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礼拝説教、聖書を読んで感じた事

愛に負けるイエス

2019-05-26 17:12:46 | 礼拝説教
2019/5/26 礼拝説教
【テーマ】  愛のとりなし
【説教題】 「愛に負けるイエス」
【聖書箇所】 マルコ7:24-30
7:24 イエスは立ち上がり、そこからツロの地方へ行かれた。家に入って、だれにも知られたくないと思っておられたが、隠れていることはできなかった。
7:25 ある女の人が、すぐにイエスのことを聞き、やって来てその足もとにひれ伏した。彼女の幼い娘は、汚れた霊につかれていた。
7:26 彼女はギリシア人で、シリア・フェニキアの生まれであったが、自分の娘から悪霊を追い出してくださるようイエスに願った。
7:27 するとイエスは言われた。「まず子どもたちを満腹にさせなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです。」
7:28 彼女は答えた。「主よ。食卓の下の小犬でも、子どもたちのパン屑はいただきます。」
7:29 そこでイエスは言われた。「そこまで言うのなら、家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました。」
7:30 彼女が家に帰ると、その子は床の上に伏していたが、悪霊はすでに出ていた。

○ 子どもが大変な状況にある時に心痛まない親がいるでしょうか? 今日ここに登場する母親も娘が悪霊につかれてどうしようもなく苦しんでいます。そこに来られたイエスに必死で助けを求めて離れようとしない様子が見えます。しかも、この母親のイエスに対する答え方がすばらしいと思うのです。大変な中なのに、この母親とイエスの会話にユーモアを感じるのはなぜでしょうか? 母親の賢い答えにそう感じるのだと思います。

Ⅰ.異邦人伝道の始まり
A.ユダヤ人のために
1.神はイエスをユダヤ人として誕生させ、ユダヤ人に神の愛と計画を知らせて行かれました。全ての人の救いのために神がイスラエルを選ばれたように、イエスが選んだ12弟子は皆ユダヤ人でした。
2.イエスは まず子どもたちを満腹にさせなければなりません。 と、限られた期間、基本的にはユダヤ人の救いのために活動されました。

B.全ての人の救い主
1.イエスもユダヤ人の救いは大事なこととしてガリラヤ中心に宣教活動を進められるのですが、決してイエスはユダヤ人だけに絞られたわけではありませんでした。今回の異邦人、ギリシャ人の女もそうですが、ローマの百人隊長など、異邦人に対してもわざを行っておられます。
2.ユダヤ人には異邦人が救われるという考えはありませんでしたが、神の計画は全世界、全ての人が対象であり、何としても救いたいというのが神の思いです。
3.イエスはサマリヤの女に会うためにサマリヤに行かれましたし、ザアカイに会うためにエリコに行かれました。今回も異邦人の地、ツロに行かれたのはやはりこの母親に会うためと考えられます。今もイエスは私たちのために働いてくださっています。

Ⅱ.信仰のユーモア
A.イエスから離れない母親
1.彼女の娘は悪霊につかれていました。そこで彼女は噂に聞いていたイエスが来られると知ると、何が何でもイエスに娘を助けていただこうとイエスの所にやって来ました。私たちもイエスの所に行くことが大事なのです。
2.しかし、イエスは彼女の願いを聞こうとされません。「なんとイエスは愛のないことを」と思う話です。彼女を「小犬」と言い、パンをあげないというのです。この母親と同じように、イエスに軽くあしらわれたと感じた方も多いと思います。

B.母親の賢い答え
1.「小犬」のことを考えてみましょう。その当時、食事は手を使って食べていましたが、パンの一切れを最後まで残しておいて汚くなった手をそのパンで拭き取って、そのパンを飼っている犬に与えていたそうです。
2.この母親はその小犬がそのパンをもらうように、自分もそれをいただくだけでよいのだと言うのです。この母親はイエスの話に怒るのではなく、そのまま自分を「小犬」に見たてて答えるのです。ここにユーモアを感じます。
3.信仰は確かに真面目で厳しい面があると思いますが、このようなユーモアをも持つものだと思います。つまり心を開き、イエスと親しい会話をすることが信仰の世界だと思います。

Ⅲ.イエスの負け
A.異邦人の女に負けたイエス
1.パリサイ人達とのやりとりでずっとイエスは勝ち進んでこられました。しかし、ここ、異邦人の女とのやりとりにおいてはイエスが負けたという感じです。
2.ユダヤ人の信じる神こそが神ですが、異邦人の中にも真の神を求めて真面目に信仰に生きる人もいます。ユダヤ人のように神に対する知識は無いかも知れないですが、果たして信仰も無いと言えるでしょうか?
3.食らいついて離れないのは娘に対する母親の愛です。イエスは愛のお方です。愛に負けるのです。

B.そこに行かずにわざを行われた
1.女の願いを聞かれたイエスは彼女の娘から悪霊を追い出されるのですが、その方法はというと、その家にも行かず、娘に触れることもなさらず、いつの間にか悪霊は追い出されています。
2.私たちの祈りもどんなに遠いところにでも影響力を与えることができるということです。祈りは愛ですから。イエスは愛に負けるのです。

● Ⅱ列王5章にツァラアトに冒されたアラムの将軍ナアマンの癒しの話は預言者エリシャが彼に直接触れることも、会うこともなく、使者に
 「ヨルダン川へ行って七回あなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだは元どおりになって、きよくなります。」 と言わせています。ナアマンは出てきてくれないエリシャに腹を立てそのまま帰ろうとしますが、賢いしもべたちが 5:13 「わが父よ。難しいことを、あの預言者があなたに命じたのでしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。あの人は『身を洗ってきよくなりなさい』と言っただけではありませんか。」 とたしなめたので、ナアマンは気持ちを切り替えてヨルダン川に入りました。エリシャの言葉の通りにすることで彼は癒やされました。

★ 最初のナアマンのように、イエスを信じないで離れていこうとする人が多いかも知れません。しかし、私たちがこの母親のように、ナアマンのしもべのようにとりなすことが大事なのではないでしょうか。。そのあなたの愛のとりなしがイエスの力を発揮させるのです。


人を汚すもの、その解決は?

2019-05-19 16:31:17 | 礼拝説教
2019/5/19 礼拝説教
【テーマ】  罪からの解放
【説教題】 「人を汚すもの、その解決は?」
【聖書箇所】 マルコ7:14-23
7:14 イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「みな、わたしの言うことを聞いて、悟りなさい。
7:15 外から入って、人を汚すことのできるものは何もありません。人の中から出て来るものが、人を汚すのです。」
7:16 【本節欠如】
7:17 イエスが群衆を離れて家に入られると、弟子たちは、このたとえについて尋ねた。
7:18 イエスは彼らに言われた。「あなたがたまで、そんなにも物分かりが悪いのですか。分からないのですか。外から人に入って来るどんなものも、人を汚すことはできません。
7:19 それは人の心には入らず、腹に入り排泄されます。」こうしてイエスは、すべての食物をきよいとされた。
7:20 イエスはまた言われた。「人から出て来るもの、それが人を汚すのです。
7:21 内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出て来ます。淫らな行い、盗み、殺人、
7:22 姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさで、
7:23 これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです。」

○ 今日の午後はバーベキュー大会です。肉が焼かれますが、私たちがユダヤ人だとその肉にも制限が出てきます。前にも語りましたが、ユダヤ人には神の定めた決まり、自分たちで作った色々なしきたり、言い伝えがありました。
  今日のテキストは 7:14 イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「みな、わたしの言うことを聞いて、悟りなさい。 と始まるように、弟子達やパリサイ人がそれまでイエスの近くで話を聞いていたのですが、イエスは群衆を呼び寄せて語られるのです。ということは全ての人が知っておくべき大事なことを語られているのではないでしょうか。

Ⅰ.食べ物が人を汚すことはない
A.神の定めた規定
1.ユダヤ人には食べ物に関して、食べて良いもの、食べてはいけないもの、結構細かい規定がありました。有名なところでは豚肉を食べてはいけない、血があるままで食べてはいけないということですが、レビ記11章には色々な動物が書かれています。
2.なぜそういう規定があるのかわかりませんが、ある人は昔の調理方法では細菌やウイルスに感染する可能性があったからだと言います。しかし、本当のところはわかりません。

B.食べ物が問題では無い
1.こういう規定があるにも関わらず、イエスは 7:15 外から入って、人を汚すことのできるものは何もありません。人の中から出て来るものが、人を汚すのです。」 と言われました。それはイエスがここでも心の話、内側の話をされているからです。食べたもので人が宗教的に汚れるわけでは無いということです。
2.イエスはユダヤ人の信仰が形式に流れていることを教えておられます。形式、しきたりが人を救うのではないのです。そして同じく、それを守らないからと言って汚れるわけでもないのです。

Ⅱ.内側から出てくるものが人を汚す
A.罪の心が悪を生み出す
1.では何が人を汚すのかというと、 人の中から出て来るものが、人を汚す と言われ、それを解説して 7:21 内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出て来ます。淫らな行い、盗み、殺人、7:22 姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさで、7:23 これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです。」 と言われました。
2.人を汚す根本的な問題は外から入ってくるのでは無く、すでに私たち人間の内側にすでにあるのだということです。それが色々な悪しき形になって出てくるのです。

B.原罪
1.人間はすでに「罪人」だということは結構知られています。生まれたての赤ん坊には罪は無く、段々汚れていくという考えもあるのかも知れませんが、主流派の考えでは無いでしょう。
2.人間の歴史を遡りますと、最初の人間には罪は無かったのですが、それが悪魔の誘惑に遭い、神の言葉を無にしたため人に罪が入り込んできました。神の言葉に従わないことが罪です。言い換えれば神を信じないこと、愛さないこと、礼拝しないことが罪です。
3.この罪を「原罪」と呼ぶのですが、これは全ての人に引き継がれ、罪のない人はイエスを除いて一人もいません。この原罪があるがため、ここから悪い考えも浮かんでくるのです。

Ⅲ.内側の解決が必要
A.外側ばかり繕ってもダメ
1.罪は強烈な力を持っていますから、人類の歴史は汚れとの戦いでもありました。人は自分の内側の罪に気づいています。そしてその解決をしたいけれど、自分の力ではどうにもならないことも気づいています。そこで多くの場合、諦めるか、自力で何とかしようとするのです。
2.こうしたユダヤの群衆にイエスは外側をいくらきよく装っても解決しないことを言われました。外側ばかり繕うパリサイ人の問題を指摘されたのです。内側を解決しなければならないと言うことです。

B.その解決を神に委ねる
1.そんな強烈な罪に打ち勝つことが人間にできるなら、すでに人類の歴史の中で行われていたことでしょう。しかし、自分の力ではできないのです。自分の心のことなのに自分で解決できないことを知るべきなのです。
2.だからイエスが来てくださったのです。それは目に見えない神と、目に見えない私たちの心の関係だからです。それは人間をお造りになった神にお委ねするしかない領域だと言うことです。
3.神の言葉を無にしたことが罪の始まりでしたから、神はイエスという神の言葉に従う事でこの大問題を解決されるのです。

●  よく親が「うちの子があんな子と付き合ったから悪い子になった」とか言います。無菌状態で育てればよい子になるのでしょうか? 外から入ってくるものが汚しているのでは無く、すでに人の内側にあるのです。
  泥水をそっとしておくとそこに泥が沈み上はまあきれいになります。しかし、ひとたび揺すると濁るように、私たちの心も普段きれいに見えても、実は底に沈んでいる罪があるということです。このドブさらいをしなければきれいになりません。それがイエスの十字架です。

★ 罪はすでに人間の内側にあるのです。その根本は神を愛さないことです。神に従わないことです。神ご自身であるイエスを心に迎え入れようではありませんか。


誰を愛していますか?

2019-05-12 16:48:11 | 礼拝説教
2019/5/12 礼拝説教
【テーマ】  父母を愛しているか
【説教題】 「誰を愛していますか?」
【聖書箇所】 マルコ7:9-13
7:9 またイエスは言われた。「あなたがたは、自分たちの言い伝えを保つために、見事に神の戒めをないがしろにしています。
7:10 モーセは、『あなたの父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない』と言いました。
7:11 それなのに、あなたがたは、『もし人が、父または母に向かって、私からあなたに差し上げるはずの物は、コルバン(すなわち、ささげ物)です、と言うなら──』と言って、
7:12 その人が、父または母のために、何もしないようにさせています。
7:13 このようにしてあなたがたは、自分たちに伝えられた言い伝えによって、神のことばを無にしています。そして、これと同じようなことを、たくさん行っているのです。」

○ 今日は「母の日」。母親というのは私たちの命を生み出してくれた尊い存在です。神はこのようにして人間が生まれるように計画されたことに驚きを感じます。人の誕生というのは神の存在を思わずにはいられないものです。
  母親は自分の体内で赤ちゃんを育て、生み出すときには大変なエネルギーを使います。時には命がけになります。しかもこの時の母親は母親としてのホルモンが驚くほど出ていて、我が子がかわいくて仕方がないという状態になるというのです。
  何と神はすごいことを考えられたのでしょうか。生まれてきたら、次はおっぱい、おしめ、夜泣きなどとの闘いです。でも、その時のことを子どもは覚えていないのです。神の恵みに関しても人は案外覚えていないものです。感謝を忘れないようにしたいものです。

Ⅰ.個人的な証
A.母に対して
1.今日のテキストにあるイエスの言葉にはモーセに与えられた十戒の第五戒 あなたの父と母を敬え と、 出エジプト記21:17 自分の父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない。 が引用されています。自分の誕生のために母親が命がけで生みだしてくれたことを思うと「感謝」の気持ちを持たないことの方がおかしいと思います。 『あなたの父と母を敬え』 という言葉は神に言われなくても私たちが自発的に持つべき心です。
2.では私はどうなのかと問われると、母に対して尊敬の気持ちは持っていましたが、父に対してはどうも持てずにいました。思春期の頃は母にも尊敬の気持ちを持っていなかったように思います。うっとうしかったのでしょう。
3.しかし、失明しかけた時、母は私の目に手を当てて祈ってくれました。祈られることなんて毛嫌いしていた私でしたが、この時ばかりは受け入れました。そして、大学病院に行って検査を受けると視神経は全く正常に戻っていたのです。祈りはとても大きな「愛」だと知ったのです。

B.父に対して
1.クリスチャンになると、父親からは怒鳴られ、クリスチャンを止めるように責め立てられました。数か月後に弟もクリスチャンになると父は弟を勘当し、弟は家を出ました。藤井家は崩壊状態です。
2.しかし、母は祈っていたようです。父もよく耐えたと思うのです。この点で私は父を尊敬しています。この未信者の父の忍耐がなければ私はどうなっていたかわかりません。
3.しかし、心のどこかで ルカ14:26 「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分のいのちまでも憎まないなら、わたしの弟子になることはできません。 という御言葉を勝手な解釈で、父を憎んでも大丈夫と思おうとしていたのかも知れません(もちろん、父・・・を憎んで良いという話ではありません)。

Ⅱ.御言葉を生きる
A.御言葉をすり替える
1.さて、今日のテキストに 『もし人が、父または母に向かって、私からあなたに差し上げるはずの物は、コルバン(すなわち、ささげ物)です、と言うなら──』と言って、 その人が、父または母のために、何もしないようにさせています。 とありますが、両親のために使うべきものを神へのささげ物になったと言うことで親に対する扶養義務を無くそうとしているのです。
2.一見この言葉は「神第一」というとても信仰的な言葉に聞こえます。何しろ マタイ10:37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。 と、イエスは言われたのですから、神第一ということは当然のことなのです。その当然の「神第一」を逆手にとって自分たちの都合に合わせているのです。父母を愛したくないばかりに神の言葉をすり替えていることになります。

B.神の言葉の回復のため
1.聖書の言葉を自分勝手な解釈をしたのでは幸せを持つことはできません。カギがどんなに似ているようであっても本物でない限り開くことはありません。そのように御言葉らしいことを言っても、本物でない限り幸せの扉は開かないのです。
2.イエスは何のためにこの地上に来られたのか。人を愛するため、神の言葉を回復するためでした。 7:13 このようにしてあなたがたは、自分たちに伝えられた言い伝えによって、神のことばを無にしています。そして、これと同じようなことを、たくさん行っているのです。」 と、自分たちで御言葉をすり替えて言い伝えを作ったパリサイ人達を叱責なさいました。
3.パリサイ人達は一般民衆を愛していませんでしたが、父や母でさえも愛の対象としなくなっていたのです。つまり、自分だけを愛していたのです。父母にあげたくないものをコルバンにしたのです。ところが、イエスはあなたを愛したのです。

● 最初に語った父と母ですが、私が二人を尊敬するのは自分のことよりも他の人のことを考える人だったことです。
 そして私の生徒達がわが家に来ることも両親は嫌いませんでした。うるさくても喜んでいました。その一つとして、毎年「元旦ハイキング」をしたのですが、生徒達50人ほどを夜中の2時頃にわが家に連れてきて休憩しても気持ち良く受け入れてくれたのです。
 わが家には常によその人がいました。キリスト教嫌いの父親ではあるものの、いつかわが家で家庭集会ができるようにと祈っていました。これは実際、祈って20年以上たって実現したのです。
私は大して父を愛していなかったと思います。
私たち一家が東京に引っ越すことになったとき、父は孫達と会えなくなるさみしさで大変辛かったようです。しかし、年をとって、父は母に優しくなりました。家庭集会も継続してくれました。
 私は父と母を亡くしてから、私が父と母に愛されていたのだということを痛切に感じるようになりました。私が愛していなくても父と母は愛してくれていたのです。それ以上にイエス・キリストは私を愛してくださっていました。

★ 私たち父・母を愛しているでしょうか? でも、親は愛してくれています。 私たちはイエス・キリストを愛しているでしょうか? でも私たちはイエス・キリストに愛されているのです。


あなたを愛する言葉

2019-05-05 18:34:47 | 礼拝説教
2019/5/5 礼拝説教
【テーマ】  十字架の言葉
【説教題】 「あなたを愛する言葉」
【聖書箇所】 Ⅰコリント1:18、23
1:18 十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。

1:23 しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。

○ 4月1日に新元号が発表され、5月1日から元号が変わりました。「令和」に込められた思いはどのようなものでしょうか? 安倍首相は「令和には、人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つという意味が込められている」と言ったそうです。しかし、人によってはこの「令和」をよくない意味にとらえる人もあるようです。たった漢字二文字で人に色々な思いを与えます。言葉というものは不思議なもので、私たちに色々な思いを与えるのです。言葉の力というものを感じます。

Ⅰ.言葉の力
A.元気をもらう言葉
1.マザーテレサの言葉です。「私たちは、大きいことはできません。小さなことを 大きな愛をもって行うだけです」「いかにいい仕事をしたかよりも どれだけ心を込めたかです」「神様は私たちに、成功してほしいなんて思っていません。ただ、挑戦することを望んでいるだけよ」これらの言葉に励まされた人がたくさんいるそうです。
2.三浦綾子さんのカレンダー、星野富弘さんのカレンダーに書かれている短い文章に心打たれ、元気をもらうこともあります。二人はクリスチャンですからその言葉の土台は聖書です。
3.そのように聖書の言葉や温かい言葉かけで元気になったり、生きる希望を持つ人がたくさんいらっしゃいます。マーク・トウェインは、「素敵なほめことば1つで、人は2ヶ月生きていける。」と言っています。

B.言葉に潜む力
1.反対に心無い言葉で相手の心を傷つけてしまうことも多々あります。子どもの世界でも言葉によるいじめで大事ないのちを無くす子どももいます。言葉が人を殺してしまうのです。いかに言葉の力が強いかということです。
2.どんなに丁寧な言葉を使っても気持ちのこもっていない「ありがとう」が人の心を打つことはありません。時には言葉にならないお辞儀が最高に感謝を語っていることもあります。
3.思春期の子どもで母親に向かって「くそばばあ」という子がいます。ひどい言葉です。しかし、この言葉を分析すると多くの場合、母親に対する「甘え」から出ていると言われます。言葉の後ろに隠れている心があるのです。

Ⅱ.十字架の言葉
A.聖書の言葉を信じる人
1.今日の聖書箇所には 十字架のことばは、・・・救われる私たちには神の力です とあります。 十字架のことば とは単にイエスが十字架の上で語った言葉ということではなく、イエスの福音全てをいいます。
2.イエスの十字架による救いの計画を受け入れた人たち、つまり 救われる私たち にとってはこの福音は「力」です。 滅びる者たちには愚かであっても と、イエスを信じない人には何の力にもならないということです。 「●●行き」という電車に、信じて乗る人はそこに行けますが、信じないで乗らない人は行けません。その言葉を信じるか信じないかで行き先が変わるのです。

B.不思議な聖書の言葉
1.同じ言葉を聞いても感じ方が人それぞれです。特に文字になってしまうと、さらに活字になってしまうと「ありがとう」という言葉さえ、気持ちの良い「ありがとう」なのか、イヤイヤながらきつい言葉で言っている「ありがとう」なのかわかりにくいものです。
2.学生時代、国語の先生が何度も「作者の気持ちを考えて読みなさい」と言っていました。十字架の言葉、イエスの言葉、聖書の言葉を神の気持ちになって読むことができたら、私たちは打ち砕かれることと思います。

Ⅲ.十字架のキリストを宣べ伝える
A.わかることを超えて信じる
1.キルケゴールはこう言っています。「キリスト教には大きな躓きがある。もしもキリスト教が十字架と復活を言わなかったならば、良い教えだと多くの人が集まってくるかも知れない。けれども、そこには救いはない。キリスト教の救いというのはこの躓きの前に人間が粉々にされて謙虚になって、その躓きを信じることによって乗り越えさせて頂くところにある。分かることによって乗り越えるのではない。粉々に打ち砕かれて、自分とは何と無知な者であるかということが分かって、信じることによってこの躓きを乗り越えられるのだ」と。
2.私は神の存在さえ信じなかったのに、どうしてあっという間にイエスを信じてしまったのか不思議な気がします。振り返ってみると決して知識を十分に蓄えたから信じたというわけではありませんでした。しかし、私は十字架も復活も信じたのです。

B.イエスの言葉を信じる
1.救いを確信するというのは、自分がその救いを体験したからなのです。私も 十字架のことばは、・・・、救われる私たちには神の力です。 という力を体験しました。ですから、パウロと同じく23節の しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。 が私の言葉にもなっているのです。
2.イエスは ヨハネ14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。 と言われました。その言葉を信じて行くとき間違いなく神の家に行けます。

● では、実際にイエスが十字架の上で語られた言葉の一つをお伝えします。 ルカ 23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」 イエスを十字架につけた人々のため、また私たちのために祈られた言葉です。なぜイエスを十字架につけたかもわかっていない人々のためにイエスは恨みや呪いの言葉を語ったのでは無く、赦しを祈られたのです。この言葉はあなたを赦す言葉です。つまりあなたを心から愛しているというイエスの愛の言葉です。この祈りによってイエスを信じる者には救いがやってきました。そして、この言葉で私たちには神の力をいただくのです。

★ 十字架の言葉があなたの力になることを願っています。あなたを愛しているイエスの言葉を受け入れ、あなたもイエスの言葉を信じて歩み出しませんか。