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礼拝説教、聖書を読んで感じた事

時が満ち、神の国が近づいた

2018-02-11 17:57:42 | 礼拝説教
2018/2/11礼拝説教
【テーマ】  イエスの宣教開始
【説教題】 「時が満ち、神の国が近づいた」
【聖書箇所】 マルコ1:14-22
【新改訳2017】
1:14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた。
1:15 「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」
1:16 イエスはガリラヤ湖のほとりを通り、シモンとシモンの兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。
1:17 イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」
1:18 すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。
1:19 また少し先に行き、ゼベダイの子ヤコブと、その兄弟ヨハネをご覧になった。彼らは舟の中で網を繕っていた。
1:20 イエスはすぐに彼らをお呼びになった。すると彼らは、父ゼベダイを雇い人たちとともに舟に残して、イエスの後について行った。
1:21 それから、一行はカペナウムに入った。イエスはさっそく、安息日に会堂に入って教えられた。
1:22 人々はその教えに驚いた。イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである。

○ イエス様の誕生のことはクリスマスで大変有名ですが、その後イエス様が30歳ぐらいで活動を開始されるまでいったい何をなさっていたのか? まったく話がありません。どんな青年時代を過ごされたのでしょうねえ。

Ⅰ.イエスの宣教が始まる
A.時が満ちた
1.ヨハネが捕らえられたという危ない中で、イエス様は宣教を開始されました。その時に言われた言葉が 1:15 「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」 でした。
2.赤ちゃんが生まれる時、「月が満ちて」と言われます。それまでその子の声を聞くこともなかったのに、生まれた途端、泣き声や笑い声が聞こえるのです。また、コップに水を注いでいる時も、しばらくは何ともないのですが、満ちた途端、一気に溢れるのです。そのように今まで何も無かったような状態から一気にイエス様の凄まじい活動が始まったのです。

B.神の国が近づいた
1.どのような時が満ちたのかというと 神の国が近づいた ということです。イエス様の宣教と神の国は一つです。イエス様のおられるところが神の国です。しかも、イエス様はそのご自身に託せられた仕事を果たすべく、活動を開始されたのです。
2. 悔い改めて福音を信じなさい と、間違った方向から正しい方向に向きを変えて、福音の中に生きることを決意しなさいというのです。

Ⅱ.イエスの弟子集めが始まる
A.人間をとる漁師
1.イエス様は宣教のために弟子をお集めになりました。ガリラヤ湖で漁師をしていたシモンとアンデレを呼ばれ、有名な 「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」 と言われました。
2.彼らは魚を捕ることに関してはプロでしたが、福音宣教に関しては全くのド素人です。しかし、イエス様に着いていけば人間をとる漁師にしていただけるのです。私たちもイエス様に着いていけばいいのです。

B.イエスに従った
1.イエス様のこの言葉に 彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った のです。この言葉だけではいとも簡単に二人は弟子になったように読めますが、実際はどうだったのでしょう。
2.網を捨てるというのは仕事を辞めて収入も無くなるということであり、家族を捨ててイエス様に着いていくことになるのです。簡単なはずはありません。催眠術でもかけられて意識の無いまま着いていったのではないのです。彼らは自分の意志で着いていくのです。

Ⅲ.イエスの言葉には権威があった
A.大工からラビに
1.こうして集められた幾人かの弟子達とイエス様はカペナウムに行かれ、会堂で話し始められました。明らかにラビという人ならわかるのですが、少し前まで大工の息子として働いていたイエスが、ガリラヤ湖畔で語り始めてから、弟子ができ、いつしか人々にラビと認められ、会堂で話すまでになっているのです。
2. 1:22 人々はその教えに驚いた。イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである。 と、ありますが、人々がイエス様に着いていくようになったのは、イエス様の持つ権威がパリサイ人やサドカイ人とは違ったのです。

B.人々は神の言葉に惹きつけられる
1.パリサイ人達は確かに立派なことは言ったみたいです。しかし、イエス様は彼らと違って権威があったというのは当然でしょう。イエス様は神であり、語ることすべて神の言葉だからです。
2.人々がイエス様を神とは信じていなくても、神の言葉には惹きつけられるのです。イエス様がただ立派なことを言っただけでは無いのです。権威があったので、惹きつけられたのです。真の権威は単なる上からの圧力ではありません。心にジーンと染み込んできて、従う決心がつくものです。ですから、弟子達も従ったのです。

★ イエス様の宣教は権威に満ちていました。パリサイ人達のような上から目線の圧力的な権威ではなく、愛に満ちた権威でしたから人々は惹きつけられました。私たちもこのイエス様の弟子として聖霊に満たされて福音を伝えたいものです。

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何としても伝えたい福音

2018-02-04 17:34:42 | 礼拝説教
2018/2/4礼拝説教
【テーマ】  イエスという福音
【説教題】 「何としても伝えたい福音」
【聖書箇所】 マルコ1:1-13
【新改訳2017】
1:1 神の子、イエス・キリストの福音のはじめ。
1:2 預言者イザヤの書にこのように書かれている。「見よ。わたしは、わたしの使いをあなたの前に遣わす。彼はあなたの道を備える。
1:3 荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ。』」そのとおりに、
1:4 バプテスマのヨハネが荒野に現れ、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。
1:5 ユダヤ地方の全域とエルサレムの住民はみな、ヨハネのもとにやって来て、自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。
1:6 ヨハネはらくだの毛の衣を着て、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。
1:7 ヨハネはこう宣べ伝えた。「私よりも力のある方が私の後に来られます。私には、かがんでその方の履き物のひもを解く資格もありません。
1:8 私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、この方は聖霊によってバプテスマをお授けになります。」
1:9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレからやって来て、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けられた。
1:10 イエスは、水の中から上がるとすぐに、天が裂けて御霊が鳩のようにご自分に降って来るのをご覧になった。
1:11 すると天から声がした。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」
1:12 それからすぐに、御霊はイエスを荒野に追いやられた。
1:13 イエスは四十日間荒野にいて、サタンの試みを受けられた。イエスは野の獣とともにおられ、御使いたちが仕えていた。

○ イエス様の生涯を書くことによって神の福音を伝えようとした最初の福音書がマルコの福音書です。つまり、マルコは何としても神の福音を伝えたくて書いたのであって、この書は単なるイエス様の伝記でもなく、歴史書でもありません。神の福音という点に着目してご一緒にこの福音書を見ていきましょう。

Ⅰ.マルコの福音書とは
A.マルコとその福音書
1.マルコは「使徒の働き」の中に数回登場し、ヨハネとも呼ばれています。母の名はマリヤで彼らの家はエルサレムの裕福な家でした。クリスチャンとなった彼らは、自分の家を集会のため用いていたので、マルコは早くから福音に触れていました。
2.「慰めの人」で知られるバルナバとマルコはいとこで、パウロの伝道旅行にも同行したことがあります。さらにペテロの通訳者として働いていましたので、ペテロからイエス・キリストの事は直に聞いていた人と言えます。そこで、ペテロの語ったことを書き残す必要に迫られ、AD50年頃にこの福音書が書かれました。

B.ローマ人のために書かれた
1.このマルコの福音書を見ていくに当たって、今日のテキストには大きく三つのことが記されています。第一はヨハネのこと、第二はそのヨハネからイエス様がバプテスマを受けたこと、第三はバプテスマ後、サタンの誘惑を受けられたことです。
2.マルコの福音書の最初はヨハネであって、イエスの系図も誕生も書かれていません。イエス様の教えよりも奇跡などの占める割合が多いのもこの福音書の特徴です。それは力ある人間を好んだローマ人のために、最も力ある方はイエスだと伝えたかったからでしょう。

Ⅱ.バプテスマを受けるイエス
A.バプテスマのヨハネ
1.最初に登場するヨハネは、荒野で生活した修行僧のような感じの人で 1:6 ヨハネはらくだの毛の衣を着て、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。 とあり、彼の言葉には威厳がありました。人々は彼こそメシヤではないかと思い、彼の言葉を聞いて悔い改めてバプテスマを受けました。
2.しかし、ヨハネは常にへりくだってイエスがメシヤであることを伝えようとしています。イスラエルには長い期間、預言者が現れませんでしたが、遂にこのヨハネという預言者が現れたのです。彼は自分の後に来られるイエス様のために道備えをした聖書に忠実な人でした。


B.イエス様の受洗
1.このヨハネからイエス様もバプテスマを受けられます。神の子は罪が無いのですからバプテスマを受けなくてよいのです。しかし、イエス様は全ての人の身代わりになるために来られたので、人のすべき事を受け入れられたのです。
2.ただイエス様のバプテスマが他の誰とも違ったのは イエスは、水の中から上がるとすぐに、天が裂けて御霊が鳩のようにご自分に降って来るのをご覧になった。すると天から声がした。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」 というところです。色々な人がバプテスマを受けていますが、誰一人このようなことはありませんでした。

Ⅲ.サタンの誘惑を受けるイエス
A.サタンに打ち勝ったイエス
1.イエス様はバプテスマの後、すぐ荒野に行き、40日の断食をされ、父なる神からご自分の使命を確認されたのでしょう。イエスの活動が始まっては困るサタンはイエス・キリストを誘惑します。
2.しかし、その誘惑にイエス様は御言葉をもって勝利しました。アダムとエバはサタンの誘惑に対して自分の考えで語り、その罠にはまり込んでしまいました。サタンに打ち勝つのはイエス様だけなのです。

B.今もサタンに打ち勝つイエス
1.この科学の現代にあって、サタンだとか悪霊だとか信じない人が多いです。しかし、この世にはびこる諸悪、死、病、などの原因はサタンであり、そのサタンの誘惑にそそのかされて神の言葉を無にした人間の罪です。
2.いくら科学が進み、医療が進んでも、サタンに人間は打ち勝てません。誰も死を克服できません。それができるのがイエス様で、マルコはそのことを確信したのです。マルコはこの大事な福音を書き記し誰でもわかるようにしてくれたのです。

★ マルコが何としても伝えたいイエスは私たちも伝えたいイエス・キリストです。イエス・キリストはあなたを救う神です。
  あなたもマルコのようにイエス様の言葉や活動を見聞きして、書き残すほどの感動を覚えませんか。
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キリストにつながり続ける

2018-01-28 16:57:51 | 礼拝説教
2018/1/28礼拝説教
【テーマ】  実を結ぶ教会
【説教題】 「キリストにつながり続ける」
【聖書箇所】 ヨハネ15:1-8
 15:1 わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。
15:2 わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。
15:3 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。
15:4 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
15:6 だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。
15:7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。
15:8 あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。

○ もう跡形もなくなってしまった私の実家。幼い頃、祖父が庭に畑を作り、色々な野菜、果物、盆栽を育てていました。私はその庭が大好きでした。5歳の時、祖父が亡くなりましたが、しばらくはその庭で野菜を育てていました。しかし、祖父のようにしっかり手入れできず、段々庭は荒れていきました。聖書に出てくるぶどう畑もしっかり手入れする人で良い実を結んだことと思います。

Ⅰ.ぶどうの木のたとえ
A.本物の木とは?
1.旧約聖書でイスラエルのことがよくぶどう畑やぶどうの木にたとえられています。もともと良い木であったはずのイスラエルが良い実を結ばないで、悪い実を結ぶようになってしまいました。それは悪い木(パリサイ人や律法学者など)につながっていたからです。
2. わたしはまことのぶどうの木 の「わたし」はもちろんイエス・キリストです。「まことの」というのは「本物の」という強い意味合いをもっています。つまり、イエス様は「私こそが本物のぶどうの木なのだ!」と言っておられるのです。

B.本物につながる教会
1.神は実を結ばないイスラエルに代わる新しいイスラエルを作るためにイエス・キリストをこの地上に送られました。キリストを頭とするキリストの体である教会を新しいイスラエルとされました。そして、その教会が実を結ぶためです。
2. わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き という恐さを感じる言葉は、自分たちも取り除かれるかも知れないと心配する弟子達に 15:3 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。 と、それはあり得ないということを教えてくださっている言葉です。

Ⅱ.キリストと私たち
A.離れては実をつけない
1.クリスチャンが時として「自分で」頑張って実を結ぼうとします。しかし、私たちは枝です。 枝だけでは実を結ぶことができません。 とあるように、枝はそれ自体に生命力を持っていないのです。枝だけでは実を結ばせることは無いのです。キリストにつながっていなければ実を結ばないのです。
2.また、 実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。 と、実を結ぶものに対する訓練と祝福も書かれています。神様は教会が実を結ぶこと、私たちが実を結ぶことを期待しておられるということです。多くの実を結ばせるためには大胆な刈り込みをなさることもあります。人間的には痛み、大きな試練ということもあるでしょう。しかし、結果は神の栄光なのです。

B.留まること
1.イエス様は あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら と言われましたが、「留まる」というのは「滞在する」という意味です。イエス様のところに滞在するのですから、イエス様と話をしたり、食事をしたり、親睦を深めるのです。
2.イエス様がザアカイに ルカ19:5「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」 と言われたのは何と感謝な言葉ではないですか。ザアカイがすばらしい決心をしたように、留まるというのはイエス様との対話、交わりの中で私たちが変わることさえも言っているのです。

Ⅲ.実を結ぶ教会
A.御霊の実
1.実を結ぶということから連想する聖書箇所にガラテヤ5:22-23があります。 5:22-23 御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。 これらの実を結ぶために聖霊が私たちに流れていることを示していますし、イエス様に留まるからこそ聖霊が働かれるのです。
2.御霊の実は私たちの栄光のためではなく、神の栄光のためです。実は花のように見て美しいと言わせるよりも味わわせるものです。私たちの実は世の人々が見て、また、私たちと関わることでその味を知って、神を求めるためのものです。

B.神の栄光のため
1. あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。 と、留まっている者は求めて良いのです。 あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。 弟子となることで神は栄光を受けられるのです。
2.私たちはキリストの弟子となり、その実は神の栄光を現すことです。私たちは自由ですから何をしてもよいし、何を求めてもよいのですが、それが神の栄光のためかどうかを判断することも大事でしょう。

● 聖書には 【新改訳2017】エペ 4:26 怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。  という言葉があります。怒ってもよいようです。しかし、それが神の栄光になるならということでしょう。

★ 一人一人が御霊の実を結ぶことが神の目的であるように、教会が神の栄光を現すのはもちろんなのです。
 あなたは神の栄光を現すために選ばれた人です。キリストという本物の木につながり続けてください。
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無学な普通の人が

2018-01-14 17:07:10 | 礼拝説教
2018/1/14礼拝説教
【テーマ】  働き人に変わる
【説教題】 「無学な普通の人が」
【聖書箇所】 使徒4:13-22
 4:13 彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。
4:14 そればかりでなく、いやされた人がふたりといっしょに立っているのを見ては、返すことばもなかった。
4:15 彼らはふたりに議会から退場するように命じ、そして互いに協議した。
4:16 彼らは言った。「あの人たちをどうしよう。あの人たちによって著しいしるしが行われたことは、エルサレムの住民全部に知れ渡っているから、われわれはそれを否定できない。
4:17 しかし、これ以上民の間に広がらないために、今後だれにもこの名によって語ってはならないと、彼らをきびしく戒めよう。」
4:18 そこで彼らを呼んで、いっさいイエスの名によって語ったり教えたりしてはならない、と命じた。
4:19 ペテロとヨハネは彼らに答えて言った。「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。
4:20 私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」
4:21 そこで、彼らはふたりをさらにおどしたうえで、釈放した。それはみなの者が、この出来事のゆえに神をあがめていたので、人々の手前、ふたりを罰するすべがなかったからである。
4:22 この奇蹟によっていやされた男は四十歳余りであった。

○ 昔、ギリシャ・ローマでは雄弁術というのがはやり、人々の心を捕らえるような雄弁家がもてはやされました。イエス様もそういう流れの中におられました。しかし、イエス様は雄弁だったのでしょうか? 弟子達はどうだったのでしょうか? 「無学で普通の人」と紹介されているところを見るとそうでは無かったのかも知れません。

Ⅰ.二人は無学な普通の人だった
A.足のなえた人の癒しを行った
1.ペテロとヨハネは使徒の働き3章で「生まれつき足のなえた人」をイエスの名によって癒しました。もちろん、彼らも自分の力ではなく、イエスの名による力であることを聖霊によって確信しています。
2.ところがイエスのことを嫌う民の指導者達はイエスを十字架刑にしてホッとしていたのに、今度は弟子達がイエスの名によってイエスが行った癒しなどを行うので困ったのです。
3.そこで、彼らを罰しようとしますが、この足のなえた人の癒しの話はすでにエルサレム中に広まっていたので、彼らを罰すると、自分たちが悪く言われるのがおちですから、それもできません。

B.ユダヤの指導者の前でも大胆な二人
1.ペテロとヨハネは指導者達の前に出ても大変大胆でした。彼らの大胆さは指導者達も驚くようなものでした。私たちも彼らのように勇気のある行動をとりたいと思うものです。
2.しかし、 ふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いた とあるように、そんな大胆に語れるような人でないので驚いたのです。大胆にしっかりと話ができるのは指導者達であり、雄弁に語る者が偉いとみなされたような時代です。
3.私たちもとても自分にはできない、自分は語ることができない、と思っている人が多くいらっしゃると思います。しかし、そのような人が大胆に語ることができるようになった人もいらっしゃると思います。

Ⅱ.二人は神に聞き従う人になった
A.神に従う事を覚えた二人
1.指導者達が二人に いっさいイエスの名によって語ったり教えたりしてはならない、と命じた とあります。それに対して二人の答は 「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」 でした。
2.この力強い答をしたのが、少し前にイエス様の十字架の場面では何もできなかった人達です。ペテロに至ってはイエス様を知らないとさえ言った人です。その二人が指導者達にさえそむき、命がけでイエス様を伝えようとするのです。

B.大胆になった理由
1.それはイエス様の救いを本当に知り、黙っておれなくなったからです。しかも、ただ語りたいというだけではなく、イエス以外に救いは無く、当時の苦しんでいる人たちのためにイエス様がお出でくださったことを彼らは知ったからです。
2.そして、彼らがこのように神に聞き従う人になったのは使徒の働き1-2章にあるペンテコステの日の出来事のためです。聖霊を受けたことによって彼らはこの大胆さを得たのです。
3.聖霊はその人が無学であろうと、学があろうと関係ないのです。普通の人か特別な人かも関係ないのです。つまり、普通の人でも、障害を持っていようと、病人であろうと、変えられるのです。

Ⅲ.二人によって神が崇められた
A.すべてを神の栄光のために
1.二人のしたことで人々が神を崇めたというのはすばらしいことです。私たちの生き方はこれが目的です。何をするにしても神が崇められることです。 Ⅰコリント10:31 こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。 とある通りです。
2.彼らは聖霊の力を受けましたが、それによって彼らは自分たちが崇められたり、儲けたりしていません。すべては神の栄光のためです。

B.その力は聖霊による
1.私たちも癒しを祈り、とりなしをし、人々の救いのためにあらゆる事をしたいと思います。でも、「自分には無理」という思いが湧いてこないでしょうか?
2.このように指導者達に迫害されてもイエスのために語り続ける力はどこから来るのでしょうか? それは知識が豊富だからできるものではありません。聖霊に満たされたからです。

★ 神は無学な普通の人をイエス様がなさったような働きをさせてくださいました。ここに聖霊の働きがあります。
 私たちが無学な普通の人であっても聖霊は神の働き人に変えてくださるのです。私はダメだということは無いのです。
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互いに牧会する

2018-01-07 18:20:07 | 礼拝説教
2018/1/7礼拝説教
【テーマ】  成長する教会
【説教題】 「互いに牧会する」
【聖書箇所】 Ⅰテサロニケ5:11
 5:11 ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。

○ 新年最初の礼拝を迎えました。毎年この礼拝では新年度の標語となる聖句を取り上げています。今年はⅠテサロニケ5:11です。

Ⅰ.すばらしいテサロニケ教会
A.模範的な教会の誕生
1.最初にテサロニケ教会がどのような教会であったのか簡単に見てみようと思います。
2.パウロの第2回伝道旅行で、ピリピで教会が誕生した後、テサロニケに向かいます。そこにあるユダヤ人の会堂で3週間にわたり、パウロはイエスがキリストであることを聖書に基づいて説明しました。その結果、いくらかのユダヤ人と多くのギリシア人が信じたようです。
B.迫害を受ける教会
1.ところが、ユダヤ人の陰謀により迫害を受けることになります。そのためにパウロの一行は三週間でテサロニケを離れることになるのです。ところが、そんなに短い期間でしたが、テサロニケの教会は模範的な教会となるのです。
2.しかし、短期間に成長した教会は脆さもあります。当然パウロも心配しました。そこで、コリントからテサロニケ教会宛の手紙を送り、励ますのです。

Ⅱ.励まし合う教会
A.今しているとおり
1. 今しているとおり とパウロが言うのはすばらしいことです。普通は「○○しているのは問題だ。改めなさい」ということが多くありがちなのに、 今しているとおり つまり「今のままで良い」と言っているのです。
2.それが、 互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい です。テサロニケ教会は迫害の中、信仰をもって間の無い人達が互いに励まし合っていました。また、徳を高め合っていたというのです。

B.励まし合う
1.励まし合うというのは何も教会だけでなく、家庭でも、学校でも、職場でも必要なことです。ある研究によると、会社で業績トップのチームでは、互いを認め合う温かい言葉が、論争、批判、皮肉の6倍、業績最下位のチームでは、否定的な言葉が役立つ言葉の3倍近く発せられていたと言います(デイリーブレッド2017/6/20)。
2.イエス様が マタイ18:20 ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。 と言われたのは、互いにイエス様にある愛で愛し合う関係を持ち、励まし合うためです。

Ⅲ.徳を高め合う教会
A.徳を高める
1.徳という言葉に関して、松下幸之助は『松下政経塾 塾長講話録』の中でこんな事を言っています。〈君が「徳が大事である。何とかして徳を高めたい」ということを考えれば、もうそのことが徳の道に入っていると言えます。「徳というものはこういうものだ。こんなふうにやりなさい」「なら、そうします」というようなものとは違う。もっとむずかしい複雑なものです。自分で悟るしかない。その悟る過程としてこういう話をかわすことはいいわけです。「お互い徳を高め合おう。しかし、徳ってどんなもんだろう」「さあ、どんなもんかな」というところから始まっていく。人間として一番尊いものは徳である。だから、徳を高めなくてはいかん、と。技術は教えることができるし、習うこともできる。けれども、徳は教えることも習うこともできない。自分で悟るしかない。〉
2.今日のテキストの「徳を高める」という言葉は「オイコドメオー」という言葉で、「家」と「建てる」という意味の言葉が一つになって「建築する」という意味を持つ言葉となりました。そして「建て上げる」ということから「徳を建てる」「徳を高める」「教育する」「建徳的」と使われるようになりました。
3.つまり、徳をお持ちの方はイエス・キリストですから、私たちは互いにイエス・キリストの体を建て上げるということです。神の義と愛の性質を互いに高め合うのです。

B.互いに牧会する
1.テサロニケの教会が迫害の中で苦しみつつも互いに御言葉で励まし合いました。御言葉そのものが自分の血肉となるように高め合い、祈り合ったのです。
2.つまり彼らは互いに牧会したのです。この互いに牧会すること、「互いに」が大事なのです。これが2018年度の新中野キリスト教会が目指すところです。

★ 私たちはこの教会に導かれた大事な仲間(神の家族)です。お互いに励まし合って、徳を高め合って、神様に喜ばれる教会を建て上げましょう。

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一歩踏み出す信仰

2018-01-02 09:01:37 | 礼拝説教
2018/1/1元旦礼拝説教
【テーマ】  信仰の成長
【説教題】 「一歩踏み出す信仰」
【聖書箇所】 ヨシュア記3:14-17
  3:14 民がヨルダン川を渡るために、天幕を発ったとき、契約の箱をかつぐ祭司たちは民の先頭にいた。
3:15 箱をかつぐ者がヨルダン川まで来て、箱をかつぐ祭司たちの足が水ぎわに浸ったとき、──ヨルダン川は刈り入れの間中、岸いっぱいにあふれるのだが──
3:16 上から流れ下る水はつっ立って、はるかかなたのツァレタンのそばにある町アダムのところで、せきをなして立ち、アラバの海、すなわち塩の海のほうに流れ下る水は完全にせきとめられた。民はエリコに面するところを渡った。
3:17 【主】の契約の箱をかつぐ祭司たちがヨルダン川の真ん中のかわいた地にしっかりと立つうちに、イスラエル全体は、かわいた地を通り、ついに民はすべてヨルダン川を渡り終わった。

○ 昨年最後(昨日)の礼拝では、出エジプトしたイスラエルの民が、神の息によって分けられた海の底を歩いて渡ったことを語りました。今日はそのイスラエルの民が40年の荒野の生活を終え、いよいよ約束の地へと入るヨルダン川のところです。

Ⅰ.紅海とヨルダン川で方法が違う
A.ヨルダン川の時
  今日の御言葉の大事なところは 箱をかつぐ祭司たちの足が水ぎわに浸ったとき です。ヨルダン川が干上がっていくような時期だったら、もしかして簡単に渡れたかもしれないのに、神様は敢えて ──ヨルダン川は刈り入れの間中、岸いっぱいにあふれるのだが── という時期、水がいっぱいの時期を選んでおられます。そして、祭司が足を水に入れた時、水が堰き止められたということです。

B.紅海の時
  出エジプトした時、後ろからエジプトの軍隊が押し寄せてきました。人々はうろたえ、モーセに文句を言い「俺たちをここで殺す気か」というように罵ったのです。この時は、神が東風を吹かせ、紅海を真っ二つに割り、その海の底を歩いて渡る事ができるようにされました。

C.足を水に入れた時
  今回もヨルダン川に神の息を吹きかけ水が堰き止められてから渡るようにすることもできたのですが、神はそうではなく、祭司の足が水に浸った時に水が堰き止められるという方法をとられました。

Ⅱ.神様の訓練がある
A.信仰生活の度合いに応じて
紅海の時はイスラエル人がまだ力も無く、信仰も薄く、逃げることで精一杯だった時です。モーセもまだ神に従う事を始めたばかりでした。そんな時ですから神は一方的な助けをくださったと思います。
私たちも信仰生活が短い間は神の一方的な助けがあるものではないですか。

B.荒野が訓練の場
1.イスラエル人は荒野での40年間の生活の中で恵み深い神であることや、人間は神の言葉に従うべきだという事を教えられてきました。例えば神が水を湧かせたり、マナを必要なだけくださったり、ウズラもくださいました。また、くつも服もすり切れなかったのです。十戒という神の教えもいただきました。
2.こうしたことの後、このヨルダン川を渡る時が来たのです。彼らは神の言葉に従う事の大切さを理解していましたので、神はヨルダン川を枯らせてから渡らせたのでは無く、足を踏み入れると水が堰き止められるという方法をとられました。

Ⅲ.クリスチャンは成長しなければならない
A.神の御業を見るため
1.私達も決して楽ではない2017年を過ごしました。イスラエル人が荒野の40年間を過ごしたように私達もそのようなところを通ってきたと思います。それは私達がヨルダン川に足を浸した時にヨルダン川が堰き止められるという神の御業を見るためです。
2.しかし、神の御業を見るというのは見ることのできない期間もあるということです。その期間を耐え忍ぶのも訓練です。

B.荒野の訓練
1.訓練には色々なものがあります。イスラエル人はエジプトでの長い生活で、神様への礼拝がわからなくなっていました。そして、神様の御心もわからなくなっていました。
2.そこで、神様は荒野にいる間に、12部族を整え、幕屋を作らせて神礼拝を教えました。みこころを教えるために十戒を与え、実際的に神がどのようなお方なのかわからせるために、マナを与えたりなさったのです。しかし、神に従わないものに対しては「死」さえも与え、神様の義と愛を示してこられました。

C.神は私たちの成長を望まれる
1.私たちは成長しなければなりません。子ども達が身体的にも学力的にも成長するのは大人にとって嬉しいように、神様にとっては私たちが成長することが嬉しいのです。
2.成長のためには訓練がつきものです。そして、私たちにはそれを受けて立つという決断が必要です。その上で神様ご自身からの働きかけをいただいて実際的な信仰の成長があります。
3.そこで、信仰によってヨルダン川に私たちは足を踏み入れる決心ができるのです。

★ 神の訓練によって私たちは一歩踏み出す信仰が得られるのです。用意された路線を行くことから、一歩踏み出す信仰へと成長するのです。

◆ 私たちは昨年の私たちではないはずです。あなたの一歩は何でしょうか? 今まで拒んできた奉仕かも知れないし、献身かも知れません。

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新しい地へ、ゴー!

2017-12-31 15:33:03 | 礼拝説教
2017/12/31礼拝説教
【テーマ】  感謝して踏み出す
【説教題】 「新しい地へ、ゴー!」
【聖書箇所】 出エジプト14:13-22
  14:13 それでモーセは民に言った。「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行われる【主】の救いを見なさい。あなたがたは、きょう見るエジプト人をもはや永久に見ることはできない。
14:14 【主】があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」
  14:15 【主】はモーセに仰せられた。「なぜあなたはわたしに向かって叫ぶのか。イスラエル人に前進するように言え。
14:16 あなたは、あなたの杖を上げ、あなたの手を海の上に差し伸ばし、海を分けて、イスラエル人が海の真ん中のかわいた地を進み行くようにせよ。
14:17 見よ。わたしはエジプト人の心をかたくなにする。彼らがそのあとから入って来ると、わたしはパロとその全軍勢、戦車と騎兵を通して、わたしの栄光を現そう。
14:18 パロとその戦車とその騎兵を通して、わたしが栄光を現すとき、エジプトはわたしが【主】であることを知るのだ。」
14:19 ついでイスラエルの陣営の前を進んでいた神の使いは、移って、彼らのあとを進んだ。それで、雲の柱は彼らの前から移って、彼らのうしろに立ち、
14:20 エジプトの陣営とイスラエルの陣営との間に入った。それは真っ暗な雲であったので、夜を迷い込ませ、一晩中、一方が他方に近づくことはなかった。
  14:21 そのとき、モーセが手を海の上に差し伸ばすと、【主】は一晩中強い東風で海を退かせ、海を陸地とされた。それで水は分かれた。
14:22 そこで、イスラエル人は海の真ん中のかわいた地を、進んで行った。水は彼らのために右と左で壁となった。

○ 2017年最後の礼拝となりました。今年一年も神様の守りと恵みの中で過ごせたことを感謝しましょう。一年が過ぎて、この一年を振り返ると、大変だったことが幾つも思い出されます。しかし、同時に感謝だったなあと言えるのではないでしょうか?

Ⅰ.出エジプトしたが・・・
A.頑ななパロ
  モーセがエジプトの王パロに何度もイスラエルの民を解放するように交渉しましたが、パロはイスラエル人の解放を認めませんでした。その間、神様はイスラエルの神がいかに強い神かをエジプトに見せつけるのですが、エジプトの偶像を信じているパロは認めません。

B.遂にパロが折れる
  しかし、10番目の災い・全ての長子が殺されるという災いを受けて初めてパロはイスラエルを解放します。長い間奴隷生活をしてきたイスラエル人はモーセに率いられて出エジプトを果たしました。

C.再度パロが追いかけてくる
  普通の話ならこれでめでたしめでたしなのですが、この後、奴隷のいなくなったエジプトでは労働者がいなくなり、困り果てたパロはイスラエル人を解放してしまったことを後悔し、もう一度連れ戻すために軍隊を出しました。

Ⅱ.恐れてはいけない
A.イスラエル人には何もできないが・・・
  喜んで荒野を進むイスラエル人の後ろにパロの軍勢が迫ってきました。喜びに浸っていたイスラエル人は神の守りが即座には信じられなくて、恐れが襲ってきました。
  そこで、モーセは 14:13 恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行われる【主】の救いを見なさい。 と言うのです。

B.海が割れる
  そして、何が起こったかはあの有名な紅海が真っ二つに分かれて、イスラエル人はその乾いた海底を歩いて向こう岸へ渡り着く話です。

C.神の不思議な計画
  イスラエル人が目の前に海、後ろからパロの軍隊という状況に遭遇した時、彼らはどんな気持ちだったでしょうか? 「もうダメだ!」ではないでしょうか? 今年、そんな風に思った方がおられますでしょうか。
  しかし、神の計画と言うのはそこまでではないということです。不思議を見ようではありませんか。

Ⅲ.天国までには・・・
A.出エジプトの後も試練はある
  不思議を通り越えた時、またイスラエル人は荒野の苦難の生活を強いられます。その先に約束の地が待っているのですが、だれもその地を知らないのです。長い奴隷生活の間にエジプト体験者は死に絶え、ただ約束の地があることが語り伝えられていただけです。でも、その地は間違いなくあるのです。

B.苦難は免れないが・・・
  私たちはこの12月31日に2017年の終わりを体験しますが、明日が来るのです。紅海が真っ二つに分かれたその向こうの地があるということです。この地上の旅である限り、苦難は免れません。しかし、神が道を開かれる以上は神の計画を見ることもできるのです。

C.神に感謝の言葉を!
  神の計画は私たちの計画にはるかに優ることくらい誰もが知っています。モーセが神の言葉に従ったとき不思議が続きました。人々は何もできなかったけれど、神の守りを体験しました。神の言葉に従う事こそが新しい地で生きる力です。

★ 全てにおいて神の恵みが満ちている。「感謝せよ」と言われる以上、私たちは感謝をしようではありませんか。感謝をもって終わる2017年。それは新しい神様の計画に入る力なのです。
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救い主がお生まれになった!

2017-12-24 14:25:25 | 礼拝説教
2017/12/24クリスマス礼拝説教
【テーマ】  救い主イエス
【説教題】 「救い主がお生まれになった!」
【聖書箇所】 ルカ2:8-12
  2:8 さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。
2:9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。
2:10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
2:11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
2:12 あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」

○ 明日がクリスマス。今年も遂にここまで来ました。私たちは毎年イエス様のお誕生をお祝いし、イエス様による救いのすばらしさを再確認し、喜び、感謝するのです。しかし、2000年前のユダヤ人は、いつ来られるかわからないメシヤを待ち望んでいました。

Ⅰ.遂に生まれたイエス
A.プレゼントが楽しみ
1.現代の子ども達は大変優遇されています。一年のうちにプレゼントというのは何回もらうのでしょうか? あるいはプレゼントといちいち言わなくても、おじいちゃん、おばあちゃんからもしょっちゅうもらっている子どももいます。
2.私が子どもの頃は誕生日とクリスマスくらいしかプレゼントはもらえませんでした。後はお正月のお年玉です。だからとてもそれが嬉しかったのです。
3.2000年前のユダヤ人、特にここに登場する羊飼いはプレゼントをもらったことがあったでしょうか? 

B.待ち望んでいた日
1.私はリニア中央新幹線の完成を待ち望んでいます。東京・大阪間を約1時間で走行するというすごいスピードの新幹線に乗りたいのです。2027年開業(東京-名古屋)と言っています。後、約10年です。私は乗ることができるでしょうか? 
2.2027年ということがわかっていると現実味がありますが、ユダヤ人はいつなのかわからないまま長い年月待ち望んでいました。そして、遂にイエス・キリストの誕生が預言者によってではなく、もっと確実な天使から告げられました。ただ、それが羊飼いになのです。

Ⅱ.羊飼いのために生まれたイエス
A.なぜ羊飼いに
1.なぜ、天使は羊飼いのところに来てイエスの誕生を伝えたのでしょうか? 彼らは貧しい人の代表とも言えます。また、知識・学のない人の代表とも言えます。この羊飼いのところに天使が登場しました。この羊飼いが話すことを人々は信じたのでしょうか?
2.人々に信じさせるためにはもっと有名な人、学のある人、権威のある人に天使が現れて話せばよいと思いますし、もっと多くの人々に現れた方が効果的だと思うのです。

B.現実が変わらなくても喜びに溢れた
1.羊飼い達は人生のほとんどを羊と共に過ごし、野原を歩き回っています。しかし、ユダヤ人である彼らは預言者たちが語ったメシヤの到来を信じて待ち望んでいたのです。その日がまさか自分たちの時代に起こるとは! と、羊飼い達も喜びました。
2.彼らは癒されたわけでもない、金持ちになったわけでもない、持ち家が与えられたわけでもないのに喜んだのです。イエス様の誕生そのものが嬉しいのです。待ち望んだ彼らのためにイエスは生まれたのです。

Ⅲ.あなたのために生まれたイエス
A.待ち望んでいなかった私のためにも
1.羊飼いのために生まれたイエスはあなたのためにも生まれた神です。あなたはイエス・キリストを待ち望んだでしょうか? 子どもの時の私はクリスマスプレゼントを待ち望みました。イエス・キリストを待ち望んではいませんでした。でも、こんな私のためにイエス様は生まれたというのです。
2.私は知識もなく、イエス・キリストがわかっていないのに、私のために生まれてくださったのです。飼葉おけに寝かされたというのは、まさに私のような者でもイエス様に会うことができるという証拠なのです。

B.私の気づかないところで
1.私がどんなに無知で、どんなに鈍感であっても、神様は私の一番必要としていることをご存知でした。そうです。罪からの解放です。私は心のどこかでその罪からの解放を願っていたはずなのですが、意識はなかったのですが。
2.神様は私の心の中の中までご存知でした。いくら私が「神なんかいない」と叫んでいても、私の心は神無しに生きていけないことをご存知なのです。ですから、私がわかっていないときにすでに私のために生まれてくださり、十字架による罪の赦しも実行してくださったのです。

★ クリスマスは羊飼いのためにイエス・キリストがお生まれになった日です。そして、全世界の人のためにも! あなたのためにも! イエス様のお誕生を心からお祝いしましょう。
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神が人となった

2017-12-10 18:40:57 | 礼拝説教
2017/12/10礼拝説教
【テーマ】  イエスは神である
【説教題】 「神が人となった」
【聖書箇所】 マタイ1:18-25
  1:18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。
1:19 夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。
1:20 彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。
1:21 マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」
1:22 このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。
1:23 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)
1:24 ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、
1:25 そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。

○ 新約聖書の最初にあるのがマタイの福音書です。初めて聖書を読む人は、新約聖書を開くと最初からずらずらとカタカナで人名が続くので、面白くなくて読むのを止めてしまうと言います。しかし、これはユダヤ人には大事なことだったのです。ユダヤ人はメシヤがダビデの子として誕生するという預言を知っています。マタイは系図によって、イエス・キリストがアブラハムから初め、ダビデの子孫であることを示しました。では、マタイにこの福音書を書く意欲を湧かせたのは何でしょうか? 

Ⅰ.マタイを変えたイエス・キリスト
A.取税人を辞めたマタイ
1.マタイはレビとも呼ばれ、取税人をしていましたが、イエス様が収税所を通られた時に、「着いてきなさい」と言われて弟子になった人です。取税人と言えば、有名なのがザアカイです。取税人はユダヤ人に好かれてはいませんでした。
2.マタイはこの時代の中で流され、同胞ユダヤ人に嫌われる仕事、取税人をしなければなりませんでした。しかし、マタイはイエス様に出会って人生観、世界観が変わりました。変わるというのは、マタイが本当のマタイとして生き生きと生きることができるということです。
3.マタイはイエス様と出会うことでその取税人の仕事を捨てました。いわゆるフルタイムの献身というものです。なんとしてもイエス様を人々に伝えたいという熱意が湧いたからです。マタイは希望を持ちました。彼は希望を持ったことで、希望を失った人々に希望を与える人に変わったのです。

B.イエスを伝えるマタイ
1.そんなマタイも最初からイエス様を神様とは信じていなかったと思います。その彼が「イエス様は神様だ」と信じるようになったはどの時点からでしょうか? 弟子達はイエス様の十字架の時に逃げた人達ですから、イエス様の復活を見、ペンテコステの日に聖霊を受けてしっかりと信じることができたのでしょう。
2.マタイはイエス様が神様であることがとても大事なことだと信じました。人が神だと信じないユダヤ人に対して、マタイは人となった神イエスを何としても伝えたかったのです。

Ⅱ.ヨセフを変えたイエス・キリスト
A.ヨセフを変えたイエス・キリスト
1.マタイはマリヤのことよりもヨセフに注目して書いています。それはマリヤには自分の胎に宿る子どもが聖霊によるということを実感しましたが、ヨセフにはそれがありません。ここに体験的信仰と見ずに信じる信仰が対比されているのではないでしょうか?
2.マタイがヨセフのことを書いたのは、彼がイエスを神の子と証しているからです。ヨセフの証言、生き方がまさにイエスが神の子であることを証明しているのです。

B.ヨセフの生き方
1.ヨセフは正しい人と書かれているということは律法を守って生きる人だったということです。そういう人は誰の子かわからない子どもを身ごもったマリヤを妻にする事はできませんでした。裁判になればマリヤは石打で殺されたかも知れません。優しいヨセフはそれを避けるため内密に去らせようとも考えたのです。つまり、ヨセフもマリヤのお腹の中の子どもが誰の子か、悩んだということです。
2.ところが、ヨセフが苦しんでいる時、夢に天使が現れて真実を知りました。すると、マリヤを去らせようとしたヨセフは一気にマリヤと結婚し、マリヤを守ることに徹するのです。イエスがヨセフを変えたのです。

Ⅲ.あなたを変えるイエス・キリスト
A.ユダヤ人の救いのため
1.ユダヤ人はメシヤの誕生を待ち望んでいました。その待ち望んでいたメシヤというのはダビデのような王様でした。人々の思い込んでいたメシヤは「人間」です。しかし、マタイはイエス様が人として生まれた神様であることを知ったのです。
2.しかも、ユダヤ人に宛ててこの福音書を書いたのは、ユダヤ人が待ち望んだメシヤは、彼らが異端者と思い込んで殺したイエスだからです。その罪を悔い改めてイエスを信じるならユダヤ人は救われるからです。

B.あなたの救いのため
1.マタイは意識していなかったかも知れませんが、この福音書はユダヤ人だけでなく、全世界の全ての人に必要なものとなりました。イエスは人となられた神の子であり、その使命は全ての人(あなた)の救いのために罪の罰を身代わりに受けることでした。
2.マタイは十字架と復活まで書き記しその救いの必要性と確かさを示しました。それはマタイが救われたからです。そして、あなたも救われて欲しいからです。

● 私もマタイのように何としても、皆さんや人々が救われることを願っています。救われて間の無い頃、自分の救いの証などを書いて友達に送りました。また、キリストのことを謄写版で印刷して配布しました。だいぶ経ってからその一枚を読んで教会に来てくださった方があったのには感謝でした。

★ イエス・キリストは私たちの救い主です。そして人となられた神です。クリスマスはこのイエス・キリストが人となって来られたことを記念し祝う日です。

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安心して行きなさい

2017-11-26 17:42:12 | 礼拝説教
2017/11/26礼拝説教
【テーマ】  信仰による癒し
【説教題】 「安心して行きなさい」
【聖書箇所】 ルカ8:43-48
  8:43 ときに、十二年の間長血をわずらった女がいた。だれにも直してもらえなかったこの女は、
8:44 イエスのうしろに近寄って、イエスの着物のふさにさわった。すると、たちどころに出血が止まった。
8:45 イエスは、「わたしにさわったのは、だれですか」と言われた。みな自分ではないと言ったので、ペテロは、「先生。この大ぜいの人が、ひしめき合って押しているのです」と言った。
8:46 しかし、イエスは、「だれかが、わたしにさわったのです。わたしから力が出て行くのを感じたのだから」と言われた。
8:47 女は、隠しきれないと知って、震えながら進み出て、御前にひれ伏し、すべての民の前で、イエスにさわったわけと、たちどころにいやされた次第とを話した。
8:48 そこで、イエスは彼女に言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい。」

○ 病気は嫌なものです。癒されたいと願うものです。ところが、私は「病気になって感謝です」と言う数名のクリスチャンの方と出会いました。もちろん、病気になっても癒された方が感謝というならわかります。しかし、治ってもいないのに「感謝」と言われるのには驚いたのです。同時にそこにその方の信仰を感じました。今日は癒されたくてたまらない女性の話です。

Ⅰ.苦しみの日々を過ごす人
A.12年
1.前に38年間も病気で、ベテスダの池のそばで水面が動いたときにそこに入って癒されたいと願っている人の話をしました。今度はそれよりは26年も短い期間12年間患っている女の人の話です。
2.短いと言っても12年間、赤ちゃんが中学生になるまでの期間です。それはかなり大変なことだったと思います。しかも、宗教的にも「汚れ」ているとみなされるのですから。12年間もそういう状態にあったということは大変辛いことです。

B.治らない
1.彼女は治療費に相当のお金を使ったと思われます。しかし、治ることなく、辛い日々だけが過ぎていったのです。マルコの福音書には マルコ5:26 この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。 とあり、医者にひどいめにあわされて、持ち物すべて失ったようです。
2.ひどい目にあわせられなくても、お医者さんも頑張ってくださっても治らない病気はたくさんあります。治らないというのは精神的に大変苦しいもので、内容によっては生き地獄を味わうような感じです。

Ⅱ.神の力が及ぶ瞬間
A.触る
1.そのような誰にも治せない彼女の病がイエス様によって瞬間的に癒されるたです。その方法は他のイエス様の癒しとまた違ったものです。イエス様から近づいてきてくださったのでもなく、イエス様が触ったのでもなく、イエス様が「治れ」と言われたわけでもないのです。
2.彼女が イエスのうしろに近寄って、イエスの着物のふさにさわった のです。 すると、たちどころに出血が止まった のであって、彼女にも癒されたことがわかったのです。彼女の方から触ったのです。
3.しかし、イエス様の周りには人々がひしめき合っていて、誰が触ったかわからないという状態、多くの人がイエス様に触れていたかも知れません。しかし、イエス様から力が流れたのは彼女だけです。

B.信仰
1.ここのところで、イエス様の言葉は 「だれかが、わたしにさわったのです。わたしから力が出て行くのを感じたのだから」「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい。」 なのです。イエス様ご自身が自分から力が出て行くのを感じるような触れ方をした人がいてて、それがこの女性であり、イエス様はその行為を「信仰」と呼ぶのです。
2.このところもマルコの福音書には マルコ5:28 「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と考えていたからである。 と書いてあります。彼女はイエス様が触れてくださらなくても、言葉をくださらなくても癒されると考えたのです。 考えていた で、「信じていた」とは書かれていません。が、この考えをもたらしたのが神様の働きによる信仰だと思うのです。

Ⅲ.見捨てられた感を持つ人
A.立ち止まるイエス様
1.今日のこの話は、ヤイロの娘の癒しの話の間に挟まれています。イエス様がヤイロの家に向かう途中で、この 十二年の間長血をわずらった女 がイエス様の衣の裾に触れたため、イエス様がそこで立ち止まり、ヤイロの家に行くのが遅れました。その間にヤイロの娘は死んでしまいました。しかし、イエス様はその娘も生き返らせます。
2.私たちもヤイロの立場だったら、一緒に足早に来てくださるイエス様に対して嬉しくなったでしょう。ところが、次の瞬間、立ち止まってしまわれるのです。やきもきする場面です。ただでさえ、群衆で進みにくいのに、イエス様のほうで立ち止まってしまうのですから、ヤイロの心はどんなだったでしょう。

B.私たちの信仰のため
1.そして、娘が死んでしまったと報告を受けると「なぜ、こんな所でイエス様は立ち止まるんだ!」「この女のせいだ!」などと一気にイエス様にも人にも腹が立ったり、絶望感を持ったり、自分だけが神に愛されていないような感覚に襲われたりするものです。
2.しかし、ヤイロにとって、この長血の女の癒しを目撃することが大事だったのです。ヤイロの信仰のためにです。イエス様は無目的に立ち止まりません。ヤイロにも彼の娘にも後々教会ができて全世界に拡がっていくために、真の信仰者になって欲しいのです。
3.私たちも「私だけがどうしてこんなだろう?」「神は私を見捨てた」などと悲劇のヒーロー、ヒロインになってしますことがあります。しかし、イエス様がどこかで立ち止まっておられ、そこで、とても大事なことをしておられることを覚えたいのです。それは私たちの信仰のためにです。

● 聖書には神様の立ち止まっておられる話がたくさんあります。アブラハムになかなか子どもが与えられない、出エジプトの荒野の40年間、バビロン捕囚、ヨブのひどい皮膚病での苦しみ等々です。私たちにもそれに近い話があるのでは無いでしょうか?

★ イエス様が苦しんでいる人を見捨てるはずがありません。必ず救われるのです。そのためにイエス様がその人に「あなたの信仰が・・・」と言えるように、私たちに信仰を植え付けたいのです。そして 安心して行きなさい と優しく言ってくださるのです。

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