西洋音楽歳時記

旧称「A・Sカンタービレ」。07年には、1日1話を。その後は、敬愛する作曲家たちについて折に触れて書いていきます。

フォーレ「ドリー」

2007-04-30 09:58:14 | 音楽一般
今日は、フランスの作曲家フォーレのピアノ曲「ドリー」が初演された日です(1898年、パリ)。
この作品は、4手のために作曲されました。ピアニスト2人ということですが、その場合、1台のピアノを2人が並んで弾く場合(連弾)と、2台のピアノで演奏する場合とがありますが、この場合は前者のようです。なお、「のだめ」で有名になったモーツァルトのK.448のソナタは、ドラマでその場面を見てわかるわけですが、2台のピアノのための曲となります。「4手」=「連弾」と考えていいのでしょうが、時々そこのところをごっちゃにしている表記もあるように思います。
「ドリー」というのは、エレーヌという女性名の愛称で、エレーヌはフォーレの知り合いの女性の娘ということです。作品は当然エレーヌ嬢に献呈されました。第1曲「子守歌」から第6曲「スペイン風の踊り」までの6曲からなりますが、どれも可愛らしいメロディーです。学生時代フランス語を勉強していましたが、カセット・テープのスキットのバックに可愛らしい旋律が流れていました。とても優しい誰もが好きになるようなメロディーです。これがフォーレのこの作品の「子守歌」だと知ったのは、ずっと後のことでした。

フォーレは、ピアノ曲、室内楽曲、歌曲が3本の柱のように、作品群の多くを占めますが、管弦楽曲と宗教曲も抜きに考えることはできません。私はフォーレらしい作品はなんだろうと考えた場合、初期の作品である歌曲「夢のあとに」を取り上げたいと思います。もちろん、「レクイエム」のような偉大な作品もありますが。
フォーレは、音楽史上では、「革新」的な業績を残していないということで、第1級の音楽家とは看做されないようですが、音楽を通じて理想のより高い世界を表現する作曲家としてのあり方はもっと評価されていいのではと思っています。



ズービン・メータ

2007-04-29 09:58:07 | 音楽一般
今日は、インド出身の指揮者ズービン・メータの生誕日です(1936年)。
私が、彼の名を知ったのは、彼が十分有名になってからでした。周囲の人は、彼を一流の指揮者と理解していましたが、私は、インド出身で、そのような指揮者がいるの、というような感想を持ったのを思い出します。まだ私が、クラシック音楽を聞き始めた頃のことです。
メータは、それこそ音楽上のいろいろな分野で幅広く活躍していますが、1990年にイタリア・サッカー・ワールド・カップ大会開催を記念して行った、ローマ・カラカラ浴場跡での3大テノール・コンサートにおける指揮ぶりは、十分に彼が一流であることを認識させるものでした。この時の映像は、この時ならではの選曲もあり、私は時々LDを見て楽しんでいます。
1998年には、北京の紫禁城で、プッチーニの「トゥーランドット」を指揮するという快挙を成し遂げたのも、メータでした。これは映像も残っているということですが、私はまだ見ていません。機会があったらぜひ見てみたいと思っています。



追悼 ロストロポービチ氏

2007-04-28 12:19:16 | 音楽一般
昨日27日、世界的なチェリスト兼指揮者のロストロポービチ氏が亡くなったというニュースが入った。だれしも、いつかはと言うことはあるもので、それが今だったかということであるが、彼が残してくれた足跡というものを考えてみたく思った。
彼は、ただ偉大な音楽家であったということだけに決してとどまるものではない。人間として偉大なのだ。私が彼にひかれるのは多くはその部分である。1917年から続いたロシアにおける悲劇に敢然と立ち向かう姿こそが彼の音楽的業績とあいまったものであり、そのような自由を最高の価値観とする考え(非自由な社会を忌み嫌う態度)に支えられた演奏こそ人々に感動を与えるのである。同時代を生きた作家ソルジェニーツィン氏を別荘にかくまい、ソビエト権力と渡り合い、74年には、夫人とともに米国移住を余儀なくされ、78年にはソ連市民権を剥奪される。残念なことに、こういった行動は、虚弱な精神で自己保身が強く左よりであれば「知識人」と看做しもてはやす日本人には煙たい存在だっただろう。戦後日本はそこまでおかしくなっているのである。ところが、現実は自由を最高とする考えが優ったのであった。その後の彼の行動も素晴らしい。89年11月にベルリンの壁崩壊時には、最大限の喜びを表すべくこの忌まわしい壁の前で一人でチェロを演奏したということだ。90年には市民権を回復され12年ぶりの帰国をし、91年8月のソ連保守派によるクーデター未遂事件でも先頭に立ち、自由擁護を訴えた。何と素晴らしい人物ではないか。

先ほど、追悼の気持ちを込め、彼が残してくれたバッハ「チェロ組曲全集」の一部を映像と共に鑑賞した。このLD(レーザー・ディスク)は6曲の演奏だけでなく、ロストロポービチ氏によるバッハの解釈、いや芸術への考えを述べる映像も収録されている。その中で、次のようなことを述べている。
音楽院時代、マルクス主義を扱う授業があり、その中で精神は滅び、物質だけが残ると教えられた。彼は考察する。ベートーベン、バッハ、モーツァルトの精神は、それを演奏し、聴かれる限り、残り続ける、と。
この考えが正しいことは自明であるが、愚かな時代である、またこの教育が底を突いた戦後日本では愚かにもこのようなことと反対の考えが大手を振っているようだ。何たる状況か。
組曲第1番を久しぶりに聴いたが、そこには彼の芸術精神のすべてを見て取れるようで、作曲家と共に、これを演奏するロストロポービチ氏も永遠の存在であり続けるであろう。

追記(5月21日)
昨日朝、「モーストリー・クラシック」の7月号が届いた。緊急特集として、「追悼 ロストロポーヴィチ」が組まれていた。30~31ページにある彼の言葉を書いてみたく思った。

「私の祖国への思いはコインの表裏のようなもの。私と妻はロシアの大地を愛し、その政治体制を憎んだ。国外にいても片時もロシアを忘れたことはない」

「ブダペストに滞在していたところ、2つの訃報が入ってきた。外に出てプロコフィエフの死を嘆き悲しんでいると、周りから、スターリンを悼んで泣いているのだろうと思われてしまった」

実に偉大な人間であった。

マイアベーア「アフリカの女」

2007-04-28 10:50:09 | オペラ
今日は、ドイツのオペラ作曲家マイアベーアの歌劇「アフリカの女」が初演された日です(1865年、パリ)。
このオペラは、インド航路発見の雄バスコ・ダ・ガマをテーマにしたものです。マイアベーアには、他に「エジプトの十字軍」「ユグノー教徒」「予言者」(16世紀オランダの政治騒乱が主題)など歴史にテーマを持つものが多く、このようなものに興味を持つ私には注目せざるを得ない作曲家です。ワーグナーにもその影響が見られるほどのオペラ作者ですが、死後は作品の評価は急速に低下したようです。その中で、「予言者」中の「戴冠式行進曲」はよく小品集などのCDに取り上げられているように思います。「ユグノー教徒」にも美しいアリアがあるようです。もっともっとこの作曲家が生み出した魅力的な旋律を発見したいと思っています。

ヘンデル「王宮の花火の音楽」

2007-04-27 10:25:28 | 音楽一般
今日は、ヘンデルの「王宮の花火の音楽」が初演された日です(1749年、ロンドン)。
初演の前年まで、ヨーロッパでは、「オーストリア継承戦争」(1740-48年)が戦われていた。1740年に即位したオーストリアのマリア・テレジアを、同年に即位したプロシアのフリードリッヒ2世(大王)が今がチャンスと見て、天然資源に富むシュレジエン地方を領有することを目指して戦われたのが発端であった。植民地での戦争なども絡んでいるが、結局1748年に、アーヘンで和が結ばれた。プロイセンの目的が達せられた結果となった。マリア・テレジアが帝位相続者として承認されたのであったが、勝利とは程遠く、後にシュレジエン奪還を目指し、七年戦争(1756-63)が戦われることになる。それはともあれ、オーストリアと同盟していたイギリスは、今のインターネット時代とは違い、情報があまり伝えられないことをいいことに、この戦争に勝利したことになり、国王ジョージ2世は、国民にはっきり戦勝気分を植え付けたいと思った。ヘンデルにそのための音楽の作曲を依頼し、できたのがこの曲であった。ヴォックスホールのグリーン・パークで初演は行われた。野外でのため、作曲者が当初考えていた弦楽器と管楽器の形でなく、管楽器と打楽器だけの版での初演となった。タイトルにあるように、これは序曲の後、101発の礼法と共に花火が打ち上げられるはずであったが、あがらず、音楽だけが礼法の後に演奏された。その後、花火の点火に成功したかと思うと、グリーン・パークに建てられた木造の建物に火が付き、大英帝国の象徴であるブリタニア像に平和を手渡ししているジョージ2世像や平和の象徴ネプチューン像とマース像も焼け落ちてしまったということである。何事も思い通りにはいかないものである。

ラヴェル「ツィガーヌ」

2007-04-26 09:43:49 | 20世紀音楽
今日は、ラヴェルの「ツィガーヌ」が初演された日です(1924年、ロンドン)。
この「ツィガーヌ」は、「ツィゴイネルワイゼン」の中の、「ツィゴイネル」と同じで、「ジプシー」を意味します。今はこの「ジプシー」という呼び名を避け、「ロマニー」と言うのが一部のある種の考えを持つものには好まれているようですが、北米の「インディアン」同様、それは自己満足的なものと言っていいでしょう。「ジプシー(語源的にはイジプシャン(エジプト人)から来る)」という語感から来る一種独特のイメージを捨てることはできません。
ジプシーの音楽というと、ハンガリーなどの東欧やイベリア半島で特にその独特の異国風文化を見ることができます。ドヴォルザークに「ジプシーの歌」(op.55)という7曲からなる歌集がありますが、その第4曲が有名な「わが母の教え給いし歌」です。いろいろな特徴があるのでしょうが、その一つにこの曲に見られる哀調をおびたメロディーがあるように思います。「ヴァイオリンで弾こう! のだめカンタービレの世界」に載っていて私も弾いてみました。シャープ2つで、ポジション移動無しで書かれています。(原曲はどうなのだろう。)
ラヴェルの「ツィガーヌ」ですが、原曲はバイオリンとピアノのための曲で、初演もこの形で行われました。
今、この曲を管弦楽伴奏盤で聴きました。マルティノン指揮のパリ管弦楽団(独奏はパールマン)による演奏です。これは最高の演奏と思われます。LP5枚組からなるこのラヴェル管弦楽曲全集は、当時待ちに待った全集で、これさえあれば他はいらないと思いましたが、今もその気持ちは変わりません。



プッチーニ「トゥーランドット」

2007-04-25 09:38:49 | 音楽一般
今日は、プッチーニの歌劇「トゥーランドット」が初演された日です(1926年、ミラノ・スカラ座)。
このオペラの名は、昨年(2006年)の冬季オリンピックで金メダルを取った荒川静香さんの氷上の舞と共に有名になりました。イナバウアーが誰しも印象に残っていると思いますが、劇中の「誰も寝てはならぬ」の曲はあの優美さにぴったりだったように思います。このようなことで、クラシック音楽の持つ本来の素晴らしさが伝えられるのは、とてもよいことだと思います。
この歌劇は、作曲者の死により未完で残されましたが、その後を弟子が補作したということです。ところで、この曲の初演ですが、トスカニーニがその任を受け負ったのですが、彼は第3幕の途中まで棒を振り、客席に向かい、「マエストロは、ここで筆を置きました」と話し、演奏をやめたということです。

ブルッフ「バイオリン協奏曲第1番」

2007-04-24 14:15:18 | ロマン派
今日は、ブルッフの「バイオリン協奏曲第1番」が初演された日です(1866年、コブレンツ)。
ブルッフはバイオリン協奏曲を3曲書いていますが、その最初の曲である第1番が良く知られ、もっとも良く演奏会で取り上げられているようです。チャイコフスキーもピアノ協奏曲は第1番がもっとも有名ですが、やはり3曲書いています。サン・サーンスは、チェロ協奏曲を3曲ではなく2曲書いていますが、第1番が圧倒的に有名ですね。私は、常々、芸術家は後になるほど、晩年に向かうほど優れた作品を残すべきで、これは音楽のみならず、美術、小説の分野でもそうあるべき、と考えますがその例外もあるということなのでしょう。
このブルッフのバイオリン協奏曲ですが、以前バイオリンを独奏とする管弦楽全集がLP3枚で出た時があり、買い求めましたが(もちろんこの中には、1番に次いで有名な「スコットランド幻想曲」も入っています)、あまり回数を聴いてないですが、1番が印象的だったように思います。

この初演の年1866年は、歴史に残る年となった。初演後2ヶ月ほどして、プロシア軍は、ハノーバー、ザクセンそれにヘッセン・カッセルの国境を越えた。普墺戦争の開始である。7月3日のケーニヒグレーツの戦いでオーストリアは完敗を喫し、戦争は終わる。これにより、ドイツ連邦は解体し、プロシアを中心とする北ドイツ連邦が成立した。これはオーストリアのドイツからの排除を意味するものであった。

グルック「アルチェステ」

2007-04-23 09:07:00 | 音楽一般
今日は、グルックの「アルチェステ」のフランス語版が初演された日です(1776年、パリ)。
フランス語版と断りがあるのは、この作曲家は名前からわかるようにドイツ人ですが、後にパリに出て活躍したからです。この作品は、ドイツ人といえども、当時の慣例に従い、イタリア語で当初作曲されました。その後、パリでの上演に際し、フランス語に改訂されたのです。
グルックと言うと、小品「精霊の踊り」が飛びぬけて有名ですが、これは歌劇「オルフェオとエウリディーチェ」の中の曲です。
上にあげた2作品を始め、グルックには「パリスとヘレン」、「アウリスのイフィゲニア」、「タウリスのイフィゲニア」などギリシア神話に題材を持つ作品がたくさんあります。R.シュトラウスにも「エレクトラ」、「ダフネ」、「ダーナエの愛」など同様の作品があります。学生時代、プラトンなどの哲学にひかれ、ギリシア神話にも興味を持ちました。(深い知識を持つまでには至りませんでしたが。)グルックやR.シュトラウスのオペラを通じて、もう一度ゆっくり時間をかけてギリシア神話の世界に浸りたいと思っているところです。

メニューイン

2007-04-22 10:30:29 | 音楽一般
今日は、アメリカ出身のバイオリニスト・指揮者のユーディ・メニューインの生誕日です(1916年)。
メニューインというと、私は、ベートーベン全集にあった、ケンプとの「バイオリン・ソナタ全集」、そしてこの2人にフルニエが加わっての「ピアノ三重奏曲全集」をこよなく愛し聴いたものです。特に、「クロイツェル・ソナタ(バイオリン・ソナタ第9番)」は激しい情熱を中に含んだ名演奏と思っています。
メニューインは、また周囲がどう思おうが、自分の考えを押し通すヒューマニズムの人という印象を持っています。戦後、フルトベングラーと最初に競演したユダヤ人が彼でした。これはベートーベンのコンチェルトにおける共演で、1947年のことです。
メニューインは、東洋的なものにも強く引かれたようで、ヨガに強い関心を持っていたそうです。舞台上で、ちょっと風変わりな演技をしたような話も聞いたように思うのですが、ネットで見てもちょっとその話は出ていないようです。勘違いかなあ。