近江の城郭探訪

「近江を制する者は天下を制する」と京の都を目指す天下取りには、近江は京都の護りの最大の砦で、最後の砦。1300余の城館跡

平井氏屋敷 近江国(安土)

2017年04月20日 | 居館

屋敷跡比定地

お城のデータ

所在地:近江八幡市安土町上豊浦 map:http://yahoo.jp/YHCc-f

現 状:田地

区 分:居館

築城期:室町期

築城者:平井氏

目標地:活津彦根神社

駐車場:路上駐車

訪城日:2017.4.14

お城の概要

安土城への活津彦根神社の参道脇の圃場。城跡には家が建たぬ!とか?

此処のこの一区は、圃場としぢて住宅はない。安土城築城時は城下町であった所。

お城の歴史

平井氏 『蒲生郡志 増補 昭和篇 第2巻』四九頁 

佐々木氏の支流より出てし平井氏には三流あり、

一は佐々木経方の三男豊浦冠者行寛の孫井源太家寛の長子源八家員を祖とするもの。

二は行寛の弟牛屋冠者愛智四朗太夫家行の二子家次を祖とするもの。

三は高島郡に分かれし佐々木高信の孫八郎奏氏の三子五郎師を祖とするもの。

「佐々木庄在住し、安土山下大字上豊浦の一部を平井と称するは此子孫に相傳せし土地なり、天文十三年十月連歌師宗牧が佐々木氏の観音寺城に登り連歌会ありし時、平井加賀守の亭に臨みし條に亭主知行豊良の里の眺望成べし云々、とある即ち平井氏の所領豊浦内にありしを證するものなり。」と記す。

 

蒲生郡の平井氏

佐々木秀義の叔父・愛智源四郎家行の子の家次が平井下野権守と号し、その子の平井六郎家政、その子が蒲生郡の佐々木宮(式内社の沙沙貴神社。蒲生郡安土町常楽寺)の神主となった平井三郎定景であり、その子に平井三郎定能・佐々木宮神主定信兄弟がいた。

愛智源四郎家行の兄・井上三郎大夫(豊浦冠者)行実の曾孫も平井源八家員というが、井上行実・愛智家行兄弟の後裔諸氏は、蒲生郡西部(安土町・近江八幡市)に繁衍したから、現在は確認できないが、平安後期ころには蒲生郡にも平井の地があった可能性がある。

平井定武  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 

 
平井定武
時代 戦国時代
生誕 不詳
死没 不詳
別名 右兵衛尉、加賀守(通称)
墓所 滋賀県愛知郡愛荘町の西生連寺
主君 佐々木六角定頼→義賢→織田信長
氏族 平井氏
父母 父:平井高好、母:某女
高明、娘(浅井長政正室)

平井 定武(ひらい さだたけ)は、佐佐木六角の家臣。子に平井高明、娘は浅井長政の正室(先妻)。通称は加賀守。

生涯

近江の大名・佐々木六角氏の家臣である平井高好の子として誕生。

定武は、後藤賢豊、蒲生賢秀、三雲成持らと並んで六角氏の執政を支える六宿老と呼ばれ、近江国栗太郡平井(平居とも)に拠点を構えたとされる。大永5年(1525)の六角氏と浅井長政との戦いでの出陣や、天文22年(1553)11月の浅井氏との和議に関する書状、さらには石山本願寺への使者として派遣されたことが本願寺側の記録に見えることから、家中で重きを置かれていたことがわかる。また、六角氏に臣従した浅井久政の子・浅井賢政(のちの長政)の烏帽子親をつとめ、後に娘を長政の嫁に送り込んだ。しかし、六角氏の専横に怒った浅井家臣団が久政を廃して長政を擁立すると、娘は離縁され娘は平井家に送り返されたという。

永禄11年(1568)、織田信長が近江に侵攻すると六角氏を離反して信長に降った(『言継卿記』)。以後の消息は不明である。

なお、『浅井氏家譜大成』によると、離別された娘は長政との間に浅井万福丸を産んだとされ、そのため定武は万福丸の外祖父にあたるとされる。

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『紹巴富士見道記の世界』内藤佐登子著では、戦国末期から安土桃山時代にかけての高名な連歌師、里村紹巴(1525生~1602没)が永禄十年(1567)春に富士見物に旅立ったときの道中記録を綴った紀行文が「紹巴富士見道記」であるが、紹巴が出会った六角家家臣の中に孝子平井加州(加賀守)・同威徳院(加州の弟か)の名が見える。
 平井加賀守定武の父は高好(右兵衛尉、加賀守)であり、大永六年(1526)十二月に右兵衛尉高好、翌七年正月に平井右兵衛尉と『宗長日記』に見え、次に天文十三年(1544)十月に平井加賀守、平井右兵衛尉と『東国紀行』に見えており、さらに『天文日記』には天文二三年(1554)二月に平井加賀入道と見えるとされます。これらのうち、天文十三年の平井右兵衛尉だけが定武で、残りは父の高好であって、「右兵衛尉→加賀守→加賀入道」と呼称が変化しています。息子の定武も、父を踏襲して「右兵衛尉→加賀守」となったことになります。
 このほか、①加賀守を称した高好・定武系が平井氏三流のなかで、守護家に最も重く用いられたこと、②『東国紀行』に平井氏知行の地が「豊良(豊浦)の里」と記され、現安土町下豊浦に平井の地名が残ること、下豊浦小字神楽のうちの刑部は平井刑部の邸跡、小字十七のうちの蛭子は平井氏が蛭子神を祀ったという伝承が残ること、③定武は宗養と両吟を巻くほどの文化的教養の持ち主だったこと、なども内藤氏は記しています。
 田中政三氏の『近江源氏』には、永源寺文書・東寺文書に大永・天文の頃には加賀守平井高好がいて、はじめ右兵衛、後に平井加賀入道宗和と称したとあることを紹介し(ただし、典拠は確認できなかったとも記す)、この高好が永禄四年(1561)に没したとすれば、光岳和尚とも符合すると内藤氏は記しています。

 紹巴が永禄十年(1567)に出会った者のなかに、蒲生左兵衛大夫賢秀・鶴千代(氏郷の幼名)という親子の名も挙げられるのは、興味深いと思われます。
 
 
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