西洋音楽歳時記

旧称「A・Sカンタービレ」。07年には、1日1話を。その後は、敬愛する作曲家たちについて折に触れて書いていきます。

リムスキー・コルサコフ・管弦楽曲「スペイン奇想曲」

2007-10-31 08:48:24 | 国民楽派
今日は、リムスキー・コルサコフの管弦楽曲「スペイン奇想曲」が初演された日です(1887年、ペテルブルク)。
リムスキー・コルサコフは、フランスのラヴェルとともに管弦楽法の大家などと呼ばれています。この「スペイン奇想曲」もその名に恥じない美しさ・煌びやかさを持った名曲だと思います。しかしやはり交響組曲「シェヘラザード」はそれにも優る名曲だと思います。旋律がいいですね。一度聴けば誰でも口ずさみたくなるような軽快なメロディーがふんだんに使われています。これらに比べると時間も短い「ロシアの復活祭序曲」。この作品を知ったのは少し後でしたが、これもリムスキー・コルサコフの遺した名曲の一つに数え上げられるでしょう。

スクリャービン「ピアノ・ソナタ第9番「黒ミサ」」

2007-10-30 07:52:24 | 音楽一般
今日は、スクリャービンのピアノ・ソナタ第9番「黒ミサ」が初演された日です(1913年、モスクワ)。
スクリャービンという作曲家は、一風変わった作曲家という印象を先ず持ってしまいます。この「黒ミサ」というタイトルは何なのでしょう。第7番のソナタは「白ミサ」と名付けられています。手元の辞典には、「白ミサ」は「神聖な曲想からつけられた」、そして「黒ミサ」は「黒の悪魔的性格から与えられた」とあります。一体何のことなのか、どんな必然性があるのかと思ってしまいます。彼は、「神智学」に心酔した、ということです。「神智学」について知らない限り、彼の作品はその深奥を掴めないものかも知れません。そのように見るからでしょうか、彼の風貌もちょっと変わったところがあるような気がしてなりません。
スクリャービンの作品は、そのほとんどが10曲のピアノ・ソナタをはじめピアノ曲が占めていますが、その他の作品に、5曲の交響曲と1曲のピアノ協奏曲があります。比較的初期の作品であるピアノ協奏曲は、私はスタニスラフ・ネイガウスの独奏のものを所持しているのですが、これは何度も聴いて気にいっているピアノ協奏曲の一つです。交響曲やピアノ・ソナタをはじめとする多くのピアノ曲はまだこれからしっかり聴いていこうと思っているところです。

モーツァルト・歌劇「ドン・ジョヴァンニ」

2007-10-29 16:54:51 | オペラ
今日は、モーツァルトの歌劇「ドン・ジョヴァンニ」が初演された日です(1787年、プラハ)。
「ドン・ジョヴァンニ」は、モーツァルト晩年の3大オペラ、あるいは4大オペラと言われるものの一つで、傑作である。今も多くの劇場で公演されている。しかし初演の38年後、このオペラを「軽薄、嫌い」と言った作曲家がいた。ベートーベンである。シューベルトの晩年の傑作歌曲集「白鳥の歌」(その第1曲から第7曲まで)の作詞者ルートヴィヒ・レルシュタープは、1825年ウィーンにやって来た。「ウィーンに着いてからというもの、私はベートーベンに会うことより他には何も考えなかった。」という気持ちを抱いて。念願の会見が実現した折、レルシュタープは、どんな様式の台本が好きか、と尋ねた。ベートーベンは、この時「ただ題材さえ気に入れば、私は様式については気にしない。私には、愛と情熱を注いで、その仕事に取り組みことができるようなものでなくてはならないのだ。私には、『ドン・ジョヴァンニ』や『フィガロ』のようなオペラは書けない。私は、この両方とも嫌いなのだ。私には、こうした題材は選べない。それらは、私には、あまりにも軽薄なのだ。・・・」と言ったと、レルシュタープは記録に残している。「カタログの歌」など、軽薄そのものである。別に事実だから、モーツァルトも抗弁することはなかっただろう。それで何が悪い、とモーツァルトは言ったかもしれない。しかし実は、このオペラの中に、ベートーベンも抗し切れなかった魅惑の旋律があった。有名な「その手を私に」である。オペラ初演の10年後、ベートーベン26歳の時に、これを主題とする「変奏曲 ハ長調」(WoO28)を書いているのだ。2つのオーボエとイングリッシュ・ホルンという珍しい編成の管楽三重奏曲である。この主題はその後も多くの作曲家に気に入られてようで、ショパンは、ピアノ付きの管弦楽作品として「変奏曲 変ロ長調」(op.2)を書いています。ピアノの巨匠リストも「歌劇「ドン・ジョヴァンニ」の回想」というピアノ曲の中でこの旋律を用いています。
ついでに言うと、ベートーベンは、「嫌い」とあげたもう一つのオペラ「フィガロ」の中の「伯爵様が踊るなら」を主題とする「12の変奏曲 ヘ長調」もピアノとバイオリン用に書いています。
レルシュタープとの会見の前年、ある人との会見で、これまでの作曲家で、誰が最大の作曲家だと思うか、との問いに、「ヘンデル」と答えた後、モーツァルトは?と聞かれ、「モーツァルトは、いい。見事な作曲家です。」と答えたという。これが、彼の作曲家モーツァルト評だったと考えていいだろう。

チャイコフスキー・交響曲第6番「悲愴」

2007-10-28 10:21:23 | 音楽一般
今日は、チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」が初演された日です(1893年、ペテルブルク)。
この「悲愴交響曲」は誰が言うまでもなく、作曲者の最大傑作でしょう。このような最高の作品を後の世の人に遺してくれたチャイコフスキーは、真に偉大な作曲家だと思っています。ですから、私は常々、習作であれ、チャイコフスキーの作品は「全集」なるものが出されていいのではないかと思うのですが、今のところはまだ出ていないように思います。交響曲、バレエ曲、ピアノ曲は、出されていますが。
最近チャイコフスキーの交響曲(第7番と呼ぶべきか)「人生」が注目を浴びています。実は、以前にもこれは出されたことがあり、ギンズブルクの指揮のを私は幸運にも、買ったのではなく、景品として手に入れ聴いています。ですから、最近の交響曲「人生」騒動は何なのかと思い、今ネットで調べると、新たな補作と言うことで、大きく違うのは以前の4楽章仕立てが3楽章になるということのようです。またこの「新」作を日本人の美貌の指揮者が指揮するということで、話題になりました。それからずいぶん経っていますが、まだ聴く機会に恵まれていません。いつか聴いてみたいと思っています。

ムソルグスキー「禿山の一夜」

2007-10-27 07:44:32 | 国民楽派
今日は、ムソルグスキーの管弦楽曲「禿山の一夜」が初演された日です(1886年、ペテルブルク)。
「禿山の一夜」は、確か小学校か中学校くらいの音楽教科書に載っていたような気がします。その題名の「禿山」が生徒の興味を引くだろうということなのでしょうか。その時鑑賞曲として聴いたかどうかは覚えていません。
今、曲名辞典を見ますと、「管弦楽曲」の部類に、「禿山のヨハネ祭の夜」(1867年作曲)、注として、のちにリムスキー・コルサコフの編曲によって「禿山の一夜」となる曲の原形の一つ、とあります。その後に、「禿山の一夜」(リムスキー・コルサコフ版)(11881~83年作曲、初演ペテルブルク)とあり、注として、リムスキー・コルサコフがムソルグスキーの死後その意図を生かして、「禿山の聖ヨハネ祭の夜(聖がついている!どちらが正しいのか?)」の最終稿と思われる歌劇「ソロチンスクの市」の中の「若者の夢」及び、その前の稿である合作オペラ・バレエ「ムラダ」の中の合唱・管弦楽の曲を生かす形でに管弦楽曲に編曲した。交響詩と呼ぶことがある、と長々と説明があります。要するに、ムソルグスキー自身、この曲を書くに当たり、素材をそれまでの自分の作品に求め、書き上げたが、「弱い」部分があると思ったのか、後に管弦楽法の大家リムスキー・コルサコフがやはりムソルグスキーの過去の作品を生かす形で、書き直した、というこのだと思います。これまでは多く、いわゆる「リムスキー・コルサコフ版」が多く取り上げられていたように思いますが、最近はいわゆる「原典版」が用いられているようです。最近、以前ビデオ収録したアバド指揮ベルりん・フィルによるこの作品を聴きましたが、それも確か「原典版」となっていたかと思います。しかし呼び方は「禿山の一夜」となっていて、「禿山の(聖)ヨハネ祭の夜」とはなっていませんでした。やはりよく知られた題名が使われているということでしょうか。ところでこの「禿山の(聖)ヨハネ祭の夜」というのは、そもそも何なのでしょうか。いつかそのようなことも調べてみたいと思っているところです。ある軽いクラシックに関する本に、演奏者が禿の鬘を被って演奏したら面白いだろうなどというのが出ていましたが、どうなんでしょう。

ブルックナー「交響曲第2番」

2007-10-26 09:40:49 | ロマン派
今日は、ブルックナーの「交響曲第2番」が初演された日です(1873年、ウィーン)。
手元に、デルンベルク著の「ブルックナー その生涯と作品」という一書があります。有名なイギリスの音楽学者ロバート・シンプスンがその序に次のような言葉を書いています。
「1930年代のあるとき、まだ学生だったわたしがラジオのつまみを気ままに回していると、ドイツのどこかの放送局から、おどろくばかりに壮大で気品のある音楽が流れてきた。それがブルックナーの『第二交響曲』であった。この曲がもつ幅の広さと雄大さは、それ以来わたしの心に印象強く残っている。それを契機としてわたしはあらゆる種類の音楽書を読みあさったが、大部分の本がブルックナーという名前にはほとんど触れていなかった。名前が出ている場合でも、終始一貫して彼をけなしているのが印象的であった。(略)当時イギリスにおいて、ブルックナーは《未知の土地》ともいえるものであった。なにかの機会に彼の交響曲が演奏されると、最後までもたない曲、オーストリア人だけが聴くに耐える曲、長すぎて形式的統一を欠いた、まさに無能な作品として、いつも片づけられていた。(略)だがしだいに事情は変わってきた。(略)」
今久しぶりに「交響曲第2番」を聴きました。その一部ですが。「この曲がもつ幅の広さと雄大さ」を確認したいと思ったからです。「この曲がもつ」とありますが、このことはブルックナーのすべての交響曲に当てはまるといっていいでしょう。私は、以前にも書きましたが、このようなブルックナーの音楽が大好きです。最初は「最後までもたない曲」どころか最初から聴こうとしなかった曲でしたが。
この「交響曲第2番」は曲の完成の翌年作曲者ブルックナー自身の指揮によって初演されました。そして当時の高名な評論家ハンスリックから悪評を受けた。楽員からも賛否両論ということであったが、強く賛美の念を示す若きバイオリニストがいた。それは後年、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の第2代終身指揮者となるアルトゥール・ニキシュであった。
「終始一貫して彼をけなしている」というのは、今でもあるだろう。たまたまあるオーケストラのウェッブ・ページを見ていたら、演奏したくない作曲家としてブルックナーを上げている人がいました。私がそのオケを聴きに行くこともないでしょうが、やはり今でも職業音楽家の中にもそういう人がいるんだなと思いました。そうですね、芸術の好みは人様々です。私の見ようと思わない画家などもいます。人がいいと言っても。私にはそれが理解できないからです。そう言いながら、私の書いたのを読み、ブルックナーに関心を持ち、好きになる人が増えるとしたら、それは私の嬉しく思うところです。

ヨハン・シュトラウス2世

2007-10-25 10:21:29 | 音楽一般
今日は、オーストリアの作曲家ヨハン・シュトラウス2世の生誕日です(1825年)。
ワルツなどの作曲で有名な、シュトラウス・ファミリーで最も有名な作曲家です。お父さんも同じヨハン・シュトラウスだったので、ヨハン・シュトラウス2世を名乗りました。ヨハン・シュトラウス2世は、ウィンナ・ワルツの全盛時代を築き「ワルツ王」と呼ばれ、生涯に479曲作曲したということです。「ワルツの父」1世は2百数十曲、2世の弟ヨーゼフも2百数十曲、もう一人の弟エドゥアルトは3百数十曲作曲したということで、ファミリー全体では1300曲くらいでしょうか。ものすごい数です。同じシュトラウスでも、リヒャルト・シュトラウスとそのお父さんフランツも作曲をしていますが、には全く縁は繋がっていないということです。
シュトラウス・ファミリーの繰り出すワルツなどの調べは、聴くものの気持ちを明るくしてくれます。誰しも思い通り行かない、自分の力の限界というか無さを感じることがあると思いますが、そんな時に聴くとなぜかそのようなことから離れ、ノンシャラン(のんびりした、のんきな人間、の意の仏語)な気持ちにしてくれます。それで解決したわけではないですが、別の見方、考え方を教えてくれるということです。実際に、あの有名な「美しく青きドナウ」が、プロシア=オーストリア戦争(1866年)を戦いわずか7週間で敗北し意気消沈したオーストリア国民を「くよくよしないで、元気を出そう!」という趣旨のもとで作曲を依頼されたのは有名な話です。
シュトラウス一家の作品は膨大なので、これまでに聴いたのはその一部に過ぎませんが、「美しく青きドナウ」「ウィーンの森の物語」「皇帝円舞曲」「ウィーン気質」「芸術家の生涯」「酒・女・歌」「天体の音楽」「わが人生は愛と喜び」などが、他にもまだまだありますが、私の好んで聴いてきた曲です。ポルカにも魅力的な曲がたくさんあります。「アンネン・ポルカ」「ピチカート・ポルカ」「雷鳴と稲妻」、ポルカ・マズルカ「とんぼ」などなど。
毎年元旦には、ウィーンからライブでシュトラウス・ファミリーの曲を中心にしたニュー・イヤー・コンサートがあり、良き1年を祝うかのように全世界に放映されますが、その中にはまだ知らない曲が演奏されることがずいぶんとあります。そんな時、すべての曲を聴いてみたいなどと思うのですが、これはちょっと無理でしょうか。何しろ1300曲もあるのですから。

ティト・ゴッビ

2007-10-24 10:09:37 | 音楽一般
今日は、バリトン歌手のティト・ゴッビの生誕日です(1915年)。
所蔵のレコードで、いくつもゴッビの名前は見ているのですが、今多くのレコード類は手元においてないので、どのオペラにあったか思い出せないですが、カラヤンとの共演はいくつかあったように思います。ゴッビは、ベルディやプッチーニなど同郷のイタリア・オペラを多く歌っていて、ヴェルディの「椿姫」や「ファルスタッフ」、それに「オテロ」のイヤーゴ役ではその最高の歌い手の一人と言われています。今辞典を見ますと、オペラのレパートリーは94曲と出ていて、その数に驚かされます。指揮者にとってなくてはならないバリトン歌手と言えるでしょう。
他に、ヴェルディ、プッチーニなどを歌うイタリア・オペラのバス・バリトン歌手で、私がこれまでに聴いて魅かれた歌手を上げると、ブルゾン、パネライ、ギャウロフ、バスティアニーニ、シエピ、ライモンディ、ヌッチなどがいます。
フィリップ2世のライモンディ、ロドリーグのヌッチ、それに大審問官のギャウロフが一度に聴ける、アバド指揮のヴェルディの「ドン・カルロ」、これはフランス語による5幕版という珍しいこともありますが、優れた歌手人を揃えた名盤と言っていいでしょう。



ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

2007-10-23 09:41:48 | 音楽一般
今日は、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団が最初の演奏会を行った日です(1882年)。
この時の指揮はフランツ・ヴェルナーでした。その後、ハンス・フォン・ビューローが初代常任指揮者に就任しました。常任指揮者は、第2代ニキシュ、第3代フルトヴェングラー、第4代カラヤンと続き、その後アバド、ラトルと現在に至っています。私のクラシック音楽歴は、ちょうどカラヤン時代にピークだったというべきでしょうか。もちろん今も所持していないCDを見つければ購入するということはありますが。そして私は、このカラヤン時代を共有できたことをとても幸運だったと思っています。例えば、R.シュトラウスの「英雄の生涯」一つとってもその後に、カラヤンの演奏に優るものが聴けるのだろうかと思っています。これはもちろん私の個人的感想に過ぎないですが。他の多くの曲についても当てはまります。
この楽団では、その首席奏者が集まって八重奏団を作ったりして、モーツァルトのディベルティメントなども録音していました。私はそのようなレコードも好んで買い集めてしまいました。そんな時には、団員の名前が出ていたりするのですが、そのうちのどのくらいの人が今も楽団で活躍しているのだろうなどと思ったりします。20年30年と時が経ったのだから当然変わっているでしょうが。今ネットで、ベルリン・フィルを検索したら、個人でこの時代のベルリン・フィルの楽団員の一覧を作っている人がいました。そのメンバー表を見て、懐かしく思いました。ずいぶん知っているメンバーが載っていました。
それほどまでに熱中したのですが、最近はどんなCDを出してどのようなメンバーなのかはあまり知りません。日本人でビオラの首席奏者に入った女性がいると知ったのも少し経ってからでした。
以前「ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団物語」だったかそのようなタイトルの本(今手元にないので)が出たので買って読んだ記憶がありますが、再度読み返したいと、これを書きながら思っているところです。

ルートヴィヒ・シュポーア

2007-10-22 10:27:10 | 音楽一般
今日は、ドイツの作曲家ルートヴィヒ・シュポーアが亡くなった日です(1859年)。
音楽史を見ていくと、ハイドン、モーツァルト、ベートーベンに続く作曲家としては、ウェーバー、シューベルト、メンデルスゾーン、シューマンなどとなるが、実は、これらの偉大な作曲家の周辺には多くの作曲家がいることに気付かされます。カルクブレンナーと共に、注目すべきは、シュポーアではないかと思います。ベートーベンは1770年に生まれていますが、シュポーアが84年、カルクブレンナーが85年、ウェーバーが86年生まれで、シューベルトが97年です。年代的に、ベートーベンとシューベルトの間の世代と言っていいでしょう。
シュポーアは、そのようなことから、古典派からロマン派にかけての様式の中に生涯を過ごしましたが、当時は作曲のみならずそのバイオリン演奏の技術により高い評価を受けていたということです。また、ベートーべンとも懇意になり、「交響曲第7番」と「戦争交響曲」の初演にも参加しました。
シュポーアは、作品を見ますと、交響曲をはじめ管弦楽曲や室内楽それにリートにすぐれた作品を残していて、今でも時折演奏会などで取り上げられることがありますが、宗教作品にオラトリオ「最後の審判」というのがあります。タイトルにひかれて購入したのですが、これら合唱曲も注目されていいように思います。