バイブルサロン

礼拝説教、聖書を読んで感じた事

私を思い出してください

2015-03-29 17:23:00 | 礼拝説教
2015/3/29礼拝説教
【テーマ】  十字架
【説教題】 「私を思い出してください」
【聖書箇所】 ルカ23:32-43
  23:32 ほかにもふたりの犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために、引かれて行った。
  23:33 「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。
23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。
23:35 民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」
23:36 兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、
23:37 「ユダヤ人の王なら、自分を救え」と言った。
23:38 「これはユダヤ人の王」と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。
  23:39 十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」と言った。
23:40 ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。
23:41 われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」
23:42 そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」
23:43 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」

○ 今週は受難週です。金曜日が受難日、イエス様が十字架にかかられたことを記念する日です。ということは来週はイースターです。

Ⅰ.あざけられるイエス様
A.民衆のあざ笑い
1. 「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」 とイエス様は十字架の上で祈られました。この祈りを何人の人が聞いたのでしょうか? そんな尊い祈りをあざ笑うかのように多くの人々は見ていたのです。
2. 「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」 とバカにしていたのです。もし、十字架から降りるということで人々が救われるなら、イエス様は全能の神ですから十字架から降りることは簡単でした。しかし、十字架から降りたら人類に救いは無くなったのです。

B.兵士のあざけり
1.イエス様を十字架にかけた兵士達にとって 「これはユダヤ人の王」と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。 という札は面白かったでしょう。自分たちの手でユダヤの王をやっつけたのですから。
2. 23:37 「ユダヤ人の王なら、自分を救え」と言った。 とありますが、「ユダヤ人を救いに来たのなら、まず自分を救え」と。いとも簡単に十字架にかけられる王なんてバカだというわけです。
3.兵士達はイエス様が十字架にかかられたのが自分たちのためであることも知らないであざけりました。でも、百人隊長はそういう中で心開いた人です。

C.犯罪人の悪口
1.イエス様の横に二人の犯罪人がはりつけにされました。 そのうちの一人は民衆や兵士達と一緒になっていつまでもののしります。 「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」 というこの言葉には人生最後の悪あがきが見えます。もし、イエス様がメシヤならここから助けることができるはずだと、挑発しているのです。
2.自分の罪を悔い改めることもしないで、救われようと企む姿ではないでしょうか。人はなかなか自分を悪いと認めないのです。死を目前にしても悔い改めや人々への感謝が無いとしたらさみしい人生だと思います。

Ⅱ.イエス様を信じる犯罪人
A.自分の罪を認めた犯罪人
1.ところが、もう片方の犯罪人は変わりました。 23:40 ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。 と、たしなめています。彼は自分の罪を認めたのです。彼は罪の結果は裁き、死だということを受け入れています。この状態から何とか逃れようとかせず、自分を真摯に見つめ罪を認めました。
2.人は自分の罪を認めることから救いの道が開けてくるものです。自分の罪を隠し続け、罪の上塗りする人が多い中、彼は罪を認めました。

B.イエス様を信じた犯罪人
1.さらに彼は 23:41 われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」  23:42 そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」 と、イエス様の無罪性をも認め、さらにはイエス様が御国の位につくお方、メシヤだと信じています。
2.私を思い出してください なんとへりくだった言葉でしょう。地獄に行ってもイエス様に思い出していただけるならそれで幸せだというのです。まだ、イエス様が神様だとまでは分からなかったかも知れません。でも、そんなことは問題ではありません。イエス様に心を開いて、イエス様を受け入れるかどうか、そこのところが一番大事なところです。

Ⅲ.天国を約束された犯罪人
A.パラダイスにいます
1.このイエス様に心を開いた犯罪人に 23:43 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」 と、パラダイス、天国を約束されたのです。それも「きょう」です。いずれではないのです。
2.彼は洗礼も聖霊のバプテスマも受けていません。悔い改めにふさわしい活動をすることさえ、教会の礼拝にさえ集っていません。その彼を救われたイエス様は、本当に心を見ておられるということです。

B.あなたにも約束されている
1.もし、私たちがゴルゴダの丘の上に立たされたり、この犯罪人のようにイエス様の横にはりつけになったとしたら、私たちは何と言うでしょうか?
2.心を見られるイエス様は、今あなたが何かできているとか、していないとかそういうことで判断されるのでなく、イエス様を愛しているかどうかを見ておられますので、イエス様を信じることで天国を約束してくださるのです。

★ あなたも 「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」 と言っていただけていますか?

イエス様の恵みに応えて(岡山志伸師)

2015-03-22 18:51:02 | 礼拝説教
新中野キリスト教会礼拝説教要約    15.3.22

■ テーマ:罪人を招く主
■ 説教題:「イエス様の恵みに応えて」
■ 聖書箇所:マタイ9:9~13


9:9 イエスは、そこを去って道を通りながら、収税所にすわっているマタイという人をご覧になって、「わたしについて来なさい」と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従った。
9:10 イエスが家で食事の席に着いておられるとき、見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟
子たちといっしょに食卓に着いていた。
9:11 すると、これを見たパリサイ人たちが、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたがたの先生は、
取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。」
9:12 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。
9:13 『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。
わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

<はじめに>
 今回は、9:9~13の箇所です。前回は、イエス様を中心に、中風を患った一人が罪赦され、癒される話しでした。今日は、イエス様から声をかけられ、召し出されたマタイの話しです。そして、その主に応答していく姿から、神様の恵みを教えて頂きたいと思います。
 
<Ⅰイエスに招かれた人>
1.マタイが召し出される
(9:9)さて、イエス様が道を通っていて、声をかけられたのは、収税所に座っているマタイという人でした。この人物は、この福音書を記したマタイ自身です。イエス様は、「わたしについてきなさい。」取税人であるマタイをご自分の弟子として召し出したわけですが、取税人は、ローマ政府に納めるべき税金を人々から徴収していた人々です。ローマが定めていた割当て以上の額を人々に課すことも許されていました。ローマに加担して儲けていた取税人は、ひどく嫌われていました。この取税人であったマタイが、キリストの弟子となったのです。
さて、マタイが自分で記した物語の中に、自分自身のことを書くというのは、自叙伝ということになり、興味深いものです。このマタイの福音書の9章というのはさまざまな奇跡の物語が記されているところです。前回の話しも中風の病で寝たきりで歩けない人が、罪赦されて、イエス様の一言で癒されて立ち上がって家に帰りました。驚くべき奇跡です。今日の箇所以降も素晴らしいイエス様のみわざが記されています。その奇跡ばかりの物語の中に、なぜ、マタイは自分がイエス様に招かれて、イエス様の弟子となったということを書き足したのか。ある有名な説教家は、「罪人である自分がイエス様を信じた、そのこと自体が奇跡なのだ!実は、そのようにマタイは言いたかったのだ!」と言っています。それを知ってこの福音書の素晴らしさを改めて教えられました。イエス様を信じて神の救いに与るとは、本当に素晴らしい奇跡だということです。

2.取税人の座を捨てて
マタイが座っていたこの「座る」という言葉で象徴されているマタイの生活の場ですが、その「座」は、安定した生活で多くの国民から、とやかく言われたとしても、そんなに悪い居場所ではない、それが、イエス様の弟子になる前の「マタイの座」でした。この「マタイの座」は、取税人というローマの権力に後押しされた、自分が満足する自らの「王座」でもありました。また、そのままでいいという居座りの「不動の座」でもありました。イエス様に従うということは、この「座」を捨てることから始まることです。イエス様は、自分自身の「座」から私たちを立ち上がらせて神の「道」を与える方です。居心地のよい自分自身の「王座」を捨てることから、イエス様は、一人一人の神の計画を示して下さいます。自分の「座」から立ち上がらなければ、時にこのイエスの「道」が見えないものです。取税人の職の障害を取り除くことによってイエス様に従う「道」が、マタイの前に表れて見えてきました。自分の「心の座」にも留まり続けない。ここに、信仰の時を止めてはいけないことを私たちは教えられます。
皆さんの中でも信仰の前進を阻めている心の障壁はないでしょうか?私がイエス様を信じる時、家族がどういうだろうかという思いが障害となりました。しかし、個人伝道をしてくださった村上知子先生は、「あなたがイエス様と一緒に歩いていくことを一番に選んでいくと、後はみんな神様がちゃんとやってくださるのよ。」数十年経って、本当にそうだと思いました。

3. 罪人と食事をされる主
(9:10~12)そして、イエス様は、マタイの家を訪ねています。日本語って面白いな~と思いました。同じ発音の言葉ですが、「信仰」とは、「進行」であり、「親交」だと思いました。マタイは、イエス様の後を進み行きました。「進行」です。そして、神との親しい交わりに入るまさに「親交」です。
イエス様と罪人たちが一緒に食事をすることは、ユダヤ人、特にパリサイ人にとっては、とんでもないことでした。当時のユダヤ人は、取税人というような罪人と一緒に食事をすることは、罪人と一つになることであり、ユダヤ人宗教家たちにとって許されない行為だったのです。
では、「罪人」とは、どんな人々のことでしょうか。「罪人」とは、犯罪人のことではなくて、律法に対して専門的な知識がないために、パリサイ人のように、厳格に律法を守ることが出来ない下層階級の人々を指します。取税人は、ローマに加担していることから、自分の国を売っているような売国奴であり、ゆるしがたい存在でしたが、イエス様はそんな身分のことなど全くこだわらず、取税人である彼らの家に行って食事をしたのです。食事を共にするということは、親密さをしめす印です。イエス様は自ら好んで、このように、当時は嫌がられていたような人々や、食事をするのに望ましいとはされていない人々と一緒になられました。聖書の中の他の場面、キリストの「最後の晩餐」という話しは、絵画としても有名ですが、その中でご自分を裏切った弟子であるユダをも友と言われたのです。

<Ⅱ 医者と病人>
1.医者であるイエス
(9:12)「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。」と言われたことから、イエス様が、明らかに「医者」という存在でもあることが分かります。そして、罪人たちは病人にたとえられています。医者は病人と会わなければ、治療をする事はできません。イエス様は、人々と、この世界を「罪」という死に至る病から癒すために来てくださった「癒し主」、また「救い主」なのです。ですから、聖書が語る通りイエス様が医者なら、私たちは「病人」です。肉体的には健康な人でも、私たちは、肉体的にも霊的にも神の目には、本当の意味で完全な健康体ではありません。心は罪の性質を持っていますし、また、肉体的にも誰一人として死を免れることは出来ません。クリスチャンはイエス様を信じた時に、永遠のいのちを与えられたのに、まだ病人ですか?と言われるかもしれません。クリスチャンは、霊においては、聖霊が住んで下さっています。しかし、考えや心やそこからの行動などはまだ完全に救いに至っていない不完全な状態です。私の母は、ひざの手術をされて歩くときの痛みからは解放されました。しかし、まだまだ鍼の先生に診てもらったり、検査を受けなければなりません。同じように、すべてのクリスチャンは、すでに霊的な死から解放されていますが、この地上ではまだ回復の段階にあって、イエス様の存在が引き続いて必要なのです。
 
2.弱さに働くイエスの力
 では、逆にイエス様が言われる「丈夫な者」という人はいるのでしょうか?それは、どんな人なのでしょうか?聖書を読みつつ、意外に、このところが分からないものです。この箇所に出て来るパリサイ人、彼らのような人々を実は指すものですが、パリサイ人たちというのは、よくイエス様を信じる者たちの敵対者として登場しますが、彼らは、できるだけ正しい信仰に生きようとした人たちです。私たちこそ、真剣に神に忠実に生きている者であると考えていた人たちなのです。このような人々は、確かにまるで「丈夫な者」のようであります。しかし、彼らは、イエス様の弟子となったマタイたちを横目で見ながら、「自分たちはあんな程度の低い罪人ではない。自分たちには問題がない。イエスの説教は、あの人たちには必要だが自分たちには必要ない。」と考えていた人たちでした。パリサイ人たちは神について、「自分たちは、セーフティゾーンにいるから大丈夫。」と言っている心の状態なのです。
「丈夫な者」とされる人は、自分には、あの人のような問題はなく、あってもまだ大丈夫、自分でやっていけると考えてしまいます。しかし、自分の弱さをまず認めることからです。そして、イエスに解決を求める人は、回復に向かうのです。Ⅱコリント12:9~10には、「・・というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである』と言われたのです。・・むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。・・なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」このみ言葉は力強いです。この御言葉を心に受けるごとに強められていきます。「聖霊よ、私に力を注いでください。神の知恵と力や必要な神の一切のものを与えたまえ!」と祈りましょう。自分の弱さの内にキリストが完全に働いて下さるのです。病人への主の憐れみと御力を称えましょう。イエス様にこそ回復の道しるべがあるのです。

<Ⅲ イエスの恵みに応えて>
1.主の憐れみの心を知る
9:13の、「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。・・」この言葉は、ホセア書6:6の引用です。これを読むとさらに意味がよく分かります。「わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。」イエス様は、真の教師として、「罪人と一緒に食事をする」と言って裁いているパリサイ人に宿題を出したわけです。神と交わる事、神が聖であられるように、私たちも聖くなる事が、いけにえの目的だったのです。しかし、儀式だけが一人歩きして、彼らは、大事な誠実とか憐れみをおろそかにしていました。
信仰の道のりの中で私は思ったりします。自分の信仰が成長してきた途中、どこか成長している自分の心の片隅で人の信仰を裁く心が強く芽生えてくる感じがしました。信仰が尖ってきている感じです。神様を体験し始めて出てくるパリサイ人のような表面的な心かもしれません。しかし、信仰歴がもう少し進むと、ああ、やはり神の愛が大切だったと、行きつ戻りつ教えられます。神様の愛が自分の内で成熟へと進むことを主は望んでおられます。Ⅰコリント13章は、「愛の賛歌」とも言われる章です。13節の「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」私たちの内に神の愛と人々への愛、このイエス様の憐みの心が広がっていくことを願いたいです。

2.神の恵みの声に応えて
「わたしについて来なさい」。そうマタイを召し出したと聖書は記しています。他の弟子たちを招かれた時も、同じ言葉です。この言葉が、この一言がマタイの一生を変えることになったのです。この時のイエス様の声はどんなだっただろうか?と、いろいろと想像し考える人たちもいたようです。きっと力強いだったんじゃないか、魂の奥底まで深く残る声だったんじゃないか?輝く希望と平安に満ちていたんじゃないか、私たちもいろいろと想像してみます。イエス様の呼びかけには、神の霊が豊かに働かれ、いのちに溢れています。マタイの人生に奇跡を招いたイエス様のお声。この一言には、私たちの人生の一切をもまた、変えることが出来る声なのです。この一声に従う時、私たちのゆくえの分からなかった人生に、神本来の計画が介入してくるのです。神様を信じるとは、なんとワクワクすることでしょう!信仰に入ったときだけでなく、イエス様は今も、そして、いつでも私たちに呼びかけ、招いて下さっています。神様のこの御声に皆さん、毎日応答していきましょう。そして神様の恵みに感謝しましょう。



復興と復活

2015-03-08 18:26:34 | 礼拝説教
2015/3/8礼拝説教
【テーマ】  東日本大震災復興礼拝
【説教題】 「復興と復活」
【聖書箇所】 ヨハネ2:18-22
2:18 そこで、ユダヤ人たちが答えて言った。「あなたがこのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか。」
2:19 イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」
2:20 そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」
2:21 しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。
2:22 それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた。

○ 東日本大震災から4年が過ぎました。地震と津波はあっという間にたくさんの人の命を奪い、多くの建物を破壊しました。建物などは再建が可能ですが、失われた人の命は戻ってきません。そのために多くの人々の心には深い傷が残っています。

Ⅰ.現場は大変!
A.悲惨な状況
1.2011年3月11日、キッズエンジェルをしていました。私はサロンで数名のお母さん方にお話をしておりました。グラグラと来て、お母さん方が「地震だわ」と言われたかと思うと、だんだん揺れが大きくなってきました。子ども達のことを心配されたお母さん方のため、私は急いで2階に上がりました。スタッフの方々が子ども達をホールの真ん中に集め、子ども達を覆ってくださいました。私は扉を開けて押さえて、避難経路の確保にあたり、本棚などが倒れないか確認していました。揺れが収まって子ども達をお母さん方に返し、教会員にメールをして安否確認を始めました。が、メールがなかなか届かないところもありました。
2.後にニュースで大変なことになっていることを知りました。1995年の阪神大震災を思い出しました。神戸が大変なことになっているのを知ったのは数時間経ってからでした。神戸の教会と連絡が取れません。教区の緊急対策本部が鳴尾(甲子園)に置かれて、私も家内に作ってもらったおにぎりをもって行きました。自転車で鳴尾から御影教会、西灘教会を目指しました。その間の光景は信じられないものでした。

B.祈るしか無かった
1.東日本大震災の現場に私は一度も行っていません。行って何かお手伝いしたい気持ちはありましたが、私の体ではかえって迷惑になると思い、行かないことにしたのです。実際、正解でした。鮎沢浩保兄や先生方からお聞きした内容は壮絶なもので、私では到底役に立たないと分かりました。
2.教会の皆さんと祈ることしかできないもどかしさを抱えつつも、不明者が早く発見されるように、けが人が癒されるように、心に痛みを抱えた方々が慰められ平安を得るようにと祈る日々でした。町も建物も大変で復興が望まれますし、人々の心も癒しと回復が必要です。

Ⅱ.復活の希望こそ復興の希望
A.外側の復興
1.ユダヤ人はずっと国の再興を願い、預言された救い主はダビデのような王様と思っていました。が、指導者達はイエス様を嫌いました。そんな中、イエス様が神殿で大暴れして、売り買いされている動物を追い出され、指導者達は怒り狂ってやり合っているのが今日のテキストです。
2.人々は見える神殿の方に関心があり、46年もかかって建てられた神殿の素晴らしさを誇っていました。イエス様は 「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」 と、言われました。しかし、人々にはイエス様の復活の話は分かりません。関心は外側の復興、見えるイスラエル王国の再建なのです。人々の前に立派な神殿があるのですが、真の希望は無いのです。
3.災害の直後は救援、そして復興へと向かうのは当然ですが、そこ止まりでは人々に希望は生まれません。家族を失った方々、家も仕事も失った方々の辛さは消えるものではありません。

B.福音宣教が復興の力になる
1.イエス様はご自身が神を宿す神殿であり、自分の死と復活を預言されたのでした。確かにこの地上での国も家も大事です。が、もっと大事なものは天に国籍を持つことであり、神の家族として永遠のいのちを持つ事です。
2. 2:22 それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた。 とあるように、イエス様の復活後、弟子たちはやっと信じることができました。それまで死んだようになっていた弟子たちが一気に力を得たのは、イエス様の復活の力であり、その復活のいのちは自分たちにも保障されたことを信じることから来ました。
3.弟子たちは真の希望を持ちました。見える神殿よりもっと大事なものに向かって希望を持って働き出したのです。ユダヤの人々に信仰復興こそが真の復興なのだと確信をもって伝え始めたのです。

● 今、支援センターは伝道所としての働きに入っています。それは弟子たちが真の希望を持ったように被災地の方々に真の希望が与えられるためです。福音がどんどん伝えられています。

★ 私たちも後方支援をしましょう。祈りの後方支援、時には伝道に行ったり、東北の教会に励ましの何かをしたりして。マスカット・エンジェルは何度も手作りのカードを送ってくださいました。感謝です。これからも救いのために何かをして行きましょう。
 

愛し、祈れ

2015-03-01 18:39:38 | 礼拝説教
2015/3/1 礼拝説教
【テーマ】  愛の人に変わる
【説教題】 「愛し、祈れ」
【聖書箇所】 マタイ5:43-48
  5:43 『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
5:44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。
5:45 それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。
5:46 自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。
5:47 また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。
5:48 だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。

○ 皆さんには『敵』がいますか? 「男子家を出れば七人の敵あり」と言いまして、男が社会に出て活動すれば,多くの敵があるものだそうです。「敵」ですから、その関係は平和では無いわけです。そういう敵を愛することができるのでしょうか? 敵とまでいかなくても「苦手な人」というのであれば、たいていの人が持っているのではないでしょうか。その人を愛することができるのでしょうか?

Ⅰ.すべての人が隣人
A.愛の律法
1. 5:38 『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 と、言われたように、今度は 『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 と、きました。
2.イエス様の言われたこの44節の言葉はレビ記にあります。 レビ記19:18 復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは【主】である。 であって、自分の敵を憎め はありません。ただ、当時の人々はそのように言い伝えていたのでしょう。また、そのような言葉はいつの時代にもあったように思えます。
3.復讐することは、日本でも仇討ちが認められたように、世界中で結構普通になっていたと思われます。ところが、聖書は 復讐してはならない。 と教え、「愛しなさい」と教えます。

B.隣人とは?
.『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 というのは、すべての人を隣人とは考えていないということです。隣人は愛するけれども、敵は愛さないのですから。
2.それに対して、イエス様はすべての人を隣人とみなされる方です。律法の専門家が ルカ10:29 しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」 に対して有名な「良きサマリヤ人」の話をされました。旅人が強盗に襲われて瀕死の状態で倒れていました。そばを通りかかったユダヤのお偉方二人はそこを通り過ぎていってしまうのです。ところが、ユダヤ人と敵対関係にあったサマリヤ人が彼をかわいそうに思い助け、宿屋に連れて行き介抱するのです。そこで、 ルカ 10:36 この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」 と。隣人となったのは何とユダヤ人の嫌っていたサマリヤ人だと。
3.イエス様の心にはすべての人が、迷える小羊であって、救われるべき神の子、隣人なのです。

Ⅱ.神の子どもになれる
A.積極的な愛
1.更に、イエス様の言い方は 自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。 であって、もっと積極的です。たとえ敵であったとしても愛しなさいというのです。さらに迫害するしてくる人さえもです。
2.迫害する者のために祈りなさい というだけなら、「迫害する者を殺してください」という祈りもありなのかも知れませんが、ここは、自分の敵を愛し につながっているので、決して迫害者をおとしめるような祈りではありません。迫害者も神の祝福に与れるように祈るのです。

B.みこころを行うのが神の子
1.それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。 と言われました。イエス様がなさったように、敵を愛し、迫害する者のために祈るなら、私たちも神の子どもになれるのだそうです。
2.でもイエス様を信じれば救われるのですから、神の子どもではないでしょうか。理屈上はイエス様を信じれば神の子どもですが、神様のみこころを行うのが神の子なのです。

Ⅲ.完全でありなさい
A.えこひいきしない
1. 天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。 神様はなんとすべての人にえこひいき無く、平等に愛を下さっていることでしょう。誰にでも日光も雨もくださるのです。
2.私が教師時代に生徒にとったアンケートで、嫌いな教師ナンバーワンは「えこひいきする教師」でした。神様にはえこひいきはありません。 ロマ 2:11 神にはえこひいきなどはないからです。 とあるとおりです。
3. また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。 仲良し、自分に良くしてくれる人には私たちはいくらでも挨拶します。しかし、敵であったとしても挨拶することをイエス様は願われているのです。

B.完全なのか?
1.えこひいき無く誰にでも挨拶し、親切にするのがクリスチャンなのですが、地の塩、世の光だ、と言われた通り私たちはすでにそのように変えられています。 自分の敵を愛し、迫害する者のために祈 る者とされているのです。
2.しかし、 あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。 なんてあり得ない話です。が、変えていただいた私たちは実はそういう完全をいただいているようです。

● 私は父を憎んでいました。クリスチャンになって間の無い頃、私は「この父親を殺してください」と祈ったのです。どこが地の塩、世の光でしょう? ところが、ある日、祈りの中で私は十字架が示され、イエス様が私のために死んでくださった事がすごく間近に感じられました。その瞬間私は泣き崩れ、悔い改めました。「父を救ってください」という祈りに変わったのです。

★ まず、今まで祝福を祈ってあげられないと思っていた人のために祈ることから始めてみましょう。あなたは自分が変えられていること、変えられていくことを体験するでしょう。