西洋音楽歳時記

旧称「A・Sカンタービレ」。07年には、1日1話を。その後は、敬愛する作曲家たちについて折に触れて書いていきます。

耳の病と「ハイリゲンシュタットの遺書」3

2008-03-04 10:03:54 | ベートーヴェン
1802年の夏、ベートーヴェンはシュミット医師の勧めでハイリゲンシュタットに転地療養に出かけた。ハイリゲンシュタットはウィーンから馬車で1時間足らずのドナウ川を見渡せる自然に恵まれた場所で、耳の病が良くなることを願って夏のひと時を過ごした。野や小川のせせらぎに導かれ、心と体を労わり耳の回復を望み散歩したことであろう。ある日、弟子のフェルディナント・リースがこの地にベートーヴェンを訪れた。2人は一緒に散歩をし、リースはふと、どこからか笛の音が聞こえる、と言ったが、ベートーヴェンには聞こえないことがわかった。ベートーヴェンはこのことで、耳の回復はおろか、本当に耳が聞こえないことを理解した。そして、少年のころには完全な耳を持っていて、音楽家には絶対に必要な聴力がだんだん無くなり、それが自分の行動をも制限し、他人と交わりを避け、そのため本来の快活な自分が失われていくことに絶望を感じるようになった。そして死を考えるまでになった。それが「ハイリゲンシュタットの遺書」として知られるものである。10月6日付けで2人の弟宛てになっている。(下の弟ヨハンは、この時許せないと思うところがあったのか、空欄になっている。)書き出しは次のようになっている。
「お前達は私を敵意ある強情な人間嫌いだと思い、人にそう言いふらしているが、それがどんなに不当であったことか。お前達に私がそう見える、隠れた原因をお前達は知らないのだ。幼い時から私の心も考えも優しさに向けられ、偉大な仕事をなそうと努めてきた。しかし、6年来不治の病に冒され、無能な医師たちにますます悪くされ、治る望みも失われてきたのだ。」
この文を信ずるならば、6年来1796年の10月前後に耳が聞こえないということを自覚することになったのだろうか。前年6月にはじめてこの病を友人たちに打ち明けた手紙で推測された「1798年の夏頃」という時期よりもさらに2年さかのぼることになる。
さらに手紙を読むと、
「賢明な医者の勧めで、私はこの田舎で暮らし、耳を労わった。人中に出たい衝動に駆られることもあった。しかし近くの人が遠くの笛の音を聞くのに、私には何も聞こえない時に、私に何も聞こえない時や他の人に聞こえる牧人の歌声が私には聞こえない時、私はほとんど絶望し、あわや自殺するところであった。ただ芸術だけが私を引き止めてくれた。ああ、私には自分に課せられたと思う創造をすべてやり遂げずにこの世を去ることはできないと考えたのだ。」とある。
そしてベートーヴェン自身の人物像を適確に示す次のような文句があることに注目したい。
「お前達の子供に徳を勧めよ。徳のみが幸福を齎すことができるのだ。金ではない。経験からこう言うのだ。逆境の中で私を救ってくれたのも徳であった。私が自殺によって生涯を終わらせなかったのは、この徳と芸術のおかげなのだ。」
最後に、
「来る時が近づいた。喜んで死に向かい急ごう。・・・さようなら、死後も私を忘れないでほしい。私は生前お前達が幸せになるように心配してきたのだから。幸せであれ。」
と書いてこの「遺書」を結んでいる。
この4日後の10日付けでさらに言葉を足し、決意を述べている。

私は、この「遺書」を書くことにより、自分の使命を強く感じたのだろう、そしてそれに従いその後の崇高な芸術作品を残したのだと考える。この遺書は、「不滅の恋人への手紙」などと同様、死後に発見された。ベートーヴェンは、作品理解のヒントを残してくれたようだ。ベートーヴェンの作品を知ろうと思うならば、特に後期の作品の世界を知るためには、このような作曲者の独白を丹念に読み理解すべきだろう。

耳の病の原因は何なのだろう。
ベートーヴェン自身この「遺書」の中で、「私の死後すぐに、シュミット教授が健在ならば、私の名で依頼し、この紙に病歴書をつけてくれ。」と書いている。その通りに、死後、解剖がなされ、「聴神経は萎縮し、髄を欠き、、左聴神経は右よりかなり薄く」などと報告書が書かれている。後の世の一部の者たちは、「英雄」から「一般大衆」に引き下げたいばかりに、いい加減なことを言うものが後を絶たないが、このようなのを見るにつけ、この者たちは、自分の愚かさを書き残しているのだと思う。私は、いつどこでだったか読んだ文章が心に残っています。「世の中の雑事に煩わされないように、ベートーヴェンは耳が聞こえないようになったのだ。」との。

耳の病と「ハイリゲンシュタットの遺書」2

2008-03-03 10:52:08 | ベートーヴェン
1801年の6月に、信頼のおける心からの友人2人に、はじめて耳の病を打ち明けた後、ベートーヴェンは「私は今ではいくらか愉快な生活をしている。」と手紙に書いている。同じ年の11月16日付けのウェーゲラー宛の2度目の手紙である。愉快な生活、というのは「月光ソナタ」を献呈したジュリエッタ・グイッチャルディの存在によるものだった。ジュリエッタの母は、前に述べたブルンスヴィック家の出で、テレーゼとヨゼフィーネ姉妹とは従姉妹同士の関係にあたる。ジュリエッタは、姉妹同様にベートーヴェンからピアノのレッスンを受けていた。手紙には続けて「今度の生活の変化は、互いに愛し愛されている、愛らしく魅力的な一人の少女のおかげなのだ。2年ぶりに、また私はいくらか幸せな時を送っている。はじめて私は結婚が幸せを齎すかもしれないと思うようになった。だが残念ながら彼女は私とは身分が違うのだ。」とある。この時の手紙で、後の方に「不幸―それには私は耐えられない―私は運命の喉首を掴んでやるのだ。運命などに屈服させられ押しひしがれてたまるものか―おお、生き続けるということは何とすばらしいことか―」という言葉が続きます。
ジュリエッタは、ベートーヴェンが予感した如く、この2年後1803年の11月3日にガレンベルク伯爵と結婚しイタリアへと旅立つ。恋愛感情の高まりはまたしても一時的なものに終わってしまった。それ以上に大きな失意を伴うものであったというべきだろう。
私は、このベートーヴェンの手紙を読むたびに、第五交響曲(「運命」と呼びなわされている。外国ではこのニックネームは用いられてはいません。)の終楽章を思い起こします。
(続く)

ピアノ・ソナタを連続して聴いています。
2月10日
フリードリッヒ・グルダ(LP)で3・5・6番

11日
4・7番

16日
アシュケナージ(LP)で8・9番

24日
イーヴ・ナット(CD)で10・11番

3月1日
タチアナ・ニコラーエワ(CD)で12・13・14番。

創作の第1期をすべて聴き、今は第2期、評論家によっては第2期へ過渡期にあたる時期という人もいます。