2019/5/26 礼拝説教
【テーマ】 愛のとりなし
【説教題】 「愛に負けるイエス」
【聖書箇所】 マルコ7:24-30
7:24 イエスは立ち上がり、そこからツロの地方へ行かれた。家に入って、だれにも知られたくないと思っておられたが、隠れていることはできなかった。
7:25 ある女の人が、すぐにイエスのことを聞き、やって来てその足もとにひれ伏した。彼女の幼い娘は、汚れた霊につかれていた。
7:26 彼女はギリシア人で、シリア・フェニキアの生まれであったが、自分の娘から悪霊を追い出してくださるようイエスに願った。
7:27 するとイエスは言われた。「まず子どもたちを満腹にさせなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです。」
7:28 彼女は答えた。「主よ。食卓の下の小犬でも、子どもたちのパン屑はいただきます。」
7:29 そこでイエスは言われた。「そこまで言うのなら、家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました。」
7:30 彼女が家に帰ると、その子は床の上に伏していたが、悪霊はすでに出ていた。
○ 子どもが大変な状況にある時に心痛まない親がいるでしょうか? 今日ここに登場する母親も娘が悪霊につかれてどうしようもなく苦しんでいます。そこに来られたイエスに必死で助けを求めて離れようとしない様子が見えます。しかも、この母親のイエスに対する答え方がすばらしいと思うのです。大変な中なのに、この母親とイエスの会話にユーモアを感じるのはなぜでしょうか? 母親の賢い答えにそう感じるのだと思います。
Ⅰ.異邦人伝道の始まり
A.ユダヤ人のために
1.神はイエスをユダヤ人として誕生させ、ユダヤ人に神の愛と計画を知らせて行かれました。全ての人の救いのために神がイスラエルを選ばれたように、イエスが選んだ12弟子は皆ユダヤ人でした。
2.イエスは まず子どもたちを満腹にさせなければなりません。 と、限られた期間、基本的にはユダヤ人の救いのために活動されました。
B.全ての人の救い主
1.イエスもユダヤ人の救いは大事なこととしてガリラヤ中心に宣教活動を進められるのですが、決してイエスはユダヤ人だけに絞られたわけではありませんでした。今回の異邦人、ギリシャ人の女もそうですが、ローマの百人隊長など、異邦人に対してもわざを行っておられます。
2.ユダヤ人には異邦人が救われるという考えはありませんでしたが、神の計画は全世界、全ての人が対象であり、何としても救いたいというのが神の思いです。
3.イエスはサマリヤの女に会うためにサマリヤに行かれましたし、ザアカイに会うためにエリコに行かれました。今回も異邦人の地、ツロに行かれたのはやはりこの母親に会うためと考えられます。今もイエスは私たちのために働いてくださっています。
Ⅱ.信仰のユーモア
A.イエスから離れない母親
1.彼女の娘は悪霊につかれていました。そこで彼女は噂に聞いていたイエスが来られると知ると、何が何でもイエスに娘を助けていただこうとイエスの所にやって来ました。私たちもイエスの所に行くことが大事なのです。
2.しかし、イエスは彼女の願いを聞こうとされません。「なんとイエスは愛のないことを」と思う話です。彼女を「小犬」と言い、パンをあげないというのです。この母親と同じように、イエスに軽くあしらわれたと感じた方も多いと思います。
B.母親の賢い答え
1.「小犬」のことを考えてみましょう。その当時、食事は手を使って食べていましたが、パンの一切れを最後まで残しておいて汚くなった手をそのパンで拭き取って、そのパンを飼っている犬に与えていたそうです。
2.この母親はその小犬がそのパンをもらうように、自分もそれをいただくだけでよいのだと言うのです。この母親はイエスの話に怒るのではなく、そのまま自分を「小犬」に見たてて答えるのです。ここにユーモアを感じます。
3.信仰は確かに真面目で厳しい面があると思いますが、このようなユーモアをも持つものだと思います。つまり心を開き、イエスと親しい会話をすることが信仰の世界だと思います。
Ⅲ.イエスの負け
A.異邦人の女に負けたイエス
1.パリサイ人達とのやりとりでずっとイエスは勝ち進んでこられました。しかし、ここ、異邦人の女とのやりとりにおいてはイエスが負けたという感じです。
2.ユダヤ人の信じる神こそが神ですが、異邦人の中にも真の神を求めて真面目に信仰に生きる人もいます。ユダヤ人のように神に対する知識は無いかも知れないですが、果たして信仰も無いと言えるでしょうか?
3.食らいついて離れないのは娘に対する母親の愛です。イエスは愛のお方です。愛に負けるのです。
B.そこに行かずにわざを行われた
1.女の願いを聞かれたイエスは彼女の娘から悪霊を追い出されるのですが、その方法はというと、その家にも行かず、娘に触れることもなさらず、いつの間にか悪霊は追い出されています。
2.私たちの祈りもどんなに遠いところにでも影響力を与えることができるということです。祈りは愛ですから。イエスは愛に負けるのです。
● Ⅱ列王5章にツァラアトに冒されたアラムの将軍ナアマンの癒しの話は預言者エリシャが彼に直接触れることも、会うこともなく、使者に
「ヨルダン川へ行って七回あなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだは元どおりになって、きよくなります。」 と言わせています。ナアマンは出てきてくれないエリシャに腹を立てそのまま帰ろうとしますが、賢いしもべたちが 5:13 「わが父よ。難しいことを、あの預言者があなたに命じたのでしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。あの人は『身を洗ってきよくなりなさい』と言っただけではありませんか。」 とたしなめたので、ナアマンは気持ちを切り替えてヨルダン川に入りました。エリシャの言葉の通りにすることで彼は癒やされました。
★ 最初のナアマンのように、イエスを信じないで離れていこうとする人が多いかも知れません。しかし、私たちがこの母親のように、ナアマンのしもべのようにとりなすことが大事なのではないでしょうか。。そのあなたの愛のとりなしがイエスの力を発揮させるのです。
【テーマ】 愛のとりなし
【説教題】 「愛に負けるイエス」
【聖書箇所】 マルコ7:24-30
7:24 イエスは立ち上がり、そこからツロの地方へ行かれた。家に入って、だれにも知られたくないと思っておられたが、隠れていることはできなかった。
7:25 ある女の人が、すぐにイエスのことを聞き、やって来てその足もとにひれ伏した。彼女の幼い娘は、汚れた霊につかれていた。
7:26 彼女はギリシア人で、シリア・フェニキアの生まれであったが、自分の娘から悪霊を追い出してくださるようイエスに願った。
7:27 するとイエスは言われた。「まず子どもたちを満腹にさせなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです。」
7:28 彼女は答えた。「主よ。食卓の下の小犬でも、子どもたちのパン屑はいただきます。」
7:29 そこでイエスは言われた。「そこまで言うのなら、家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました。」
7:30 彼女が家に帰ると、その子は床の上に伏していたが、悪霊はすでに出ていた。
○ 子どもが大変な状況にある時に心痛まない親がいるでしょうか? 今日ここに登場する母親も娘が悪霊につかれてどうしようもなく苦しんでいます。そこに来られたイエスに必死で助けを求めて離れようとしない様子が見えます。しかも、この母親のイエスに対する答え方がすばらしいと思うのです。大変な中なのに、この母親とイエスの会話にユーモアを感じるのはなぜでしょうか? 母親の賢い答えにそう感じるのだと思います。
Ⅰ.異邦人伝道の始まり
A.ユダヤ人のために
1.神はイエスをユダヤ人として誕生させ、ユダヤ人に神の愛と計画を知らせて行かれました。全ての人の救いのために神がイスラエルを選ばれたように、イエスが選んだ12弟子は皆ユダヤ人でした。
2.イエスは まず子どもたちを満腹にさせなければなりません。 と、限られた期間、基本的にはユダヤ人の救いのために活動されました。
B.全ての人の救い主
1.イエスもユダヤ人の救いは大事なこととしてガリラヤ中心に宣教活動を進められるのですが、決してイエスはユダヤ人だけに絞られたわけではありませんでした。今回の異邦人、ギリシャ人の女もそうですが、ローマの百人隊長など、異邦人に対してもわざを行っておられます。
2.ユダヤ人には異邦人が救われるという考えはありませんでしたが、神の計画は全世界、全ての人が対象であり、何としても救いたいというのが神の思いです。
3.イエスはサマリヤの女に会うためにサマリヤに行かれましたし、ザアカイに会うためにエリコに行かれました。今回も異邦人の地、ツロに行かれたのはやはりこの母親に会うためと考えられます。今もイエスは私たちのために働いてくださっています。
Ⅱ.信仰のユーモア
A.イエスから離れない母親
1.彼女の娘は悪霊につかれていました。そこで彼女は噂に聞いていたイエスが来られると知ると、何が何でもイエスに娘を助けていただこうとイエスの所にやって来ました。私たちもイエスの所に行くことが大事なのです。
2.しかし、イエスは彼女の願いを聞こうとされません。「なんとイエスは愛のないことを」と思う話です。彼女を「小犬」と言い、パンをあげないというのです。この母親と同じように、イエスに軽くあしらわれたと感じた方も多いと思います。
B.母親の賢い答え
1.「小犬」のことを考えてみましょう。その当時、食事は手を使って食べていましたが、パンの一切れを最後まで残しておいて汚くなった手をそのパンで拭き取って、そのパンを飼っている犬に与えていたそうです。
2.この母親はその小犬がそのパンをもらうように、自分もそれをいただくだけでよいのだと言うのです。この母親はイエスの話に怒るのではなく、そのまま自分を「小犬」に見たてて答えるのです。ここにユーモアを感じます。
3.信仰は確かに真面目で厳しい面があると思いますが、このようなユーモアをも持つものだと思います。つまり心を開き、イエスと親しい会話をすることが信仰の世界だと思います。
Ⅲ.イエスの負け
A.異邦人の女に負けたイエス
1.パリサイ人達とのやりとりでずっとイエスは勝ち進んでこられました。しかし、ここ、異邦人の女とのやりとりにおいてはイエスが負けたという感じです。
2.ユダヤ人の信じる神こそが神ですが、異邦人の中にも真の神を求めて真面目に信仰に生きる人もいます。ユダヤ人のように神に対する知識は無いかも知れないですが、果たして信仰も無いと言えるでしょうか?
3.食らいついて離れないのは娘に対する母親の愛です。イエスは愛のお方です。愛に負けるのです。
B.そこに行かずにわざを行われた
1.女の願いを聞かれたイエスは彼女の娘から悪霊を追い出されるのですが、その方法はというと、その家にも行かず、娘に触れることもなさらず、いつの間にか悪霊は追い出されています。
2.私たちの祈りもどんなに遠いところにでも影響力を与えることができるということです。祈りは愛ですから。イエスは愛に負けるのです。
● Ⅱ列王5章にツァラアトに冒されたアラムの将軍ナアマンの癒しの話は預言者エリシャが彼に直接触れることも、会うこともなく、使者に
「ヨルダン川へ行って七回あなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだは元どおりになって、きよくなります。」 と言わせています。ナアマンは出てきてくれないエリシャに腹を立てそのまま帰ろうとしますが、賢いしもべたちが 5:13 「わが父よ。難しいことを、あの預言者があなたに命じたのでしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。あの人は『身を洗ってきよくなりなさい』と言っただけではありませんか。」 とたしなめたので、ナアマンは気持ちを切り替えてヨルダン川に入りました。エリシャの言葉の通りにすることで彼は癒やされました。
★ 最初のナアマンのように、イエスを信じないで離れていこうとする人が多いかも知れません。しかし、私たちがこの母親のように、ナアマンのしもべのようにとりなすことが大事なのではないでしょうか。。そのあなたの愛のとりなしがイエスの力を発揮させるのです。