西洋音楽歳時記

旧称「A・Sカンタービレ」。07年には、1日1話を。その後は、敬愛する作曲家たちについて折に触れて書いていきます。

ブルックナー「交響曲第7番」

2007-12-30 09:48:30 | ロマン派
今日は、ブルックナーの「交響曲第7番」が初演された日です(1884年、ライプツィヒ)。
ブルックナーは、「交響曲第7番」を1881年の9月に作曲を開始した。第6番を完成した直後のことである。そして82年末に第1楽章を完成したが、その間には第3楽章を完成させてもいる。次いで、第2楽章に取り掛かったのが、83年の1月22日であった。そして4月21日にこの楽章を完成させたがその間にブルックナーにとって一つの大きな事件が起こった。師と敬愛するワーグナーの死であった。2月14日音楽院で前日にワーグナーの亡くなったことを聞き、ブルックナーは悲嘆に暮れたという。このときこの楽章のコーダの直前まで書いていた。そしてこの楽章の最後の個所にワーグナーの名を音で書き記したのだった。それは、音符を繋げるとWの文字になるというものだった。ちょうどこれは楽章中のWが付された個所でもあった。終楽章はこの年の9月に完成した。
翌84年に初演ということになったが、最初6月27日に予定されていたものが、11月になり、そして結局年も押し詰まったこの日ということになった。指揮はニキシュが担当した。ニキシュは、かつて73年10月26日の第2交響曲の初演でバイオリン・パートを弾いていた。そしてそれ以来、ブルックナーの音楽に興味を持ち、この第7番の初演に際してもあらかじめ批評家を招いてピアノでこの作品を紹介するなどしていた。初演は大成功を修めた。喝采は15分続いたと言う。この第7交響曲をもってブルックナーは名声を確立したのだった。ニキシュはこの後、フォン・ビューローの後を継いで、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の第2代常任指揮者になっている。
ブルックナーは、この第7交響曲をバイエルンのルートヴィヒ2世国王(ワーグナーの庇護者)に献呈したが、次の作品第8番は皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に、そして最後の交響曲となった第9番(未完成)は「愛する神」へと献呈したのだった。



ブルックナー「交響曲第3番」

2007-12-21 13:21:12 | ロマン派
今日は、ブルックナーの「交響曲第3番(第3稿)」が初演された日です(1890年、ウィーン)。
ブルックナーにあまり馴染みのない人にとっては、この第3稿の表記は何だろうと思うかもしれません。普通、たとえ改訂稿(版)で演奏されていても、それを改訂版と表記することはないでしょう。シベリウスのバイオリン協奏曲やチャイコフスキーの幻想序曲「ロメオとジュリエット」などは普通演奏されるのは改訂版ですがそれは表記されないことが多いと思います。しかしブルックナーにあっては、この記載はとても重要な意味を持ちます。以前も書いたと思いますが、ブルックナーほど一度書いた楽譜に手を入れることが多い作曲家はいないでしょう。多くの場合それはブルックナーの交響曲を世に知らそう・受け入れられるようにという友人たちのアドバイスによるものでした。しかし時には作曲家を落胆させることもあったでしょう。ブルックナーは「助言」に従い改訂を頻繁に行いました。その結果、半数以上の曲において大きな改訂を行うことになりました。中でも特にこの第3番は改訂に次ぐ改訂を行い、第3稿が出現するまでになりました。このブルックナーの改訂の跡を辿る研究は既に多くの人によってなされ、私も勉強させてもらっています。
この交響曲第3番の第1稿は、1872年から73年にかけて、それに74年に書かれました。まさにこれはワーグナーの「タンホイザー」の世界です。(第3番は、ワーグナーに献呈され、「ワーグナー交響曲」のニックネームが付いています。)その後、76年にアダージョ楽章の第2番と呼ばれるものが書かれました。そして76年から翌年にかけて第2稿が書かれます。これは編集者の名前を取ってエーザー版と呼ばれることがあります。その後、10年以上たった1888年から89年にかけて第3稿が出来上がります。第8番の第1稿が作曲され、その改訂版である第2稿を書く時期にあたっています。交響曲第3番についてはこのような複雑な問題があるのです。
私は、この第3番では、第3稿をよく聴きます。それはウィーン・フィルを指揮するシューリヒトが名演を聴かせてくれるからです。第2稿をベストとして取り上げる指揮者もいるようです。第1稿はあまり取り上げられていませんついでに言うと、マーラーはこの交響曲を2台のピアノ用に編曲していますが、それは第2稿によっています。。
ブルックナーの交響曲では、ニックネームの付いた第4番「ロマンチック」と第7番が特によく取り上げられますが、私はこの第3番も好んで聴く交響曲の一つです。クラシック音楽入門時には、人がブルックナーの交響曲について何を言っても関心を持てなかったのですが、今では是非多くの人に聴いて欲しいと思っています。

シューベルト・付随音楽「キプロスの女王ロザムンデ」

2007-12-20 10:51:16 | ロマン派
今日は、シューベルトの付随音楽「キプロスの女王ロザムンデ」が初演された日です(1823年、ウィーン)。
シューベルトは、リート作曲家として有名だが、「未完成」や「グレート」などの交響楽作品それにピアノ曲や室内楽作品も多く聴かれています。しかし、大規模な協奏曲を書いていないということと同様に劇音楽も書いていないのではと言う人がいるかも知れませんが、これは間違いです。シューベルトは20近い劇音楽作品を書いています。しかし初演後評判を取り、長く上演され続けたという作品はとうとう一つも残しませんでした。私は、断片も含めできればそのすべてを聴いてみたいと思っているのですが、以前も述べましたが、「アドラスト」ヤ「ザクンターラ」はその片鱗さえCDなどが出ているというのを聞いたことがありません。非常に残念なことです。しかし「グライヒェン伯爵」など聴けないと思っていた作品が出されたりして、最近シューベルトのこの分野に光が当てられるようになったことは嬉しい限りです。
「キプロスの女王ロザムンデ」は、オペラではなく付随音楽です。序曲と9曲の楽曲よりなりますが、序曲は少し前に作曲されたオペラ「アリフォンゾとエストレッラ」のそれを代用しました(「魔法の竪琴」の序曲を用いたと主張するアインシュタインのような学者もいます)。だからシューベルトが「ロザムンデ」のために書いた曲は9曲ということになりますが、間奏曲やバレエ音楽はいかにもシューベルトならではの音楽という気がします。一度聴けば好きになってしまうような曲ではないかと思います。今手元にこれらの音楽がなかったので、第3曲bにあたるロマンス「満月は丘の上に輝き」を聴きました。これも佳曲だと思います。しかし「ロザムンデ」も2回上演されただけで終わってしまった。シューベルトはこの舞台用作品「ロザムンデ」を「無駄に作曲した」のであった。

シューベルト・交響曲第8番「未完成」

2007-12-17 07:22:11 | ロマン派
今日は、シューベルトの交響曲第8番「未完成」が初演された日です(1865年、ウィーン)。
シューベルトは、おそらく彼の他のすべての交響曲と同様、これも4楽章構成にするつもりだったのだろう。しかし、完成したのは最初の2楽章だけだった。だから「未完成」というわけである。シューベルトには、前にも記したが、ピアノ・ソナタなど未完成の作品が多くある。しかしシューベルトにあっては、未完成の作品がとても惹きつける内容を持ったものが多いと私は感じざるを得ない。その代表的なものが、この「未完成交響曲」と言っていいだろう。これは確かに傑作である。これが書かれた1822年の7月に書かれた資料に「僕の夢」と言う短文がある。この中で、「そこで僕は自分の道を歩みだし、別れるものへの愛で胸を一杯にし遠くへさすらい出た。長い年月、僕は苦しみと愛とで2つに引き裂かれる思いだった。」という言葉がある。この曲の中にこのシューベルトの言葉を感じることは難しいことではないだろう。
この曲は、普通演奏されることはないが、第3楽章も9小節ほどのスコアが書かれている。スケッチはさらに先まで書かれている。第4楽章はスケッチ等もないが。シューベルトはこの曲をどのように考えていたのだろう。2楽章で完成されたものと考えたのか。形式としては完成してはないが、内容的にはもうこの曲に込めるものはないと思ったのか。というのは、翌年に友人に贈ったということだ。このことからすると、引き出しに入れていて忘れたという説は間違いということになる。兎も角、この交響曲は、その友人のもとに置かれたままになって、作曲者の死後40年近くなって初めて人々の前に姿を現したということだ。
シューベルトの作品をほぼ作曲順に番号を付けたドイッチュはこれにD.759の番号を与えた。私は、シューベルトの900番台の作品番号の付いたものは優れた作品が多いと書き、その考えは今でも変わらないが、この「未完成交響曲」が付けられた七百番台後半の作品から、既に多くの傑作が生み出されていると言うべきかもしれない。

エクトール・ベルリオーズ

2007-12-11 10:06:34 | ロマン派
今日は、フランスの作曲家エクトール・ベルリオーズの生誕日です(1803年)。
ベルリオーズについては、これまで何回か述べましたが、フランス・ロマン主義を音楽の面で象徴する人物というのが私の感想です。そして1830年、フランス「7月革命」の年に発表された「幻想交響曲」はまさにそのロマン主義運動を宣言する傑作でした。その後も多方面の作品を書き、数こそ多くはないですが、400人の合唱隊を要する「葬送と勝利の交響曲」や200~600人の合唱を要する「死者のための大ミサ曲」など、演奏者の大規模化はまさにこのベルリオーズで始まったと言ってよいのではないかと思います。
私はベルリオーズの全貌を知りたいと思い、その多くの作品のCDなどを見つけては購入しましたが、作品表を見て、まだ所持していない興味のある作品名を見つけていつかはCD店で求められればと思っているものがあります。例えば、「民の声」(作品20)、「東方の三博士の四重唱と合唱」、「知られざるケルト語の402の声の合唱」、「万人の聖堂」などです。特に、「民の声」は「1.フランク族の脅威、2.フランス讃歌」の2曲からなり、タイトルが歴史に興味のある私には気になります。それぞれ48年と44年に作曲されています。何か時代の動きが書かせたのだろうか。ベルリオーズは68年になくなりましたが、71年の普仏戦争でのフランス敗北を知ったならば、愛国者の彼はどのような曲を書いただろうかなどと思ってしまいます。「エレミア哀歌」によったグノーの「ガリア」のような曲を書いたのだろうか。



セザール・フランク

2007-12-10 07:34:22 | ロマン派
今日は、フランスの作曲家セザール・フランクの生誕日です(1822年)。
フランクは、生まれたのはベルギーのリエージュで、12歳の時にパリに出ました。その後ほとんどをフランスで過ごしましたので、フランスの作曲家と言われることが多いようです。
フランクの作品数は、その生涯が短命だったというわけではありませんが、ずいぶんと限られています。パリの聖堂のオルガニストを勤めたこともあり、優れたオルガン作品を遺していますが、これも以前に記したとおりLPわずか3枚分だけです。代表作は、交響曲・弦楽四重奏曲・バイオリンソナタが取り上げられますが、それぞれ1曲ずつです。教会に仕えたこともあり教会音楽をいくつか書いていますが、これも10には満たない数のようです。その中の一つに「天使の糧」があります。カレーラスの歌うクリスマス曲集のLD、(これはザルツブルクで撮影されたものです)、この中にこの曲が入っていて初めて知りました。どこかできいたことがあるような曲で、これはフランクが作曲したものだったのかなどと思いました。美しい清澄な曲です。この時期になるとこのLDを取り出しよく聴きます。フランクにはオラトリオ「バベルの塔」や「至福」というのもあり、これらの曲名を見ると、フランクは一生を教会に捧げた作曲家だったのだということがわかります。

R.シュトラウス・歌劇「サロメ」

2007-12-09 08:08:44 | ロマン派
今日は、R.シュトラウスの歌劇「サロメ」が初演された日です(1905年、ドレスデン)。
歌劇「サロメ」は新約聖書に題材を取っています。聖書自体には、サロメの名は出てこず、ユダヤ王ヘロデの娘と出ているだけです。R.シュトラウスはイギリスの劇作家ワイルドの「サロメ」のドイツ語訳を読み、作曲を思い立ったということです。ワイルドというと、世紀末芸術を代表する作家と言われることが多いですが、中でもこの「サロメ」はワイルドの耽美的な面をよく表しています。当然R.シュトラウスの歌劇もその傾向を持つものであり、初演当時教会などから大きな非難が起こり、ウィーン宮廷歌劇場では上演が禁止されたということです。R.シュトラウスはこの後、やはり「エレクトラ」というセンセーショナルな作品を書きましたが、その次にはモーツァルトの歌劇の時代設定を真似るような傑作「薔薇の騎士」を書きました。R.シュトラウスは生涯に15のオペラを書きましたが、後に行くほど、穏やかなものになっていったという感じを持ちます。
歌劇「サロメ」については、私はやはりカラヤンの演奏が断然素晴らしいように思います。カラヤンは、サロメを歌うに相応しいソプラノが現れるのを待っていたようで、ベーレンスはまさにうってつけの歌手だったのでしょう。ベーレンスについては、メトで歌ったブリュンヒルデがその歌唱、演技とも素晴らしいものであることを見ました。カラヤンのサロメがベーレンスのデビュー・レコードではなかったかと思いますが、これも優れているものと思います。

ブラームス「ホルン三重奏曲」

2007-12-07 08:21:08 | ロマン派
今日は、ブラームスの「ホルン三重奏曲」が初演された日です(1865年、カールスルーエ)。
1865年の2月に、ブラームスは母を亡くし、ホルン三重奏曲の直前に完成されたチェロ・ソナタ第1番とともに、母の死がこれらの曲には歌われているという。またそれはこの頃作曲が進められていた大作「ドイツ・レクイエム」にも言えるだろう。
ブラームスは、管弦楽曲が割りと少ない代わりに、室内楽曲は様々なジャンルに富み、数多く遺されている。LPによるブラームス全集を購入した時、歌曲と共に室内楽集が一番枚数が多かった。その中で、ホルン三重奏曲はというと、この1曲だけである。
ホルンを用いた3~5重奏曲は、どんな作品があるのだろう。ブラームスは、他にない。モーツァルトには、ホルンを含む五重奏曲が2つあります(K.407、452)。ベートーベンにも、モーツァルトのK.452と同じ編成の五重奏曲が1曲あります。クラリネットと弦を組み合わせたものは、結構あるように思いますが、やはりホルンは少ないのだろうか。ピアノと組み合わせたホルン・ソナタには、ベートーベンの若いころの作が1曲あります。しかし、他の作曲家を見てもこれさえもあまりないようですね。多くの管楽器を取り上げたサン・サーンスにもないし。ただ「何でも屋」のヒンデミットにはやはり1曲ホルン・ソナタがありました。

ベルリオーズ・劇的交響曲「ファウストの劫罰」

2007-12-06 10:56:18 | ロマン派
今日は、ベルリオーズの劇的交響曲「ファウストの劫罰」が初演された日です(1846年、パリ)。
1803年に生まれたベルリオーズは、1869年66歳で生涯を閉じます。この間、フランスのみならず、ヨーロッパは一つの激動の時代にあったといっても過言ではないでしょう。彼の代表作「幻想交響曲」は1830年、28歳の時にパリで初演されましたが、この年の7月、いわゆる「7月革命」が起こり、それはフランス・ロマン派の運動と軌を一にするものと言ってよいでしょう。ルイ18世、シャルル10世のブルボン朝復古王政は、国民の不満の高まった世情を見て、アルジェリア遠征を行った。国民の不満の捌け口を外に求めた最も分かりやすい例である。議会は議会政治の停止・言論出版の取締りなどの令を出してこれに反発した労働者・学生・知識人などが武装蜂起したのがこの革命である。3日間市街戦が行われ、その結果「フランス人民の王」ルイ・フィリップの「7月王政」が打ち立てられた。ベルリオーズは、この時ちょうどローマ賞を目指し、課題作品を書いていた。カンタータ「サルダナパールの最後の夜」がそれである(この作品名は、同じくフランス・ロマン派の絵画の代表者と言ってよいドラクロアの「サルダナパールの死」を思い起こさせます)。5回目のチャレンジとなった今回、念願の一等賞を受賞した。ベルリオーズは、この作品を書き上げた時に革命が始まったと、「回想録」で書いている。そして、革命の「輝かしい3日間」を興奮した群衆の一人として過ごしたということだ。ベルリオーズは、革命10周年に当たる1840年に「葬送と勝利の交響曲」を政府から依頼され完成し、国王ルイ・フィリップに献呈した。
ベルリオーズは、生涯でもう一度「革命」に遭遇する。1848年の「2月革命」(「フランス人民の王」ルイ・フィリップが廃位され、ロンドンに亡命する。)である。英国でその知らせを聞き、制度機構が破壊されていったとの知らせに、自身の年金が大いに気になったようだ。やはり「回想録」で「一家の生計すら立てられない・・・」とこの頃書いている。パリでの2度目の暴動(「6月蜂起」)を聞き、ベルリオーズはいてもたってもいられず、パリに向かう。新聞紙上の評論担当の地位とコンセルバトワール図書館主事補としての年金を確保するためである。周囲の人の働きかけでこれは功を奏したということである。このような自身の体験もあり、「2月革命」はベルリオーズにとって批判の対象でしかなかったようだ。

ラフマニノフ「ピアノ・ソナタ第2番」

2007-12-03 09:50:48 | ロマン派
今日は、ラフマニノフの「ピアノ・ソナタ第2番」が初演された日です(1913年、モスクワ)。
ラフマニノフと言えば、その「ピアノ協奏曲第2番」が圧倒的に有名で、代表作というべきでしょう。ピアニストとしても名を馳せた人だけに、その技術が最高度に発揮された作品と言う気がします。この「ピアノ・ソナタ第2番」はその10年以上のちに作曲された作品です。優れた作品と聴いていますが、またVOXから出されたラフマニノフのピアノ曲全集を購入しているので、1度は聴いたことがあるはずですが、記憶にありません。そういえば、今日からTVの「ぴあのぴあ」でラフマニノフが始まりました。1週間くらい続くと聞いています。ラフマニノフは、貴族の家に生まれた根っからのロマン派に属する音楽家です。時代はすでに新しさを求める時代へと移り変わりましたが。ちょうどドイツにおけるR.シュトラウスの置かれた状況と似ているように思います。
今、歌劇「アレコ」を聴きました。モスクワ音楽院の卒業作品で、チャイコフスキーが褒めたと言うものです。