バイブルサロン

礼拝説教、聖書を読んで感じた事

結婚の誓約のように

2013-10-27 18:03:39 | 礼拝説教

  2013/10/27礼拝説教
【テーマ】  和解を求める神
【説教題】  「結婚の誓約のように」
【聖書箇所】 ローマ5:9-10
5:9 ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
5:10 もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。

○ 神様は実に愛に満ちた方で私たちを救いたくてたまらないお方だということをお伝えしてきました。しかし、今日のところを見ますと「神の怒り」という恐い言葉があります。

Ⅰ.神は怒るのか?
  A.神の言葉に従わない時に怒られる
    1.今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われる とあり、イエス様によって救われた者にとっては、どうも神様が怒るというのがわかりにくいかも知れません。しかし、神様は怒られます。
    2.神様がモーセに、イスラエルをエジプトから救い出すように言われた時、彼はすぐに従いませんでした。 出4:14 すると、【主】の怒りがモーセに向かって燃え上がり、こう仰せられた。「あなたの兄、レビ人アロンがいるではないか。・・・ と、神様の言葉に従わない時、怒っておられます。
    3.また、ヨシュアの時代のアカンの罪も有名です。 ヨシ 7:1 しかしイスラエルの子らは、聖絶のもののことで不信の罪を犯し、ユダ部族のゼラフの子ザブディの子であるカルミの子アカンが、聖絶のもののいくらかを取った。そこで、【主】の怒りはイスラエル人に向かって燃え上がった。 と書いてあります。神様の禁じたことをしてしまった時に怒られています。
   
  B.偶像礼拝を怒られる
    1.唯一の神様は十戒ですでに偶像を造ることも拝むことも禁じておられています。 Ⅰ列王 14:15 【主】は、イスラエルを打って、水に揺らぐ葦のようにし、彼らの先祖たちに与えられたこの良い地からイスラエルを引き抜き、ユーフラテス川の向こうに散らされるでしょう。彼らがアシェラ像を造って【主】の怒りを引き起こしたからです。 と偶像を造ったことで神様の怒りを招いています。
    2.また、 Ⅱ列王 17:11 【主】が彼らの前から移された異邦人のように、すべての高き所で香をたき、悪事を行って【主】の怒りを引き起こした。 と偶像礼拝をしたことを怒っておられます。
    3.また、 Ⅱ歴代 24:18 彼らはその父祖の神、【主】の宮を捨て、アシェラと偶像に仕えたので、彼らのこの罪過のため、御怒りがユダとエルサレムの上に下った。 と、真の神から偶像に心移りしたことを怒っておられます。
   
  C.イエス様を信じないことで怒られる
    1.新約聖書では、 ヨハ 3:36 御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。 と、イエス様を信じない者を怒られることがわかります。
    2.パウロは、エペ 2:3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。 と言って、私たちは生まれながら怒りを受ける存在であることを教えています。
    3.神様は優しい、愛の方ですが、完璧な義の方であることも忘れてはなりません。怒られる側面をお持ちだということは、必ず裁きの日も来るということです。

Ⅱ.私たちは神の敵であった
  A.聖書は「敵」と言う
    1.次に、 敵であった私たち と、私たちは神の敵だったというのです。が、果たして皆さんは積極的に神様の敵になって、反逆し、神様に戦いを挑んだりしましたか? たぶん、多くの方は神様に対して積極的に戦いを挑んではいないと思います。
    2.旧約聖書を見るとイスラエルに敵する者を神様が守るという書き方が普通なのです、それはイスラエルが神様の言葉に従っており、他国が愚像の神々に頼り、イスラエルに戦いを挑んでくるからです。
    3.でも、このイスラエルが神様に従わなくなれば、他国と同じで神様に対して敵対していることになるのです。
   
  B.神を愛さない者は神の敵である
    1.パウロは コロサイ1:21 あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行いの中にあったのですが、 と、神様を離れている者を神様の敵と呼んでいます。確かに積極的に悪を行ってはいない人が多いと思いますが、行為というよりも 心において敵となって いるのです。
    2.また、ヤコブは、 ヤコブ4:4 貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。 世を愛することが神に敵対していると言っています。
   
  C.敵に良くする事が命じられている
    1.ところが、イエス様のこの言葉は大変感動します。 マタイ5:44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。 神であるイエス様が敵を愛するように教えておられます。
    2.旧約聖書の中でも、 箴25:21 もしあなたを憎む者が飢えているなら、パンを食べさせ、渇いているなら、水を飲ませよ。 25:22 あなたはこうして彼の頭に燃える炭火を積むことになり、【主】があなたに報いてくださる。 と言われて、敵に良くすることを言っておられます。
    3.Ⅱ列王6章では、エリシャが敵の目を見えなくして王の所に連れて行きました。王は殺そうとしましたが、エリシャは彼らをもてなした上で帰すように言いました。この箴言を実行しているのです。

Ⅲ.神は和解を望んでおられる
  A.十字架による救いを計画された
    1.当然、神様は私たちが神の敵であっても愛してくださるということです。そして、こんな神の敵であった私達を救うためには、イエス様の十字架という方法しか無かったのです。皆さんは何か他に方法が思い浮かびますか?
    2.神様のなさる和解の方法は、私たちが考えつかないようなものでした。それを長い年月かけて、イエス様の誕生、十字架、復活という事実の中で実現してくださったのです。
   
  B.赦されるだけでは無い
    1. キリストの血によって義と認められた とあるのは、単に赦されるだけのことでは無いのです。赦されることもすばらしいですが、神様は私たちにもっとすごいことを宣言してくださったのです。義と認められるということです。つまり、私たちは神様から「義」と宣言していただいているということです。これは法律用語です。こんな判決ができるのは神様しかありません。
    2.しかも神によって義と認められるというのは、未来永劫に渡って裁かれない事を示しています。完全に安全地帯にいるということです。だからルターはすごい感動をして、宗教改革へと及んだのです。
   
  C.すばらしい契約をしてくださった
    1.今やイエス様を信じる者、つまりイエス様を愛する者、イエス様を大切にする者は、神様が開いてくださった和解の契約書にサインした人です。
    2.この契約書は、結婚の誓約のように「私はどんな時もイエス様を愛することを誓います」というような事が書いてあるのです。が、これは私たちの側のことであって、神の側には「私はずっと愛してきたし、これからも永遠にその愛は変わらない。そしてあなたを私の持つ命と同じ命を与え、永遠に天国で共に生活します」というような事があるのです。

★ 敵であった私達を愛して、天国に迎え入れてくださるのが神様です。神様は私たちと和解することを望んでおられます。


いのちの水の川が流れて

2013-10-23 11:32:12 | 礼拝説教

2013/10/20 礼拝説教(岡山伝道師)

■ テーマ:預言書から学ぶ
■ 説教題:いのちの水の川が流れて
■ 聖書箇所:エゼキエル47:1~12

47:1 彼は私を神殿の入口に連れ戻した。見ると、水が神殿の敷居の下から東のほうへと流れ出ていた。神殿が東に向いていたからである。その水は祭壇の南、宮の右側の下から流れていた。
47:2 ついで、彼は私を北の門から連れ出し、外を回らせ、東向きの外の門に行かせた。見ると、水は右側から流れ出ていた。
47:3 その人は手に測りなわを持って東へ出て行き、一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、それは足首まであった。
47:4 彼がさらに一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、水はひざに達した。彼がさらに一千キュビトを測り、私を渡らせると、水は腰に達した。
47:5 彼がさらに一千キュビトを測ると、渡ることのできない川となった。水かさは増し、泳げるほどの水となり、渡ることのできない川となった。
47:6 彼は私に、「人の子よ。あなたはこれを見たか」と言って、私を川の岸に沿って連れ帰った。
47:7 私が帰って来て見ると、川の両岸に非常に多くの木があった。
47:8 彼は私に言った。「この水は東の地域に流れ、アラバに下り、海に入る。海に注ぎ込むとそこの水は良くなる。
47:9 この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入る所では、すべてのものが生きる。
47:10 漁師たちはそのほとりに住みつき、エン・ゲディからエン・エグライムまで網を引く場所となる。そこの魚は大海の魚のように種類も数も非常に多くなる。
47:11 しかし、その沢と沼とはその水が良くならないで、塩のままで残る。
47:12 川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶える
ことがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからであ
る。その実は食物となり、その葉は薬となる。

<はじめに>
今日は、旧約聖書の預言書の一つ、エゼキエル書のところから語りたいと思います。預言者エゼキエルに神様が見せた素晴らしい幻の箇所から、神様の恵みを受け取りましょう。

<Ⅰ:エゼキエル書について>
1.預言者としての召しと働き
このエゼキエル書の著者、エゼキエルとは、どんな人か、簡単に見ておきたいと思います。エゼキエルはエレミヤのように、預言者であるとともに、祭司という職務に就いていました。彼は、エルサレム滅亡の十年ほど前に、エホヤキン王と共に捕らえ移されました。そして、エゼキエルは、1章~3章のところで、神様から召命を受けます。エゼキエルは、ケバル川のほとりで神々しい幻を見ますが、その時に、主からの預言者としての努めを果たすように召し出されます。

2.エゼキエル書全般
 エゼキエル書全体を見ますと、エゼキエルは、神様から預言者としての召しを受けた後の区分は、エゼキエルの預言の内容についてです。2番目の区分は、「エルサレムとイスラエル民族の運命」について記されています。3番目の区分では、「諸国民に対する預言」が語られ、4番目の区分は、「イスラエルの回復」について語られています。エゼキエル書の簡単なアウトラインは、ざっとこんなところです。
イスラエル民族は、神様のことを伝えるために、特別に選ばれた民族ですが、真の神に背いてしまい、そのため、エルサレムは滅亡へと向かいます。しかし、その後のイスラエル民族に対する神様の回復が起こるという、励ましが預言者を通して語られます。今日のところは、その4番目の区分、「イスラエルに対する回復」にあたります。滅亡までの預言の後の、イスラエルに回復のときが来る預言です。クライマックスとも言える箇所です。

<Ⅱ:神殿から流れる水>
エゼキエルは、案内人によって、神殿の入口、東門のところに連れ戻され、そこで素晴らしい光景を見せてもらいます。(47:1~2)何と神殿から水が出ています。エゼキエルは、その流れを追っていきます。案内人が持っていた測りなわで距離を測ると、千キュビトありました。(47:3)1キュビト45cmくらいと言われます。ですから、水の長さは約450mです。そして、その水の深さは。この時点では、エゼキエルの足首までの深さです。さらに千キュビトいくと、水の深さはひざまで達し、さらに千キュビト行くと、腰まで達しました。そして、とうとう川の状態となり、泳げるほど、渡れないほどの水かさになったというわけです。(47:5)

<Ⅲ:いのちの川となって>
1.いのちの水の川の癒し
そして、案内人から、「人の子よ。あなたはこれを見たか」と言われ、川の両岸に連れ帰られ、そこで知らされるのは、「この川が流れて行く所はどこででも、すべてのものが生きる。」という素晴らしい情景でした。(47:8~10)この川は、アラバから、海、これは死海を指すようですが、そこまで流れ出るということです。アラバという所は、ゴツゴツした岩山しかないような場所だそうです。また、死海は、塩分が高いため、生き物は生きることが出来ません。その海でさえ、この川が注がれると、水が良くなり生物が生きられるようになるというのです。いわゆる、生命が生きるいのちの水の川となるわけです。

2.いのちの水の川の水源
このエゼキエルが体験した、いのちの水の川の水源はどこからかというと、水源は、エルサレムの神殿であり、神殿にある祭壇です。これほどまでの生命力に溢れるのは、
聖所から流れ出ているためだと言うのです。(47:12)なぜ、そんなに生命力に満ちているのか、それは、聖所は、神の臨在があるからだということです。神様の豊かな臨在は、神様ご自身がいのちが溢れ出て、その川の流れいくところは全て、生命力に溢れているためなのです。神の臨在を求めることがいかに素晴らしいことかを教えられます。また、この情景は黙示録22章にある、新しいエルサレムの命の川と似ていて、来るべき千年王国への希望を持つことができます。(黙22:1、2)

<Ⅳ:教会時代のいのちの水>
エゼキエルは、案内人に導かれて、神殿から流れ出る川により導かれました。この神殿とは、現代の新約の時代に生きる神の民にとっては、ある学者は、注解書の中で、神殿はイエス様ご自身とも言っており、神殿とは、確かに、神様のご臨在のあることが分かります。そして、このいのちの水とは、聖霊を指しているわけです。イエス様は、ヨハネ4:14において、サマリヤの女に対して、イエス様が与える水を飲む人は、「永遠のいのち」を得ることができると語りました。イエス様を信じる私たちは、聖霊を宿して、神の住まう「聖霊の宮」とされました。神の臨在を伴う者とされたのです。(Ⅰコリント6:19)

<Ⅴ:いのちの水の川の恵み>
 この生けるいのちの水、私たちの心の御座から流れれ出る聖霊は、どのような恵みを人にもたらすでしょうか?エゼキエルのこの箇所から、水の聖めや魚が生きること、樹木の生長や果実の実りを見ました。いのちの水は、今を生きる私たちに、具体的にどんな恵みが満ちているでしょうか?簡単に見たいと思います。
1)人々の救いがもたらされます。イエス様を信じる者は、十字架の贖いにより、神の子とされ、全く新しくされます。
2)聖霊により、御言葉を読む理解力や知識、そして、祈りの力を得ます。
3)イエス様を証しする力、奉仕の力が与えられる。
4)神様のご性質を受け取ることが出来ます。聖霊は罪を聖めます。聖霊の喜びを受けます。神の平安を得ます。神の愛を知り、神の良きもので満たすことができます。聖霊の実を結ぶ者とされます。
5)神の癒しを体験します。
6)神に対する信仰を与えられ、引き上げられます。聖霊の賜物を求めて得られます。

<Ⅵ:聖霊の満たしを求めて>
この生けるいのちの水は、クリスチャンたちの只中にあります。エルサレムの神殿まで行かなくてもいいのです。エゼキエルが見た、神殿から流れ出る水は、進むごとに水かさが増し、ついには歩いて渡れないほどの大きな川となっていきました。進むごとに水かさが増したのです。聖霊の流れも同じように、私たちが主に従う生活を行い、神様の働きを行うごとに水かさが増していくのです。前進するごとに、水かさは増すのです。私たちも、個人においても、教会においても、もっと聖霊を求めていきましょう。聖霊の働きは、神の臨在のある私たち教会を通して、どんどんと流れていきます。聖霊の水の川の導くまま、従順に従うときに、私たちを通して聖霊の祝福が流れ、その働きは豊かなものとされるのです。エゼキエルは自力でその流れを作ったわけではありません。水の流れより先にいたわけではありません。この川の流れに従っていったのです。聖霊の流れに、聖霊の導きに従順となり、豊かな聖霊の臨在と共に、生ける神の教会の真実を体験しましょう。

<結び>
主は、また、いのちの水を通して、渇いている者を満たすことが出来る方です。イエス様は、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。(ヨハネ7:37~39)と言われました。イエス様はこの時、人間のうちにある心の渇きに対して、大声で呼びかけたのです。皆さんのこの世においての傷んだ心や、罪の中にあって、闇のような道を歩くその足も、実は心や霊において神によるいのちの水が必要だからなのです。イエス様は、今も全ての人に「私のもとに来なさい」と呼びかけておられます。皆さんをご自分のもとに導かれたいのです。イエス様のいのちの水を飲んで、生ける神の霊を宿す人とされて、永遠なる主の祝福を受け取って頂きたいと思います。
エゼキエルが、導かれたいのちの水の川は、全てのものが生きるいのちを持っていました。魚も生き、樹木も枯れず、果実も実りました。いのちに満ち満ちた神の臨在は、多くの人々に真の神へ至らせ、霊の回復を与え、前進させます。私たちのまだ知らない聖霊の豊かさの水かさを増して頂きたいと思います。そして、今週も聖霊による豊かな恵みを受け取っていきましょう。
 
 


下下下(ゲゲゲ)の神様

2013-10-13 18:12:46 | 礼拝説教

  2013/10/13礼拝説教
【テーマ】  降ってきた神様
【説教題】  「下下下(ゲゲゲ)の神様」
【聖書箇所】 ローマ5:6-8
5:6 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。
5:7 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。
5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

○ 誰かのために死んでもよいと思ったことはありますか? それはあなたに迷惑をかける様な人でしたか? 犯罪人でしたか? イエス様はそのような人、あなたのために身代わりに死なれました。

Ⅰ.私たちではなく、神様の方から
  A.神様の愛で救われた
    1.ローマ5:5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。 という御言葉を見てきたわけですが、私たちに救いを確信させるものが聖霊であり、神様の愛です。
    2.今日の御言葉が言っている一番のポイントは、救いの道を生み出したものは神様の愛であるということです。神様の愛がこのイエス様の十字架という救いの道を生み出したということを伝えたいのです。ポイントは「愛」です。
    3.その愛は神様に対する私たちの愛では無く、私たちに対する神様の愛です。Ⅰヨハ4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。 にあるとおりです。
   
  B.十字架まで計画して救ってくださった
    1.イエス様が「私が彼らのために十字架にかかりましたから、どうぞ、父なる神様、彼らを赦してやってください」と祈られたでしょうか? 人間の罪に怒り狂っている父なる神様にイエス様が嘆願されて、しぶしぶ神様は私たちを赦してくれたというものではありません。
    2.私たちが救われたのはまさに神様の愛です。イエス様の十字架を絶対に軽々しく見てはなりませんが、その十字架を実行させられたのは神様の愛だということです。


   
Ⅱ.弱い、不敬虔、罪人
  A.弱かったとき
    1.パウロは私たち人間のことを 弱かったとき 不敬虔な者 罪人 と3つの言葉で表しています。その 弱かったとき というのは原語では力の無いことを表していて、霊的無能力を意味しています。前に言いました新生以前の姿です。(参照 Ⅰコリ 2:14 生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。) 
    2.また、霊的に死んでいることを示しています(参照 エペ 2:1 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、)。霊的に死んでいるので、神との交わりが無く、神に喜んでいただくこともできず、神に従うことも無い姿です。
   
  B.不敬虔な者
    1.不敬虔な者 は原語では神を崇めない人のことです。神に似る者として造られたのに、栄光を失い、罪に陥った姿です。それは神に似ていないということです。
    2.神様は私たち人間を 創1:26 神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」 1:27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。 とあるように、神様に似せて造ってくださいました。ところが、私たちは不敬虔な者、神に似ていない者となってしまったのです。神のかたちを失ったため、神への愛も無くなったのです。
   
  C.罪人
    1.罪人 というのは原語では「的を外した人」ということです。神様の造られた目的を外した生き方をしているということです。
    2.いのちのことば社の新エッセンシャル聖書辞典(p648)にはこう書いてあります。「罪の本質は、神から離れて神に反逆すること、または神を無視して自我に生きることである」


   
Ⅲ.下の下に降ってまで
  A.私たちのために死ぬ人はいないのに
    1.正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません と言われるほど、正しい人だから身代わりに死んであげようという人は無いのです。 正しい人 とは律法にかなった義人です。ヨブのような人でしょうか。あるいは権力や金に屈しないで正しく生きる人です。確かにそういう人を尊敬はするでしょうが、その人のために死にはしないのです。
    2.情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう と、こちらは身代わりになろうという人がいるかも知れないと言います。人に優しく、同情と理解と愛をもって接してくれる人だからです。
    3. しかし私たちがまだ罪人であったとき そう、私たちがイエス様を信じて正しい生き方をしても、情け深い人になっても、そんな私たちのためにも死ぬ人は無いというのです。
   
  B.イエス様は私たちと同じようになってまで
    1.そしてイエス様は、私たち不敬虔な者のために、私たちと同ようになってくださいました。神の御子が神の国を離れて、私たちの所に来てくださり、人間から生まれてくださったのです。そして、飼葉桶に寝かされ、この宇宙や大自然をお造りになった手で、普通のものを造られたのです。このように生きてくださった事自体が愛です。
    2.そして、その最後にイエス様は神様で、罪も犯されませんでしたから、死ぬ必要も無かったのに、私たちのために死ぬということもしてくださったのです。これ、まさに愛です。
    3.神様が人間の姿になっただけで無く、神様の言うことも聞かないような罪人たちのために、まさに下の下の下までおりてきてくださったのです。(じぇじぇじぇが流行りましたが)
   

★ 神様は私たちが立派になったら救ってやると言ったのではないのです。弱い、不敬虔な、罪人のままで救ってくださるのです。


幸いだ!貧しい人

2013-10-07 07:11:16 | 礼拝説教

   2013/10/6礼拝説教
【テーマ】  幸せな人
【説教題】  「幸いだ!貧しい人」
【聖書箇所】 マタイ5:1-11
 5:1 この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。
5:2 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。
5:3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
5:4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。
5:5 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。
5:6 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。
5:7 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。
5:8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。
5:9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。
5:10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
5:11 わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。

○ 聖書には一般の方々にも知られているお話しや格言がたくさんあります。今日の聖書箇所もその一つではないかと思います。ここは山上の説教(山上の垂訓)として有名なところです。

Ⅰ.幸せな人
  A.人は幸せを求めている
    1.11節まで読みましたが、そこには 幸いです という言葉が繰り返されています。人はみんな幸いを得たいのです。カール・ブッセの詩「山のあなたの空遠く 幸い住むとひとのいう ああ、われひとと尋(と)めゆきて 涙さしぐみかえり来(き)ぬ 山のあなたになおとおく 幸い住むとひとのいう」は大変有名です。三遊亭圓歌師匠の落語で有名になったのかも知れませんが・・・
    2.幸せは得ることができそうで、なかなか得られないようです。そこにあると思ったら、もっと向こうだと言われるように。しかし、人は幸せを求めます。NHK教育がアランの「幸福論」を取り上げたこともあってか、「幸福論」の本が書店に並びました。
   
  B.イエス様は心の貧しい人が幸せと言う
    1.1-11節に八つの幸いが書いてありますが、わかるようでわからない幸いです。特に3-4節と10-11節はほとんどわからないですね。どうも、イエス様の言う幸いは、あまり世の中で言っているような幸いとは違うような感じがします。
    2.今日は3節の 心の貧しい者は幸いです に注目したいと思います。この言葉は更にわかりにくいのでは無いでしょうか? 心の貧しい者は幸いだと言っています。貧しいのは不幸だから、みんな裕福になろうとしてきたのではないでしょうか。なのにイエス様は 貧しい者は幸い と言います。

Ⅱ.イエス様が好んだ人
  A.精神的な乞食
    1.ここは 心の貧しい者は幸いです といっていますから、心が空っぽになって、神様の恵みをいっぱいいただけるので幸いだと読みたくなります。
    2.英語の聖書では 【NIV】the poor in spirit となっていますから、心と訳すより、霊と訳した方が良いという話もあります。内村鑑三の弟子の塚本虎二は聖書講和の中でこのところを「心の貧しい人というのは、精神的な乞食だ」と言ったそうです。乞食は人の助けを受けなければ生きていけない人です。
    3.spiritを心と訳すか霊と訳すか? 心は日本人には何となくわかりやすいのですが、「霊」という言葉はなかなか難しいです。いのちのことば社の聖書辞典には「霊は、人間の本質的生命原理として、洞察と感情と意志の源である」と書いてありました。人間の本質的な、大事な部分です。
   
  B.パリサイ人と取税人の祈り
    1.ルカの福音書にこんな話があります。ルカ18:9-14  :9自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。 :10 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。 :11 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。 :12 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』 :13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』 :14 あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」
    2.知識人でユダヤの指導的立場にあるパリサイ人は、そばにいた取税人をさげすんでいます。彼は感謝の祈りをしていますが、良い祈りの形をとりながら、実は自分を誇っているのです。一方、取税人は、自分が罪人であることを認め、へりくだって祈っています。霊的に乞食であることを言い表しています。

  C.パリサイ人が近づかない人に
    1.また、このルカの福音書では 6:20貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものだから。 と実にストレートに「心」という言葉も入っていないのです。イエス様は本当に貧しい人が幸いと思ったのでしょうか? 貧困故に子どもを売ったり、病院にも行けなかったり、食べるために盗みをはたらいたりする人がいるのに、どこが幸せでしょうか?
    2.当時のユダヤでは貧しいことや病気などは神様からの祝福を受けていない証拠と思われていた節があります。ですから、宗教家達はきらびやかな服装をして富んでいる、つまり神様に祝福されていると誇張していました。
    3.こういう人達が近づこうともしない、取税人、遊女、罪人と呼ばれる人、病人たちにイエス様は積極的に近づかれました。そして、その両者に「貧しい者は幸い」と語られたのです。

Ⅲ.神の国に入る人こそ幸い
  A.針の穴を通れない人
    1.この話の背景にはパリサイ人達がこの地上で富をすでに得て、それを幸福と思っていました。これに対して、イエス様はこの世とは違うところにあるもっと大事なものを教えておられるのです。つまり、神の国です。
    2.マタイ 19:23-25  :23それから、イエスは弟子たちに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。金持ちが天の御国に入るのはむずかしいことです。 :24 まことに、あなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」 :25 弟子たちは、これを聞くと、たいへん驚いて言った。「それでは、だれが救われることができるのでしょう。」 の話も有名です。金持ちが神の国に入るのが難しいのはなぜでしょうか?
    3.それはお金を持てばますますお金に執着し、お金に心が奪われるからです。「世の中、金ですべてが解決するのだ」と思い込んでいくのです。そして、神様の救いの手を払いのけるのです。
   
  B.針の穴を通れる人
    1.貧しい人はもう頼るものがないのです。「神様!」「イエス様!」なのです。何も無いので針の穴を通れるのです。
    2.実のところ、お金の有る無しが幸せを決めるのでは無いのです。神の国に入る人が幸せなのです。その神の国はイエス様を求めるかどうかで決まるのです。


★ あなたはイエス様以外に心底頼るものがありますか?


クリスチャンたちの勝利!(岡山伝道師)

2013-10-02 17:41:03 | 礼拝説教

2013.9.29 礼拝説教

■ テーマ:霊の戦い
■ 説教題:クリスチャンたちの勝利!
■ 聖書箇所:エペソ6:10~24

6:10 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
6:11 悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。
6:12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
6:13 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。
6:14 では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、
6:15 足には平和の福音の備えをはきなさい。
6:16 これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。
6:17 救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。
6:18 すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。
6:19 また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください。
6:20 私は鎖につながれて、福音のために大使の役を果たしています。鎖につながれていても、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。
6:21 あなたがたにも私の様子や、私が何をしているかなどを知っていただくために、主にあって愛する兄弟であり、忠実な奉仕者であるテキコが、一部始終を知らせるでしょう。
6:22 テキコをあなたがたのもとに遣わしたのは、ほかでもなく、あなたがたが私たちの様子を知り、また彼によって心に励ましを受けるためです。
6:23 どうか、父なる神と主イエス・キリストから、平安と信仰に伴う愛とが兄弟たちの上にありますように。
6:24 私たちの主イエス・キリストを朽ちぬ愛をもって愛するすべての人の上に、恵みがありますように。

<はじめに>
今日は、エペソ書6:10~20のところからです。前回より、6章に入りました。今日の箇所は、この手紙の中で、パウロが締めくくりとも言うべき、教会が通らなければならない霊的な戦いについてっています。

 
<Ⅰ:悪魔の策略に対して>
1.大能の力によって
(6:10)パウロは、「終わりに言います」と言っています。パウロがこの手紙を書いて、最後に残されている大切なことを、今から書こうとしています。それは、「主にあって、その大能の力によって強められなさい。」ということです。私たちは、「大能の力」という言葉をエペソ書から、何気なく読んでいますが、パウロが、ここに主の大能の力によって強められるように改めて勧めているのは、神に対抗し、またキリストにつく者たちに対抗する悪の霊的勢力がいるからです。クリスチャンになる以前の私は、キリスト者のイメージと言えば、ただただ神を信じる敬虔で、弱々しい人たちというイメージでした。しかし、クリスチャンになって、弱々しいキリスト教のイメージは吹っ飛びました。「全知全能なる神は、生きている偉大な神である!」そんな言葉の内に信仰が変えられてきました。私たちの信仰が、この大能なる神と共に生きた信仰であるように、神様に強められましょう。

2.悪魔はすでに敗北している
(6:11)悪魔の攻撃は、「策略」によってもたらします。よく計画された巧みな手法によって、欺き、攻撃します。霊的な戦いであるがゆえに、相手を人間的な手段でどうにかと考えるのではなく、私たちの手段は、神様の方法により戦う必要があるのです。この神の知恵をクリスチャンたちは与えられているのです。悪魔は、キリストの十字架によって、決定的な敗北をしました。悪魔が、人を神から引き離すためのあらゆる理由が、キリストの十字架によって取り除かれてしまったのです。(ルカ10:19、エペソ1:20)キリストの十字架は、完全な贖いを成し遂げ、すべての罪を取り除くことが出来る神様のわざです。

3.霊の戦いは、血肉に対するものではない
(6:12)パウロは、私たちの日常生活についての教えを行なっていましたが、日常の人間関係は、いわば「血肉」とパウロが言っている部分ですが、このような日常生活も、霊的な戦いの場であり、悪魔によってもたらされていることを見失って、それらの問題を、目に見える物理的な方法で解決しようとしてしまうのです。敵は「血肉」によらないのだということを知っておきましょう。また、この御言葉には「空中」という言葉が出てきますが、悪魔は天において活発的に動いています。事実、悪魔は、私たちクリスチャンに戦いを挑んでおり、私たちの霊的祝福がある天において、その祝福を奪い去ろうと躍起になっていることを知ってください。Ⅰペテロ5:8の御言葉も悪魔を「ほえたける獅子」言っています。ですから、私たちは、主にある大能の力を、これら悪魔と悪霊の猛攻撃に対して用いていかなければならないのです。

<Ⅱ:神の武具を付ける>
(6:13)そしてパウロは、この勢力に立ち向かうことを、「神の武具」と言っています。パウロはこの時、ローマにおいて鎖につながれています。自費で借りた家にいるのですが、そこでパウロは、ローマ兵の武具と武器を見ながら、この神の武具を思い描いたのではと言われます。私たちも、悪魔と悪しき霊どもに対抗するために、武具と武器を身に着けなければいけないのです。今日のこの箇所では、敵に対して、「立ち向かえ」「対抗する」「立ちなさい」という前向きな行動が何度も出てきます。「後ろに引き下がりなさい」という方向ではありません。しかし、何も持たないで、立ち向かうことではなく、神の武具が必要なのです。(6:14~16)武具とは、敵の攻撃から身を守り、また反撃するたえものものです。霊の戦いの装備である神の武具というものを一つ一つ、見ましょう。

1.真理の帯
私たちクリスチャンが戦いに臨むときに、初めにしなければいけないのは、偽りに対抗する真理の帯を身に着けることです。偽りの父である悪魔の策略に対して、立ち向かうことができるのは真理をもってであります。またこれは、福音にふさわしい真実な態度であると言われます。

2.正義の胸当て
悪魔は、絶えず私たちを告発しています。しかし、私たちは、律法の行ないではなく、
キリストを信じる信仰によって義と認められたのです!義と認められたのです。神が与える「義」、これを胸に守られつつ、戦わねばなりません。キリストの義そのもの、また、それにふさわしい義なる態度も大切でしょう。この神の義をしっかりと身に着けることです。

3.平和の福音の備え
真理を知って、そしてキリストにある義を知ると、神との平和があることを知ります。
そこでパウロは、「足には平和の福音の備えをはきなさい。」と言っています。神様はもはや、罪のゆえに私たちに敵対しておられないのです。福音宣教のための備えを履きましょう。必要な備えは、福音を携えて、前に進むことであり、足に履く靴は「平和の福音の靴」だということです。

4.信仰の大盾
大盾によって、兵士は自分の体すべてを守ることができます。同じように、私たちは、信仰によって自分自身を守ることができます。悪魔は、何とかして、私たちを罪の中に引きずり込み、痛めつけようとします。クリスチャンたちは、助け主に対する揺るがぬ信仰が、身を守る大きな盾となる信仰に立たなければなりません。

5.救いのかぶと
兵士は、自分の頭を守るためにかぶとをかぶっています。自分が確実に救われているという、確信と確証を持たなければならないのです。また、この救いの確信が罪から身を守るものであるからです。霊的なる敵との戦いの中で安全のために、重要な防護のための救いのかぶとという武具をかぶりましょう。

6.神のことばの剣
最後に剣が来ましたが、これは唯一の防御兼攻撃用の武具です。神の御言葉、それは御言葉自体に力があります。イエス様が、悪魔に抵抗されたとき、この悪魔のささやきに対して、聖書のことばを引用して対抗されました。「神のことばには、このように書いてある。」と言われました。私たちも同じなのです。聖書を理解する人間の言葉ではなく、神の御言葉そのものを持って、戦うのです。神の言葉は敵を打ち破るものです。
ほとんどが、守りの武具で、唯一攻撃ができるのは、御言葉でした。これら神の武具を持つときに、クリスチャンたちは、無敵となるのです。実際に霊的な戦いを感じるときに、この武具を活用している人はどれくらいいるでしょう?この御言葉を実践しましょう。

<Ⅲ:御霊による祈り>
(6:18)ここで、最後に「祈り」が出てきました。この祈りの御言葉は、クリスチャンたちが、祈りの箇所でよく励まされる有名な聖句ですが、戦いのためのクリスチャンの備えとして、祈りというものを入れないわけにはいきません。パウロは、神の武具を祈りと共に身に付けなさいと言いたいのではないでしょうか?神の武具と神への祈りが一体となる時に、神様のわざが敵を打ち砕いて、前進していく信仰を受け取りたいと思います。また、私たちは、肉体に打ち勝つほどの祈りの勇者とさせて頂きましょう。何よりも御霊によって祈るということは、人間の限界を超えて祈ることが出来ます。真のクリスチャンたちの祈り、「御霊による祈り」で大いに祈りましょう。個人で祈ることも素晴らしいことですが、教会としての祈り、お互いに祈り合う共同体としての祈りも、勝利の秘訣です。

<結び>
 パウロは、エペソの人々への手紙にペンを置くことになりますが、祈りの要請は最後まで、福音宣教のためでした。また同労者への気遣いも忘れませんでした。神様の働きは、一人で行えるものではありません。敵である悪魔は、クリスチャンを攻撃し、教会を潰そうとしてきます。私たちは、神の武具に守られつつ、霊の目をしっかりと見開いて、お互いの間に敵が入り込まないように、また、互いに祈り合って、勝利を受け取っていきましょう。