バイブルサロン

礼拝説教、聖書を読んで感じた事

救われて欲しい

2015-02-22 17:58:05 | 礼拝説教
2015/2/22礼拝説教
【テーマ】  神の救いの計画
【説教題】 「救われて欲しい」
【聖書箇所】 ローマ9:1-5
  9:1 私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません。次のことは、私の良心も、聖霊によってあかししています。
9:2 私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。
9:3 もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。
9:4 彼らはイスラエル人です。子とされることも、栄光も、契約も、律法を与えられることも、礼拝も、約束も彼らのものです。
9:5 父祖たちも彼らのものです。またキリストも、人としては彼らから出られたのです。このキリストは万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神です。アーメン。

○ ローマ人への手紙の後半に入ります。9章~11章の主題は「イスラエル」です。

Ⅰ.同胞の救いを思う
A.祈りは愛
1.木曜日の祈祷会では毎週互いの家族のために祈っています。出席者の祈りの課題にも毎週、家族や親族のことが出てきます。私たちはどうして家族のために祈るのでしょう。私は「祈りは何か?」と聞かれたら、「祈りは愛」と答えます。
2.私たちは神様に似せて創られたため愛の基を持っているのですが、愛は成長・発達し、また、聖霊によって自分に無い愛を天からいただくのです。この愛は知らない人に対してよりも身近な人に対して働くようになっています。
3.ですから、私たちは家族や親族、同胞のために祈りやすいのです。祈ると愛が湧いてきます。祈ってあげないと私たちの中に愛は生まれません。

B.大きな悲しみ
1.パウロも同胞ユダヤ人を愛していました。そればパウロがユダヤ人の救いと祝福のために祈っていたからです。そのパウロが 私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。 と言っています。つまり、同胞ユダヤ人がなかなかイエス様を信じない、キリスト者を迫害しているという実体に悲しく、心に痛みを覚えているのです。
2.果たして私たちは家族や同胞(日本人)が救われていないことに悲しみを感じているでしょうか? 心に痛みを感じているでしょうか?

C.呪われてもよい
1.パウロは 9:3 もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。 と言っていますが、これは同胞が救われるためなら自分は地獄に行ってもよいということです。つまり、自分の天国行きの保障を同胞の地獄行きと交換して良いというのです。
2.もちろん、これはそれほど強い気持ちだということを表しているだけです。誰も地獄に行ってはなりません。また、身代わりはイエス様の十字架で完結していますので、他の人が身代わりになるということも有り得ません。私たちが家族のために身代わりに地獄に行くということもないのです。ただ、それほどの気持ちは私たちも持ちたいものです。

Ⅱ.イスラエル人
A.神が分からなくなっていった
1.パウロがイスラエル人のためにここまで言うのは確かに同胞だからということもありますが、4-5節にあるように「イスラエルは選ばれた民であるという理由も挙げられます。
2.創世記のはじめの方に書かれているように、世界各地に人類は広がっていきましたが、人々は神から離れ、神がどのようなお方か知らない人達がどんどん増えていきました。しかし、神を求める心が人間にはありますから、勝手に偶像を造り、偶像礼拝に走る様になっていったのです。
3.そこで、神様は一つの民族をつくり、その民族を通して、神がどのようなお方なのか、人と神の関係、人間の生き方、あり方、真の幸福というものを教えることになさったのです。

B.イスラエル人が造られた
1.そのためにアブラハムが選ばれました。アブラハムは幼い頃より信仰心が篤く、神の声を聞ける人でした。そこで、神様はアブラハムを偶像の町からカナンの地に移し、そこで真の神に従い生きることの素晴らしさを教えることになさったのです。
2.そのアブラハムの息子イサク、そのイサクの双子の息子エサウとヤコブ。そのヤコブを神様は後にイスラエルという名前に変え、彼からイスラエル人を造られました。そして、国名としても「イスラエル」が使われるようになりました。
3.イスラエル(ヤコブ)の子ども達からイスラエルの12部族が生まれます。ところが、ヨセフをエジプトに売ったことでイスラエル人は後にエジプトの奴隷となるのです。イスラエルはカナンの地から離れ、エジプトの奴隷になってしまい、神に助けを求めるのでした。

C.信仰の浮き沈み
1.イスラエル人はモーセによって奴隷から解放され、荒野で神の律法をいただき、訓練されてヨシュアの時代に、カナンの地に戻ったのです。神の力で敵を打ち破り、落ち着いたかに見えましたが、士師記に見るようにイスラエルの堕落がありました。
2.その後、ダビデ、ソロモンの時代にイスラエル王国と神殿礼拝が確立したのですが、またしてもどんどん信仰は衰え、イスラエルの歴代の王が偶像礼拝をします。イスラエル人は捕囚の民となってしまいました。
3.その捕囚中でもダニエル達のように信仰深い人達がいたので、イスラエルは回復していくのです。神殿の再建が認められ、イスラエル王国が復活したかに思えましたが、多くのイスラエル人の不信仰で国は復活しないのです。しかし、預言者は必ずイスラエルの復活があると言います。

Ⅲ.クリスチャンの使命
A.霊的イスラエル
1.クリスチャンは霊的イスラエルと呼ばれることがあります。どうしてでしょうか? イスラエル人は神様から特別に選ばれて、神様のこと、神様と人間との正しい関係について、世界中の人々に伝えていかねばならなかったのに、正しい信仰生活をしなくなっていったのです。
2.力強いイスラエルの王を待ち望む民衆の前に遂に現れたのがイエス・キリストです。イエス様はイスラエル人から誕生されたのです。救いの計画はイスラエル人を通して実行されている証拠です。しかし、イエス様を信じないイスラエル人の指導者達によって十字架にかけられました。
3.ところが、この十字架はむしろ人類の救いの道となりました。そこで、イエス様を救い主と信じるクリスチャンによって、かつてイスラエル人を通して人々に教えようとされていたことを、イエス様を信じる全ての人(クリスチャン)に託されたのです。

B.全人類の救いのために
1.イスラエル人は自分たちだけが選ばれ、救われると考えましたが、そうではなく、神様は全ての人の救いを願い、そのためにイスラエル人を計画されたのです。
2.イエス様の十字架はイスラエル人のためだけではありません。イエス様はイスラエル人と少しの異邦人の前に現れただけでしたが、イスラエル人がイエス様(神の言葉)に従わないので、信じ、従う異邦人を用いられたのです。つまりクリスチャンは霊的イスラエルなのです。
3.私たちはパウロが言うように人々の救い、特に同胞の救いを熱く願っているでしょうか。

★ あなたは誰かの「救われて欲しい!」という熱い願いと祈りによって救われたのです。そのあなたが今度は「救われて欲しい」と願い、祈る人があるのではないでしょうか。家族、親族、友人、同胞は救われていますか?


しっかりしなさい。元気を出しなさい!(岡山師)

2015-02-16 07:08:49 | 礼拝説教
2015/2/15新中野キリスト教会礼拝説教
■テーマ:罪を赦す神の権威
■説教題:「しっかりしなさい。元気を出しなさい!」
■聖書箇所:マタイ9:1~8

9:1 イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰られた。
9:2 すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と言われた。
9:3 すると、律法学者たちは、心の中で、「この人は神をけがしている」と言った。
9:4 イエスは彼らの心の思いを知って言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。
9:5 『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらがやさしいか。
9:6 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言って、
それから中風の人に、「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と言われた。
9:7 すると、彼は起きて家に帰った。
9:8 群衆はそれを見て恐ろしくなり、こんな権威を人にお与えになった神をあがめた。

<はじめに>
 今回から9章に入ります。前回イエス様は、ガダラ地方において、悪霊に苦しんでいる2人の男に対して、悪霊を追い出すという驚くべき癒しの業を行ないました。この出来事を終えて、一行はまた舟に乗ってカペナウムに帰ってきたのです。そして帰るや否や、そこで中風を患った一人の人と出会いました。今日は、この中風を患った人を中心に、イエス様がなされた神の恵みを見ていきます。
 
<Ⅰカペナウムでの出来事>
1.中風の人との出会い
 さて、イエスは、活動拠点のカペナウムの町に戻られました。中風の人がイエスのみもとに運ばれてきました。中風とは、現代では、脳卒中の後遺症とされています。半身まひ、手足のまひ、言語障害などが起こります。現在でも治療が難しいので、当時の医療では治る可能性はほとんどなかったでしょう。
 私の小さいときの幼馴染のおじいちゃんがこの病気にかかった時のことを思い出します。私の幼馴染の家は、お醤油屋さんでした。おじいちゃんは、背の高い体格のいい人で、いつも元気に自転車に乗って、お醤油を配達していました。しかし、突然にこの中風の病にかかってしましました。おじいちゃんは、体の自由がきかない状態となり、家でいつも椅子に座っていました。寂しそうなその表情からどんなに元気よく働きたかったかと思います。今日の話しのこの男性の落胆も激しかったことでしょう。
イエス様は、この中風の人を「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と言われました。
たった一言でしか表していませんが、実は素晴らしい神様の一言です。この一言の内に神様の恵みが凝縮されています。神の愛や赦し、神の子とされる恵み、などなど私たちに変革をもたらす言葉なのです。

2.律法学者たち
 そしてまた、ここには、律法学者たちもいました。彼らのイエス様への反対は、「心の中」から始まっています。彼らが心の中で言ったことは、「この人は神をけがしている。」というものでした。これは、イエス様がもし神でなければ、正しい意見とも言えるのです。それは、神しか罪を赦す権威はないからです。人を赦す権威はありません。しかし、律法学者たちは、イエスが神ではないという前提に立っていたところで間違っていました。そうではなく、イエスは、神ご自身なのです。「あなたの罪は赦されました。」と言う権威を持っておられたのです。しかし、律法学者たちは、イエス様が神であるなどと信じられなかったのです。イエス様を神として認めたくない固定概念がありました。皆さんの内にこの心がもしあるならば、どうぞ、一度捨て去ってください。神なる方の存在が心の中で浮き彫りにされます。

3.心を知っておられるイエス
 イエスは人の心を知っておられます。この律法学者たちの心のつぶやきも知っておられ、「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。」と、言われました。人の心を知ることのできるのは神様だけです。ここでもイエスが、神ご自身であることが示されています。私たちの自分でさえ気づかない心の中の言葉や思いでさえ主イエスはご存知なのです。私は前に、お祈りしていた時に以前自分が犯した罪を思い起こしました。すると、祈りの中で主は、「私は、あなたをもう責めているのではないんですよ。あなたのその時の心の傷を癒したいのです。」そう語られた思いがしました。それを知った時、私の心にある傷に主が触れて下さるのを感じました。イエス様が私たちの心の状態を全て知って下さっていることは、恥ずかしいことではありません。素直な心でイエス様の前に出て、心を取り扱って頂きたいと思います。 
 
<Ⅱ あきらめない信仰>
1.友人たちの信仰 
 さて、この出来事に登場する人たちの中に、この中風の人の友人たちと思われる人々が登場します。
そのことについて、マルコ2章も取り上げます。(マルコ2:1~12)このマルコの箇所は、今日のマタイの箇所よりも詳しく書かれています。この中風の人を連れてきた人たちは、4人の友人たちとあります。また、どのように、彼らがイエス様のところに連れてきたか、これもマルコ福音書の方には詳しく書かれています。驚くべき出来事として、イエス様が話をし、癒しの業を行なっている家の屋根の上に勝手に上がり、屋根をはがして中風の人の床を吊り降ろすという行為に出ています。この友人たちの信仰は素晴らしい信仰です。また、学ぶべきことが沢山、あります。多くの人々がイエス様を取り囲んでいる中で彼らにはイエス様に近づく方法が、これ以外に見当たらなかったのです。常識を打ち破る信仰です。私は、「コロンブスの卵のような信仰」だな~とも思います。時に私たちは、常識を打ち破るほどの信仰を求められることがあります。主がこのような信仰に導かれようとされている時には、聖霊による大胆な力、聖霊にある上よりの油注ぎが与えられることを願いましょう。

2、あきらめない信仰
 また、この友人たちの信仰には、「あきらめない信仰」という側面が見られます。信仰にはいろいろな角度があります。今日のような「あきらめない信仰」という信仰へ私たちは、導かれることがあります。
① 旧約においては、創世記におけるヤコブです。(創32:24~28)ヤコブは、兄のエサウの群れから守られるよう、神に祈ります。神が自分から祝福を取り上げるのではないか、そんな恐れの中にいました。その夜、ヤコブは天使ではないかとも言われる、神の人と戦いますが、「自分を祝福して下さるまでは!」ヤコブはそう言って、格闘し、神様の祝福の言葉に食らいついて、ねばり勝ったのです。
② そして、新約においては、長血の女の信仰も挙げられるでしょう。(マルコ5:25~28)12年もの間、この病に苦しんでいたこの女は、医者からもひどい目に会わされていました。彼女はイエス様のことを耳にして、群衆の中にまぎれ込み、「うしろからイエスの着物にさわり」ました。「お着物にでもさわることができれば、きっと直る」その信仰の祈りを持ち続けてイエス様を求めました。あきらめない信仰には、イエス様に伸ばした祈りの手がありました。そして、この祈りの手は神の力を引き出したのです。
神へのあきらめない信仰というものも養って頂きましょう。しかし、また、この中風の男性のように癒されないのは、私の信仰が足りないからだなどとご自分を責めないで頂きたいと思います。神様は肉体の癒し以上に大切な信仰、救いを通し、そして霊における祝福の信仰を与える方なのです。

3.信仰における連帯関係
 そして、この中風の人の癒しというものは、彼の友人たちの信仰なくしては癒されなかったということです。「イエスは彼らの信仰を見て、・・」とあります。イエス様は中風の人当人の信仰を見てではなく、この患者を連れてきた人々の信仰を見て癒されたのです。また、イエス様は、「自分のところに連れてきた事が信仰である」と理解されました。人は一人だけでは生きていけません。互いに支え合って、ことが必要です。教会で皆で集って礼拝し、人々の間、人と人との連帯関係の中で信仰が成長します。中風の人は体調故に自分の力や自分の信仰だけでは、どうにもならない状態でした。周りの人々の愛と神の愛の連帯関係の中に入れられて初めて、癒され、見捨てられていない自分を知ったのです。彼は、起きて立ち上がり、家に帰ることが出来ました。自分には持てない事態の信仰も周りの人々の信仰が神のみわざを見ることとなりました。信仰の欠けたるところをお互いの祈りや交わりで負い合っていきましょう。

<Ⅲ 罪を赦し、力づけるイエス>
1.しっかり、元気になりなさい!
 今日の説教題、「しっかりしなさい。元気になりなさい!」という題にしました。それは、今日のみ言葉の中に「子よ。しっかりしなさい。」という言葉をかけておられるからですが、また、新共同訳聖書の訳の訳には、「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、元気を出しなさい。・・」とあり、「しっかりしなさい。」が、「元気を出しなさい。」となっています。私は、「しっかりしなさい。」も「元気を出しなさい。」という両方の言葉を繰り返してみました。すると、同じような平安が心にきました。イエス様のたった一言の愛の言葉は、私たちにとっても必要な言葉です。イエス様は、一人の人を癒し、励ます方であります。聖書には、いろいろな場面におけるみ言葉が書かれています。よく、こんな場合、この聖書の箇所を読むといいですよ、という紹介もあります。聖書は、一般の書物とは違います。聖霊が働かれる書です。聖書を読み始めて間もない方はぜひ、こういった聖書の紹介から、神様を体験して頂きたいと思います。聖霊が働かれる言葉は私たちの内に神の言葉として、血となり肉となるのです。

2.あなたの罪は赦された!
 今日の箇所の中で私たちは、信仰上最も根本的で重要な問いにたどり着くことを教えられます。それは、「一人の人間の生涯にとって、何がより重要であるのか。癒しか。罪の赦しか」。というその問いです。マタイ福音書の著者には、「誰に連れてこられたか」のも「屋根を剥がして吊り降ろされた」ということも詳しく書かれていません。これは一方では、著者であるマタイが一番、注目して欲しい事柄があるためだと言えるでしょう。それは、イエス様が罪を赦される方であること、罪を赦す神の権威をお持ちであることです。人間の根本的な罪を取り除く方が来られた、そして今ここにおられる!その宣言がまず、重要だったからです。この中風の人が一番必要としていたのは、まず、人間の根本的な罪の赦しと、罪からの解放でした。「『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらがやさしいか。・・」神様の罪の赦しの宣言こそが今現在も、死んで後の天における祝福として必要なのです。

<結び>
神の愛は人を自由にします。神の愛に出会うとき、人は神の命へと『新しく生まれる』のです。 中風の人が罪の赦しの恵みを受けて起きて歩くようになった時、人々はすっかり驚いて、 「こういうことは、かつて見たことがない。」と言って神様を崇めました。私たちも、このイエス様を大いに崇めましょう。「しっかりしなさい。元気を出しなさい!」この神様の御声を受け取ってください。人の励ます言葉も素晴らしいです。しかし、イエス様のこの語りかけは、今日、その御声を聞いたなら、神の祝福がそこからどんどんと皆さんに及んで来るのです。今週も主のこの語りかけを心に覚えて人生の一日一日を歩みましょう。


圧倒的な勝利者という自覚を!

2015-02-08 18:48:25 | 礼拝説教
2015/2/8 礼拝説教
【テーマ】  神は私たちの味方
【説教題】 「圧倒的な勝利者という自覚を!」
【聖書箇所】 ローマ8:31-39
 8:31 では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
8:32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。
8:33 神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。
8:34 罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。
8:35 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
8:36 「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」 と書いてあるとおりです。
8:37 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
8:38 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、
8:39 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

○ 私たちには「敵は無い」と語ってきました。それは私たちが神に愛されているからです。ですが、その神の愛から私たちを引き離そうとするものがあるというのです。

Ⅰ.信仰が奪われてなるものか!
A.引き離そうとするもの
1.私たちは神様・イエス様から大変愛されています。そして、その愛は永遠であり、神様が私たちを離れることは有り得ません。しかし、 8:35 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。 という言葉があるように、私たちをキリストの愛から引き離そうとするものはあるのです。
2.いわゆる良くない状況に追い込まれると、私たちはイエス様から離れていく可能性があるのです。ここに書かれている 患難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣 というのは、私たちの身に危険が迫ってくるようなものです。「信仰を捨てなければ殺す!」というような迫害めいたものです。神様はどんなことがあっても私たちを離れないお方ですが、私たちはこういう身に危険を感じると神を離れるかも知れないということです。

B.身の危険で信仰は無くなるか?
1.クリスチャンの歴史を見た時、迫害は多くの時代にありましたが、その中で信仰を捨てず、殺されていったクリスチャンは数多くいます。同時にその恐怖から信仰を捨てる人もあったようです。
2.でも、個人的な考えに過ぎませんが、例えば「信仰を捨てなければ殺す」と言われて、恐れ、「信仰を捨てる」と言って命が助かったとして、本当に信仰は捨てきれるのでしょうか? 「あー、私は、イエス様を裏切ってしまった」というユダのような後悔が心に押し迫り苦しむと思いますが、神様の存在、自分の罪のための身代わりの十字架、イエス様は神の子、というようなことを信じなくなるものでしょうか?
3.迫害にも屈しない積極的な信仰の生き方では無くなるかも知れませんが、果たして、 患難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣 というようなものが、私たちを神様から引き離すでしょうか? 信仰とは何でしょうか? 信仰はその人の中にあるのであって、外側の行為ではないはずです。

C.悪しき力は働いている
1.信仰は行為ではありませんから、心の中で信じ続けることは可能なのです。が、人間というのは決して強くありません。実際のところ、礼拝を休み続けるとどうですか? 信仰が弱るのを体験した方はおありだと思います。その経験から、「礼拝に出席しよう」と他の人にもアドバイスするのではないでしょうか。
2.悪魔は私たちが即座に信仰を失わなくてもかまわないのです。最終的に地獄に行けば喜ぶのです。また、私たちが伝道する力を失ったり、賛美する力を失ったりすれば、それも悪魔の喜ぶことです。悪魔は私たちを苦しい目に遭わせて、信仰を奪おうとするということは多々あるのです。

Ⅱ.あらゆる信仰体験が力になる
A.私たちを励ます人達
1.いのちに関わる苦しみを投げかけてきて、神様を信じる力を失わせようとする悪魔。実際、祈っても祈っても病気が治らなかったり、経済的な解決が無かったりするとどうでしょうか? 「神はいないのではないか?」と疑いたくなることが弱い私たちにはあるかも知れません。
2.そういう中で、やはりヨブ記は私たちに大きな力を与えてくれます。そして、さらに聖書の信仰者、使徒達、教会の歴史の中に見る信仰者、あるいは身近なところにいる信仰の先輩達を見ると力を与えられます。まさにこれが「証」です。圧倒的な勝利者の姿です。

B.パウロの体験した勝利感
1.そこで、パウロは、8:37 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。 と、言いきるのです。これはパウロ自身の経験からでたことでもあり、彼の出会ってきた信仰者達の姿から得たことでもあるのです。
2.本当に神様を知ったなら、イエス様と共に生きるなら、聖霊の満たしの中で聖霊の助けをいただいて生きるなら、 8:38 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、 8:39 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。 と言い切れるわけです。
3.それは、パウロ自身が 神が私たちの味方である ということを体験してきているからです。信仰は決して体験主義ではいけないのですが、体験が信仰を助けることがあるのは事実です。

C.私たちも圧倒的な勝利者
1.私たちが信じたことを実行に移すことで、神様が働かれ、大きな恵みを受けます。心の目を開いて、日々の生活の中に働かれる神様を見つめると神様の恵みに満たされて行くのです。そういう小さな信仰体験の積み重ねが、神様を信じ切る力になるのです。
2.たとえ外面的な体験が伴わなくても内面の不思議なまでの込み上げる喜び、感謝といったものが内なる聖霊によって与えられます。聖書を読んでいるだけで、祈っているとき、賛美しているとき、あるいは何も特別なことをしていなくても、聖霊はいつも私たちの内に働いておられます。この内なる体験の積み重ねが、神様を信じ切る力になるのです。
3.パウロは実際命に関わる体験もあり、奇跡的な出来事も体験し、圧倒的な勝利者となったのです。でも、それはパウロだからでしょうか? 私たちもパウロと同じ体験はしないかもしれませんが、私たちにふさわしい神様からの恵みをいただき、信仰の体験をさせて頂いているのです。ですから私たちも、何者にも敵対されない、圧倒的な勝利者なのです。

● すばらしい勝利を得続けたヨシュアですが、その最初の戦いであるエリコに直面した時のことです。堅固なエリコの城壁近くで現れた強うそうな人物に ヨシュア5:13「あなたは、私たちの味方ですか。それとも私たちの敵なのですか。」 と聞きました。彼は、敵とも味方とも言わず「主の軍の将」と言いました。ヨシュアが神様に従ったので、神はヨシュアの味方でした。それで彼は圧倒的な勝利者になったのです。

★ いったい、あなたをキリストの愛から引き離せるものがありますか? あり得ないのです。神様はあなたの味方です。神様に従うあなたは圧倒的な勝利者です。その自覚をいただきましょう。

倍返し??

2015-02-01 18:37:32 | 礼拝説教
2015/2/1礼拝説教
【テーマ】  愛の人に変わる
【説教題】 「倍返し??」
【聖書箇所】 マタイ5:38-42
  5:38 『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
5:39 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。
5:40 あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。
5:41 あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。
5:42 求める者には与え、借りようとする者は断らないようにしなさい。

○ 『目には目で、歯には歯で』 とはにらまれたらにらみ返し、かみつかれたら、かみかえすということでしょうか? 聖書の中には有名な言葉がたくさんありますが、同時に正しく理解されていない言葉も多いものです。

Ⅰ.目には目とは?
A.大事な律法だった
1.『目には目で、歯には歯で』 というのは、出エジプト記21章に出てくる御言葉ですが、この言葉は「ハムラビ法典」(紀元前1792年から1750年にバビロニアを統治したハンムラビ(ハムラビ)王が発布した法典)の中にあるそうです。旧約聖書の書き始めは紀元前1500年頃ということから考えると文書化したのはハムラビ法典が先になります。
2.当時の人々にはこの法律はよく知られていたのでしょう。イエス様の時代にも当然ごく普通に語られていたと思います。ただ、長い年月の中で、その法律の精神は忘れられていったかと思われます。日本でも昔「父の敵」といって「敵討ち(仇討ち)」が正当化されていました。
3.目を潰されたら、相手の目を潰し返せ、歯を折られたら、相手の歯を折り返せというのは、半沢直樹の「やられたらやり返す。倍返しだ」に似ていて、やり返すことの正統性を言っているように聞こえますが、旧約聖書でも、ハムラビ法典でも 『目には目で、歯には歯で』 というのは、それ以上にやり返さないことを言っています。目には目だけ、歯には歯だけで留めるようにということです。同害復讐法(同害報復法)というそうです。

B.同害だけですまない
1.さらに聖書には レビ 19:18 復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは【主】である。 また、 ロマ 12:19 愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」 とあり、さらにすばらしい律法です。
2.人間には復讐心があるそうです。その復讐心は決してやられた同じ分をやり返すことではすまないものなのです。頬を一発やられたら、相手の頬を二発も三発も打ってしまいやすいのです。そして、永遠に終わらなくなるのです。
3.子どもたちのケンカを見ていてもわかります。ちょこっと当たっただけで「あ、やったな」と、強めに叩く、すると「おれ、そんなに強く叩いてないわ!」と二発叩く。「あ、二発も叩きよった!」と三発叩く。どこまでいくのやら。

Ⅱ.もっとよくしなさい
A.左の頬まで?!
1.こんな人間の心を知っておられるイエス様が あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。 と言われたことを見ると、イエス様はなんと人間の気持ちと反対のことをするように命じておられると思うものです。
2.多くの人は、「とても私には真似ができない」と思うのです。多くのクリスチャンが、「あー、自分はダメだ! イエス様の言われるようなことができない。」と苦しんだ言葉です。
3.実際のところ、このイエス様のように人間ができるなら、戦争も無かったと思います。さすが、平和の君(イザヤ9:6)と預言されたイエス様です。

B.上着まで?!
1. あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。 こんなことは私たちにはできたものではないですね。上着をやれても、下着をやるわけにはいかないでしょう。
2.ここのところはまず、当時の服装を知らねばわかりにくいですね。上着とはマントのようなもので昼はコートのように使い、夜は毛布のように使ったようで、普通貧しい一般人は一枚しか持っていなかったのです。下着はその下に身につけるもので、貧しくても数枚は持っていたようです。上着はたとえ質草にとられても夕方までには返さなければなりませんでした(出エジプト22章、申命記24章)。そんな身の安全をも守る上着です。上着は奪われてはならないもの、自分が生きる、生活する当然の権利として持つべきものだったのです。
3.ところがイエス様は、裁判して下着を取ろうとする者に、上着までやれと言うのです。この話を聞いていた人達みんなビックリしたでしょうね。

C.強制労働も?!
1.次にイエス様は あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。 と言われました。1ミリと2ミリなら何とも無いと言うかも知れませんが、ミリじゃないです。ミリオンです。1ミリオンとは約1500mです。
2.当時はローマ帝国の支配下にあったので、ローマの軍隊が通る時、その兵士達の荷物を無理矢理背負わされて歩かせられる、すなわち強制労働をさせられたのです。選民意識の強いユダヤ人にとっては屈辱的なことです。
3.イエス様は、右の頬に対してさらに左の頬をも、また、下着を求める者には上着まで、一ミリオンに対して二ミリオン、倍返しです。やり返しの倍返しでは無く、相手のために倍与えよというのです。

Ⅲ.イエス様の心がわかる時
A.心からする
1.この言葉の通り、律法的に私たちが行おうとしたら、それは実はイエス様の言っておられることとは違うのです。イエス様は律法的、義務的に行うように言われたのでは無く、自発的に愛の心からそれを行うことを言っておられるのです。
2.イエス様の言われたこうしたことができないからと言って自分を責める必要はありません。心からそれができたらもちろん幸いです。この説教はあの山上の説教の「○○の者は幸いです」というところから繋がっているからです。
3.これを心から行われたのはイエス様なのです。事実、イエス様に悪くした人達、つまり私たちもです。罪人であった私達のために倍どころか無限の祝福を与えてくださったのです。この愛の行動がとれるのはイエス様だけなのです。

B.聖霊が助けてくださる
1.しかし、イエス様を愛して、イエス様の弟子になっていくと、ここという時に、イエス様と同じようなことができるのです。もちろん自分の力では無いのです。内なる神、聖霊が助けてくださるのです。
2.こうした事というのは、難しい人間関係の問題です。相手をやり込めよう、やり返そう、という考えで進むと救いは無いのです。その人が救われることを心で祈り、話を聞き、イエス様に助けを求める時、救いに関する業が起こるのです。

● イエス様が十字架を担いでゴルゴダの丘に向かっていた時、イエス様は運べなくなりました。その時、ローマ兵が近くにいたクレネ人シモンにイエス様の十字架を担がせました。彼はなぜこんな犯罪人の為に自分が十字架を担がねばならないのだと思ったことでしょう。しかし、彼は実にイエス様の近くを歩いたのです。そして、イエス様の息づかい、イエス様の言葉を聞いたのです。後に彼はクリスチャンになっているようです。彼の場合は無理矢理にさせられたのですが、それでもイエス様のそばにいたので、彼は変えられたのです。

★ 神様のみこころと人の救いを第一に求める人はイエス様の思いがわかってきて、気がつくと実行しているものなのです。