちらりと 鏡山
       各務支考(かがみしこう)
鏡山 いざ立ち寄りて 見てゆかむ
 年経ぬる身は 老いやしぬると
     大友黒主(おおとものくろぬし)
伝教大師(最澄)建立の西光寺跡にそっとたたずむ他に類をみない逸品 重要文化財指定
西光寺(さいこうじ)跡の宝篋印塔(ほうきょういんとう)
宝篋印塔(ほうきょういんとう)
西光寺は、伝教大師(最澄)(767~822)が夢の御告げにより鏡山十二峰の一つ星ケ峰の麓に(818)建立しました。嵯峨天皇(809~823)の勅願所(ちょくがんしょ)で、増坊(そうぼう)三百坊といわれていました。足利尊氏(あしかがたかうじ)が、元弘(げんこう)3年4月20日(1334)、後醍醐(ごだいご)天皇に帰順(きじゅん)を表明した所でもあります。よって、その後の足利尊氏があったといわれています。
源頼朝(みなもとのよりとも)も往還の時、西光寺でしばし宿泊をしています。
康平(こうへい)2年(1060)の乱で一山焼亡し中興(ちゅうこう)されましたが、信長の兵火(1571)で廃寺となります。
その名残をとどめているのがこの宝篋印塔(ほうきょういんとう)で、記念宝塔として昭和35年2月に国の重要文化財に指定されました。塔の高さ210cmの堂々としたもので笠石の下の塔身の周囲は180cmです。2段の基壇を築き、その上に孔雀の向かい合っている格挟間を彫った基礎を置き塔身、笠、相輪を積み重ねています。また、石の角に梟(ふくろう)の彫刻は、あまり例のない塔であるといわれています。
(鳥形の塔身は、宝篋印塔の源流といわれる中国の金塗塔の伝統を示すといわれているもので、その意味でも、この宝篋印塔は大変貴重なものなのです。)
大正三年、東京帝室博物館(国立博物館の前身)の高橋健自(たかはしけんじ)氏に「他に類をみない逸品である」「この塔を見ずして他の宝篋印塔を語るなかれ」といわしめた立派なものなのです。鎌倉時代後期1300年頃の作。

宝篋印塔を拡大して見る→
珍しい背の高い灯籠 重要文化財指定
八柱神社(やばしらじんじゃ)跡の石灯籠(いしどうろう)
石灯籠 この石灯籠は、西光寺の鎮守八柱神社の社宝で高さ2.8mあり裏面に
「応永(おうえい)28年8月8日(1422)願主敬白」の刻銘があり、室町時代初期の作とされます。
願主は不明。
当時の様式の多くは、丸柱の中央に周帯を有するものですが、八角柱は珍しく笠を持ち火袋には四仏が彫られていて優美な意匠を凝らしたもので特に珍重される背の高い灯籠です。重要文化財指定。
足の病に草鞋(わらじ)をお供え
仁王尊(におうそん)
仁王尊 西光寺跡地のお堂に祀(まつ)られている石の仁王尊で、そのうちの一体は、昔、山崩れの際に地下に埋没されたといわれています。
毎年7月1日の千日会(せんにちえ)には、足の病を癒してくださると言い伝えがあり、この日には草鞋(わらじ)をお供えする風習があって平癒(へいゆ)を願う参拝者が今も絶えません。
大正天皇が立たれた
御幸山(みゆきやま)
御幸山(みゆきやま)
鏡神社の東側より細道を登ると古松がたくさん生えている所へ出ます。左右に古松を見ながら坂道を登る途中に「御野立(のだち)所」・「御幸山」と書かれた石碑が目につく丘の上に出ます。
ここが御幸山(みゆきやま)で、以前は宮山(みややま)と呼ばれましたが大正6年11月14日に近江湖東の地で陸軍の特別大演習が行われた時、大正天皇が、この宮山から大演習を統監(とうかん)されました。
当時の滋賀県知事が、この宮山を「御幸山」と命名し今日にいたってます。
天日槍(あめのひぼこ)を祀る重要文化財 義経も参拝した
鏡神社(かがみじんじゃ)
鏡神社
この神社の主祭神は、新羅(しらぎ)国の王子、天日槍(あめのひぼこ)で、相殿神が天津彦根命(あまつひこねのみこと)及び、天目一箇神(あめのひとつのかみ)が奉斉されています。
天日槍は、この鏡の地で陶器に適した土をみつけ従人達を、この地に留め、新羅の優れた製陶技術を伝え広めたと日本書紀に記述されています。
本殿は、南北朝時代の建築で国の重要文化財となっています。
鏡神社の御利益(ごりやく)は→
源頼朝・北条政子・足利尊氏も宿泊、紀伊徳川家の定宿、和宮様もご休憩された
中山道 本陣跡(ほんじんあと)
本陣跡
大和・奈良・平安・鎌倉・室町時代にかけ東山道(とうさんどう)の駅(うまや)として鏡は宿場として指名されていましたが、江戸時代(中山道になってから)は、宿駅から外されてしまい守山宿と武佐宿の間(はざま)の宿となりました。しかし、本陣、脇本陣が置かれ、特に紀州候(紀伊の徳川家)の定宿(じょうやど)で、皇族、将軍家の御名代(ごみょうだい)、お茶壷道中(おちゃつぼどうちゅう)をはじめ、多くの武士や旅人の休憩、泊の宿場でした。
和宮様の御降嫁の折も、この本陣でしばらく休まれていることが記録に残っています。
また、守山宿と武佐宿、それに石部宿(東海道)の助郷(すけごう)の役目も仰せつかっています。
このように宿場の指名からはずされながらも鏡は宿場町としての賑わいをみせていたため、間の宿なのに旅人を泊めていると、守山宿や武佐宿から道中奉行への申立があったということも記録に残っています。
鏡王(かがみのおお)を葬る
真照寺(しんしょうじ)
真照寺 日本書紀には、鏡王(かがみのおお)の娘、額田王(ぬかたのおおきみ)と記されていることから、社伝をみると鏡王は鏡神社の神官で、その娘、鏡王女(かがみのおおきみ)や額田王は、この神官家で育てられました。
万葉の有名な女流歌人、額田王は、この地の出身といえます。
父の鏡王は、後の壬申(じんしん)の乱(672)の時、大海人皇子(おうあまのおうじ)後の天武天皇側につき戦死し、この真照寺に葬られています。
6~7世紀ころのもの
広谷池古墳(ひろたにいけこふん)
広谷池古墳
この地域は山ろくの至る所に古墳がみられ、6~7世紀ころのものです。古代には豪族等が群居していたことがわかるますが、残念なことにほとんどが破壊されていて2~3程度が現存している中の一つです。
鏡山から舌状(ぜつじょう)に延びてきている丘陵先端部に位置するところで、大きさは約4mの円墳で横穴式石室、両袖式の南に開口し全長約5.5mとなっています。
時期や出土遺物は残念ながら不明です。
湖国百選の一つ
星ヶ崎城址(ほしがさきじょうし)
星ケ埼城址 星ヶ埼城(ほしがさきじょう)は、鏡氏の居城で、佐々木定重(ささきさだしげ)を祖としてその子久綱(ひさつな)の居城でした。
観音正寺(かんのんしょうじ)の城の出城とか砦(とりで)ともいわれているもので、今は昔を偲ぶ石垣が西側に残るのと、わずかに礎石らしきものが目につきます。
眼下には軍事上の要所として城があったこともうなずける湖国百選の一つに選ばれています。
古道から東山道(とうさんどう)-中山道-国道8号今も続く
街道と鏡の里(かいどうとかがみのさと)
街道と鏡の里
旧義経街道と呼ばれた東山道(とうさんどう)86の駅(うまや)のひとつ「鏡」(かがみ)の宿場は、大和・奈良・平安・鎌倉・室町時代にかけて大変栄えておりました。
589年継体(けいたい)天皇が近江臣満(おうみのおみみつ)を東山道(とうさんどう)に遣わして蝦夷の国境を観させた(日本書紀)時、この街道を通ったと言われています。それ以前にはすでに道が拓かれており、多くの人が行き来していたことを伺うことができます。(古道)
江戸時代に入り、中山道(なかせんどう)となってからは、宿駅から外され守山と武佐宿の間(はざま)の宿となりました。
今、この鏡の街道の往事を偲ぶ面影は残っていませんが、只、本陣はじめ旅籠であったと言われる屋号の家が残っています。
それが、西から、桃花屋、加賀屋、
白木屋、樽屋、吉野屋、吉田屋、大黒屋、京屋、亀屋、その外商家、旅籠の区別がつかないものに河内屋、新屋、二階堂、玉屋、虎屋があり、商家と思われるのに壷屋、足袋屋等です。
古道から東山道-中山道-国道8号線と呼び名は変わってきましたが、今尚連綿と続いている街道。鏡は街道によって拓かれた里で、ここを往還する人は、それぞれ夢を描きながら通り、人々によって歴史がつくられ文化が生まれ守られてきたといえます。
鏡の里名所探訪MAP>> 鏡の里名所探訪MAP
義経元服の地 鏡(かがみ)の里周辺の見どころ http://www.town.ryuoh.shiga.jp/yoshitune/kagami.html

鏡の宿 義経元服ものがたり

2012年06月29日 | 番外編
  鏡の宿 義経元服ものがたり 滋賀県竜王町観光協会
  鏡の宿 義経元服ものがたり
源義経 元服の地
東山道 鏡の宿(とうさんどう かがみのしゅく)
 源義経(みなもとのよしつね)元服の地、いにしえの馨りを感じさせてくれる滋賀県竜王町「鏡の里」にようこそおこしくださいました。
鏡の里は、旧義経街道といわれた「東山道」(とうさんどう)八十六の駅(うまや)のひとつ「鏡の宿」に位置し、古来より多くの旅人たちの休、泊の宿場でありました。
平安後期、平治の乱で源氏が敗れ、平氏が台頭、世はまさに平家一門の栄華を極めた時代でございました。
しかし、密かに平家の滅亡を夢み、京の鞍馬でただひたすら剣術の稽古に励む少年がおりました。
その名は遮那王、幼名を牛若丸と申します。
機熟し、奥州下向の途中ここ「鏡の宿」にて烏帽子を着け、ただひとりで元服したと言われております。
今もこの地には「元服池」や、元服の時に使った盥(たらい)の底、烏帽子を掛けたとされる「烏帽子掛松」などが残っております。
 
鏡の宿 義経元服ものがたり
義経元服のいわれ
それではこれより源義経(みなもとのよしつね)のお話をいたしましょう。
義経は、幼名を牛若丸と言い、源氏の総領である源義朝(みなもとのよしとも)の九男として生まれました。母は、義朝の愛妾で九条院の雑仕(ぞうし)であった常盤御前(ときわごぜん)でございます。
父義朝が平治の乱(1159年12月)で平清盛(たいらのきよもり)に敗れた際、母常磐(ときわ)は、今若、乙若、牛若の三人の子を連れ吉野に逃れました。ところが、清盛に母親を質に取られてしまい、母親と子供の命乞いのため清盛の妾の一人となるのでございます。
その後、常盤は清盛との間に女の子をもうけた後、さらに一条の大蔵卿藤原長成(おおくらきょうふじわらながなり)に嫁ぎ男子を産んでおります。
牛若丸は京の鞍馬寺に預けられますが、継父の大蔵卿藤原長成が義経の鞍馬での扶持(ふじ)を負担いたします。
母常磐と継父長成、鞍馬の阿闍梨(あじゃり)も牛若に僧になることをすすめますが自分が源氏の嫡流(ちゃくりゅう)と知り、兵法書「六韜三略(りくとうさんりゃく)」を読み剣術の修行に励むのでございました。


承安(じょうあん)4年3月3日(1174)の暁(あかつき)のこと、京の鞍馬寺で「遮那(しゃな)王」と名乗っておりました牛若は、金売り商人吉次(きちじ)と下総(しもうさ)の深栖(ふかす)の三郎光重が子、陵助頼重(みささぎのすけよりしげ)を同伴して奥州の藤原秀衡(ひでひら)の元へ出発いたしました。
なぜ奥州であったかと申しますと、継父藤原長成の従兄弟の藤原基成(もとなり)は後白河法皇(ごしらかわほうおう)の重臣で、奥州藤原秀衡の妻に自分の娘を嫁がせておりました。
この縁で義経は奥州藤原氏と関係を持ったのではないかと考えられております。

「平治物語へいじものがたり」(鎌倉初期の作)では、義経は吉次に「この身を、いかようにせんとも奥州のゆゆしき人(藤原秀衡)のもとに、連れ行かんことを望む」と頼み込んだとございます。

一方「義経記ぎけいき」(室町初期の作)によると、吉次に、遮那王がひそかにわが身分を明かしたところ、吉次から「御曹司が今のままでは、まこと危うし。奥州に下向なさるべし」と熱心に薦められ、鞍馬寺から下ったとございます。

義経記は、平治物語より100年ほど後に創作されたものですから、やはり史実に則っているのは平治物語の方かもしれません。

その夜、近江の「鏡の宿」に入り、時の長者「沢弥傳(さわやでん)」の屋敷に泊まります。長者は駅長(うまやのおさ)とも呼ばれ、弥傳屋敷は宿名を「白木屋」(しらきや)と称しました。

平治物語に「生年十六と申す承安四年三月三日の暁、鞍馬を出でて、東路遙に思い立つ、心の程こそ悲しけれ。その夜鏡の宿に着き、夜更けて後、手づから髪(もとどり)取り上げて、懐(ふところ)より烏帽子取り出し、ひたと打著(うちき)て打出で給えば、陵助(みささぎのすけ)、早や御元服候ひけるや。御名はいかにと問い奉れば、烏帽子親も無ければ、手づから源九郎義経(みなもとのくろうよしつね)とこそ名告(なの)り侍(はべ)れと答えて」とございます。

では、なぜ、ここ鏡の宿で元服をしたのか?と申しますと・・・

鞍馬でただ一途に平家滅亡を心に誓って剣術の稽古に励んでおりました牛若丸は、金売り吉次より奥州の藤原秀衡が会いたがっているという事を聞き機運到来と喜び勇んで鞍馬を後にいたしましたが、鏡の宿に入ってまもなく表で早飛脚の声をよくよく聞けば鞍馬よりの追手か平家の侍たちか、稚児姿(寺院で召し使われた少年の姿)の牛若を探しているではございませんか。
これは我等のことに違いない。このままの姿では取り押さえられてしまいます。
急ぎ髪を切り烏帽子を着けて東男(あずまおとこ)に身を窶(やつ)さねばと元服することを決心するのでございました。

そこで白木屋の近くで烏帽子を折る烏帽子屋五郎大夫(えぼしやごろうたゆう)に源氏の左折れの烏帽子を注文いたします。
左折(ひだりおり)とは烏帽子の頂を左方に折り返して作ることで、源氏は左折を用い、平家は右折のものを用いておりました。しかし今は平家の全盛期で、源氏の左折の烏帽子は御法度(ごはっと)で五郎大夫もためらいますが牛若のたっての願いと、幼い人が用いるものなれば平家よりのお咎(とが)めもあるまいと引き受けるのでございます。

烏帽子の代金に牛若は自分の刀を烏帽子屋に与え白木屋に戻ります。

烏帽子屋五郎大夫は見事な刀を賜ったと喜びますが、その妻は刀を見て涙を流すのでございました。
その刀は古年刀(こねんとう)で源氏重代の刀剣でございました。

実は五郎大夫の妻は、野間の内海(のまのうつみ)にて果てた義朝の家臣鎌田兵衛正清(かまたひょうえまさきよ)の妹(あこやの前)でございました(母は義朝の乳母)。平治の乱に敗れた義朝は鎌田正清と共に、鎌田正清の娘の舅(しゅうと)父子の裏切りで殺害されております。

夫が受け取った刀は、常盤御前(ときわごぜん)が腹より三番目に出生した牛若(義朝の九男)の護り刀(まもりがたな)として左馬頭(さまのかみ《義朝》)が授(さず)けたものでございました。(武家にて男子出生すれば必ず守刀として刀を授ける習慣がありました)その使いを自分がしたのですから確かに見覚えがございました。

「源家繁栄の世にてあらば、牛若君が身をやつして流浪することもなきものを、何とおいたわしいことでしょうか。」
と夫に打ち明けるのでございました。

その事を聞いた烏帽子折は驚嘆落涙(きょうたんらくるい)し刀を妻に渡し、

妻は喜び早速牛若の宿を訪ね、「この刀を御受納ありて」と、護り刀を返し主従の名乗りを挙げるのでございました。牛若も、なんと不思議な縁(えにし)かと喜びました。

あこやの前が帰った後、牛若は、鏡池の石清水(いわしみず)を用いて前髪を落としました。

しかし烏帽子親も無く(通常は二人の烏帽子親が必要)考えたところ源氏の祖先は八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)
、新羅明神(しらぎみょうじん)の前で元服をしたと聞く。義経の四代前の八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)は、京都の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)の神前で元服し、その弟の新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)は、新羅大明神(しらぎだいみょうじん)の神前で元服式をあげたと言われます。
ならば、牛若もそれにならい鞍馬の毘沙門天(びしゃもんてん)と、氏神の八幡神(はちまんじん)を烏帽子親にしようと思い、太刀(たち)を毘沙門天、脇差(わきざし)を八幡神に見立て、自ら元服式を行ったのでございます。

その時牛若丸16歳、鳥帽子名を源九郎義経(みなもとのくろうよしつね)とし、天日槍(あめのひぼこ)新羅大明神(しらぎだいみょうじん)を祀る鏡神社へ参拝し源氏の再興と武運長久を祈願したと伝えられております。


その後、次々と武勇を発揮していく義経は、清盛の子である、平宗盛(たいらのむねもり)父子を捕虜として鎌倉に向かいます。しかし、兄の頼朝は勝手に官位をもらった者は、鎌倉に入ってはならないと命令を出し、義経は仕方なく腰越(こしごえ)から京に引き返します。

その帰路、「鏡の宿」を通り過ぎた篠原(しのはら)地先において、平宗盛(たいらのむねもり)父子を断罪したのでございました。
その地には宗盛の首を洗った「首洗いの池」又の名を「かわず鳴かずの池」があり、胴だけ残されたので宗盛塚も建てられています。ここが平家終焉の地でございます。

義経が元服した「鏡の宿」と「平家終焉の地」は滋賀県のほぼ同じところにあるのでございます。
それはどうしてでしょうか?

義経は、元服後も何度か「鏡の宿」に立ち寄っておりますが、その日は義経自ら元服した「鏡の宿」を血で穢(けが)すのを避けてわざと通り過ぎたと伝えられております。

謡曲「烏帽子折」(えぼしおり)でも、鏡の宿場での元服が表されておりますが、今もこの地には、元服の時に使った盥(たらい)の底と、水を汲み上げた池(元服池)、烏帽子を掛けたとされる松(鏡神社境内にある松)が残っております。
義経の元服池 義経宿泊の館「白木屋」 義経元服の盥(たらい)
義経の「元服池
(げんぷくいけ)
源義経宿泊の館
白木屋」跡
(しらきや)
義経元服の折使用の
盥(たらい)
鏡神社 烏帽子屋五郎大夫屋敷跡 烏帽子掛松
元服の折参拝の
鏡神社
(かがみじんじゃ)
烏帽子屋
五郎大夫の屋敷跡

(えぼしやごろうたゆう)
烏帽子掛松
(えぼしかけまつ)
元服後の義経公を祀る「八幡神社」 とがらい祭り 平家終焉の地
元服後の義経公を祀る
八幡神社
(はちまんじんじゃ)
義経公を偲んで今も残る
とがらい祭り
平家終焉の地
「宗盛塚」(むねもりづか)
「蛙なかずの池」
謡曲「烏帽子折」(えぼしおり)
皆様は「烏帽子折」(えぼしおり)と言う謡曲をご存知でございましょうか?能で謡う謡(うたい)のことでございます。
「烏帽子折」では、牛若丸は近江の「鏡の宿」で元服して、美濃「赤坂の宿」で強盗の熊坂長範(くまさかちょうはん)を討ち取ったとなっております。
ここでは鏡の宿の件(くだり)のみをご紹介させていただきましょう。

謡曲「烏帽子折」を見る→
判官贔屓(ほうがんびいき)
世に判官贔屓(ほうがんびいき)という言葉がございます。
判官(ほうがん)とは、義経が後白河法皇から検非違使尉(けびいしのじょう)という裁判官と警察官を兼ねた様な官位を賜ったということから義経のことを指す言葉になりました。
義経は平氏との戦で多くの手柄をたてていましたが、この勝手に官位をもらったという事が兄の頼朝から疎(うと)まれ、追われる原因のひとつとなります。
最期(さいご)には平泉にあった衣川(ころもがわ)の館で自害いたしますが、その後、義経は悲劇の英雄として人々の同情を集め多くの伝説や物語に画かれました。
義経は実は生きて北海道から蒙古(もうこ)に渡り成吉思汗(ジンギス・かん)となったという説もございます。
全国の義経にまつわる地域と人物をご紹介いたしましょう。


義経年表と全国の義経ゆかりの物語や伝説を見る→
牛若丸のうた
皆様は「牛若丸のうた」というのがあるのをごぞんじでございましょうか?
京の鞍馬では毎年義経祭に奉唱されているそうでございます。
この中にも「鏡の宿の元服」が表されております。
牛若丸のうたを見る→
鏡の宿 義経元服ものがたりhttp://www.town.ryuoh.shiga.jp/yoshitune/genpuku.html

近江 西大路陣屋(仁正寺陣屋)

2012年06月29日 | 平山城

 

西大路陣屋は中野城の城域にあり、案内板と共に石碑が建つだけで、陣屋の藩庁跡はゲートボール場となっている。



 唯一京都の相国寺の塔頭である林光寺の本堂に陣屋の御殿が移築されている。

城郭の歴史 西大路陣屋は西大路藩市橋家1万7千石の陣屋で、元々仁正寺(にしょうじ)と記していたものを文久2年(1865)に改称したものである。

 西大路藩は元和6年(1620)市橋長政が野洲郡,蒲生郡などに2万石を封され、この地に入部し、築城したことに始まる。
市橋家は元々織田信長、豊臣秀吉に仕え、関ヶ原の戦いや大阪両陣での活躍により、元和2年に越後三条に4万石をを封された。同6年3月藩主長勝が死去し、養子の長政は減封され近江国に移り、戦国期の蒲生氏の居城・中野城に注目し仁正寺陣屋を構えた。

 元和8年幕命により所領2千石を同族の市橋長吉に分与し、2代目政信は弟・政直に1千石を分与し、1万7千石となる。その後11代続き幕末を迎えた。明治4年の廃藩置県により西大路藩は廃された。

 陣屋は明治7年に朝陽小学校となり、建物はそのまま使用されたが、大正5年に小学校が移転・新築され陣屋の建物は京都相国寺の塔頭である林光院に移築された。
林光寺の本堂


中野城(日野城) 近江国(日野)

2012年06月29日 | 戦国山城

中野城の城址碑

所在地:旧甲賀郡日野町西大路 )      map:http://yahoo.jp/4WtQBr

現 状:林・ダム

区 分:平山城

築城期:南北期 大永年間(1521~

築城者:蒲生秀貞

城 主:蒲生秀貞・蒲生氏郷

遺 構:曲輪・土塁・堀・(石碑・説明板)

目標地:日野ダム

駐車場:日野ダム駐車場 

訪城日:2013.6.28

お城の概要

 中野城は蒲生氏郷の生まれた城として知られている。
城址は昭和40年日野川ダムの建設時に多くの土塁が壊され、本丸の北側半分を除いて大半が水没し、現在では稲荷山と石垣及び空堀の一部が残されている。

 中野城の北には、隣接して西大路藩市橋家1万7千石の西大路陣屋(仁正寺陣屋)がある。

近江 中野城(日野城)

歴 史 

伊庭出羽守貞隆は援軍細川政元の家臣赤沢朝経と共に音羽城を包囲したが、落とすことができず敗走した。
この籠城戦での糧水が乏しいのを体験した蒲生貞秀は、翌年中野に城を築き、ここ中野城を居城とし、音羽城を属城とした。

 貞秀は老後家督を長子秀行に譲ったが、秀行は父に先立ち死去した。

その子秀紀はまだ幼かったために秀行の弟、高郷は秀紀に代わって宗家を継ごうとしたが貞秀はこれを許さなかった。

 貞秀の死後、高郷は所領配分の少ないのを不服として大永2年(1522)六角定頼の援けを得て秀紀の音羽城を攻めた。籠城8ヶ月に及んだ後、秀紀は降伏し、定頼の調停で両家分立とした。

この時に音羽城は破却され、秀紀は鎌掛城を高郷は中野城を居城とした。
秀紀も母、妻も城内の井戸に身を投じ、蒲生家嫡流は滅ぶ。この後、高郷の子、定秀が蒲生家の家督を継いだ。

 定秀の子賢秀は信長に仕え、本能寺の変の際には安土城二の丸で留守を預かっていた賢秀は、秀郷と図って信長の妻女を急ぎ中野城に移し、戦備を整えて光秀の招聘には応じなかった。

 

 その後、秀郷(後の氏郷)は秀吉に従い多くの戦功をたてたことから、天正12年(1584)には伊勢松坂12万石の領主となり松ヶ島城へ移り、その後松坂城から会津黒川城42万石(後の若松城)に移封された。
 
 日野城には、蒲生氏あとに田中吉政や長束正家が城代として入ったが、慶長8年(1603)には廃城となった。

蒲生氏の居城跡。中野城ともいいます。築城以前の蒲生氏の城は、音羽丘陵上にありましたが、蒲生定秀(がもうさだひで)により戦国時代に日野城が築かれました。築城にあたっては、既存の日野市街を城下町とし、城のある西大路付近を武家屋敷地帯、日野市街を町屋敷地帯としたといいます。
 明智光秀の謀反によって殺された織田信長の妻子が、身を寄せたのは日野城です。蒲生氏郷はこの城で生まれ、若くして戦国武将の器量を備えていたので、豊臣秀吉に抜擢されて伊勢12万石の領主となって日野城を去りました。江戸時代に廃城となり、付近の農民が開墾して城内はすっかり姿を変えました。城の遺構は、日野川ダムの建設により、現在ではほとんど見ることができませんが、ダム北畔に本丸跡石垣が少し残っています。

      

   

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、日本城郭大系 、 佐々木南北諸士帳  

    本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


東近江ブロック交流研修会「日野会場」20120628

2012年06月28日 | 観光ボランティアガイド

日野商人の故郷。 “豪商”が残した”桟敷窓”・・・・・商人屋敷は変わっても「見越しも松」と「桟敷窓」は城下町には脈々と

東近江ブロック交流研修会「日野会場」20120628

観光ボランティアガイドの【東近江ブロック交流研修会】(日野会場)20120628
『ガイドの知識と技術の向上』~ホスピタリティーを学ぶ~87名参加。5コース9班、

Eコース≪曳山と桟敷窓・町並みを歩いてみよう≫に参加

  Eコースの担当ガイドさんと出発前の情報交換

  小学校正門横に(日野商人像(二宮金次郎像はあるのかな?)、マンホールも「台八車にシャクナゲと綿向山と日野商人」

     「日野椀」

    

日野商人・八幡商人の年表

見越しの松・日野まつりの山を見るための「桟敷窓」街道沿いの日野商人屋敷(城下町)

  日野まつりの曳山

さんが 2012/05/03 に公開http://www.youtube.com/watch?v=VJu_8md7GFk

  蒲生氏の菩提寺「信楽院」

火伏の愛宕山のお札

 文武両道にたけた氏郷公は「利休七哲の一人」

   

「モーア」の表札が!日野が気に入って古い屋敷を買って住みつく自分で修復しながら、日野の町づくりにも一生懸命その名は「モーアさん」

 

  

 

 伝統の花飾り「ホイノボリ」を奉納する南山王祭、滋賀県日野町大窪の日枝神社、満開のしだれ桜を思わせるホイノボリの下、氏子たちが酒で顔を真っ赤にしながら春のうたげを楽しんだ。パネル!

Eコース班」の分科会の始まり、自己紹介やガイドの評価・各自の取り組み・意見交換・課題・・・等々

曇っていて、綿向山は雲の中でしたが涼しくて、

銘ガイドさんのお蔭で今後の、観光ガイドの勉強になり、研修会・交流も充実したものでした。---散会

 

散会時間速く・・・・・少し、物足りず。

蒲生氏郷の生誕の中野城址(日野城址)へと・・・一人車で!

 

 

蒲生 氏郷(がもう うじさと)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。    資料:Wikipedia

初め近江日野城主、次に伊勢松阪城主、最後に陸奥黒川城主。

蒲生賢秀の三男(嫡男)。初名は賦秀(ますひで)、または教秀(のりひで)。

またキリシタン大名でもあり、洗礼名はレオン(あるいはレオ)。子に蒲生秀行。  

幼少時

蒲生氏は藤原秀郷の系統に属する鎌倉時代からの名門であったという。近江蒲生郡日野に六角氏の重臣蒲生賢秀の嫡男として生まれる。幼名は鶴千代と名付けられた。

主家の佐々木六角氏が織田信長によって滅ぼされたため、父・賢秀は織田氏に臣従した。このとき、人質として岐阜の信長のもとに送られた。

織田家臣時代

信長は氏郷の才を見抜いたとされ、娘の冬姫と結婚させた。信長自ら烏帽子親となり、岐阜城で元服して忠三郎賦秀と名乗り(信長の官職である「弾正忠」から1字を与えられたとの説がある。(氏郷に統一する)、織田氏の一門として手厚く迎えられた。

武勇にも優れ、永禄11年(1568年)の北畠具教・具房との戦いにて初陣を飾ると、永禄12年(1569年)の伊勢大河内城攻めや元亀元年(1570年)の姉川の戦い、天正元年(1573年)の朝倉攻めと小谷城攻め、天正2年(1574年)の伊勢長島攻め、天正3年(1575年)の長篠の戦いなどに従軍して、武功を挙げている。天正10年(1582年)、信長が本能寺の変により横死すると、安土城にいた信長の妻子を保護し、父とともに居城・日野城(中野城)へ走って明智光秀に対して対抗姿勢を示した。光秀は明智光春、武田元明、京極高次らに近江の長浜、佐和山、安土の各城を攻略させ、次に日野攻囲に移る手筈だったが、直前に敗死した。

豊臣家臣時代

その後は羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕えた。秀吉は氏郷に伊勢松ヶ島12万石を与えた。清洲会議で優位に立ち、信長の統一事業を引き継いだ秀吉に従い、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いに従軍。同年に、秀吉から「羽柴」の苗字を与えられる。天正13年(1585年)の紀州征伐(第二次太田城の戦い)、天正15年(1587年)の九州征伐や天正18年(1590年)の小田原征伐などにも従軍する。また天正13年(1586年)には従四位下・侍従に任じられる。その間、天正16年(1588年)には飯高郡矢川庄四五百森(よいほのもり)で新城建築のための縄張りを行い、松坂城を築城。松ヶ島の武士や商人を強制的に移住させて城下町を作り上げた。同年4月15日、正四位下・左近衛少将に任じられる。豊臣姓(本姓)を与えられる。

一連の統一事業に関わった功により、天正18年(1590年)の奥州仕置において伊勢より陸奥会津に移封され42万石(のちの検地・加増により92万石)の大領を与えられた。これは奥州の伊達政宗(会津は伊達政宗の旧領)を抑えるための配置であり、当初細川忠興が候補となったものの辞退したため氏郷が封ぜられたとされる。なお、松ヶ島時代(天正13年(1585年)頃)に賦秀から氏郷と名乗りを改めているが、これは当時の実力者だった羽柴“秀”吉の名乗りの一字を下に置く「賦秀」という名が不遜であろうという気配りからであった。

会津においては、町の名を黒川から「若松」へと改め、蒲生群流の縄張りによる城作りを行った。なお、「若松」の名は、出身地の日野城(中野城)に近い馬見岡綿向神社(現在の滋賀県蒲生郡日野町村井にある神社、蒲生氏の氏神)の参道周辺にあった若松の杜」に由来し、同じく領土であった松坂の「松」という一文字もこの松に由来すると言われている。7層の天守(現存する5層の復元天守は寛永年間に改築されたものを元にしている)を有するこの城は、氏郷の幼名にちなみ、また蒲生家の舞鶴の家紋にちなんで鶴ヶ城と名付けられた。また、築城と同時に城下町の開発も実施した。具体的には、旧領の日野・松阪の商人の招聘、定期市の開設、楽市楽座の導入、手工業の奨励等により、江戸時代の会津藩の発展の礎を築いた。

以降は、伊達政宗と度々対立しながらも、天正19年(1591年)の大崎・葛西一揆(この際秀吉に対し「政宗が一揆を扇動している」との告発を行っている)、九戸政実の乱を制圧。同年12月、従三位参議に任じられた。

文禄元年(1592年)の文禄の役では、肥前名護屋へと出陣している。この陣中にて体調を崩した氏郷は文禄2年(1593年)11月に会津に帰国したが病状が悪化し、文禄3年(1594年)春に養生のために京都に上洛し、秋には秀吉をはじめ諸大名を招いた大きな宴会を催した。しかしこの頃には病状がかなり悪化して誰の目にも氏郷の重病は明らかで、秀吉は前田利家や徳川家康にも名のある医師を派遣するように命じ、自らも曲直瀬玄朔を派遣している。

文禄4年(1595年)2月7日、伏見の蒲生屋敷において死去。享年40

蒲生家の家督は家康の娘との縁組を条件に嫡子の秀行が継いだが、家内不穏の動きから宇都宮に移され12万石に減封された(会津には上杉景勝が入った)。

本日の歩数 10,642歩   1時間49分       7.4km
消費カロリー 353.0kcal    脂肪消費量 504g

旧二条城、信長の堀跡見つかる 内堀の西端付近

2012年06月28日 | 館跡

 

発見された旧二条城の堀跡。内堀の西端とみられる(28日午前11時10分、京都市上京区下立売通室町西入ル)
発見された旧二条城の堀跡。内堀の西端とみられる(28日午前11時10分、京都市上京区下立売通室町西入ル)

 民間の発掘団体「古代文化調査会」(神戸市)は28日、戦国時代に織田信長が造営した「旧二条城」の堀跡が京都市上京区下立売通室町西入ルの発掘調査で見つかった、と発表した。城の内堀の西端にあたるとみられ「城内部の構造を知る手掛かり」としている。

 集合住宅の建設に伴い、5月から260平方メートルを調査していた。見つかったのは、南北方向に8メートル延びる堀跡で、深さは当時の地表面から2・2~2・4メートルで、幅は4・5~6・5メートルあった。

 旧二条城は、信長が1569(永禄12)年に室町幕府の15代将軍・足利義昭のために造り、不仲になった義昭を追放した後、76(天正4)年に破壊した。1970年代の地下鉄烏丸線工事に伴う発掘で、外堀と内堀の二重構造であることが判明し、それぞれ南北の境界も分かっている。

 今回見つかった位置は内堀の西端付近にあたり、内堀の範囲は東西200メートル、南北160メートルになるとみられる。古代文化調査会は「内堀の東西の幅が推定できる貴重な成果だ」としている。30日午前10時~正午に現地説明会(雨天決行)を行う。

 

http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20120628000064


-中世近江の自治の世界~平成24年度の連続講座「近江の城郭」にむけて

2012年06月27日 | 城郭・イベント情報

  城といえば武士が戦いの陣地として、あるいは領域支配の拠点として築いたものというのが一般的なイメージでしょう。武士は戦いを生業とする職能集団であり、戦いにまつわるものには武士とのつながりが強くイメージされます。

江戸時代、刀狩りを経て兵農分離が実現し、武士身分と百姓・町人身分とがはっきりと分けられると、武士身分が武力を独占するようになります。しかし中世においてはこうした厳密な身分制度は成立しておらず、武士と百姓、武士と商人・職人を兼ねるような人々が広く存在していたのです。また農村にも多くの武器が存在し、武力は武士身分が独占するものではありませんでした。戦国末期における一向一揆の広範な展開は、こうした社会的条件がもたらしてものといえるでしょう。

普通の百姓までもが武力を有するこうした時代にあっては、当然のごとく自力救済慣行が在地に広く存在していました。何か問題が発生したときに、自分たちでそれを解決し、それが時に武力衝突にまで発展しました。もはや戦いは武士の専売特許ではなくなっていたのです。

しかしだからといって中世が、そこら中に暴力が渦巻く殺伐とした社会であったというわけではありません。ただ、自前の武力を背景とすることによって、一揆とよばれる自立した組織が生まれてくるのです。自力救済を前提とする社会にあっては、自身の身を守ることが重要になってきます。武装する百姓、武装する寺院の登場です。彼らは武力を保持するだけでなく、自身の居住する村・町や寺を守る防御施設を構築します。堀や土塁をめぐらせ、それらを折り曲げて防御性を高めるといった工夫が見られ、城塞のような様相を呈しています。

近江は、在地の自立性が高いことから、このような城塞化した村・町・寺が多く見られます。一向一揆の拠点となった寺内町や、広大な伽藍を誇る山岳寺院などが代表的な遺構です。今年度の連続講座では、寺内町や城塞化した山岳寺院など、戦国武将の城郭とはひと味違う城郭を取り上げます。例年通り、室内での関連した講義と現地見学をセットで行います。現在、参加方法等計画の詳細を詰めているところですが、決定次第様々な媒体でお知らせいたします。(松下)


赤神山(350m)とご神体の太郎坊山 20120625

2012年06月25日 | 探訪「大地の遺産」

 

  

   

赤神山(350m)とご神体の太郎坊山

赤神山(350m)とご神体の太郎坊山 

     

      

一部過去の写真を使用

本日の歩数 5,501歩   1時間3分 3.8km
消費カロリー 6.3kcal    脂肪消費量 0.9g

森づくり県民講座20120624

2012年06月24日 | 日記
1、バスで小堤の森で、間伐体験 
間伐体験の説明
ヘルメット、のこぎり、手袋・・・・各自が3班に別れて
 
間伐中(倒す方向へ、チルトロープを張って)
 
間伐した木の年輪を25本位!
間伐した切り株の輪切り(チェーンソーで)
 
間伐した檜の皮剥き
 
2、森林センターで座学
 
 
3、森林センター裏山の樹木観察会
ナラ枯れ対策
虫取り草
ヤマモモ
キンラン
山アジサイ
ウツクシマツ(絶滅対策で森林センターや緑地公園にも植えられます)
群生地:「平松のウツクシマツ自生地」として国の天然記念物に指定されている。
 
湖南市平松にある標高226mの山。この美松山には、傘を逆さにしたような特異な形のアカマツの変種が自生しており、
日本ではここだけにしかないことから、「平松のウツクシマツ自生地」として国の天然記念物に指定されている。

 

白洲正子(しらすまさこ)が愛した近江【記述著書】http://www.biwako-visitors.jp/shirasu/series/book3.html

美松山

  • 「近江山河抄」鈴鹿の流れ星

石部の町をすぎると、美し松で有名な三雲へ出、ここで一号線と別れる。この辺の街道筋は松並木のきれいな所だが、天然記念物の美し松は、「平松」の山の上にあり、根元から何十株にもわかれて、傘の形に密生しているのは、目ざめるような眺めである。
『近江山河抄』より

キノコ直径15cm
紫式部の花
 
4、アンケート提出 解散
 
 
本日の歩数 12,870歩 2時間17分 9.0km
消費カロリー 210.3kcal 脂肪消費量 30.0g

○探訪「近江水の宝」邦楽器糸の里琴糸の里を歩く

2012年06月23日 | 探訪「近江水の宝」

探訪「近江水の宝」邦楽器糸の里琴糸の里を歩く

琴や三味線などの邦楽器で使う糸の原糸となる生糸を生産する「琴糸の里」(長浜市木之本町)を歩きます。あわせて賤ヶ岳砦跡の見学も行います。チラシはこちら

日時:平成24年6月23日(土) 1班 9:30~15:00 2班 10:30~16:00
    ※JR木之本駅東口集合 各班とも開始時刻までに集合・受付

行程:JR木之本駅→丸三ハシモト株式会社(糸製造)→JR木之本駅→(七本鎗バス)→糸取り工房→(リフト)→賤ヶ岳砦(昼食)→大音まちあるき(伊香具神社の独古水など)→(七本鎗バス)→戦国大河きのもと館→木之本まちあるき(冨田酒造・浄信寺など)→JR木之本駅 歩行距離約3.5km

定員:各班25名(計50名 事前申込 先着順)が、74名+スタッフ8名

実費負担:①参加費100円 ※受付時に徴収します。
       ②長浜戦国大河ふるさと博きのもとセット券(七本鎗バス・賤ヶ岳リフト・戦国大河きのもと館料金)大人1000円、小中学生500円             

※受付時に参加者が個別にお買い求めいただきます。

持ち物:弁当・水筒・健康保険証・タオル・ウォーキングできる服装など

 探訪「近江水の宝」邦楽器糸の里琴糸の里を歩く20120623

探訪「近江水の宝」邦楽器糸の里琴糸の里を歩く2

丸三ハシモト株式会社(糸製造)→

七本槍 

この賤ヶ岳の合戦で活躍した、秀吉恩顧の武将が「賤ヶ岳七本槍」

福島左衛門大夫正則
脇坂中務少輔安治
加藤左馬助嘉明
片桐東市正且元
加藤肥後守清正
平野遠江守長泰
糟屋助右衛門武則

 

 
実際は、他にも同様の活躍で恩賞を受けた者が居たが、今川義元と織田信秀が戦った時の「小豆坂七本槍」の故事に因み、語呂も良かったので「賤ヶ岳七本槍」と呼ばれるようになった。秀吉は卑賤の身から立身出世し、先祖代々の家臣がいないため、この子飼いの武将達の活躍を宣伝することで、自分の名声を高めようとした。

糸取り工房→   

琴糸の里『大音』をぶらり歩き     由緒

上古、当地が未開の湖沼地であった頃、祭神が来て開拓し、その後子孫を守護するために鎮座したといい(『近江輿地志略』)、天武天皇の白鳳10年以前に子孫である伊香宿祢豊厚が社殿を建立したという(『神社由緒記』)。

貞観元年(859年)に従五位上勲八等から従四位下に昇叙され、同8年には従四位上に昇り、延喜の制で名神大社に列した。社伝によれば、寛平7年(895年)に菅原道真が法華経や金光明経を手写して納め、同時に「正一位勳一等大社大明神金剛覚印菩薩」の勅額が下賜されたという[4]

その後足利尊氏200石の社領を寄せて正月、5月、9月の各18日に祈祷を行うよう依頼し、浅井氏も庇護を加えたが、賤ヶ岳の戦いの兵火に罹って社殿、古記録を焼失、社領も没収された。

明治8年(1875年)郷社に列し、同32年県社に昇格、同40年には神饌幣帛料供進神社に指定された。

     

   

 

  

 

 

 HPより

 

  

本日の歩数 11,379歩 1時間56分 7.9km
消費カロリー 215.8kcal 脂肪消費量 30.8g

大音(おおと)館 近江国 2012.06.23

2012年06月23日 | 館跡

イメージ 5 

「旧家・大音軍治」宅があります。ここは大音唯一の武家屋敷であり、祖先は賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉軍の武将として仕え果敢な活躍をしたと伝えられています。江戸時代には柳ケ瀬の関所の奉行を務めた、とあります。

所在地:長浜市木之本町大音   (旧伊香郡木之本町) マップ:http://yahoo.jp/JTlfKv 

区 分:居 館(末裔の大音氏個人宅) 

築城者:大音氏

形  式 : 平山城(標高146m)

遺  構 : 竪堀、土塁、説明駒札

築 期:中世(細分不明) 

訪城日 : 2012.06.23

資 料: 城郭分布調査1、地図番号3-1。『日本城郭大系』11。 

イメージ 6 イメージ 8襖絵
  
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 主殿(とのも)屋敷
糸取り資料保存館もかねている。 糸つむぎの実演もしてもらえる。
 

大音集落

木之本町大音(おおと)は琵琶湖最北部から賤ケ岳を隔てた東側に位置する。賤ケ岳の登山口があり、観光リフトが頂上に通じている。
賤ケ岳は天正11年(1583)豊臣秀吉と柴田勝家との間で行われた合戦の場ともなった所で、七本槍の活躍で知られる所。
稲作主体の農業であったが、大音糸で有名。

賤ケ岳麓の大音、西山地区は古くから養蚕が盛んであった地の利を生かして、繭の糸取りが行われてきた。そのため、「琴糸の里」
「糸引きの里」と呼ばれて来た。
上質の生糸の製造には、熟練した伝統技術とともに、賤ケ岳の麓から湧き出る清浄な水によるところも

このあたりの情景を水上勉が小説『湖の琴』に書いています。この小説は、若狭より出稼ぎに来ていた卯吉とさくの悲しくも美しい恋の物語で、小説の中で旅館源八に設定されている旅館が、この資料保存館の奥にある料理旅館「想古亭源内」です。
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 大日如来堂・・・かってこの谷間に浄明寺という真言宗のお寺があり、このお寺を中心に村造りがされていました。
しかし、天正11年の賤 ヶ岳の合戦により、ことごとく消滅してしまいました。
かろうじて戦火を免れた大日如来像が祀られています。このお堂が建っているところは、かっての浄明寺の山門のあったところです。
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 旧家・大音軍治宅・・・大音集落唯一の武家屋敷です。祖先は、賤ヶ岳の合戦で、羽柴秀吉軍の武将として仕え、果敢な活躍をしたと伝わります。屋根にトタンが被せてあるのが少々残念ですが、それでも武家屋敷の佇まいが偲ばれます。
 地名から姓がつけられたのでしょうか、それとも姓から地名がつけられたのでしょうか。
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本日も訪問、ありがとうございました。


観光ボランティアガイド 現地研修会20120619

2012年06月19日 | 観光ボランティアガイド

建部堺の山之神 

母のために建立した「孝養の不動尊」。日本3大不動尊の一つ。母の五回忌の孝養のために!

五個荘の近江商人「中三井百貨店」に釜山・大邸・ソウルで協力して、鉄事業・石油・セメントの販路を拡大。元建部村長旧宅宇野邸

乳橋乳橋地蔵

 

 

番外「松尾神社」


観音寺城の戦い

2012年06月17日 | 戦国山城

観音寺城の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
観音寺城の戦い
Kannonjij10.jpg
観音寺城の平井丸虎口
戦争攻城戦
年月日永禄11年(1568年)9月12日
場所:観音寺城、箕作城、和田山城一帯
結果:織田軍の勝利
交戦勢力
織田軍Oda emblem.svg
徳川軍Mitsubaaoi.svg
浅井軍Japanese Crest mitumori Kikkou ni Hanabishi.svg
六角軍Japanese crest Yotumeyui.svg
指揮官
織田信長Oda emblem.svg
木下秀吉Kinoshita Hiashi (invers).svg
浅井長政Japanese Crest mitumori Kikkou ni Hanabishi.svg
六角義治Japanese crest Yotumeyui.svg
六角義賢Japanese crest Yotumeyui.svg
戦力
50,000-60,000 11,000以上
損害
不明 1,500前後

観音寺城の戦い(かんのんじじょうのたたかい)は、永禄11年(1568年)9月12日、足利義昭を奉じて上洛の途にあった織田信長と近江守護である六角義賢・義治父子との間で行なわれた戦い。

支城の箕作城(みつくりじょう)が主戦場だったため、別名「箕作城の戦い」とも云われている。

信長の天下布武が実践された最初の戦いであり、直後の京都・畿内平定に大きな影響を与え、事実上の天下人として名乗りを上げる契機となった。この上洛以降を安土桃山時代と区分するならば、観音寺城の戦いは戦国時代最後の合戦といえる。

たった一夜で箕作城が落城すると、観音寺城は無血開城し、六角氏は甲賀郡に落ち延びた。

開戦の経緯

足利義輝像
足利義昭画像

永禄8年(1565年)5月19日、13代将軍足利義輝が自らから太刀をとり奮闘、三好三人衆や松永久秀に討ち取られるという事件(永禄の変)が起こった。義輝の弟である足利義昭は、興福寺一乗院で門跡となっていたが(一乗院覚慶と名乗っていた)、甲賀武士和田惟政らの手引きで奈良を脱出した。以後約3年間にわたる義昭の漂流生活が始まった。まず近江甲賀郡近江和田城へ赴いたが、その後より京都に近い野洲郡矢島に仮御所を構えた。一時は近江の六角義治を頼ろうとしたようだが、三好三人衆と通じていることを擦知すると、若狭の武田義統および越前の朝倉義景を頼った。

越前で名を義昭と改め、義景が動かないと分かると尾張の織田信長を頼った。この時仲介の労を取ったのは明智光秀と言われている。

そんな中、永禄10年(1567年)11月に正親町天皇から織田信長に綸旨(りんじ)が届いた。内容は尾張・美濃の不地行になっている皇室領の回復を命じるものであった。

織田信長像

正親町天皇からの綸旨をうけた織田信長は、いよいよ上洛と「天下布武」に向けて動き出した。越前にいる義昭を美濃の立政寺に迎え入れると、永禄11年(1568年)8月5日に岐阜城を出発、精鋭の馬廻り衆250騎を引き連れて、8月7日に佐和山城に着陣した。

上洛する途上には観音寺城があった。信長は、義昭の近臣であった和田惟政に家臣3名をつけて、観音寺城にいる六角義治に義昭の入洛を助けるように使者を送った。しかし、義治と父の六角義賢はこの申し出を拒絶した。信長が着陣する少し前に、三好三人衆と篠原長房が観音寺城に出向き、織田軍の侵攻に対する評議を行っていたのである。

拒絶された信長は、再度使者を送って低姿勢で入洛を助けるよう要請した。これには諸説あるが、観音寺城と同じように後の安土城へ家臣を住まわすことや、楽市の発展等信長は六角氏の政治手法を取り込んでおり、そのような先進的な守護との決定的な対立は避けたかったのではないかと言われている。これに対して、三好三人衆の軍事力をあてにしていたのか、病気を理由に使者に会いもせずに追い返してしまった。

7日間佐和山城にいた信長は、ここに至って開戦もやむなしと考え、一旦帰国した。

同年9月7日、軍勢を整えた信長は1万5千の兵を引き連れて岐阜城を出立し、これに三河の徳川家康勢1千、北近江の浅井長政勢3千が加わり、翌9月8日は高宮に、9月11日には愛知川北岸に進出した。この時の織田軍の総数は5-6万とも言われている。

これに対して六角側は、本陣の観音寺城に当主義治、父義賢、弟義定と精鋭の馬廻り衆1千騎を、和田山城に田中治部大輔らを大将に主力6千を、箕作城に吉田出雲守らを武者頭に3千をそれぞれ配置し、その他被官衆を観音寺城の支城18城に置いて態勢を整えた。六角氏の布陣は、織田軍はまず和田山城を攻撃すると予測し、そこを観音寺城や箕作城から出撃して挟撃することを狙っていたと思われる。

戦いの状況

木下秀吉の木下日足紋
豐臣秀吉画像(復元模写)

しかし信長の行動はその裏をかいた格好となった。9月12日早朝、織田軍は愛知川を渡河すると、3隊に分かれた。

稲葉良通が率いる第1隊が和田山城へ、

柴田勝家と森可成が率いる第2隊は観音寺城へ、

信長、滝川一益、丹羽長秀、木下秀吉(後の豊臣秀吉)らの第3隊が箕作城に向かった。

戦端は箕作城でひらかれた。木下隊2千3百が北の口から、丹羽隊3千が東の口から攻撃を開始した。

この箕作城というのは急坂や大木が覆う堅城で、吉田出雲守隊の守りも固く、午後五時前後には逆に追い崩されてしまった。

木下隊では評議を行い、夜襲を決行することになる。木下秀吉は策をめぐらし、3尺の松明を数百本用意させ、中腹まで50箇所に配置し一斉に火をつけ、これを合図に一挙に攻め上った。7時間以上戦ったその日のうちに夜襲を仕掛けてくるとは考えてもいなかったのか箕作城兵は驚き、必死に防戦したが支えきれず、夜明けを待たずに落城してしまった。かなりの激戦だったらしく、200以上の首級が上がった。箕作城の落城を知った和田山の城兵は、戦わずに逃亡してしまった。

長期戦を想定していた六角義治は、戦端が開かれてから1日も立たずに箕作城と和田山城が落ちたことに落胆し、観音寺城の防備が弱いことを悟ったのか、古来の例にならい夜陰に紛れて甲賀へ落ち延びていった。当主を失った18の支城は、1つを除き次々と織田軍に降り、ここに大勢が決した。この戦いの六角軍の損害は1500人以上に上ると『ヤソ会日本年報』には記載されている。

戦後の影響

東福寺の通天橋

六角家老臣の蒲生賢秀は、敗北を聞いてもなお1千の兵で日野城に籠もり、抵抗する様子を見せていた。しかし、賢秀の妹を妻としていた織田家の部将神戸具盛が単身日城に乗り込んで説得した結果、賢秀は降伏し、信長に質子を差出して忠節を誓った。この質子が後の蒲生氏郷である。

六角氏は観音寺城を失ったが、それでも織田軍に対して抵抗の姿勢をみせた。しかし、本領を失った六角氏の勢力は奮わず、ゲリラ的な抵抗が精一杯であった。戦国大名としての六角氏の没落は決定的なものとなった。

京都を支配していた三好三人衆らは六角氏の敗北を聞いて浮き足立ち、織田軍と満足な戦もしないまま、京都から駆逐された。信長は立政寺の足利義昭に使者を送り、戦況を報告して出立を促した。9月27日、信長と義昭は琵琶湖の三井寺に入った。翌28日、入京した義昭は東山の清水寺に、信長は東福寺に陣し、細川藤孝は宮廷の警護に従事した。

こうして信長は畿内の覇権を掴み、義昭は念願であった征夷大将軍の座に着いた。

参考文献

  • 戦国合戦史研究会編著『戦国合戦大事典 第四巻』新人物往来社、1989年4月、198頁-201頁。
  • 今谷明『戦国三好一族』洋泉社、2007年4月、256頁-258頁、263頁-265頁。
  • 谷口克広『信長の天下布武への道』吉川弘文館、2006年12月、56頁-59頁。
  • 諏訪雅信『三芳野の花-三好長慶の生涯-』近代文芸社、2003年6月、442頁-444頁、458頁-459頁。