城郭探訪

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玄蕃尾城(内中尾山城)  近江国(余呉) 

2018年06月24日 | 陣城

写真の説明はありません。 

お城のデータ

所在地:長浜市余呉町柳ケ瀬小字北尾624
別 名 :内中尾城

築城期:室町期

築城者:豪族 柳ヶ瀬秀行
改城期:織豊期 賤ヶ岳戦い天正11年(1583)
改城者:柴田勝家の家臣である佐久間玄蕃允盛政

現 状:山林(柳ケ瀬山頂)
区 分:陣城
遺 構:土塁、堀、土橋、馬出虎口、八曲郭、竪堀、空堀、櫓台
城 域:
標 高:459m     比 高:220m 

目標地:玄蕃尾城下の駐車場・刀根坂峠

 国道365号(北国街道)線を柳ケ瀬から敦賀方へ走り、トンネルを抜けたところをスグに右折して林道を約2km。

駐車場:刀根地区の林道に7~8台駐車可

訪城日:2018.6.24

お城の概要

築城時期

以下のように諸説ある。朝倉氏の山城を勝家軍が整備、または賤ヶ岳の戦いの時期に初めて築城という、主に2つの見方がある。

15世紀の豪族 柳ヶ瀬秀行が築城。

朝倉氏の家臣の 疋壇対馬守久保が築城。

朝倉氏の家臣の 朝倉玄蕃助景連が築城。

天正6年頃 柴田勝家が北国街道を整備した際に、越前衆を使い築城。

天正10~11年頃 羽柴秀吉との戦いに備え、勝家の家臣である佐久間玄蕃允盛政が築城。

 

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 国指定史跡「玄蕃尾城(内中尾山城)」

 柳ケ瀬山(中尾山)の尾根上に位置し、織田軍と朝倉軍が戦った刀根坂の戦いの舞台の刀根越(倉坂、久々坂ともいう)がすぐ南にある、また北國街道(現在の国道365号)を見下ろせる軍事上の要所に位置している。

 玄蕃尾城(げんばおじょう)跡は賤ヶ岳合戦の際に柴田勝家の本陣となった城です。 賤ヶ岳合戦といえば七本槍(しちほんやり)が著名ですが、実は合戦史上最大の築城戦(※)であったことはあまり知られていません。

  織田信長亡き後に羽柴秀吉と柴田勝家は後継者争いをはじめます。

 天正11年(1583)2月には柴田軍の先鋒として前田利家、利長父子が江北に出陣します。柴田軍の布陣に対して羽柴軍も東野山~堂木山間を最前線として布陣します。この両軍の布陣にともない築かれたのが「陣城」と呼ばれる臨時築城の城です。以後4月28日の合戦までの約2ヶ月にわたり両軍はこの陣城に籠って睨みあいます。

  こうした陣城が余呉、木之本に約20ヶ所も構えられました。ところで長浜城歴史博物館や大阪城天守閣に所蔵される「賤ヶ岳合戦図屏風」には秀吉軍の本陣となった田上山砦や、東野山砦、賤ヶ岳砦、大岩山砦などが城郭として描かれており、江戸時代の人々は賤ヶ岳合戦で城が構えられていたことはよく知られていたようです。玄蕃尾城出枡形土塁

 この陣城群中、最も大規模で発達した城郭構造を示すのが玄蕃尾城です(図)。土塁(どるい)を巡らせた方形の主郭(写真上)には天守台に相当する櫓台(ろだい)が北東隅に構えられています。そこには礎石が認められることより実際に櫓(やぐら)が建てられていたことはまちがいありません。この主郭の南、東、北の3方向には虎口(こぐち)と呼ばれる城門が構えられており、特に南と北の虎口の前面には直進を妨げる出桝形(でますがた)と呼ばれる方形の小曲輪(こくるわ)が突出して配置されています(写真下)。また主郭や出桝形の周囲には深くて幅の広い横堀が巡らされています。

 こうした構造は16世紀後半の発達した城郭構造を示す貴重な陣城遺構として平成11年に国史跡に指定されました。次回はこの陣城を築いた賤ヶ岳合戦の経過を紹介しましょう。(滋賀県立大学准教授 中井均)

※築城戦=城を築いて向かい合いながら戦うこと

参考資料:Wikipedia、現地見学会レジュメ、現地説明板・・・

本日の訪問ありがとうございす。


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