バイブルサロン

礼拝説教、聖書を読んで感じた事

悪に負けるな!

2016-05-29 17:50:16 | 礼拝説教
2016/5/29礼拝説教
【テーマ】  愛の行い
【説教題】 「悪に負けるな!」
【聖書箇所】 ローマ12:19-21
12:19 愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」
12:20 もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。
12:21 悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。

○ いよいよ12章を終えます。9節からクリスチャンが愛の人として生きる生き方をパウロは教えてくれましたが、決してそれはマニュアルではありません。また、人間の努力だけでなれるものではありません。聖霊が働かれるからこそ、私たちも「愛の人」になれるのです。

Ⅰ.復讐するな!
A.仕返し
1.この19節は 12:14 あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。 と等しい教えです。かつての日本では「仇討ち」「敵討ち」が認められていました。武家時代には儒教的・武士道的観念から盛んに行われたのですが,1873年(明治6)太政官布告により禁止されました。
2.この「敵討ち」は「仕返し」ということです。「やられたら、やり返す」という考えです。これはいくら1873年に禁止されても、人々の心には根強く残っていたようです。
3.「復讐することを我慢しろ」と言われても、悪しき相手を赦すことができません。我慢しているとその気持ちは鬱積していくのです。そして、その怒りが爆発してもっと大変なことになることが多いのです。

B.赦す
1.パウロは「復讐するな」「やり返すな」と教えています。事実、イエス様もペテロの質問にこう言われています。 マタイ18:21 そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」 18:22 イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。 これは490回赦せば良いという意味ではなく、徹底して赦すことです。
2.もともと我々は「ゆるす」ことが大事だということを知っているのです。しかし、「赦せない心」があるのも事実です。パウロはどのようにして、この心を克服し、復讐しない心を持つようにというのでしょうか?
3.パウロは「復讐を我慢しろ」といっているのではないのです。「復讐するな」と言っているのです。我慢だと怒りが蓄積するのです。怒りの解決と赦しの心を持つことが必要となってきます。

Ⅱ.怒りに打ち勝て!
A.復讐は神に任せよ
1.聖書に書かれているという 「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」 というのは 申命記32:35 復讐と報いとは、わたしのもの、それは、彼らの足がよろめくときのため。彼らのわざわいの日は近く、来るべきことが、すみやかに来るからだ。」 です。これは ヘブル10:30 私たちは、「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする」、また、「主がその民をさばかれる」と言われる方を知っています。 にも引用されています。
2.パウロは私たちが復讐するのでは無く、 神の怒りに任せなさい。 と言うのです。人間は怒ってはならないのでしょうか? エペソ4:26 怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。 と言っています。人間は怒ってしまうでしょう。ただ、怒りで罪を犯さないように自制しなければならないのです。

B.怒り
1.イエス様の時代を見ると、律法学者やパリサイ人はすぐに怒っていました。正しいイエス様を告発できないから、弟子達の行動を見ては怒っていたのです。「律法主義」がこうした怒りを生み出しています。しかし、彼らにすれば正しいことをしているつもりなのです。
2. 神の怒りに任せなさい。 ということは、神様は怒る方なのでしょうか? 本来怒ってもよいのは神様だけなのです。なぜなら神様には不公平もなく、完璧に正しく、悪しきことにだけ怒ることができる方ですから。
3.人の怒りは往々にして役に立たないのです。完全な正しさを知らないからです。完全な神に怒りを委ねることができれば何と幸いでしょう。

Ⅲ.善をもって悪に打ち勝て!
A.処世術なのか?
1.むしろここでパウロが言うのは 12:20 もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。 です。赦すばかりか相手を祝福するように言うのです。 そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。 と、まるで処世術のような事が続けられています。そういう風に捉える人も多いでしょう。
2.この言葉は箴言にあります。 箴言25:21 もしあなたを憎む者が飢えているなら、パンを食べさせ、渇いているなら、水を飲ませよ。 25:22 あなたはこうして彼の頭に燃える炭火を積むことになり、【主】があなたに報いてくださる。 聖書は人生のマニュアル程度のことを言っているのでしょうか?

B.もてなされたのは私たちの方だ!
1.神様の怒りはイエス様の十字架に落とされて、私たちには赦しが来たのです。つまり、飢えていたのは私たちです。渇いていたのも私たちです。その私たちがイエス様によってもてなしていただいたのです。
2.イエス様の十字架は一見悪魔の勝利でしたが、これによってすべての人の救いの道が整いました。イエス様は完全に善をもって悪に打ち勝たれました。
3.私たちも悪に打ち勝つのは、このイエス様の十字架なのです。福音を握って、聖霊の愛に満たされていくことで 12:21 悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。 が実現するのです。

★ 悪に負けたい人は無いと思います。しかも善によって悪に打ち勝ちたいのです。それはイエス様の十字架による罪からの勝利で得られ、聖霊の働きによるのです。

自分を捨てて

2016-05-22 18:11:21 | 礼拝説教
2016/5/22礼拝説教
【テーマ】  愛の行い
【説教題】 「自分を捨てて」
【聖書箇所】 ローマ12:16-18
12:16 互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。
12:17 だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。
12:18 あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。

○ 「愛の行い」というテーマで何度か語っています。今回もその流れの中にあります。愛の行いは「愛の人」になることでできるのですが、「愛の人」にはどのようにしてなれるのかを見ていきましょう。

Ⅰ.一つ心
A.同じ考えを持つことでは無い
1.一つ心になる、一致するというのは、教会にとってとても大事なことです。また、それは何も教会に限ったことではなく、学校、職場などでも同じではないでしょうか。
2.ただ、教会の場合、一つ心になるということは単に同じ考え方になるということではないのです。 エペソ4:5 主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。 という一つ、一致なのです。考え方や生き方が違っても、信仰の点で一致しているということです。ここに愛の人の生き方があります。
3.キリスト者の一致の目的は、 ヨハネ17:22 またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。 17:23 わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。 とあるとおり、キリストにある生き方がすばらしいことを証しするためなのです。

B.高ぶった思いを持たない
1.高ぶった思いを持たないことも何も教会に限って必要なことではありません。一般社会の人間関係の上では必要なことです。しかし、人間というのは高ぶりたいもののようです。しかもパウロが教えているのは単に高ぶらないだけではなく、 かえって身分の低い者に順応しなさい。 という部分があることです。
2.これはイエス様がなさったこと、教えられたことでもあります。イエス様は嫌われているザアカイ、サマリヤの女、病人たちのところに行かれ、子どもたちを身元に引き寄せて祝福を祈られた方です。ここまで高ぶらないことを実行され、教えておられます。
3.またこのところは詳訳聖書では「低い仕事を引き受けなさい」とも訳しています。人の嫌がる仕事を引き受けるのは楽なことではありません。「愛」故にそれをしようではないか、と言っているのです。

C.知者だと思ってはいけない
1.パウロは知者でした。だからこのようなローマ人への手紙も書くことができたのです。そのパウロが 自分こそ知者だなどと思ってはいけません。 と言っています。
2.イエス様の時代も律法学者は自分を「知者」として高ぶった思いを持っていました。パウロの周りにも、「知者」と名乗る者が多くいたようです。少なくとも異邦人クリスチャンに対して、ユダヤ人クリスチャンは旧約聖書に関しても知識は豊富だったはずです。
3.知識をひけらかすのは誰もが嫌な気になります。ですが、へりくだっていて、知識を持つ人は、愛をもって人々を教える人になるのです。

Ⅱ.善行
A.悪に悪を報いない
1. だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず という言葉も、 12:14 あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。 ということと同じです。人というのは悪に悪で報いようとしがちです。しかし、イエス様の十字架がわかるとそういう生き方が望ましくないことに気がつきます。
2.つまり、イエス様が私のような罪人のために身代わりとなって十字架にかかってくださったのですから、私たちもイエス様に倣って、悪に対しても善をもって対処するのです。ここにも愛の人の姿が見えます。

B.全ての人の前で正しく
1. すべての人が良いと思うことを図りなさい。 ここの言葉は直訳すると「すべての人の前で善を配慮しなさい」となるそうです。また、詳訳聖書は「むしろ、〈非難されることのないために〉誰が見ても正直な〈正当な〈立派な〉〉事を図りなさい。」としています。
2.「すべての人」というのは無理かと思える言葉です。しかし、悪しき考えを持つ人以外はみんな正しい行動、思いを知っています。クリスチャンは時として宗教的な面で行き過ぎて自分だけの正義に走ることがありますから、世の常識をも見逃さないことです。

Ⅲ.平和
A.できる限り
1. 自分に関する限り は、直訳すると「もしできるなら、あなたの側では」となります。いつも強気で言ってきたパウロが「もしできるなら」という言い方をするだろうか? と思います。しかし、クリスチャンも人間。神ではないので、努力してみてもできないこともあります。
2.ここでも すべての人と平和を保ちなさい。 とあるように、 すべての人と なのです。平和はすべての人の望むところです。できる限り、すべての人と平和を持ちたいものです。

B.最善を尽くす
1.私たちは神を信じたとは言え、決してイエス様のように何でもできるわけではないし、イエス様のように愛の人になったわけでもありません。最善を尽くすのが精一杯だと思うのです。
2.しかし、この最善を尽くすのが自力だけなら虚しいし疲れてしまいます。聖霊が助けてくださるから私たちの1%の自力に99%の助けをくださってさせてくださるものなのです。
3.愛の人とは「平和をつくる人」です。すべての人に平和を与えたのはイエス様で、私たちはできる限りのお手伝いをする人です。そのお手伝いをする私たちを99%(いや100%)助けてくださるのが聖霊です。

★ 私たちはイエス様のようになりたいのか、イエス様に着いて行きたいのかをはっきりさせる必要があります。着いて行く気のある人にイ
エス様は確実に助けをくださいます。 マタイ16:24 それから、イエスは弟子たちに言われた。 「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。 と言われました。まず、自分を捨ててついて行きましょう

聖霊に満たされよう!

2016-05-08 19:12:39 | 礼拝説教
2016/5/8礼拝説教
【テーマ】  ペンテコステ
【説教題】 「聖霊に満たされよう!」
【聖書箇所】 使徒2:1-4
 2:1 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。
2:2 すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。
2:3 また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。
2:4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。

○ 来週がペンテコステです。私たちにとってはそんなに普段聞く名前ではありませんが、これは「●●祭」というようなものです。毎年、いつも通りに行われてきたユダヤ人の祭ですが、この年は大きな違いが生じました。

Ⅰ.祈り
A.約束を待て!
1.復活されたイエス様は 使徒1:3 イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現れて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。 と、弟子達と共におられましたが、40日後、天に帰られました。
2.その時、 1:4 彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。 1:5 ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」 と言われたので、弟子達は「聖霊のバプテスマ」がどのようなものかわからないまま待っていました。
3.聖霊のバプテスマは神様の約束でした。私たちもその約束をいただいています。

B.祈りに専念した
1. 1:14 この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。 とあるように、弟子達は祈りに専念したのです。往々にして「祈り」というものは何かを引き起こします。ここで彼らが みなが一つ所に集まって 祈っていたのですから、当然何かが起こるのです。
2.聖霊のバプテスマを受けるというのは神様の約束ですから、祈って待てば必ず受けます。祈りに専念することは私たちも必要なことです。

Ⅱ.現象
A.ワンパターンではない
1.祈っていたら、何かが起こるのです。さて、何が起こったかというと、 すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った のです。もう一つは 炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった ということです。
2.では、いつもこのようなことが起こるのかというとそうではありません。一番最初の聖霊のバプテスマの時ですので、明確に聖霊が臨まれたことが分かる必要があったと思います。使徒の働きの後のところではこのような現象は書かれていません。
3.イエス様が病人を癒される時も同じ方法では無かったことに注目してください。神様はそれぞれに最も良い形で業をなされます。私たちはすぐにマニュアルを求めますが、神様は私たちに信仰を求められているのです。

B.全員に与えられた
1.ワンパターンではないのですが、祈って待っていた弟子達みんなに与えられたのです。しかも、この後の使徒の働きを読むと、ユダヤ人だけでは無く、異邦人にも与えられています。神様は分け隔てなさらないのです
2.しかし、今私たちの周りの現実を見ますと「どうして、私には聖霊のバプテスマを与えてくださらないのだろう」と悩む方もいます。その理由はわかりません。しかし、約束ですので必ず与えられます
3.私たちは特別な現象を求めすぎている場合もあります。誰かの証を聞くと劇的で、そのようになるものだと思い込んだりして、神様の働きを止めてしまうこともあるのです。現象にこだわらないことです。

Ⅲ.異言
A.聖霊のバプテスマの証拠
1.聖霊のバプテスマの証拠は「異言」を語ることです。「基本的真理に関する宣言」解説p55にはこう書いてあります。「聖書は聖霊のバプテスマを受けたことを示す証拠は第一に、異言を語ることであると示しています。これは『肉体的な最初の証拠』と言うべきでしょう。 聖霊のバプテスマを受けたとき、それはまず自分自身が聖霊に満たされたという実感を体験します。そこには喜び、平安が伴い、賛美が湧き出るかもしれません。また、伝道に対する重荷、燃えるような熱情、証しする力、などもあたえられるでしょう。しかし、これらは直ちに目に見えてくるものではありません。では、聖霊のバプテスマを受けたことが第三者の目にもすぐに明瞭にわかるものは何でしょう。この人は確かに聖霊に満たされたということを証明する共通の証拠は何でしょう。」
2.今日のテキストでは みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。 と「他国の言葉」とあります。ここでは集まって来た人々がそれぞれの言葉で聞く必要があったことと、紛れもなく聖霊の働きであることを知るためでしたから「他国の言葉」であったのでしょう。しかし、現代、私たちの多くの異言はどこの国の言葉かわかりません。

B.聖霊に満たされること
1.時に異言を語ることに意識が行きすぎる人がいます。例えば教会に来て長いのに異言を語ったことが無いため、何とか語りたいと思ってそこに意識が行くのです。でも、大事なのは「聖霊に満たされる」ということです。もっと言うと、「聖霊に満たされ続ける」ということです。
2.イエス様の十字架後、弱さを見せていた弟子達でしたが、復活後、さらにこのペンテコステ後の弟子達は大きく変わっています。それは聖霊に満たされたからです。福音を語りたくてたまらない姿です。愛も満ちてきているのです。それが聖霊の働きだからです。

★ 私たちも聖霊に満たされようではありませんか。満たしてくださるのは神様ご自身です。私たちは聖霊を入れる器にすぎないことを覚えましょう。

愛のない裁き

2016-05-01 18:09:46 | 礼拝説教
2016/5/1礼拝説教
【テーマ】  愛の行い
【説教題】 「愛のない裁き」
【聖書箇所】 マタイ7:1-5
7:1 さばいてはいけません。さばかれないためです。
7:2 あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。
7:3 また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。
7:4 兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。
7:5 偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。

○ 皆さんは人をさばいたことはありませんか? あったら大変! あなたもさばかれますよ。

Ⅰ.裁いてはならない
A.裁くということは昔からあった
1. さばいてはいけません と聖書にあるから、裁判は聖書的でないと言えるでしょうか? こういう聖書箇所というのは人によって都合よく解釈されるところです。神様の思いを読み取りたいものです。
2.モーセの時代に問題は全てモーセに持って来られ大変でした。 出エジプト18:13 翌日、モーセは民をさばくためにさばきの座に着いた。民は朝から夕方まで、モーセのところに立っていた と。そこであまりの大変さを見て、しゅうとのイテロが良い提案をしたところがあるように、昔から裁きそのものはあったのです。
3.では、イエス様はなぜ さばいてはいけません と言われたのでしょうか? その理由は さばかれないためです と共に、その後に続いて言われています。

B.評論家
1.この「裁き」の原語「クリノー」には評論という意味があるそうです。何か事件があるとその問題の専門家というのがテレビに登場します。評論家です。彼らのことを悪く言うつもりはありませんが、基本的に彼らは物事の善し悪しを論じはしますが、その問題に直接的に関与して解決することはしません。
2.イエス様の時代にも評論家以上に裁いた律法学者達がいたのです。彼らの問題は一言で言うと「愛のない裁きをしていた」ということです。 さばかれないためです とは人からというより、神様から裁かれないためです。神様の判断基準は「愛」です。
3. あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです と、私たちが愛のない裁きをすれば、私たちもそのように裁かれるのです。

C.身近な裁き
1.裁判のような大きな裁きでは無く、身近な裁きを考えると「陰口」もそこにはいるでしょう。ほとんどの人は陰口に悩まされた経験があるのではないでしょうか。そこにはその相手が愚痴を言われて当然というように語るのです。
2.いじめ問題も不当な裁きをしていることになります。何かがあったわけでも無いのに、ある生徒をターゲットにして、無視したり、痛めつけたりするのです。不当な裁判みたいなものです。
3.高校生時代にいじめられて、引きこもりになり大人になって鬱から自殺してしまった方がいます。そのご家族もずっと苦しまれたのです。「いじめ」、なんと恐ろしい裁きでしょうか。

Ⅱ.まず自分の目から
A.自分勝手な基準
1.私たち人間は自分の問題は棚に上げ、人の問題をことさら大きくして話題のまな板の上に置くものです。そして、切り刻み、裁きを行う恐ろしい存在とも言えるでしょう。
2.有名な 7:3 また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。 7:4 兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。 というこの言葉。自分という基準が正しいとする自分を偶像化している姿です。
3.ひろさちやさんが「ゴムひもの物差し」という表現をなさっています。子どもがテストで90点をとったので、お母さんは大喜びしたのですが、平均点が93点と知ったとたん怒ったのです。基準が伸び縮みするのです。これは困ったものですが、人間はこういう判断をするものなのです。

B.見えなくするもの
1.新共同訳聖書は「ちり」を「おがくず」、「梁」を「丸太」と訳しています。イエス様は大工だったから、日常的に丸太があったし、おがくずが目に入った経験があるから、こういうたとえにされたとも言われています。
2.人は自分の目がまともに見えなくなるような丸太が入っていることに気がつかず、相手のおがくずが気になって仕方が無いと言うことが多々あるものです。それが人間関係をも壊すのですが、同時にイエス様を見失うのです。
3.イエス様の故に神様は私たちを裁かないようにされたのです。そのことを私たちは忘れてはならないのです。こんな丸太ん棒が目を覆っているような罪深い私が赦されたのに、おがくずしかないあの人を裁くことができるのでしょうか? 私たちの目に丸太ん棒は無いでしょうか?

Ⅲ.神を見よう!
A.神様が見えない
1.神様によって「目」をいただいていますが、その目が見えなくなっている。もちろん、肉の目というよりも心の目です。見なければならないものが見えなくなっていることは無いでしょうか?
2.よく早朝に新幹線で京都に向かいます。ある日、とても良いお天気で、7時頃、朝日を受けた富士山がとても美しくくっきりと見えました。久しぶりに感動するほどの美しい富士山でした。帰りも夜の7時に同じ場所を通過したので、富士山の方を見ました。全く見えません。お天気は良いのですが、暗いからです。
3.ふと思いました。見えないけれどあそこに間違いなく富士山がある、と。神様も見えないけれど確実におられる。天国に帰れば神様を見るのですが、今は見えないのです。

B.十字架を見上げて
1.神様は、見えない神様がわかるように、人間の姿をとったイエス様を地上に送ってくださいました。ところがそのイエス様を見ても、多くの人はイエス様を信じなかったのです。それどころか神様であるイエス様を十字架にはりつけにしたのです。いじめ以上にひどい裁きだと思いませんか?
2.丸太ん棒が目にある人々の行った裁きではありますが、それは私たちも同じなのです。 まず自分の目から梁を取りのけなさい。 とあるように、自分の罪深さに気付いて、イエス様によって取り除いていただくのです。人を裁く気持ちに変化が現れるはずです。

★ 神様は私たちを裁かないで、イエス様を十字架につけてくださいました。それによって私たちは赦されました。私たちは心の目の中の「梁(丸太ん棒)」である罪をイエス様によって取り除いていただくことが愛を実践する出発点なのです。