川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

ある感想文 『遙かなる絆』

2009-06-12 17:33:24 | 中国残留日本人孤児
 昨日、失業中のAくんが『遙かなる絆』(NHK)の感想を書いてFAXで送ってくれました。20年前にぼくの生徒だった「中国残留孤児」2世の一人です。この不況で仕事を失い、転職準備中です。
 中一で来日しました。日本語も中国語も中途半端なため社会に出てからも苦労の連続ではなかったかと思います。高校3年間は私たちの学校で学んだのですからその責任のいったんはぼくにもあります。
 この際、あらためて日本語に挑戦しようと、感想文を書くことを強く勧めたのです。
 日本語で長い文章を書くのはほとんど初めてだといいます。悪戦苦闘して書き上げたのではないかと思います。原文にぼくが手を加えたのが次の文章です。骨格や語彙(ごい)はそのままです。


     「遙かなる絆」   A
 
 このドラマが終わり、寂しい感じがします。私は生まれ故郷へ帰りたくてたまらなくなりました。

 このドラマは事実に基づいており、孤児たち全体が経験したことの一部だと思います。
 孤児たちは日中戦争の犠牲者です。戦乱の中に生まれ、幼い時、親に棄てられました。
 当時、日本軍は中国で悪事を重ね、たくさんの人を殺したため反日運動が強く、中国人は日本人を強く憎んでいました。

 こうした時期に、中国に捨てられたこどもは何人いるだろうか。何人死んだんだろうか。
 日本人に強い憎しみを持っている状況の中で、運よく、拾われ、育てられた人は捨てられたこどもの何割いるだろう?ほかの子どもたちの運命は?

 運よく中国人に拾われた子どもたちも悪い状況の中で生きのびられた確率はどのくらいだろう?
 無事生きのびられたとしてもその後直面したさまざまな偏見や差別、日本人に対する監視など、その苦労は当事者・孤児本人しか理解できないと思います。

 孤児のこどもである私は実際どのくらい理解できるかわかりません。普通の日本人は理解できるだろうか?

 さまざまな苦労を乗り越え、日本へ帰国してもまず直面したのは言葉や生活習慣の違いから来る壁です。職の変更という苦労に直面しただけでなく、日本語が話せないので「中国人!」と差別されました。

 中国にいる時は「日本鬼子」と呼ばれ、いろいろな差別を受けました。祖国・日本に帰っても「中国人!」と差別されるとは…。
 孤児たちの運命は戦争に翻弄され、戦争が終わって日本に帰っても未だに犠牲になっています。

 孤児は戦争の犠牲者の真の鏡です。
 戦争は二度と起こしてはならない。戦争は世の中に絶対あってはならない、と私は思います。


 「思ったことがなかなか書けない。20数年も日本にいるのに恥ずかしい。」と本人はいいます。
「そんなことをいってもはじまらない。文章の骨格は出来ている、自信を持って毎日一枚ずつ自分の人生について書いてみろ。ぼくが添削するから」とぼくはいいます。

 読まれた皆さんはどう思いますか。40近くなって日本語に挑戦する父親の姿を見て子どもたちはどう思うかな。ぼくだったらお父さんも頑張っているんだな、と蔭ながら声援を送るのですが。

 ぼくの命令に屈したのか、A君は「やってみる」といいました。頑張ってほしいものです。

 Aくんがコンピューター関連の職業訓練校に合格したという報せがありました。けっこう倍率が高く諦めかけていたのです。ほんとうに良かった。
 勝ち取った絶好の機会です。半年間の訓練中に日本語の実力もきっと向上させることでしょう。

 ぼくの夢はいつの日かAくんたちと一緒に「遙かなる絆」の舞台になった辺りを訪ねることです。彼らの故郷もこのドラマの主人公の故郷とほとんど重なるのです。
 Aくんは来日以来一度も故郷に帰ったことがありません。「帰りたくてたまらなくなった」と書いています。帰るときには連れて行ってやるといってくれます。
 日本での生活を安定させ、そのような日が遠くないうちにやってくることを期待しています。 

 

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