バイブルサロン

礼拝説教、聖書を読んで感じた事

舟の右側に網をおろしなさい

2017-04-23 16:41:32 | 礼拝説教
2017/4/23礼拝説教
【テーマ】  復活のイエス・キリスト
【説教題】 「舟の右側に網をおろしなさい」
【聖書箇所】 ヨハネ21:3-14
  21:3 シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。
21:4 夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。
21:5 イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」
21:6 イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。
21:7 そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。
21:8 しかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来た。陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからである。
21:9 こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。
21:10 イエスは彼らに言われた。「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」
21:11 シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた。それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。
21:12 イエスは彼らに言われた。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか」とあえて尋ねる者はいなかった。
21:13 イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。
21:14 イエスが、死人の中からよみがえってから、弟子たちにご自分を現されたのは、すでにこれで三度目である。

○ 「復活」という事実は人類史上たった一度だけのできことですから、科学的検証というのは難しいものです。ですから、「信仰」をいただいて、新たな目で見ることをしないと信じられないでしょう。復活されたイエス様と出会った弟子達もなかなか心はスッキリしていませんでした。その弟子達がガリラヤ湖へと向かいました。

Ⅰ.復活のイエスを見てもわからない
A.弟子達は漁に出た
1.弟子達はイエス様の言葉の通り、ガリラヤに来たのですが、イエス様とすぐには会えませんでした。そこで彼らは漁に出ました。しかし、網をおろしても何も捕れなかったのです。
2.ペテロはかつて漁をしても何も捕れなかった時のことを思い出したのではないでしょうか? ルカ5:3 イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。そしてイエスはすわって、舟から群衆を教えられた。 5:4 話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われた。 5:5 するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」 5:6 そして、そのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった。 

B.弟子達はわからなかった
1.復活されたイエス様は弟子達にそのお姿を現してこられたのですが、なかなか復活のイエスだとわからないのは、イエス様が特別に輝いていたわけでもないからでしょう。しかし、その手や脇腹の傷跡は間違いなく十字架の時のものですから、イエス様が復活されたことは間違いないのです。
2.今回も弟子達は岸部に立たれたイエス様がわからなかったのです。エマオ途上の弟子二人が、イエス様とわからないまま歩いていたのも考えさせられます。私たちもイエス様だとわからないことがないでしょうか?

Ⅱ.舟の右側に網をおろしなさい
A.あの日のことが思い出された
1.イエス様によって召し出されたあの日を思い出していたかもしれないペテロは、イエス様から 「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」 という言葉が心に響きながらも悶々として網をおろしたと思います。その瞬間、大漁の感触。同時にあの日のことが鮮明に思い出されたのではないでしょうか?
2.そして、 21:7 そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。 となるのです。あの日も、自分が何と罪深い人間かと思い知らされた日でした。今度もペテロは自分の不信仰、罪深さを感じながらもイエス様に向かったのです。

B.御言葉に従った時に何かが起こる
1.なぜ、「舟の右側」なのでしょうか? 左側でもよかったのではないでしょうか? あの日は 「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」 であって、右側とかではありませんでした。
2.モーセに杖を上げさせると紅海が分かれたり、その杖で岩を打たせると水が湧き出たり、カナの婚礼では水を入れさせるとぶどう酒に変わったり、神(イエス様)が言われた通りにすると何かが起こったのです。
3.ここに理屈や科学的根拠とかいうものを越えた「信仰」の世界があります。神の御言葉に従うということです。従う決心をするということです。

Ⅲ.網は破れなかった
A.大漁なのに破れない
1.久しぶりに漁をして、何も捕れなかったあの虚しい心が、イエス様の言葉に従って網をおろしたところ、大漁の感触がやって来ました。ペテロだけではなかったでしょう。一気に、イエス様と共に歩んできた日々の喜びがよみがえってきたでしょう。まさに信仰の復活です。それも新しい信仰に!
2.普通なら破れてしまう網が破れませんでした。出エジプトをしたユダヤ人の服も靴も、荒野の40年間は破れなかったのです。神の守りはこうしたところにもあったのです。御言葉に従うと何か不思議なことも起こるのです。

B.イエス様と共に食する
1.最後の晩餐で食べたパンとぶどう酒はイエス様の十字架を思うものでした。ここガリラヤ湖畔での朝の食事はパンと魚。あの5つのパンと2匹の魚を思い出させるようなひとときではないですか。でもあの時は大勢の人に分け与えるのに必死だった弟子達です。今日は落ち着いてイエス様と共に食しています。
2.153匹の魚に意味があるのかどうかわかりません。しかし、この一連の出来事は彼らの頭にイエス様と共に過ごした楽しく劇的な日々がよみがえらせたことでしょう。

● 私も時々呼ばれた先で証をしますと、その時のことやイエス様の恵みがよみがえってきて嬉しくてたまらなくなるのです。証をすべきですね。救われた証、献身の証、数々の恵みや試練の証をすべきです。

★ 私たちもイエス様の十字架によって救われた者です。そして、今や目には見えませんが、共にいてくださる復活のイエス・キリストが私たちに「舟の右側に網をおろしなさい」と言われているのです。「なぜ左じゃダメなんだ!」なんて言っていないで、網をおろそうではありませんか。
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聖霊を受けなさい

2017-04-16 17:58:23 | 礼拝説教
2017/4/16イースター礼拝説教
【テーマ】  復活の主の願い
【説教題】 「聖霊を受けなさい」
【聖書箇所】 ヨハネ20:19-23
  20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」
20:20 こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。
20:21 イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
20:22 そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
20:23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」

○ 今日はイースター。イエス様の復活をお祝いする日ですが、同時に私たちも復活させていただける、復活の体、完全な体をいただくことができるという希望に満ちた日でもあります。十字架までイエス様は祈りをなさいましたが、復活後イエス様は祈っておられません。私たちに希望のメッセージと命令を与えてくださいました。

Ⅰ.喜びを与えるイエス
A.イエス様の体
1.世の常識では信じられない死者の復活です。復活は蘇生、単なる生き返りとは違います。蘇生は心臓が動き始めただけですから、いずれまた死にます。しかし、復活は死なない体に変えられています。二度と死にません。
2.イエス様が十字架から三日目に復活されたのはそういう体です。それがこの復活の朝、日曜日の朝から始まり、多くの弟子達に示されてきました。しかし、不信者にはその復活の姿は現されなかったようです。
3.イエス様は隠れている弟子達の家の中へ突然現れました。神の性質である、時・空間を支配しておられることがよくわかります。

B.私たちの希望
1.このイエス様の復活はイエス様だけが復活するというものではなくて、イエス様を信じる者全て同じように復活の体をいただくことができるというものです。
2.私はクリスチャンになった時から44年間、この希望を持ち続けています。アトピーで酷い皮膚、見えにくい目、さらに今は心臓病、慢性腎不全、腰痛をはじめとして体のあちこちに起こる痛み、こうした体の不調が全くないのが復活の体ですから。
3.そのようにすばらしい体をいただくというよりも、永遠に神とと共に生活できるという、何にも代えがたい喜びをいただくことの方がすばらしいといえると思います。

Ⅱ.平安を与えるイエス
A.祈ると平安になる
1.十字架で亡くなるまでイエス様はよく祈られました。人間となった神・イエスは「父なる神」と祈りを通して深い交わりを持ち続けられました。
2.祈りは人間にだけ与えられたすばらしい特権です。私たちも神様から祈るように願われています。祈ることで私たちは平安を得ることを知っています。祈ると平安になるのです。

B.平安があるように
1.イエス様が二度言われた 「平安があなたがたにあるように。」 という言葉。弟子達は自分達の命の危険を感じて恐くて隠れていたのですが、そこにお出でになったイエス様は 「平安があなたがたにあるように。」 と言われました。安心してよいということです。
2.イエス様の復活は私たちを平安にするのです。命を狙われるというのは変わらないのですが、イエス様の復活という真実を知り、真理に生きることができるから平安を得るのです。
3.しかし、二度目の 「平安があなたがたにあるように。」 の後は 父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」 と、マタイ28:19-20で言われたように、宣教に向けて派遣命令が語られるのです。復活の主によって平安を得ることで私たちは宣教に出ることができるのです。

Ⅲ.聖霊を与えるイエス
A.聖霊を受けなさい
1.宣教に遣わすと語られたイエス様の次の言葉は 「聖霊を受けなさい。」 です。宣教は聖霊の働き無しには有り得ません。イエス様が十字架前に語っておられた「助け主・聖霊」を遂に与えてくださるのです。
2.聖霊はイエス様の十字架と復活無しには与えられなかったのです。イエス様の十字架を受け入れた者はその罪が赦され、新しい霊をいただくので、そこには聖霊がお住まいになれるのです。
3.イエス様の復活はそのことが実現するためです。イエス様の体はもう人間の肉では無くなりました。天国の体です。この地上でまだ私たちはイエス様のような体はいただけませんが、約束通り、私たちの中には聖霊が住まわれるのです。

B.罪を赦しなさい
1.続けて、イエス様は 20:23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」 と、言われました。イエス様が私たちの罪を赦されたので、私たちは喜びを得たのです。
2.私たちもイエス様の弟子なので、イエス様と同じく、誰かの罪を赦すのです。私たちの祈りは聖霊が働かれているのですから、祈られた人が救われるのです。

★ 復活されたイエス様は約束の聖霊をくださいます。聖霊をいただきましょう。そして聖霊に満たされて、遣わされていきましょう。
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私の願うようにではなく

2017-04-09 16:36:42 | 礼拝説教
2017/4/9受難週礼拝説教
【テーマ】  みこころを求める祈り
【説教題】 「私の願うようにではなく」
【聖書箇所】 マタイ26:36-46
  26:36 それからイエスは弟子たちといっしょにゲツセマネという所に来て、彼らに言われた。「わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。」
26:37 それから、ペテロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。
26:38 そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」
26:39 それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」
26:40 それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。
26:41 誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」
26:42 イエスは二度目に離れて行き、祈って言われた。「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」
26:43 イエスが戻って来て、ご覧になると、彼らはまたも眠っていた。目をあけていることができなかったのである。
26:44 イエスは、またも彼らを置いて行かれ、もう一度同じことをくり返して三度目の祈りをされた。
26:45 それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されるのです。
26:46 立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」

○ 今週は受難週です。つまり、イエス様が十字架にかかられた「金曜日」を記念して十字架を覚える週です。もちろん、今週だけでなく、いつも十字架を覚える必要があります。ですから、聖餐式も行っています。今週が受難週ということは、来週はイースターです。そして、50日後のペンテコステへと繋がっていくのです。さて、十字架前のイエス様はゲツセマネの園で祈られましたが、今日はその祈りを見てみましょう。

Ⅰ.悲しみの祈り
A.ゲツセマネの特別な祈り
1.弟子達と一緒にゲツセマネという所に来て、イエス様は一人祈りに向かわれました。その間、弟子達にも離れた場所ですが、共に祈って欲しいと願われました。
2.その時イエス様が弟子達に言われた言葉が、 「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」 という言葉でした。いったい死ぬほどの悲しみとは何でしょうか? 愛する家族を失った時などに言うような言葉ではないでしょうか。

B.罪を悲しむ
1.人が死ぬものとなったのは、アダムとエバが神の命令に背いた事にあります。神の言葉に従って生きたなら悲しい死別は無かったのです。
2.イエス様は人の死、つまり罪によって入り込んだ「死」、神との関係が切れてしまったことを悲しまれました。罪が全ての人を神と切り離してしまったのです。このことをイエス様は悲しまれました。果たして私たちはそのように罪を悲しんだでしょうか?

Ⅱ.願いの祈り
A.できますならば
1.イエス様が一人で祈られた時、 わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。 と祈られました。私はクリスチャンになって間のない頃、「できますならば」とイエス様が言われるのは変だなあと思っていました。神は全能であり、イエス様は神ですから、こんな言い方をしなくて良いのにと。
2.私たちはどうでしょうか? 私は「できますならば」と祈っていたことが多くあったなあと思います。癒しの祈りもたくさんしました。その時、癒されると信じ切って、「感謝します」とだけ祈れればよいのですが、「癒されないかもしれない」とも思うわけです。それは、癒されることだけが神の栄光とは限らないということも知っているからです。でも、「できますならば、癒してください」と願っているのです。しかし、イエス様のそれとは違うように思えます。

B.過ぎ去らせてください
1.「この杯」とは、イエス様が全人類の罪の身代わりとなって生け贄となる十字架刑のことです。誰だって、殺されることは嫌ですから、取り除けて欲しいと願うでしょう。主の祈りで「我らを試みにあわせないで」と祈るのですから。
2.イエス様は救いの計画を知っておられました。ですから、ご自分が十字架にかかることが必要なこともわかっておられました。しかし、それを取りやめにして欲しいと三度も祈られました。その理由は「死にたくない」ということでしょうか? 「死」は神との断絶から起こったことです。イエス様は「死」を通してやってくる神との断絶を強烈に拒まれたのです。

Ⅲ.みこころを求める祈り
A.みこころを受け入れる
1.イエス様の祈りは次に、 しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。 と、続きます。私たちはこの祈りが大事だということを知っています。いくら自分の願いがあっても、みこころに反するならその願いは引き下げて、神様のみこころがなることを願うということです。
2.イエス様は神と切り離されることを覚悟してみこころを求めたれたのです。私たちは自分の自己中心な願いを捨てて神のみこころに従おうと努力するのですが、イエス様は神に捨てられるために従おうとされるのです。

B.みこころを求めて生きる
1.みこころを求めるというのは決して楽なことではありません。私たちは結構みこころを知っているのです。神様を第一とすること、私たちが聖くなること等々、そしてそのために礼拝を守る、祈る、伝道する、奉仕するといったことを行っています。
2.しかし、人間の世界の現実はクリスチャンにもなかなか厳しいのです。悪魔の誘惑もあります。そういう中で、神様のみこころを求めるのは大事ですが、難しいことも多いのです。それが人類の歴史でもあります。
3.しかし、みこころがなることを追い求めない人生はなんとつまらない人生でしょうか。楽をして楽しく生きるのが人生では無いです。

★ イエス様は常に御心を求めて祈られました。私たちもイエス様の祈りに倣い「私の願うようにでは無く」を忘れず、御心を追い求めて祈っていこうではありませんか。

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イエス・キリストを信じる

2017-04-02 17:44:11 | 礼拝説教
2017/4/2礼拝説教
【テーマ】  使徒信条2
【説教題】 「イエス・キリストを信じる」
【聖書箇所】 マタイ16:13-17
16:13 さて、ピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々は人の子をだれだと言っていますか。」
16:14 彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」
16:15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
16:16 シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」
16:17 するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。

○ 前回は「父なる神」を見ましたが、今回は「イエス・キリスト」です。イエス・キリストとはどの様なお方でしょうか? 
 「われはそのひとり子、われらの主イエス・キリストを信ず。」を見てみましょう。

Ⅰ.そのお名前
A.イエスとは?
1.「イエス・キリスト」の「イエス」が名前で「キリスト」は名字と思っている人がわりといるそうです。
2.しかし、キリストは称号であり、太閤秀吉の太閤みたいなものです。太閤が称号、秀吉が名前です。旧約聖書に出てくるパロや新約聖書に出てくるカイザルも称号ですね。
3.イエスは名前ですが、ヘブル語の「ヨシュア」からきており、「ヤハウェ(主)は救いである」という意味があります。そして、当時この名前は「太郎」のように一般的だったのです。ちなみにイエス様の母マリヤという名前はヘブル語のミリアムです。マリヤもイエスも一般的な名前でした。

B.キリストとは?
1.「キリスト」はヘブル語の「メシヤ」です。日本語では「救い主」「救世主」と訳されています。メシヤというのはもともと「油注がれた者」という意味です。この油は「オリーブ油」です。王や祭司、預言者が就任する時にこのオリーブ油の中でも特別な香油を注ぐ習慣がありました。
2.「メシヤ」はユダヤ人がずっと待ち望んでいた人です。人々は、王であり、祭司であり、預言者であるメシヤを待ち望みました。その方が奴隷状態の彼らを救い出してくれると信じたのです。
3.その「メシヤ」(キリスト)がイエス様です。「イエス・キリスト」というのは「イエスは救い主」という意味で、「救い主イエス」などとも言えるのです。

Ⅱ.ひとり子
A.神のひとり子
1.「ひとり子」とは誰のひとり子なのでしょうか? ヨセフとマリヤ夫婦にはイエスを長男としてたくさんの子どもが誕生しています。ですからヨセフやマリヤのひとり子ではありません。イエスは神様のひとり子です。
2.イエスが神の子であることはクリスマスの時などによく語られます。この地上での戸籍上はヨセフとマリヤの子で、大工の子として育ったのですが、マリヤが聖霊によって身ごもったことが聖書に書かれています。
3.キリスト教でよく「三位一体」と言いますが、「三位」とは「三身」ではありません。人間的な三人ではないからです。神様はお一人なのにもかかわらず、三つの人格(?)をお持ちなのです。父なる神と子なる神・イエス、そして聖霊です。これは説明できないものです。

B.イエスは神
1.聖書にはイエス様の30才頃までのことはほとんど書かれていません。大工のヨセフの手伝いをし、ヨセフ亡き後も家族を支えてきたと思われます。そのイエスが30才頃、家を出て神の国の福音を語り始められました。
2.イエス様はただ語るだけではなく、病人を癒し、悪霊を追い出し、様々な奇跡を行われました。それによって人々はこのイエスが待ち望んだメシヤではないかと思いはじめたのです。しかし、今日のテキストにあるようにイエス様は「ヨセフのところのイエスちゃんじゃないか」くらいにしか思われなかったのです。イエス様の兄弟たちもわかっていませんでした。
3.イエス様の奇跡を見た人達はイエス様を偉大な預言者と思ったかも知れませんが、やはり人としてしか考えることはできませんでした。しかし、イエス様は癒しや奇跡を行うことでその全能性と、神の愛を示された、まさに神様なのです。

Ⅲ.われらの主
A.主
1.人々がイエスこそローマ帝国から解放をしてくれる方だと思っても、まだまだそのランクは人間でした。いくら最上級の人間の位に着けたとしても人間です。しかし、イエス様は神様です。
2.使徒信条で「主」というこの言葉は確かに人間世界でも「ご主人様」という自分の上に立つ人として呼ぶことができます。しかし、ユダヤ人は神様のことを「主」と呼んできました。つまり、イエス様は神様であることを言い表した言葉なのです。

B.何からの救い主なのか?
1.人々がローマ帝国からの救い主としてイエスを祭り上げようとしましたが、イエス様はそれは全く受け入れられませんでした。ユダはそういうイエス様につまずいたのですが、それでも、イエス様はそういう活動をされませんでした。
2.では、イエス様は何からの救い主かということですが、それはアダムとエバに遡ります。アダムとエバは神様との約束を破り、罪人と化しました。つまり、神様との関係が切れたのです。イエス様はその関係を回復するための救い主です。つまりローマ帝国からの救いではなく、罪の奴隷から解放する救い主なのです。
3.このイエス様を私たちも自分の罪からの救い主として信じることが神様の願いなのです。イエス・キリストを信じるだけで救われるという神様の計画が実現するのです。

★ 私たちはイエス様が神様のひとり子であり、つまり神様であり、私たちの罪からの救い主として信じるのです。ペテロの 「あなたは、生ける神の御子キリストです。」 をイエス様はほめられました。これが大事な告白です。
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イエス様の教えた祈り

2017-03-26 16:17:52 | 礼拝説教
017/3/26礼拝説教
【テーマ】  祈りの構成
【説教題】 「イエス様の教えた祈り」
【聖書箇所】 マタイ6:9-13
  6:9 だから、こう祈りなさい。
  『天にいます私たちの父よ。
  御名があがめられますように。
6:10 御国が来ますように。
  みこころが天で行われるように地でも行われますように。
6:11 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
6:12 私たちの負いめをお赦しください。
  私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
6:13 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕

○ 前に「主の祈り」を細かく解説しましたが、今回は1回で中心的なことをお話ししたいと思います。「主の祈り」を暗記しておられる方がほとんどだと思います。つまり、見なくても唱えることができるのですが、唱えれば良いものでしょうか? これは「主の祈り」と言うより「イエス様が弟子達のためにに教えた祈り」です。そして、この祈りは模範であって、このように祈ればそれで良いというものではありません。では、どの様に祈ることをイエス様が願われたのか見ていきましょう。今回、私は大きく「神を思う」事と「人を思う」ことに分けてお語りします。

Ⅰ.神を思う(愛する)
A.父なる神に呼びかける
1.祈りのはじめに「聖霊様」という人。また、「父なる神様、イエス様、聖霊様」と三位一体の神を呼ぶ方もいらしゃると聞きました。また、「イエス様」と呼びかける方もいらっしゃいます。
2.「イエス様」と呼びかけて、最後に「イエス様のお名前によってお祈りします」は本来おかしいです。イエス様が教えてくださった祈りは、「天の父」に呼びかけることです。
3.祈りの基本は、聖霊に助けられ(励まされ)て、イエスの御名によって、天の父なる神に祈るというものなのです。でも、神様はわかってくださいますので、「イエス様」と呼びかけても問題は無いと思いますが。
B.御名を崇める
1.私たちはすぐに願い事の祈りをしてしまいやすいのですが、イエス様は、「神様のお名前が崇められるように」という祈りを教えてくださいました。
2.崇めるとは「きわめて尊いものとして敬う」、「崇敬する」、「大事に扱う」という意味です。もちろん、「崇めます」と言えばよいというのではありません。神様を心から崇めるという「心」が必要なのです。
3.祈りの要素に「瞑想」がありますが、一般的瞑想と違うのは「神を思う」という点です。神を思うと、こんな自分を救っていただいたという感謝や、神様の偉大さ、愛の深さ、慰めの温かさなど色々な事が心にジーンと感じられてきます。そういったことが神を崇めることにつながります。

C.御国を求める
1.そしてイエス様は 御国が来ますように と祈ることを教えておられます。御国を求めるというのは、神の国、神の支配を求めることであり、自分自身が神の支配をそのまま受け入れることです。
2.神の国は「みこころ」のなるところです。それを地上にも求めるとはどういうことでしょうか? それは自分だけではなく、この地上が神の支配でが覆い尽くされることを願うことです。そして、全ての人が自らの意志で御心に従うようになることです。
3.御国と御心を求める祈りというのは、祈る自分がどれほど神を思っているかにかかります。神が何を求めておられるのか、その求めに自分は何をするのか、神の命令に完全に従いたいという思いで、神を思い祈るのです。

Ⅱ.人を思う(愛する)
A.日毎の糧を求める
1.「日毎の糧」というと食べ物ですが、これはイエス様が私たちの日常に関することを総称して言われたことです。食べ物だけではなく、着るもの、仕事等々日常に関することの祈りです。
2.ただ、私たちは多く自分のために祈りやすくなります。が、この祈りは決して自分のエゴ、都合のための祈りではありません。「私の」ではなく、「私たちの」であることを覚えましょう。私たちの祈りは常にまず他の方々のために祈るということが大事なのです。

B.負い目を赦す
1.神様に赦しを乞うのは大事なことです。私たちは赦されなくては生きていけない存在です。何しろ、私たちは罪深い者で、神に赦していただくことで、天国も神の恵みもいただけるからです。
2.そして、 私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました と、私たちが他の人を赦すというとても大事なことを祈るのです。これはまさに敵を愛するというイエス様の山上の説教で語られたことです。人間的には祈りたくない人のために祈るのです。それがイエス様の「愛」と繋がっているからです。

C.誘惑からの守り
1.試練を受けると信仰が成長します。ですから、神は私たちに楽ばかりさせないで試練を与えられます。その試練が大きすぎると大変ですが、神は絶対に不必要な試練は与えません。つまり、試練は絶対に私たちに必要なもので、神様の愛から来ているのです。
2.一方、悪魔は私たちを悪に誘惑します。そして、そこにはまり込むとなかなか抜け出られないばかりか、大事なもの、大事な人さえも失ってしまいます。悪から守られる秘訣は神を思うことですし、聖霊に助けられることです。
3.そして、他の人もそういう辛さの中で闘っているものです。ですから、自分もですが、他の人々も悪から守られますようにと祈ることです。

★ イエス様の教えてくださった祈りは、神を思うことであり、人を思うこと、神を愛し、人を愛することです。
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感謝の祈りが湧いてくる

2017-03-21 06:41:06 | 礼拝説教
2017/3/19礼拝説教
【テーマ】  感謝の祈り
【説教題】 「感謝の祈りが湧いてくる」
【聖書箇所】 Ⅱテサロニケ1:3-12
  1:3 兄弟たち。あなたがたのことについて、私たちはいつも神に感謝しなければなりません。そうするのが当然なのです。なぜならあなたがたの信仰が目に見えて成長し、あなたがたすべての間で、ひとりひとりに相互の愛が増し加わっているからです。
1:4 それゆえ私たちは、神の諸教会の間で、あなたがたがすべての迫害と患難とに耐えながらその従順と信仰とを保っていることを、誇りとしています。
1:5 このことは、あなたがたを神の国にふさわしい者とするため、神の正しいさばきを示すしるしであって、あなたがたが苦しみを受けているのは、この神の国のためです。
1:6 つまり、あなたがたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え、
1:7 苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現れるときに起こります。
1:8 そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。
1:9 そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。
1:10 その日に、主イエスは来られて、ご自分の聖徒たちによって栄光を受け、信じたすべての者の──そうです。あなたがたに対する私たちの証言は、信じられたのです──感嘆の的となられます。
1:11 そのためにも、私たちはいつも、あなたがたのために祈っています。どうか、私たちの神が、あなたがたをお召しにふさわしい者にし、また御力によって、善を慕うあらゆる願いと信仰の働きとを全うしてくださいますように。
1:12 それは、私たちの神であり主であるイエス・キリストの恵みによって、主イエスの御名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主にあって栄光を受けるためです。


○ 今日は「感謝の祈り」というテーマで考えてみたいと思います。私たちは普段どういう「感謝の祈り」をしているでしょうか? 

Ⅰ.感謝の祈りをしている
A.どのような感謝の祈りだろうか?
1.食前の祈りで「この食事をありがとうございます」と祈ったり、欲しかった何かが与えられた時に「●●を与えてくださってありがとうございます」と、物質的な祝福に対して祈るということが多いのではないかと思います。
2.私たちが頻繁に感謝していることが私たちの関心事ということだと思います。癒しや奇跡的なことが起こって感謝するという場合もこうした何かが起こることを評価しているのであって、癒しや奇跡的なことが起こらないと感謝が無かったりするのです。

B.パウロが感謝していること
1.では、今日のテキストに見るパウロの感謝の祈りは何でしょうか? パウロは何よりもテサロニケの教会のクリスチャン達の間に恵みがあることを感謝しています。
2.3節で あなたがたの信仰が目に見えて成長し、あなたがたすべての間で、ひとりひとりに相互の愛が増し加わっている ことを感謝しています。それでパウロは4節、 それゆえ私たちは、神の諸教会の間で、あなたがたがすべての迫害と患難とに耐えながらその従順と信仰とを保っていることを、誇りとしています。 と言っています。

Ⅱ.パウロの感謝を分析
A.信仰の成長を感謝している
1.パウロの祈りを分析してみましょう。パウロが3節で感謝しているのは、彼らの信仰が成長している、継続していることです。救われたということはもちろん感謝なのですが、そこで留まらない、成長し続けることを見て感謝しているのです。
2.テサロニケの教会の良さは霊的成長をし続けていることです。 あなたがたの信仰が目に見えて成長し と言うように、見えるような成長があったので、パウロは感謝しています。見えるような成長、しかしそれは数量的なこととは限りません。

B.愛が増し加わっていることを感謝している
1.では、その感謝している「信仰の成長」とは何でしょうか? ここではテサロニケのクリスチャン達が神への愛はもちろんですが、クリスチャン同士互いの間の愛が増し加わっているという事実です。
2.単なる感情的な愛情では無く、イエス様が弟子達を愛したような愛でしょう。イエス様はユダさえも愛されたのです。ペテロと何ら変わりなく愛された、そのような愛がテサロニケ教会に増し加わっていたようです。

C.迫害に耐えていることを感謝している
1.テサロニケのクリスチャン達は迫害と患難にも耐えられるほど霊的に強くなったようです。4節でパウロは 誇りとしています と言っていますが、これはパウロがこのように立派な信仰を持った教会を自分が造ったのだと誇っているのではありません。また、テサロニケのクリスチャン達を誇っているのでもありません。
2.パウロが誇っているのは、彼らが神様に忠実に歩んで、迫害や患難という大変なことに耐えることができるようになった、その神の恵みに感謝し、神を誇っているのです。つまり福音を誇っているのです。

Ⅲ.パウロのとりなしの祈り
A.私たちの神が、あなたがたをお召しにふさわしい者にしてくださるように
1.続いてパウロはテサロニケ教会のために引き続き祈っていますが、そのとりなしの祈りの中身は、 私たちの神が、あなたがたをお召しにふさわしい者にし てくださるようにということです。
2.召しにふさわしくとは、キリストの弟子として忠実に信仰生活を送ることです。私たちがかってに弟子になったのではなく、神様が私たちを招いてくださった、召してくださったのです。ですから、その神様の思いにふさわしい者としていただくことです。

B.御力によって、善を慕うあらゆる願いと信仰の働きとを全うしてくださいますように
1.次にパウロが祈っているのが 御力によって、善を慕うあらゆる願いと信仰の働きとを全うしてくださいますように です。単に悪を行わないようにというだけでなく、進んで善を行うクリスチャンになることを祈っています。
2.しかし、それは自力でできるものではありません。聖霊の力によってということです。

C.主イエスの御名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主にあって栄光を受けるため
1.やはり何と言っても、人に栄光を求めるのでは無く、神様に栄光があるようにということです。クリスチャンの求めの最大のものは神様に栄光があるようにという願いであり、そのように生きることです。
2.神様に栄光を求めるというのは、クリスチャンがその口で常に神様をたたえ続けていることです。どんなに苦しい状態にあっても、迫害の中にあっても神様をたたえていることなのです。

● Ⅰテサロニケ5:18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。 の御言葉を実践してみましょう。感謝をし続けると感謝の言葉が出てくるようになります。そして、聖霊に満たされ続ける信仰生活を送れば、聖霊による感謝が満ち溢れ続けます。

★ 私たちも感謝の祈りをしたいと思います。それも自分にとって都合の良いことがあったからという感謝だけでなく、信仰の成長、愛の増し加わりを感謝したいと思います。

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執拗に祈ろう

2017-03-12 17:22:41 | 礼拝説教
2017/3/12礼拝説教
【テーマ】  祈り込む
【説教題】 「執拗に祈ろう」
【聖書箇所】 ルカ11:5-13
  11:5 また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君。パンを三つ貸してくれ。
11:6 友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ』と言ったとします。
11:7 すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』
11:8 あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。
11:9 わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
11:10 だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。
11:11 あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。
11:12 卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。
11:13 してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」

○ 「どれくらい熱心に祈っているか?」と、時々考えることがあります。時間もですが、熱心さです。でも何を熱心に祈り求めるかが大事だと思います。今日のテキストはイエス様の例え話から祈りを教えていただきます。

Ⅰ.非常識な例え話
A.神の国の考えで考える
1.一生懸命、執拗に祈り求めることは大事なことだとわかっていても、このイエス様の例え話に「その通りだ」と思える人は少ないと思います。何しろ、いくら友人が来たとは言え、真夜中に「パンを貸してくれ」と頼み、それも頼み続けるというのはいくらなんでも非常識でしょう。
2.イエス様の話で理解に苦しむものが結構あると思います。例え話は本来、難しいことをわかりやすくするために語るものなのに、むしろその例え話を説明しなければわからないものが多いのです。
3.ということは、何かしらイエス様の本当に言いたいことが、私たちの世の常識の範囲で考えても理解できず、神の国の考えで理解できることがあるのではないでしょうか?

B.弟子達に祈りの真髄を教えるために
1.この非常識な例え話は11:1-4にある弟子達が祈りを教えてくださいと頼み、そこでイエス様が「主の祈り」を教えました。それに続いての例え話です。
2.「主の祈り」をただお題目のように唱えることが祈りでは無いということです。イエス様はその「主の祈り」の本質を知ってもらうために、祈り方というか、祈りの根本を教えるためにこんな非常識な例え話をされたと思うのです。
3.私たちもイエス様に関して知識を持っています。しかし、その知識は「祈れば聞いていただける」というような原則なのですが、現実、祈っても聞かれないというようなことを体験するわけです。だからこそイエス様は祈りを教えてくださっているのです。

Ⅱ.友人のために真剣に願う
A.何のためのたとえなのか?
1.この話には二人の友人が登場します。一人は旅をしてきた友人、もう一人はその友人のためにパンを貸してくれる友人です。後者の友人は神様のことを譬えていると考えてみてはいかがでしょうか。
2.旅をしてきて死ぬほどにおなかを空かした友人のために、パンを借りに友人の所に行った彼は、非常識とはわかっているけれど、自分のためではなく、旅をしてきた友人のために必死でパンを求めているわけです。
3.寝ていた友人はこんな夜中に面倒なことをさせないでくれというわけですが、こんなやりとりをしているくらいなら、パンを貸してあげれば良いのにとも思える話です。ですから、単にパンの貸し借りの話のためにイエス様はこの例え話をしたのではないのです。

B.誰のために執拗に祈るのか?
1.頼み込み続ければ人間の友人でも折れてパンを貸してくれるだろうと考えられるわけです。それは愛からの行いではないかも知れません。ただ、うるさいから貸してくれるだけです。人間の友達でも貸してくれるのなら、ましてや神様はどうでしょうか? 神様は愛のお方です。絶対に必要なものをくださるのではないでしょうか。
2.主の祈りを祈るということはその祈りの中身を神様は与えてくださるということです。そして、私たちの側では執拗に祈り求めることではないでしょうか。
3.自分のために祈ることも多々あるでしょうが、この例え話は旅をしてきた疲れ切った、おなかを空かせて死にそうな友人のためにということなのです。私たちの周りにいる霊的に飢え渇いている人々のために祈り求めることを教えているのではないでしょうか。

Ⅲ.聖霊を真剣に求める
A.聖霊を執拗に求める
1.この例え話の最後で、イエス様は、私たちに聖霊をくださるというとても大事な話をされています。良いものとは聖霊。その聖霊を求める者には聖霊を与えてくださるのです。聖霊を執拗に求めることを教えているとも言えます。
2.確かに聖霊を求めるのは自分のためではあるのですが、このたとえで旅人である友人のために必死でパンを求めるように、必死で人のために救いを求めることも教えているのです。救いを求めるというのは同時にその人に聖霊が住まわれることを求めているわけです。

B.神様は絶対に聖霊を与えてくださる
1.聖霊を求めると言いつつも「聖霊」がどの様なお方か知らないで求めていることが多いのでは無いでしょうか? ペンテコステ前の弟子達は「助け主」と教えられていたものの、わかっていませんでした。
2.それがペンテコステの日に「祈っていなさい」というイエス様の言葉に従って祈っていたら、突然知識を超えて聖霊ご自身を体験したのです。
3.イエス様は約束されたので、弟子達に確実に与えてくださいました。そして、十字架の効力が今も続いているように、聖霊は今も与えられます。

★ 人々の救いを執拗に求めようではありませんか。そして、聖霊に満たされることを執拗に求めようではありませんか。
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想像の神? 創造の神!

2017-03-05 18:32:21 | 礼拝説教
2017/3/5礼拝説教
【テーマ】  使徒信条1
【説教題】 「想像の神? 創造の神!」
【聖書箇所】 ヘブル11:3
  11:3 信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。

われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
われはそのひとり子、われらの主イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人の内よりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり。
かしこより来たりて生ける者と死にたる者とをさばきたまわん。
われは聖霊を信ず。
聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだのよみがえり、とこしえの命を信ず。  アーメン

○ ウエルカムサンデーで「使徒信条」を学んでみたいと思います。「使徒信条」は、昔のクリスチャンが短い文章で自分たちの信仰を表現したものです。

Ⅰ.想像された神
A.神を説明することは難しい
1.こんな話があります。ある国の王様が国中の偉い学者を集めて、「神とは何か、わかりやすく話してくれないか」と尋ねたそうです。学者達は「数日間待ってください」と言って、たくさんの本を調べました、調べれば調べるほどわからなくなり、「王様、神とはわからぬものでございます」と答えたそうです。
2.この話は何を意味しているのかというと、学者の頭でいくら考えても、いくら本を調べても神というものはわからないものだ、神というものは説明したり、その存在を証明したりするのがとても難しいということです。

B.日本人が考えた神
1.昔の日本では神をどのように考えていたかというと、昔の家には土間がありましたが、「土間の神」、「便所の神」というようにその家の私的な神があったり、水の神、火の神というような自然を神としたりしました。
2.また、村・部落などその地域を守ると言われる氏神があります。その氏神のためにはそこに住んでいる人みんなで祭をし、寄付をするという風習が今も残っています。
3.それと国家的な神、伊勢神宮には天皇家の一番祖先である天照大神を祭っています。そして、天皇に限らず、国家に尽くした人達も神として祭られます。東郷神社、野木神社のようにです。
4.日本では「カ」というのは上という意味が古くからありました。ですから自分より少し上の人、自分より力のある人、人間より力のある自然、・動物などを神と言ったのです。

C.無神論者を貫けるか
1.しかし、近代になって唯物主義や科学万能主義が生まれ、「神はいない」という考えが主流を占めたのです。その結果、宗教や神は人間が造り出したものとされてしまいました。
2.そういう人達の中で、戦時中、共産主義で唯物論者だった尾崎秀実(ほつみ)という人がいます。彼は、ソ連のスパイとして働いたドイツ人ゾルゲに重要な国家情報を提供していました。あるとき、ゾルゲが逮捕され、尾崎も逮捕されました。 そして1944年11月7日に死刑になりました。その尾崎秀実が獄中から奥さんと手紙のやりとりをし、それが本になっています。その中で、彼は「私は無神論者で宗教を否定したが、死刑を宣告されて死に直面している今になって、若い日に仏教でも、基督教でもよい、信仰をもっていたら、この苦しみが緩和されたろう」というようなことを述べています。平常時に神を否定しても、ギリギリの時になお、神を否定し続けられる人はどれ程いるのでしょうか。

Ⅱ.創造の神
A.サムシング・グレート
1.昔から自然を神とした背景にはその偉大さを知っていたらからです。枯れたような木々が春に芽吹き、凍り付いたような地面からも草花が出てくるのです。
2.科学の時代になれば神の存在を否定しつつも、その自然のすごさはさらに知られるようになりました。見事に秩序だった天体の動き、人体や動植物の見事な造りは何か偉大な力、「考え」の存在を感じさせてきました。ある人はこれをサムシング・グレートとも呼んでいます。
3.つまりこれらのもの全てが勝手にできたということの方が難しくなったのです。つまり、「神」がどのようなお方かわからないものの、この大自然、大宇宙は「神」が造られたというのが最も普通だと言えます。

* 参考資料:木村資生博士は、ダーウィンの進化諭に対して「中立的進化論」を唱えて世界的に名を知られた有名な遺伝学者である。その木村博士は「生き物が生まれる確率は、一億円の宝くじに百万回連続で当たったのと同じくらい凄いことだ」と述ぺている。 私(村上和雄)は二十年以上遺伝子の研究をしているが、万巻の書物に匹適する情報を極微の空間に書き込み、その暗号通り動かしている不思議な働きを直感してきた。この働きは人間業ではなく、大自然の偉大な働きであり、私はサムシング・グレートと呼んできた。(平成16年(2004年)7月4日 日曜日 産経新聞 正論)

B.全能の父なる神
1.聖書は「絶対者」である神を示しています。つまり、他に神と言えるようなものは無いということです。「神」と比較してどちらが偉大か? というような相対的な方では無いということです。
2.さらに聖書は「神」が全能であると言っています。「全能」とはなんでもできる、できないものは何もないということです。ただ暴君のようになんでもできるというのではなく、愛に基づいてなんでもできるお方です。
3.そして、「父なる神」なのです。権威をもった父親のような存在であるということです。しかし、暴力的な権威ではなく、親子として人格的に交わりを持ってくださる方です。私たちに呼びかけ、私たちの声を聞いてくださる方です。

C.信ず
1.神がいるということを信じるというだけでは、そこにある「もの」を「ものがある」と信じるのと大きな差がありません。この信じるとは「信頼する」ということです。
2.神を信じる(信頼する)のは神と親しい関係にあるからです。それは、神が私たちを愛してくださっていることを聖霊によって実感していくことで生まれます。
3.神はすでに私たちに近づいておられます。私たちも神に近づくことです。 黙示録3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。 と、言われているとおりです。私たちの心の扉を開けるなら、親しく共に過ごすことができます。

★ 「全能の父なる神」は、私たち人間をその悲惨と罪の中から救い出すためには、不可能なことも可能にする神であるということを告白しています。心から信じて告白しましょう。
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とにかく祈り始めよう

2017-02-26 16:38:47 | 礼拝説教
2017/2/26礼拝説教
【テーマ】  祈りの習慣を身につける
【説教題】 「とにかく祈り始めよう」
【聖書箇所】 マタイ18:18-20
  18:18 まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。
18:19 まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。
18:20 ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」

○ 祈りを習慣化しようと努力しているすばらしいクリスチャンが多くおられます。しかし、現実に習慣化されるためには多大な努力を要し、上手くいかなくて挫折した体験を持つクリスチャンも多いことでしょう。少しでもそうした挫折から解放されるために、さらに祈りの深みに入っていくために共に聖書から学んでみましょう。そして、できることから始めてみてください。

Ⅰ.祈りの時間をとろう
A.祈りの時間を決める
1.イスラムの人達が祈りの時間になると、聖地に向かって祈りを始めるというのはよく知られています。同じくユダヤ人にも祈りの時間が決められていました。
2.使徒3:1に ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。 とあるように、ユダヤ人は決まった祈りの時間をもっており、エルサレムにいた人達は神殿に祈りに出かけたようです。イエス様も ルカ5:16 しかし、イエスご自身は、よく荒野に退いて祈っておられた。 と祈りの時間があったようです。
3.朝起きてすぐ、食前、等々時間を決めることは素晴らしいことだと思います。忘れにくい時間帯を祈りの時間と決めると祈ることが習慣化されやすいです。

B.祈りを習慣にする
1.昔でしたら、朝食前にディボーションして出勤ということが普通だったのかも知れませんが、近年はライフスタイルの多様化で、そのような習慣化ができにくいようです。それでも電車の中で聖書を読み、祈るという方もおられます。
2.習慣化されるのは確かに良いことも多いのですが、形式的になるという問題もあります。祈りは敬虔なものですから、形式的になるというのは敬虔さを欠くことになります。
3.なかなか祈りを習慣化しにくい世の中ですので、まずは「いつでも祈るぞ」と思うことです。とにかく祈るのです。そこから始まります。

Ⅱ.聖書を読み、祈ろう
A.声に出して祈る
1.祈り始めると、サタンは祈りを妨害するものです。祈っているのに、「今日はあのテレビ番組があったなあ」とか、「携帯をどこに置いたっけ?」等々、雑念が湧いてくることがあります。これに関しては、声に出して祈ることが大きな助けになります。
2.とはいえ、家にいる時、歩いて祈る時、電車の中で祈る時などは声に出せないことが多々あります。集中して祈ることにかなりの努力が必要になってきます。

B.聖書を祈る
1.また、祈りというと願い事ばかりが出てきやすいです。しかも、祈ったと思っても、わずか数分だったりして祈れていない自分にガックリとくることがあります。
2.そこでお勧めは聖書を読みながら祈るということを習慣化するのです。一日に○章を読むと決めるのも良いかも知れません。あるいは好きなだけ読んでも良いかも知れません。とにかく、聖書に書いてあることを祈ったり、「ここが理解できません」と祈ったり、「私は今日●●を実行します」と御言葉の実行を宣言したりすればいかがでしょうか?

Ⅲ.祈りのグループを持とう
A.祈るためのグループ
1.祈りは基本、自分と神様との関係ですが、今日のテキストは、一人の祈りでは無く複数の人と一緒に祈ることのすごさを教えています。そのために「祈りのパートナー」を持つことをお勧めします。それは「夫婦」も良いでしょう。家族でない場合は同性の方とパートナーになってください。
2.二人でなく、もう少し人数が増やせてグループ化するのなら、異性がいても良いかと思います。要は祈りやすいグループを持つことです。ただ、こうしたグループは毎日集まることは難しいですから、日曜日に共に集まって祈るようにすると素晴らしいです。
3.それは今日のテキストにあるように、イエス様がその祈りを祝福することを教えておられるからです。

B.心を一つにするグループ
1.祈りのパートナーとの祈り、グループの祈りの大事な点は 心を一つにして祈る ことです。そのためにも、心を一つにしていくグループを作るのです。祈祷会や定例会もそういうグループとなり得ます。
2. 18:20 ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。 と言ってくださったように、イエス様が臨在されるグループが幸いなのです。人数は多すぎない方がいいでしょう。
3.マナの会もいいですね。礼拝前の祈りを数名で行うのはとても良いと思います。もちろん、礼拝の後に祈るのもいいでしょう。有志の祈り会、リバイバル祈祷会でグループで祈るというのもいいでしょう。

★ とにかく祈り始めてみることです。さらに祈りのパートナー、祈りのグループを作ってみてください。
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希望を奪われるな!

2017-02-19 17:51:04 | 礼拝説教
2017/2/19礼拝説教
【テーマ】  希望を守る聖霊
【説教題】 「希望を奪われるな!」
【聖書箇所】 エレミヤ29:8-11
29:8 まことに、イスラエルの神、万軍の【主】は、こう仰せられる。「あなたがたのうちにいる預言者たちや、占い師たちにごまかされるな。あなたがたが夢を見させている、あなたがたの夢見る者の言うことを聞くな。
29:9 なぜなら、彼らはわたしの名を使って偽りをあなたがたに預言しているのであって、わたしが彼らを遣わしたのではないからだ。──【主】の御告げ──」
  29:10 まことに、【主】はこう仰せられる。「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。
29:11 わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。──【主】の御告げ──それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。

!  宝くじを買う人は「6億円当たるんじゃないかな」という希望を持って買うわけです。でもたいていは夢と消えるのですが・・・皆さん6億円当たったらどうしますか? 考えただけでも楽しいですね。

Ⅰ.希望を奪われるな!
A.神様の言葉で希望をいただく
1.イスラエルの国が奪われ、人々はあちこちに散り散りバラバラにされて捕囚の民となってしまいました。このイスラエル人には夢も希望も無くなってしまったのです。もうイスラエルには戻れないのではないかと、心配したのです。
2.しかし、エレミヤという預言者が、70年でイスラエルに戻れると預言しました。彼らはバビロンの奴隷になって、自分たちの国を奪われ、辛い人生を送ることになりました。しかし、エレミヤによって希望を持つことができたのです。私たちもどんなに辛いことがあったとしても、神様からお言葉をいただくと希望が持てるのです。

B.希望を奪う者がいる
1.ところがその希望を奪おうとしている悪い奴らがいるのです。偽預言者や占い師だそうです。彼らはイスラエルの人々の喜ぶようなことを語りました。人々もそういう人たちの言葉を聞くと信じたくなりました。しかし、いくら嬉しい言葉であっても神様の言葉では無いのです。そうなると問題です。
2.一方、エレミヤはイスラエルの人々にとって喜ばしいことばかり語ったわけではありません。神様からの裁きの言葉など、嬉しくない言葉も語ったのです。そうするとエレミヤのいうことを信じない人々が多く出たわけです。しかし、どちらが正しいのでしょうか?
3.100%果汁のジュースはいいですね。99%果汁と1%果汁のジュースだったらどちらを選びますか? 99%のほうが当然本物がたくさん入っています。1%の方はほんのちょっとしか本物の果物は入っていません。しかし、99%果汁でも残りの1%が毒だったら?? 1%果汁でも残りが砂糖水だったら美味しいですよ。栄養はあまりありませんが。100%ってやはり大事です。神様の言葉100%って大事なのです。

C.誰に希望を持つのか?
1.皆さんは神様の言葉に従いますか? 自分で勝手に解釈したり、占い師の言うことや、雑誌、インターネットの占いを信じますか? 良いこともいっぱい言われているかもしれません。大事なのはそれが神様の言葉と合っているかです。
2.自分の好きな言葉や、都合の良い言葉に従いそうになる誘惑に注意してください。私たちの救いの希望はイエス様だけにあるのです。

Ⅱ.聖霊に満たされよう!
A.私たちを助けてくださる聖霊
1.神の言葉に従うには、私たちの力だけでは無理です。助けてくれるのはイエス様が言われた助け主「聖霊」によるのです。 ヨハネ14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。 
2.この聖霊はイエス様を信じる人の内に住んでくださり、さらにじっとしているお方では無いのです。溢れ出てくるお方です。 ヨハネ7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。 7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」 と。悪魔の力もこれには勝てないのです。

B.イエス様のために働くという希望を持とう
1.大事なことは聖霊に満たされることなのです。そして、満たされ続けることです。聖霊は私たちにイエス様のために働くことを教えます。ある人には「牧師」になるようにと! みんなにそれぞれの働きを神様は考えてくださっています。
2.「牧師になるべきじゃ無い」「教会のことよりもっと自分のことを考えた方がいいんじゃいか」などと悪魔はイエス様のために働くことをやめさせようとします。でも、イエス様のために働くということは実にすばらしいこと、それを希望していただきたいです。

● エレミヤは神様から預言者として働くように命じられたとき、「まだ私は若すぎます」と言って、断ったのです。その時の言葉は、
 エレミヤ、 1:4 次のような【主】のことばが私にあった。
1:5 「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、
  あなたを知り、
  あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、
  あなたを国々への預言者と定めていた。」
1:6 そこで、私は言った。
  「ああ、神、主よ。
  ご覧のとおり、私はまだ若くて、
  どう語っていいかわかりません。」
1:7 すると、【主】は私に仰せられた。
  「まだ若い、と言うな。
  わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、
  わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。
    です。

★ 若い、歳を取っている、病気だ、頭が悪い・・・・それらのものがあなたを献身から引き離しているのですか? イエス様のために働くという希望を持って欲しい。その希望を奪うものがいる。でも奪われないように聖霊が助けてくださるのです。聖霊に満たされて過ごそうではないですか。
 
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