城郭探訪

yamaziro

青木城(善性寺) 近江国(米原)

2012年05月31日 | 平城

  

お城のデータ

所在地:米原市能登瀬 (旧旧坂田郡近江町能登瀬)    map:http://yahoo.jp/dhVxam

現 状:居館(平山城)

遺 構:曲輪・土塁・竪堀

区 分:居館(平山城)

築城期:室町期

築城者:青木氏 

城 主:青木筑後守

目標地:山津照神社

駐車場:山津照神社駐車場

訪城日:2012.5.26

青木城址

お城の概要

 案内板によると「式内社山津照神社の別当職だった青木氏の城。

善性寺(青木館)

  青木館は、現在の青木神社境内となっている一帯に築かれていた。

天野川に支流長老墓地川が合流する地点側に築かれ、背後には山津照神社のある丘陵を控えた地形となっている。 

「善性寺」の小尾根が本郭で、その南には通称「御殿」と呼ばれる一画がある。青木氏の実態は定かではないが、関東武者青木氏の流れをひくもので、

歴 史

『佐々木南北諸氏帳』には「青木庄能登瀬住 佐々木浅井随氏 青木筑後守」の名をみることができる。」とあります。

 応仁の乱に近江に戦乱が広がり、天野川流域に青木氏が台頭し、性善寺の別当職に就いて横山丘陵の南斜面に山城を築きました。それは善性寺がある小尾根を本郭とし、南麓の山津照神社の社域に「御殿」としたのです。

こうして山津照神社は青木氏が祭祀する社(やしろ)となり、青木神社と称され、青木館ともされました。

この青木館に拠った青木氏の由来は明らかでなく、16世紀の近江佐々木氏にしたがった城主クラスの家臣一覧『江州佐々木南北諸士帳』に「青木庄能登瀬住 佐々木浅井随氏青木筑後守」が記されています。

このころ、近江に青木筑後守が二人あらわれました。

1人は甲賀五十三家の青木筑後守秀正で、甲賀郡の石部城(湖南市石部町)を居城としました。永禄11年(1568)、近江守護の六角承禎、は、足利義昭を奉じて上洛する織田信長軍を観音寺城に阻止しようとしたのですが、観音寺城を棄てて石部城に入りました。石部城は佐久間信盛の攻撃に陥落し、青木秀正の一族は滅びます

  もう1人は徳川家康の祖母の父であった青木筑後守貞景です。この青木一族は近江の在地領主だったのですが、戦国の戦乱に領地の保全が危うくなり、青木貞景は新天地を求めて関東に下ろうと決心したというのです。

  本日の訪問、ありがとうございました。

 


みのぶら「古代戦国歴史散歩会」

2012年05月28日 | 平山城

みのぶら「古代戦国歴史散歩会」

チラシはこちら

日 時 2012年27日(日)9:0015:00

内 容 古代 「近江はにわ館、塚之越古墳、山津照神社古墳、式内日撫神社」   見学
     戦国 「箕浦八日市場跡、今井氏箕浦城跡、堀氏能登瀬城跡、青木館跡」  見学
     箕浦古戦場見学「浅井亮政VS六角」「秀吉、堀、樋口VS浅井長政、北郡一揆衆」
     歴史の宝庫、箕浦庄「約6Km」を、息長太郎が楽しく、詳しく、ぶらぶと案内する

場 所 滋賀県米原市顔戸1513 米原市近江公民館 無料駐車場完備 

定 員  30名

参加費  500円  講師 米原市文化協会 H氏

”みのぶら(箕浦)”古代戦国歴史散歩

顔戸山砦跡縄張り図(左↓南側の土塁)は箕浦河原合戦の浅井京亮政の本陣跡

小谷道(小谷城市場と箕浦城市場を結ぶ中世重要街道=現県道 伊部・近江線)

小谷道の常夜塔の前に、創業290年の億谷商店・・・「煙草小賣所」のオレンジの看板

顔戸山砦跡(南側の土塁)は箕浦河原合戦の浅井京亮政の本陣跡

箕浦城址の、北の堀(今は道路に)

箕浦誓願寺跡、土塁と宝塔(箕浦誓願寺は江北一揆衆5000と、浅井長政と連携。織田信長・羽柴秀吉らに頑強に抵抗した)

箕浦の戦いって 

箕浦字殿にわずかな土盛りを残すばかりの箕浦城は、往時、北は通船川あたりまで、南は天野川から水路をひき防御の堀を設けいていたという。しかし、いまその面影はまったく失われている。今井氏が本拠としていた箕浦には、箕浦市場があり、秀吉が長浜に市を開くまでは物流・交通の要衝として栄えていた。それを裏付けるかのように、市場近くに八幡神社には、上洛途上の源頼朝が休んだという腰掛石が遺されている。

 1570年(元亀元年)6月の姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍を打ち破った信長は浅井長政の居城小谷城から程近い横山城に木下秀吉(豊臣秀吉)を置き小谷城を牽制します。

1571年(元亀2年)5月6日に浅井長政は出陣し横山城近くに布陣します。そして家臣の浅井井矩に織田方の堀秀村の居城鎌刃城を襲わせました。

その数一向一揆勢を合わせて5000人でした。秀吉は横山城の守りを竹中半兵衛に任せ、わずか100人を率いて出陣します。

道なき道を進み鎌刃城に合流した秀吉は箕浦に着陣していた浅井勢に攻めかかります。その数はわずか5・600人でした。十倍の敵ではありましたが、多数は一揆勢で統制は執れておらず、浅井勢は退却します。

一方横山城の竹中半兵衛も浅井勢の攻撃を守りきり落城を逃れます。また、信長公記には箕浦の堀・樋口の城のあたりまで攻め寄せという記録があり、堀・樋口氏がどちらの城で戦いに備えたかは不明な点もあります。

八幡神社の境内に「源頼朝の腰掛岩」が!

『吾妻鑑』に、1190年12月小15日源頼朝、箕浦宿とある

箕浦八日市市場跡

宝福寺

井戸村屋敷跡(奥屋敷)南側の堀跡

箕浦城址

堀 石見守の砦か?現場で縄張りを長谷川氏

能登瀬城址

能登瀬城は、箕浦城から東方へ約2Km、能登瀬集落一帯にあった。飯村城・若宮城・岩脇館・箕浦城等とともにこの付近の主要な城館に共通し、天野川・通舟川に面した好立地にある。東、北、西は概ね山に囲まれ、南は天野川、北東・北西・南西にはそれぞれ砦を持つという城館にふさわしい構えとなっている。

現在民家が密集しているが、四方を水郷で囲まれた区域があり、その中程に堀氏の末裔であろう堀家が建っている。ただ昔ながらの情緒はなく、完全に今風なお宅で表札等もないので探すのに苦労した。

特にこれと云った遺構はないので、水郷や地籍からの判断になるが、西側水郷は明らかに堀跡であったろう雰囲気を残している。また南側の大通りに面したいくつかの路地入口はどれも虎口を思わせる特異な形をしていた。その中の一角に旧近江町特有の「淡海文化」の案内石板があった。

能登瀬城は、京極氏被官堀氏の居城であったと云われる。江北と江南の境目であったこの付近にあった堀氏は、京極氏・六角氏・浅井氏・織田氏とその時代の最大勢力下にあっては戦国の世を生きのびたと思われる。

六角氏の浅井攻めに際し、大永5年・天文7年の2回にわたり六角定頼が堀氏に対し陣立注文を出しているという文献が残り、"堀能登守"であったことからこの地が能登瀬と名付けられたのではないかと想像する。

堀氏と云えば、国史跡である鎌刃城主(米原市番場)であったこと、浅井氏家臣・堀次郎秀村が姉川合戦の折に浅井軍の先峰として長比城を守備したが、織田信長方に呼応して寝返ったことで有名である。織田方についた堀氏は、蟄居した今井氏に代わり箕浦城主となり、箕浦合戦で浅井氏に報復を受けている。

堀氏の名は、箕浦・能登瀬の他に門根城・本郷城などにも居城にしていた文献が残っているが、分派した一族なのかは不明である。

青木城址

善性寺(青木館)概要: 案内板によると「 式内社山津照神社の別当職だった青木氏の城。

「善性寺」の小尾根が本郭で、その南には通称「御殿」と呼ばれる一画がある。青木氏の実態は定かではないが、関東武者青木氏の流れをひくもので、佐々木南北諸氏帳には「青木庄能登瀬住 佐々木浅井随氏青木筑後守」の名をみることができる。」とあります。

 

日光寺砦跡

日光寺砦は、南北に長くそびえる横山山系のほぼ最南端に位置する。資料によると遺構は、日光寺集落北側に張り出した舌状丘陵の山裾付近で、山際に建つ奥村邸のすぐ背後とあるが、現在は厳重な獣除けの柵塀が建設されていてよく判らない状態だ。河川沿いの道路から比高差3mの所と更に2m上とに2ヵ所の削平地があるとされるが、まず3mの所は柵塀建設で消失してしまったと思われる。更に2m上の帯曲輪とその東端の竪堀は、木が生い茂っているが何とか確認できた。
しかし、これよりも集落の造りにこそ城砦の雰囲気を感じた。集落というのは常道では山裾のライン際に沿って形成されているのが大半だが、この日光寺は集落の北側と北東側の山裾扇状地が田畑として使用されるのみで大きな空間となっている。そしてまるでこれ以上奥へは行かせないとばかりに入口を固めるように集落は形成されている。更に中心を東西に流れる川の堤防部分は、横矢掛りを有する大土塁で、出入りを遮断する様に横たわっている。またこの奥にある日光寺山砦と天台宗日光寺院も含め、集落すべてが城砦構えに思えてならない。
『江北記』に記された京極家の内紛、高清と材宗の講和の舞台として登場する日光寺と、これらの遺構には何らかの関わりがあるのかも知れない。

 

参考資料:お城のとびら/滋賀県の城/日光寺砦


○近江戦国探訪「安土 信長の城と城下町をめぐる」

2012年05月27日 | 戦国山城

受付中の上垣氏・太田氏・スタッフ(滋賀県教育委員会事務局文化財保護課)

日時 平成24年(2012年)5月26日(土)10時~16時30分
  ※JR安土駅駅裏広場集合 JR安土駅解散

行程 JR安土駅→浄厳院→惣構どて推定地→セミナリヨ跡→安土城外堀跡(和船で移動)→特別史跡安土城跡→新宮神社→活津彦根神社→大船止地区(豊浦港跡)→西の湖湖岸→木村城跡→常楽寺港跡→JR安土駅 全行程約10km

 旧安土城下町の中心部下豊浦です。現在安土公民館が建っているあたりには、かつて「惣構どて」と呼ばれる土塁があったことが、江戸時代の古絵図や古文書に記されています。安土城下を二分するこの「どて」の性格については、様々な解釈がなされており、城下町の構造を考えるうえで重要なカギを握っています。

近江戦国探訪「安土 信長の城と城下町をめぐる」20120526

近江戦国探訪「安土 信長の城と城下町をめぐる」 2


探訪 【仁正寺藩(別名を西大路藩(にしおおじはん) 近江国 江戸時代】2012.5.26

2012年05月26日 | 平城

仁正寺藩(別名を西大路藩(にしおおじはん)とも言う。)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 

仁正寺藩(にしょうじはん)は、近江国蒲生郡仁正寺(現在の滋賀県蒲生郡日野町)に存在した藩。別名を西大路藩(にしおおじはん)とも言う。藩庁は仁正寺陣屋。

藩史

元和6年(1620年)、市橋長政が近江国蒲生、野洲両郡と河内国内に合わせて2万石を与えられたことから、仁正寺藩が立藩した。長政は元和8年(1622年)1月、幕命により市橋長吉(三四郎)に2,000石を分与したため、所領は1万8,000石となった。

長政は徳川家光のもとで奉行として功を挙げている。慶安元年(1648年)に長政が死去すると、後を長男の市橋政信が継ぐ。このとき、弟の市橋政直に1,000石を分与したため、1万7,000石となった。

政信は徳川家綱、徳川綱吉のもとで功を挙げている。その後の藩主は第5代藩主・市橋直挙が第8代将軍・徳川吉宗に認められた教養人であるということくらいで、特筆すべき事柄はない。

幕末期、最後の藩主であった市橋長和は幕末の動乱の中で国防のために火薬の製造、武芸奨励などに尽力した。文久2年(1862年)4月28日には仁正寺を西大路と改名したため、以後は西大路藩と称された。長和は当初は佐幕派であったが、次第に新政府側に傾いてゆき、明治天皇が東京へ行幸するときには天皇の奉送や京都守衛などで功績を挙げている。

明治2年(1869年)の版籍奉還で長和は藩知事となり、2年後の廃藩置県で西大路藩は廃藩となった。その後、西大路県、大津県を経て、滋賀県に編入された。

仁正寺藩(にしょうじはん)は、近江国蒲生郡仁正寺(現在の滋賀県蒲生郡日野町)に存在した藩。別名を西大路藩(にしおおじはん)とも言う。藩庁は仁正寺陣屋。


日光寺砦 近江国(米原)

2012年05月26日 | 平城

土塁遺構 日光寺砦跡・・・土塁遺構

日光寺砦のある日光寺地区の山林日光寺砦のある日光寺地区の山林

お城のデータ

所在地:米原市日光寺町 (旧坂田郡近江町日光寺)  map:http://yahoo.jp/xYMIFm

現 状:宅地・森林

遺 構:土塁・

区 分:砦

目 標:息長小学校

標 高:148m    比高差:15m

築城期:

築城者:

訪城日:2012.5.25

砦の概要

 日光寺砦は日光寺地区の集落に張り出した舌状尾根の比較的低い場所に位置しているが、麓の山沿いに民家が建ち、民家の敷地を通らないと入山出来ない。

 比較的入りやすい竹藪から山中に入るが、竹藪を過ぎると難渋する。尾
根伝いに約15分ほど登るが、砦跡の遺構は確認できい。
途中、一画が削平されており、ここが砦跡のようではあるが、雑草が生い茂り・・・。

日光寺砦は、南北に長くそびえる横山山系のほぼ最南端に位置する。

遺構は、日光寺集落北側に張り出した舌状丘陵の山裾付近で、山際に建つ個人邸のすぐ背後とあるが、現在は厳重な獣除けの柵塀が建設されていてよく判らない状態だ。

 河川沿いの道路(土塁)から比高差3mの所と更に2m上とに2ヵ所の削平地があるとされるが、まず3mの所は獣害柵の設置で消失してしまったカ。更に2m上の帯曲輪とその東端の竪堀は、確認できた。

 集落の地割は、城砦の雰囲気を感じた。集落は常道では山裾、山際に沿って形成されているのが、この日光寺は集落の北側と北東側の山裾扇状地が田畑として使用されるのみで大きな空間となっている。「これ以上奥へは行かせない」と入口を固めるように集落は形成されている。

更に中心を東西に流れる川の堤防部分は、横矢掛りを有する大土塁で、出入りを遮断する様に横たわっている。この奥にある日光寺山砦と天台宗日光寺院も含め、集落すべてが城砦構え。

歴 史 

詳細不明だが

『江北記』に記された京極家の内紛、高清と材宗の講和の舞台として登場する日光寺と、これらの遺構に関わりがあるのか。

  上坂氏は早くから佐々木京極家の被官として、近江国上坂田に勢力を有していた。このため、上坂田の田の一字を略して上坂の姓を名乗り、居住地もまた上坂と称したという。

 上坂氏で著名なのは、京極高清に二十有余年仕え、その執権として権勢を振るった治部大輔景重(家信か)が知られている。景重は、文亀元年(1501)北近江の国衆である浅井氏・三田村氏・河毛氏・堀氏らと今浜で合戦に及んだことが『江北記』に記されている。

 当時、京極氏は家督をめぐって二派に分かれて争っていた。上坂氏は京極高清を擁して、一方の京極氏の流れである材宗をかつぐ今井氏ら国人衆と対立していたのである。このような国人層の対立をみて、美濃国揖斐にいた京極材宗は江北の今井館に帰り、今浜へ攻め寄せたが、京極高清方に敗北を喫している。京極家はこの段階において、国人領主の動向に左右される存在として、守護職たる地位を低下させていたことが理解できるのである。

永正二年(1505)材宗は、九里氏らの支援を得て、南方から江北を攻撃したが失敗に終わり、結局、箕浦日光寺で和睦がなされた。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

 

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!

 


訪問 「近江 能登瀬城址】 2012.5.26

2012年05月26日 | 平城

能登瀬城址

能登瀬城は、箕浦城から東方へ約2Km、能登瀬集落一帯にあった。飯村城・若宮城・岩脇館・箕浦城等とともにこの付近の主要な城館に共通し、天野川・通舟川に面した好立地にある。東、北、西は概ね山に囲まれ、南は天野川、北東・北西・南西にはそれぞれ砦を持つという城館にふさわしい構えとなっている。

現在民家が密集しているが、四方を水郷で囲まれた区域があり、その中程に堀氏の末裔であろう堀家が建っている。ただ昔ながらの情緒はなく、完全に今風なお宅で表札等もないので探すのに苦労した。

特にこれと云った遺構はないので、水郷や地籍からの判断になるが、西側水郷は明らかに堀跡であったろう雰囲気を残している。また南側の大通りに面したいくつかの路地入口はどれも虎口を思わせる特異な形をしていた。その中の一角に旧近江町特有の「淡海文化」の案内石板があった。

能登瀬城は、京極氏被官堀氏の居城であったと云われる。江北と江南の境目であったこの付近にあった堀氏は、京極氏・六角氏・浅井氏・織田氏とその時代の最大勢力下にあっては戦国の世を生きのびたと思われる。

六角氏の浅井攻めに際し、大永5年・天文7年の2回にわたり六角定頼が堀氏に対し陣立注文を出しているという文献が残り、"堀能登守"であったことからこの地が能登瀬と名付けられたのではないかと想像する。

堀氏と云えば、国史跡である鎌刃城主(米原市番場)であったこと、浅井氏家臣・堀次郎秀村が姉川合戦の折に浅井軍の先峰として長比城を守備したが、織田信長方に呼応して寝返ったことで有名である。織田方についた堀氏は、蟄居した今井氏に代わり箕浦城主となり、箕浦合戦で浅井氏に報復を受けている。

堀氏の名は、箕浦・能登瀬の他に門根城・本郷城などにも居城にしていた文献が残っているが、分派した一族なのかは不明である。

 

 

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今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました

 


箕浦城(新庄城)   近江国(近江)

2012年05月26日 | 平城

お城のデータ

別 称:新庄城

所在地:米原市(旧:坂田郡近江町)箕浦    map:http://yahoo.jp/m5IzqU

現 状:田畑地

区 分:平城

築城期:室町期

築城者:今井氏

遺 構:郭・城跡説明石碑

目標地:箕浦集落の北側・功福寺裏手 
駐車場:農道に路上駐車

訪城日:2012.5.26

箕浦城址

お城の概要

 大字新庄小字殿城を中心に畑地・水田・集落まで広がる里城。集落内に幾重にも水路がある。

 箕浦集落の北側を進む道で箕浦集落に入った左手の田んぼの中に城址碑(説明碑)があります城跡碑と土壇状に畑地が残るが、郭跡なのか? 箕浦字殿にわずかな土盛りを残すばかりの箕浦城は、往時、北は通船川あたりまで、南は天野川から水路をひき防御の堀を設けいていたという。しかし、いまその面影はまったく失われている。

 今井氏が本拠としていた箕浦には、箕浦市場があり、秀吉が長浜に市を開くまでは物流・交通の要衝として栄えていた。それを裏付けるかのように、市場近くに八幡神社には、上洛途上の源頼朝が休んだという腰掛石が遺されている。

 北側には顔戸山砦(一ノ城)も遠望できます。

お城の歴史

『佐々木南北諸氏帳』には、「坂田郡 箕浦 住 佐々木隋兵 箕浦四朗左衛門(元山本判官二男箕浦義氏元祖元弘建文之乱江北寺田今村多賀箕浦名高家也)・箕浦 六角下屋敷・箕浦城主 佐々木浅井隋兵 堀掃部介氏時・ 同 堀掃部介八六・ 同 堀掃部介新介」の名を記す。

『淡海国木間攫』には、「坂田郡 箕浦村 昔中西与介ト云武士ト誓願寺ト云ル寺ト両人シテ合セ領スル。此仲西氏ハ後裔何レノ所ニヤラン、絶テ其姓氏タル人ヲ不聞、家宅ノ跡ハ今以てて在ス、誓願寺ハ元和ノ浪速乱後、故有テ此村里ヲ去テ河内国ヘ走リ、其地ニ止ルト云、此辺往古坂田郡ノ万物交易ノ市場ナリト云、」と記す。

京極氏(のちに浅井氏)に従った今井氏の居館跡です。

\\\\\\\\\\\\\\\\\信長公記 四巻\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\

藤吉郎奮戦  箕浦合戦の事

  5月6日、浅井勢が動いた。この日浅井長政は軍勢を率いて姉川まで進出し、木下藤吉郎固める横山城へ向かって陣を立て備えた。そして先手足軽大将の浅井七郎に命じ、兵五千をもって箕浦(近江町箕浦)の堀秀村居城近くまで寄せさせ、在所在所に放火してまわらせた。
 この様を見た木下藤吉郎は、横山城に十分な兵を残した上でみずから百騎余りを引き連れて密かに城を出た。そして敵方に見つからぬよう山裏を密行して箕浦へ入り、堀秀村・樋口直房と合流した。しかしそれでも総勢はわずかに五、六百に過ぎず、その人数で敵勢五千(原文には五千ばかりの一揆と記されている。おそらくは誇張)と対峙しなければならなかった。

  木下勢は寡兵の足軽をもって敵勢に立ち向かい、下長沢(近江町)で一戦に及んだ。この戦で樋口直房配下の侍多羅尾相模守が討死したが、そのことを知った多羅尾家来の土川平左衛門という者は主人の後を追おうと敵中に突入し、見事討死を遂げた。比類なき働きであった。
 このように苦戦した木下勢であったが、敵が一揆の集まりだったこともあり、なんとか突き崩して数十人を討ち取ることに成功した。さらに木下勢は下坂(長浜市下坂浜町)のさいかち浜でも戦い、ここでも勝って敵を八幡下坂(長浜市神前町八幡神社)まで追い崩した。味方の敗軍のさまを見た浅井長政は、得るところなく小谷へ軍勢を返した。

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 享禄四年(1531)、今井氏の居館のある箕浦で浅井氏と六角定頼との合戦があり、六角氏が勝利した。この戦いは享禄元年の内保河原の戦い以後も対立し続けていた京極氏の内紛が、高清・高延を擁立する浅井氏と、高慶を推す六角氏の争いへと発展したものである。今井氏は内保河原の戦いでは六角側であったが、その後、浅井氏側に付いたため攻撃を受けたという。しかし、当初は六角氏側であり、浅井氏と戦って敗れたことで浅井氏に従ったため、進退を疑われた秀俊は神照寺へ呼び出されて切腹させられてしまった。
 かつては今井氏と浅井氏とは、ともに京極氏の重臣であったが、浅井氏は着々と勢力を拡大し戦国大名としての実質を持つようになった。一方、その波に乗り遅れた今井氏は、やがて浅井氏の家臣となることに活路を見い出すことになるのである。
 秀俊自刃後、残された尺夜刃丸(のちの定清)は六角定頼を頼り、定頼も尺夜刃丸を庇護した。以後、今井氏は六角氏に従ってしばしばの出陣命令を受けている。そして、浅井亮政が死去したあとを継いだ久政は京極氏に攻められて、ついに天文十八年(1549)ごろに京極高広に降伏し、浅井氏はふたたび京極氏に従うことになった。このころ、尺夜刃丸も成人して定清と名乗っていた。

 浅井氏の興隆と今井氏の衰退

 定清は今井の本領回復を六角氏に願って京極氏との境目に砦を望んだところ、磨針山の菖蒲岳に砦を築いてそこに拠ることとなった。しかし、その代償として三歳の幼子を求められ、人質として六角定頼に差し出した。浅井氏を臣従させた京極高広は、六角氏を討つにあたり菖蒲岳の定清を味方にするために書状を送った。しかし、これを知った六角氏の疑いを受け、人質となった幼子は定頼によって殺された。このことから、今井氏は旧主である京極氏方に復帰したのである。
 かくして、今井定清は京極方に復帰したものの、父秀俊切腹後に庇護を受けた六角氏への恩義があり、進退に苦しんで、結局、永禄三年(1560)ころまでひき籠ってしまった。しかし、同年五月、浅井久政の子賢政(のち長政)が、六角氏と決別して対戦するにあたって今井定清を招請した。定清は浅井長政に味方することに決し、六角氏との戦闘に力を尽くした。ところが、永禄四年七月の太尾城の夜襲において、敵と見誤った味方の槍で背後から刺されて戦死した。この定清の死によって、今井氏の衰退は決定的なものとなった。
 近江の諸豪が戦いを繰り返している間にも時代は大きく移り変わり、天下統一を目指す織田信長が勢力を拡大してきた。浅井氏は信長の妹を長政の室に迎えて、織田氏と同盟を結んだが、のちに朝倉氏のことで信長に反旗を翻した。この時代の激変に際して、今井氏は定清の子丸が幼少であったため、家臣嶋氏らが力を合わせて浅井氏の下で各地に戦った。
 しかし、浅井氏が「姉川の合戦」における敗戦を経て、天正元年(1573)に滅亡すると今井氏も離散の憂き目となった。丸はのちに成人して秀形と名乗り、天正十一年(1583)羽柴秀吉の滝川一益征伐に参戦したが戦死した。秀形には跡継ぎがなく、今井氏の嫡流は断絶した。
 とはいえ、今井氏は『嶋記録』などによれば、何流かの庶家があったようで、それらの家々がいまに今井氏の家名を伝えているとのことである。

箕浦城の戦い

永禄6年から浅井氏の六角氏に対する前線基地である佐和山城を守っていた磯野員昌は忠実に浅井家に仕えた。

織田軍に包囲された時、この付近の有力国人の今井氏、島氏、河口氏も城内にいて員昌と七か条の定書を交わして、一致団結してこの難局を乗り切ろうと誓い合った。

しかし8ヶ月も織田軍に包囲されては城の食料も矢玉も底を尽きかけ、ついに員昌は長政に援軍の要請をした。しかし長政単独では救援に向かえる余裕はなかった。員昌はそれでは佐和山城を捨て小谷城へ入りたいと申し出た。

しかし長政はこれを認めるどころか員昌に謀反の恐れありと人質だった員昌の母親を磔にして殺してしまった。もはや員昌の心は浅井家から離れた。隠居も考えた。

このとき信長はその剛勇を惜しみ織田家のために働いて欲しいと員昌を誘った。一旦は固辞した員昌だったがかつて家臣が誤って射殺したため親代わりに養育している国人今井高清の子供達の将来を考え、この申し出を受け入れた。

参考資料:滋賀県中世城郭分布6(旧坂田郡の城)、淡海国木間攫、佐々木南北諸氏帳、信長公記、武家家伝

 

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました

 


向山砦(浅井の本陣)  近江国(米原)

2012年05月25日 | 陣城

箕浦城の戦い・・・・浅井の本陣(向山砦)

所在地:米原市顔戸町     (旧坂田群近江町顔戸) map:http://yahoo.jp/5wJZCG

区 分:陣城・砦(浅井軍)

現 状:丘(小山)、雑木林

遺 構:土塁

築城期:織豊期(元亀2年1571年)

築城者:浅井七朗井規

目標地:双葉中学校

標 高:125m 比高差:20m

訪城日:2012.5.25

砦跡(南側の土塁)・・・・箕浦河原合戦の浅井京亮政の本陣跡

北側には顔戸山砦も遠望

信長公記 巻四 元亀二年

2、藤吉郎奮戦  箕浦合戦の事

 5月6日、浅井勢が動いた。この日浅井長政は軍勢を率いて姉川まで進出し、木下藤吉郎固める横山城へ向かって陣を立て備えた。そして先手足軽大将の浅井七郎に命じ、兵五千をもって箕浦①の堀秀村居城近くまで寄せさせ、在所在所に放火してまわらせた。
 この様を見た木下藤吉郎は、横山城に十分な兵を残した上でみずから百騎余りを引き連れて密かに城を出た。そして敵方に見つからぬよう山裏を密行して箕浦へ入り、堀秀村・樋口直房と合流した。しかしそれでも総勢はわずかに五、六百に過ぎず、その人数で敵勢五千②と対峙しなければならなかった。

 木下勢は寡兵の足軽をもって敵勢に立ち向かい、下長沢③で一戦に及んだ。この戦で樋口直房配下の侍多羅尾相模守が討死したが、そのことを知った多羅尾家来の土川平左衛門という者は主人の後を追おうと敵中に突入し、見事討死を遂げた。比類なき働きであった。
 このように苦戦した木下勢であったが、敵が一揆の集まりだったこともあり、なんとか突き崩して数十人を討ち取ることに成功した。さらに木下勢は下坂④のさいかち浜でも戦い、ここでも勝って敵を八幡下坂⑤まで追い崩した。味方の敗軍のさまを見た浅井長政は、得るところなく小谷へ軍勢を返した。

 ①現滋賀県近江町箕浦 ②原文には五千ばかりの一揆と記されている。おそらくは誇張 ③同近江町内 ④現長浜市下坂浜町 ⑤現長浜市神前町八幡神社

箕浦城の戦い(Wikipedia)

1571(元亀2)年じっくり作戦を練った信長は雪解けを待ち動き出す。信長は調略による浅井軍の切り崩し。

1571(元亀2)年2月24日、前年6月下旬に包囲していた佐和山城の城主磯野員昌が降伏、包囲軍の大将であった丹羽長秀が佐和山城の城守に。
  磯野員昌はそのまま織田家の家臣となり、織田方に寝返った。 これにより小谷城の南方の主要な城が織田方の手に渡る。

この状況を打破するべく浅井氏が動き出す。
狙うは小谷城から一番近くにある秀吉(当時、木下藤吉郎)が守る横山城です。
浅井長政は、横山城近くに陣を張り、城守の秀吉を出すためか、横山城を孤立させるためか、城の南方にある鎌刃城を家臣の浅井七郎井規に攻めさる。

鎌刃城を守るのは堀秀村と樋口直房以下500足らずの兵

一方の浅井井規が率いる軍勢には一向一揆も加わり5000に膨れ上がっていた。
横山城の秀吉はこの報を受け出陣を決意するも目の前には浅井長政の本隊が陣を張っていて動けない状況。
秀吉は、城兵のほとんどを城に残し、精鋭100騎のみを率いて出陣
 (この時、城代を任されたのは竹中半兵衛重治)

秀吉は浅井勢に気づかれないよう山の裏道を進み、堀・樋口軍と合流。
それでも依然10倍近い兵力差がありましたが、浅井井規が率いる兵の多くが一揆勢で、組織もまとまっていなかった、秀吉は積極的に攻める。

箕浦の下長沢で激しい戦闘になり、戦いで樋口の家臣多羅尾相模守や土川平左衛門が討ち死に。

浅井・一揆勢は秀吉軍の猛攻の前に北方の本隊へ向け敗走。しかし、下坂のさいかち浜で体勢を立て直し反撃に出るが結局、抗しきれず八幡神社下まで押し込まれ、兵を撤収した。

横山城も浅井本隊の攻撃を受けていましたが、秀吉の留守を任されていたのは「知将・竹中半兵衛」はみごとに守りきった。

箕浦の一戦。秀吉はなぜ危険を犯してまで出陣したのか、鎌刃を居城とする堀氏はこの地域(坂田郡)の有力国衆で堀氏を見殺しにすれば織田家に従っている江南の他の諸勢力が浅井氏に寝返る可能性もあった。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、信長公記、Wikipedia 

本日の訪問ありがとうございす!!

 


上野城 近江国(甲賀)

2012年05月20日 | 平山城

上野城祉
住所:甲賀市甲賀町油日字山崎 :甲賀郡甲賀町
目標地点:

区 分:平山城  ⑤比高:30m 
現 状:山林

遺 構:郭・堀・土塁

築城期:戦国期

築城者:上野氏

訪城日:2012.5.19

  県道から急な斜面を5mも登るとその後はゆるい斜面となり、すぐに主郭の土塁が見えてきます。主郭は岡の頂点にあり、甲賀の典型的な単郭方形の城という感じですが、滝川城・望月城並みの、規模の大きな、土塁も分厚いもので、土塁の外側を堀と、一部帯郭が巡っています。この主郭北側の帯郭にも分厚い土塁が残ります。さらに北側は10mほど落差があって、そこには運動場くらいの広い郭があります。西側には分厚い土塁、東側には土塁は低いですが、屈曲した土塁と食い違いになった虎口形状のスローブが確認できます。広い郭から主郭を見上げると、高低差と土塁の重なりでけっこう壮観な感じがします。

   

上野主膳正の城と伝わります。しかし、甲賀の一豪族の城の規模、縄張りではないような気がします。   


大原城 近江国(甲賀)

2012年05月20日 | 平城

大原城祉

所在地:甲賀市甲賀町田猪野 (甲賀郡甲賀町田猪野)  map:http://yahoo.jp/DmH-TR

目標地:長福寺

区 分:平城

現 状:宅地・田畑

遺 構:土塁・虎口・堀

築城期:

築城者:大原氏

駐車場:路上駐車

訪城日:2012.5.19

大原数馬の居館と伝えられます


和田城 近江国(甲賀)

2012年05月20日 | 丘陵城

これが甲賀教育委員会が立てた和田城跡の説明版である。これ以外に目印はない。

お城のデータ

所在地:甲賀市甲賀町和田 (甲賀郡甲賀町和田)  map:http://yahoo.jp/tFbQJO

築城期:室町期

築城者:和田伊賀守惟政

区 分:平城

遺 構:土塁、主曲輪、枡形虎口

目標地:善福寺

駐車場:路上駐車

和田氏の紋

和田氏の紋(七曜)
(七曜)

訪城日:2012.5.19
 

 

2段になった曲輪は20×20m,30×30mの方形であり、西側は急斜面で和田川へ落ち込んでいる。南側と東側は山の斜面で隔離されている。

 東側の斜面を山上へ続く道をたどり3mほど上がると、視界が急に開ける。山の斜面と思っていたのが、なんと土塁であった。高さ6m前後はあろうかという土塁と山の斜面を垂直に削り落とした壁に囲まれた削平地が現れた。その広さは50m×50mほどもあり、主曲輪と考えられる。

 曲輪内から後ろを振り返ると、入口の部分だけ土塁を築かず、幅3mほどの虎口を形成し、虎口に達するまでの道は3回の "折れ" が入れられている。

 北側の土塁は3mほどとやや低くいが、土塁を越えると急勾配の斜面となっており敵の侵入に対しても配慮されている。
 北側土塁の東隅に幅1mほどの虎口が設けられているが、虎口というよりも埋門的に使われたように思われる。
この和田城、規模こそ小さいが、城としての完成度は高い。近隣には和田支城Ⅰ、和田氏城Ⅱ、および足利義昭が滞在したとされる公方屋敷などがある。

歴 史

和田城の城主は和田伊賀守惟政と推定される。和田惟政は近江守護佐々木六角の軍奉行を務め、足利義昭を領内に亡命させ、細川藤孝らと共に将軍擁立に尽力した。

 惟政は雄琴城(大津市),芥川城(大阪府高槻市)となり、キリスト教伝来で有名なフランシスコザビエルを保護し、彼を信長に謁見させた武将として知られている。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)、淡海の城

                          本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝!!


かくれ里”甲賀武士のゆかりの城址を巡る”

2012年05月19日 | 戦国山城

会長さん  

「JR油日駅改築10周年記念ウォーク」(油日駅を守る会の主催)が5月19日、同駅周辺で開かれる。JR油日駅改築十周年を祝い、同駅から「甲賀武士」の魅力に触れる。コースは十三キロ。


 当日は午前十時半に油日駅に集合し、和田城跡(和田惟政居城跡)、大原城跡(甲賀武士大原家居城跡)、上野城跡(甲賀武士上野家居城跡)、木内城跡、油日神社、甲賀歴史民俗資料館を巡り、午後四時半に油日駅に戻る。

 定員は申込順百人。参加費百円。昼食時に鹿焼肉を試食する(希望者のみ)。また、参加者全員に「油日駅改築十周年記念バッジ」をプレゼントする。
 

かくれ里”甲賀武士のゆかりの城址を巡る”

  

   

 

大原城祉

昼食時に、鹿焼肉を試食するの試食会・・・。低カロリー低脂肪で、いくら食べてもお腹にもたれないヘルシーな鹿肉をお召し上がりください。

極楽寺

極楽寺は推古13年(605年)聖徳太子の開基と伝えられる。創建当時は殿堂、楼門があり、この地方の豪族大伴氏一族の香華院と呼ばれていた。文禄年間(1592~1595年)に消失し、宝永3年(1706年)に現在地に移転される。現在の本堂は大正8年(1919年)に建てられたものである。

和田伊賀守惟政の供養塔(左の写真)

和田氏は10世紀中頃の応和年間(961~964)従四位下源武蔵守満政を祖とし、(一説には、源為朝が甲賀に逃れた時に、為朝と村の娘との間に生まれた子供が和田氏と名乗った、とも伝えられています。)

 永和年間(1375~1379)に足利義満に仕えた13代当主和田太郎左衛門氏家が和田に移り住んだとされ、氏家より7代目の子孫である和田惟政の時代に足利幕府最後の将軍義昭が惟政を頼って和田の館「公方屋敷」の4ヶ月間あまり滞在し、細川藤孝や惟政と共に幕府再興の謀議を重ねたことは良く知られています。

和田惟政は室町時代の武将で、近江守護佐々木六角氏に仕えていました。

しかし、義昭を擁立した将軍直臣としての立場と織田信長に仕える武将として数々の軍功を立て、永禄12年には摂津国で茨木・高槻二城の城主として重きを成しました。

しかし、反信長勢力との戦いの中で、元亀二年(1571)に摂津白井河原の合戦で討死し、安土浄源院墓地に葬られました。現在は出身地の甲賀町上野の極楽寺にも惟政の五輪塔があります。

上野城祉

      

木内城祉

 

油日神社へ

   算木積の石垣の参道を進むと

回廊付きの檜皮葺の楼門  油の奉納品が・・・

桧皮葺の拝殿

桧皮葺の本殿コウヤマキ(滋賀県指定自然記念物) 

 油日神社の1の鳥居がら、油日駅へ

本日の歩数 24,393歩 3時間46分 17.0km
消費カロリー 917.4kcal 脂肪消費量 131.0g
ちょっと、疲れました。

石垣から構造が見えた 観音寺城跡の調査 報告と考察

2012年05月12日 | 歴史講座・フォーラム

=7メートル級の高石垣など まるでマチュピチュのよう=

観音寺城石垣調査の報告と新説を含めた研究発表を行った講座――県立図書館大会議室で――

◇近江八幡
 県教委文化財保護課はこのほど大津市瀬田南大萱町の県立図書館で開いた講座「観音寺城の石垣を探る 史跡観音寺城跡石垣基礎調査の成果」で、平成二十年度から二十三年度まで四年間の石垣基礎調査の成果と、それを元にした観音寺城の構造についての新しい見方を報告した。

 上垣幸徳副主幹は「観音寺城の石垣――史跡観音寺城石垣調査の成果――」で、観音寺城の大きな特徴の一つである石垣の場所・形態・数量などの調査結果を報告した。
 調査は、今後の研究のベースとなる基礎データづくりのためのもので、観音寺城跡約二百五十九万平方メートルで踏査と発掘調査を行った。
 観音寺城跡のある繖(きぬがさ)山全山で九百四十八か所の石垣を確認。山塊中央部分に約五十五%(五百二十二か所)が集中し、桑実寺・宮津口付近に約二十九%(二百七十六か所)、意外だったのが繖山南側の鳥打山西側斜面の約十六%(百五十か所)。石寺地区は史跡指定外で今回の調査では対象から外れた。

 鳥打山西斜面には一段高い道「すばせ」の両側に石垣をもつ造成地を確認することができた。ここは桑実寺から遠く、観音寺城からからの延長とも考えにくい。「信長公記」に鳥打山に屋敷地造成の記述があり、安土城の時代のものと評価できなくもないが、石垣の状態から安土城のものよりは古いので、観音寺城の出城ではないかと推考した
 発掘調査は二十―二十二年度に埋没した石垣の掘り起こしを行った。本丸付近で平坦地や通路の石垣、観音正寺から本丸への通路の石垣などを確認することができた。
 今回の調査では、対象外となった石寺地区や繖山南側斜面の石垣の把握や、新しい石垣の中に古い石垣など今まで想定していなかった部分に石垣が出てくる可能性など、今後の課題も見えてきた。
 踏査・発掘調査の成果を今後どのように 観音寺城跡を保存して、管理して、活用していくかを考える上での第一歩にしたいと締めくくった。

 仲川靖主幹は「観音寺城の構造――主として石垣よりみて――」で、今回の調査成果から、繖山にそびえ建つ観音寺城の姿を浮かび上がらせた。
 これまで観音寺城は「攻めやすい城」「城らしくない城」などと評価を受けていたが、その築城課程を眺めるとそうではなく、城郭のセオリーを守って防御に徹している城であることがわかった。
 観音寺城の石垣の特徴は、同じ大きさの石を縦に重ねる「重ね積み(重箱積み)」、城や郭の防御機能をもつ入り口となる「虎口」外側隅角に大石を使う、三メートルを超える高石垣の分布(最大七メートル)などにあり、縄張りの外郭ラインを東山道から見ると石垣がそびえ建つ「ペルーの世界遺産マチュピチュ」のように見えたのではないかと、視覚的にとらえた。

 虎口・石垣・尾根筋の郭をつなぐとその構造は、三国丸を中心(ピーク)とする馬蹄形で、従来の城の形に合致することを強調した。
 また、各郭に虎口があって、それぞれが独立していることから一見「梯郭(ていかく)式」(本丸を城郭の片隅に配置し、周囲の二方向、三方向を他の郭で囲む縄張)に見えるが、「六角氏式目」を踏襲した独立した配置になっているとした。

 東端には布施淡路丸を中心とする出丸郭群があり、南側に続く造成団地のような一番おかしな構造体部分は、ある時期に後藤・進藤邸などが順次追加され、信長の時代にこのような形になったと考える。

 天下の名城とうたわれる安土城の築かれた安土山を見下ろす繖山に、安土城より先に石垣をもって築かれた観音寺城。そのスケールと歴史は安土城の比ではない。中世五大山城に数えられるだけに、その調査研究が日本城郭史研究にもたらす影響は大きい。
 講座参加者は今回の報告が、今後の調査・研究へのひとすじの光明となることを確信した。


織田信長のルーツはここ 津田親眞

2012年05月10日 | 番外編

平親真

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
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平 親真/忌部 親真(たいら の ちかざね/ いみべ の ちかざね、生年不詳 - 正元2年2月18日1260年3月31日)/正応3年2月19日1290年3月31日[1][2])は、平安時代末期から鎌倉時代初期の人物。織田氏津田氏の祖とされ、織田 親真とも呼ばれる[3]別諱は親実とも表記される。通称は三郎。官位権大夫

経歴 [編集]

神祇権大祐斎部親澄富田三郎基度の孫娘(あるいは蒲生親長の娘)との間の子とされる。貞永2年(1233年越前国丹生郡織田荘の織田神社(劔神社)神主。正嘉2年(1258年出家し、覚性と号した。

平資盛の子とする説 [編集]

一般に流布している織田氏の系図[4]では、親真を平資盛と資盛の愛妾[5]であった三井寺一条坊の阿闍梨真海の姪の間の子とする。

寿永4年(1185年)の平家滅亡に際して、資盛は子を身ごもっていた親真の母を近江蒲生郡津田庄に隠した[6]。母はそこで親真を産み、津田の土豪の妻となり、親真も津田姓と名乗ったとされる。その後、親真は斎部親澄の養子となり、斎部姓へ改め、神職についたという。その後、親真が剃髪して、覚盛と号したとされる。

しかし、この説は親真の後裔にあたる織田信長天下統一した際に、本姓を藤原氏から桓武平氏に改姓するために系譜を仮冒したものであり、実際には資盛の実子である覚盛と親真とは別人と考えられている。2011年平成23年)11月1日、福井県越前町教育委員会の発表によると、同町法楽寺で発見された親真の墓石の一部に親真死亡年月日が刻まれており、資盛の子だとすると100歳を超えることが明らかとなった[1][2]ため、小和田哲男は平氏に繋がる家系図は書き換えたものとしている[2]

脚注 [編集]

  1. ^ a b 信長は平氏ではない! 祖先の墓発見2011年11月2日・産経新聞)
  2. ^ a b c 織田信長に系図書き換え疑惑  平氏の子孫を偽装?(2011年11月2日・読売新聞)
  3. ^ 藩翰譜
  4. ^ 「織田系図」(『続群書類従』巻第142所収)など。
  5. ^ 女流歌人の建礼門院右京大夫とは別人
  6. ^ 資盛が親真の母への餞別として詠んだという「近江なる津田の入江のみをづくし、見えぬも深きしるしなりける」という和歌が伝わっている(「織田系図」)。

=近江八幡市南津田町に有志で=

念願の顕彰碑を除幕する津田荘歴史研究会のメンバーや有志

◇東近江・近江八幡
 天下の名将、織田信長のルーツは近江八幡市南津田町の津田親眞(つだ・ちかざね 一一八三―一二五九)であることを示す顕彰碑が地元に建立され、このほど除幕式が行われた。
 顕彰碑は、平成二十年九月に発足して地域の歴史の掘り起こし、住民にもほとんど知られていなかった津田親眞の史実を発見した津田荘歴史研究会(速水貞夫会長)や有志らが、誇るべき郷土の歴史に光を当て、後世に継承し、歴史のまちづくりの起爆剤にしようと、平成二十一年八月から顕彰碑建設をめざして研究調査、資金調達に取り組み、実現させた。
 研究会会員から提供された私有地に整備したポケットパークに、白御影石製の高さ二・五メートル、幅一・三メートルの「近江国 津田・織田一族始祖 津田親眞顕彰之碑」と、高さ一・六メートル、幅〇・八メートルの由来の碑が立つ。また、建立を記念した冨士谷英正市長による記念樹が植樹されている。
 除幕式では、執念の大発見とも言える研究会の調査研究の成果が披露された。「平安末期、平資盛(すけもり)の子として近江国津田郷で誕生した親眞は、越前国(現在の福井県)織田荘の劔神社に養子に行き、その子孫が尾張守護職となり織田に改名し、親眞から十四代目の子孫として信長が誕生する」ことを証明するため研究会はあきらめずに現地調査を続けた結果、福井県丹生郡越前町(旧・織田町)の法楽寺で放置されていた地輪(五輪塔)に刻印された「親眞阿聖霊正應三年庚寅二月十九日未尅」の文字と位牌、劔神社の伝系図に息子の親基が父の命日に五輪塔を法楽寺に建立したという記述を発見。親眞と信長(織田家)をつなぐ物証を得た。顕彰碑には、両家の同一の家紋「五ツ木瓜」が刻まれている。
 関係者や県・市議ら約四十人の出席者を前に、有志を代表して西川新五良さんは「安土町と近江八幡市の合併記念になった。南津田町の宝にしたい」と、歴史会の努力と大勢の人の協力に感謝した。
 冨士谷市長は研究会の努力に敬意を表し、「安土と津田のつながりを感じた。津田のまちづくりの礎に、また、このような活動が(たくさんの文化財が埋もれている)市内に広がることを願う」と祝った。http://www.shigahochi.co.jp/info.php?type=article&id=A0008532