
前作『ハッシュ!』が国内外で絶賛された橋口亮輔監督が、6年ぶりにオリジナル脚本に挑んだ人間ドラマ。1990年代から今世紀初頭に起きたさまざまな社会的事件を背景に、困難に直面しながらも一緒に乗り越えてゆく夫婦の10年に渡る軌跡を描く。主演は『怪談』の木村多江と、『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』の原作者リリー・フランキー。決して離れることのない彼らのきずなを通して紡がれる希望と再生の物語が、温かな感動を誘う。[もっと詳しく]
どこにでもいそうな、この不器用なふたりに、幸あれ!
リリー・フランキー扮するカナオは、僕たちの周りにいくらでもいそうな男にみえる。
女には少しだらしがない。もてたいというスケベ心がどこかに見え隠れするが、プレーボーイ風に自意識を持っているわけではない。
くだけた調子で、親和的な口を無意識にきいてしまうのだ。
けれど、相手の女性の方は、その馴れ馴れしさに対して、どこかとらえどころのない胡散臭さを感じて、普通は引いてしまう。
要は、もてるタイプの男ではないのだ。
一方、カナオのような男は、同性に対しては、どこか腰がひけてしまうところがある。
相手が、要領がいい男であったり、自信満々であったり、自分のペースでわめきちらすようなタイプだと、困ったなぁという風情で、後ずさりしてしまうのだ。
とくに、集団の中に置かれた時には、自分から場をひっぱったり、発言したりすることはまずない。
そういう役割設定を振舞うこと自体が、心底、苦手なのだ。
相手のことがある程度了解でき、1対1で向かい合う時は、相手の心に届く言葉を、ぼそっと呟くことになる。
相手の気持ちを推し量る心や観察眼は、十分すぎるほど持っているのだ。
木村多江扮する翔子も、これまた、普通にいそうなタイプである。
しっかりやさんで、責任感を十分に持っている。
ひとつひとつがきちんと確認できていかないと、気持ちが悪い。
潔癖症のようなところがある、といってもいいし、融通が利かない、といってもいい。
決して、ユーモアがないわけでもないし、きつい性格でもない。
だけど、自分にも相手にも、ルール、決め事を設けたいのだ。
そのルールをこなしていくことが、自分が自分らしくあるために必要なことだと思いなしている。
そういう性格は、ときとして、不本意ながら、相手に息苦しさを与えることになってしまう。
カナオも翔子も、どうみても、世渡りがうまいようには見えない。
けれども、この二人の「対」としての関係性は、悪くはない。
なんのかんのと、口論したり詰りあったりするが、それもまた、夫婦の仲でのじゃれ合いのようなもので、微笑ましく思えたりもする。
お腹が大きくなってきた翔子に、気遣うような温かい眼差しを向けるカナオ。
すっかり心を許した風に、しっかりとカナオのTシャツを握り締める翔子。
どうか、この世間的には、生き下手のようにみえる二人に、つつましい幸せが訪れますように・・・観客は、ひそかにそう思わざるを得ない。
けれども、人生は、なかなかうまくはいかない。
翔子は、中絶することになる。
部屋に置かれた位牌。小さな飴玉。
ここから、翔子は、精神的に病んでくることになる。
心療内科に通うようになるが、たぶん、欝であると診察されたのだろう。
ある日を境に、急激に症状が変わるわけではない。
翔子は緩慢に蝕まれていく。
自分で自分を、徐々にコントロールできなくなる。
カナオは、そんな翔子に辛抱強く付き合うことになる。
法廷画家という職業の中で、90年代のまだ僕たちにも記憶の範疇にある兇悪犯罪、不条理犯罪、宗教犯罪・・・その被告人たちの強弁、開き直り、悔悟、あるいは無表情につきあいながら、人間の複雑さ、人間の罪悪性、人間の不可解さを覗き見る日々を持ちながら・・・。
そうした時間が10年、長い長い重苦しい時間、あるいはあっという間に過ぎ去った時間。
翔子も治療の一環で通っていた寺の尼僧の心遣いもあり、だんだん快復の兆しがみえるようになってくる。
ことに、茶室の天井の絵を依頼され、絵筆を取り、心を集中させていくようになる。
カナオは、米を炊ぎ、花に水をやりながら、そんな翔子に優しく寄り添う。
絵も完成して、天井に据え付けられ、カナオと翔子は畳みの上に二人並んで、寝転がる。
思わず、笑いがこみ上げる。
カナオと翔子は、互いに、足を相手に絡ませる。
10年前に、じゃれあっていたように・・・。
理由は不明だがカナオの父は自殺している。
彼は自分の肉親の話はほとんどしない。
翔子の父は、家を出て、違う土地で別の女と住んでいる。
彼女は母親や兄夫婦と付き合ってはいるが、どこか上の空で、自分の肉親に暑苦しさも感じている。
そんななかに、カナオが入り込んでも、カナオは何もいわず、黙っているだけ。
カナオも翔子もいってみれば、天涯孤独のようなものだ。
だから、このふたりは、「めんどうくさいけど、いとおしい。いろいろあるけど、一緒にいよう」と思うことができるのかもしれない。
ぐるりとまわって、またふたりになれたのだ。
橋口亮輔監督の6年ぶりの作品だ。
ぴあフェスティバルで注目され、「二十歳の微笑」(92年)、「渚のシンドバッド」(95年)、「ハッシュ!」(02年)と、つねに注目作を発表し、世界的にも注目されていた若手監督だ。
監督自身が、「ハッシュ!」発表以来、長く欝に入り込み、「死ぬことしか考えられなかった」経験を、この脚本に込めている。
だから、「翔子は僕だ」と、インタヴューで答えている。
僕たちは、時間に追われながらの法廷画家のスケッチをこなしながら、そういうタッチではなく、カナオが丁寧に愛情を込めて、祈るような気持ちで、描いた3枚の写生画を見ることになる。
1枚は握り締めることがなかった赤ちゃんとその手。
もう1枚は、ガン病棟で微笑む翔子の父親。
そして、最後に翔子そのものの絵。
カナオは法廷画家の仕事をしながら、この世界の不幸の根源、悪意の存在、人と人との暝い翳といったやりきれない法廷劇に付き合っている。
だからこそ、自分の間近な存在に、真摯につきあっていきたい、とでもいったような丁寧なその絵の描線に、僕たちは心が震わされる。
そして、静かに、祈るように、小さな声で、呟きたくなる。
このどこにでもいそうな、不器用なふたりに、幸あれ!と。
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TBさせてもらいます。
この映画を僕は上半期の邦画の1位にしました。
法廷画家という視点もなかなか興味深いですし、
色々な角度からの10年という描き方も良かったです
よね。
ブログでも書かれていますが、僕も3枚の絵は
大変印象深いです。
橋口監督の色々な思いがこもった映画だと
思います。
1位ですか。
地味な映画ですけど、その価値はあるかもしれませんね。
僕は、橋口監督が病的な欝で苦しんでいたとは、解説を読むまでは、知りませんでした。
夫婦のことって夫婦にしか分からないものですよね。
夫婦の数だけ夫婦の関係があるのかも。
>「めんどうくさいけど、いとおしい。いろいろあるけど、一緒にいよう」
そう思えるのが夫婦なんでしょうね。
男女(夫婦)のことは、犬も喰わないけど、喰わないからいいのであって、だからこそ百人百様のかたちがあるんでしょうね。
カナオの描く絵の一枚一枚を思い出すと(特に赤ちゃん)涙が出てきそうです。
哀しみを大声で慨嘆しないんですけどね、静かに堪えている姿が伝わってきますね。
リリー・フランキーは多才な人のようですが、本作でも良い味を出しているのは意外な発見でした。
リリーさん、映画初出演なんですね。
自然体な感じが、良かったですね。
木村多江は地味な感じの日本美人ですね。でも僕のようなおじさんには、派手な女優よりずっと好感が持てますね。とにかく演技力が素晴らしかったですね。
モデルあがり、グラビアあがり、お笑いあがりの女優さんが多くて、こちらがおじさん化したのかもしれませんが、ついていけませんな(笑)