バイブルサロン

礼拝説教、聖書を読んで感じた事

心を合わせ、祈りに専念する

2017-05-28 18:33:31 | 礼拝説教
2017/5/28礼拝説教
【テーマ】  祈り込む
【説教題】 「心を合わせ、祈りに専念する」
【聖書箇所】 使徒1:12-14
  1:12 そこで、彼らはオリーブという山からエルサレムに帰った。この山はエルサレムの近くにあって、安息日の道のりほどの距離であった。
1:13 彼らは町に入ると、泊まっている屋上の間に上がった。この人々は、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。
1:14 この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。

○ 新中野キリスト教会は祈祷会を大事にしています。木曜日の祈祷会では、仕事や家のことで出席できない方が多いので、月一の日曜日のリバイバル祈祷会、有志祈り会をもっていますが、その他にも自主的な祈りのグループが次々にできていることを感謝しています。皆さん、心を合わせて、祈りに専念してくださっています。

Ⅰ.屋上の間の祈り
A.危険なエルサレムだが
1.イエス様に言われたとおり、弟子達はオリーブ山からエルサレムに戻りました。そして、ここに留まって祈って待つことにしました。もともとガリラヤの人達でしたから、エルサレムではイエス様の弟子になった人達のところに泊まっていたのでしょう。
2.そこには「屋上の間」というのがあったので、わりと裕福な人の家だったかも知れません。命を狙われる危険なエルサレムではありましたが、色々なタイプの人がたくさんイエス様の弟子になっていたのです。

B.安心できる家
1.高槻で私が信仰を回復しようとして再び通い出した教会が高槻キリスト教会でした。そこは私もよく知っている古い「にこいち(二軒長屋)」の借家でした。この小さな家の持ち主はS教会の信徒さんだったのです。その方が安い家賃で貸してくださったので、伝道所ができました。そこに私も導かれたのです。
2.このようにエルサレムにいた信徒が家を貸してくれたので、弟子達は安心して祈ることができたのでしょう。キリストのために家を貸してくださる方があることで宣教の業が広まったといってもよいかと思います。

Ⅱ.心を合わせる祈り
A.試練によって心をひとつにした
1.エルサレム入城の時には誰が大臣になるかというようなことを思い、自分のことばかり考えているような弟子達でした。そんな彼らがこの場面では心を合わせることができるようになっているのです。
2.イエス様の十字架は弟子達にとっても大きな試みでしたが、このことでバラバラな気持ちが一つになっていくのです。試練は辛いですが、神の前に立つにふさわしく変えられていく大事な時でもあります。
3.教会も試練が押し寄せると普段の祈りよりも心を合わせるのではないでしょうか。

B.何を祈ったのだろう?
1.イエス様のおられない中で、彼ら11人は12使徒にするためにくじ引きをしてマッテヤを使徒に決めました。つまり、この屋上の間には他にも弟子達がいたということです。この使徒を決めることに関しても彼らは心を合わせることができたのです。
2.12使徒と他の弟子達、イエスの母マリヤを含む女性達が共に祈りをしました。どのような内容のことを祈ったのか知りたいところです。何しろ10日間あります。「主よ、来てください」だけの祈りではないはずです。「ユダの後、誰を使徒にしましょうか?」「マッテヤに決めました」「マッテヤを祝福してください」と、どんどん続いたことでしょう。
3.祈りの言葉の内容はわかりませんが、彼らの祈りの素晴らしさは心を合わせたことです。心を合わせる祈りはとても重要で大きな力を持っています。祈祷会が大事なのはこういうことです。

Ⅲ.専念する祈り
A.祈ることが中心の10日間
1.10日間、彼らは 祈りに専念していた のです。祈りに専念するとはどのような状態でしょうか? この間にマッテヤを選んだりしているということは、祈りだけでは無かったでしょう。話し合いをし、イエス様の言葉をみんなで思い起こし、語り合ったことと思います。つまり、分かち合いのようなこともしたと思います。
2.しかし、やはり何といっても祈ることが中心です。天に帰られたとは言え、彼らにはイエス様はいなくなった方ではないのです。見えなくても共におられることを実感して、このイエス様のお名前を通して父なる神に祈ったのです。

B.神を思う10日間
1.祈りに専念するとは神との時間をたくさん持ったということです。それは、神様を思い、神様を賛美し、御言葉からみこころを追い求め、感謝をささげ、願いを言い表していたのです。こうしたことに集中したのです。
2.なぜ10日間が必要だったのかわかりません。神様にはそういう時間は関係ないのですから。弟子達の側にイエス様が見えなくてもおられるという現実の中で10日間を過ごす必要があったと思うのです。彼らにこそ祈りに専念する10日間が必要だったのでしょう。

★ 心を合わせるには少しの努力が必要です。祈りに専念するにも少しの努力が必要です。しかし、イエス様が祈れと言われるから私たちは祈るのです。すると・・・
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人にはわからない神の計画

2017-05-21 18:57:48 | 礼拝説教
2017/5/21礼拝説教
【テーマ】  ペンテコステの恵み
【説教題】 「人にはわからない神の計画」
【聖書箇所】 使徒1:3-13
 1:3 イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現れて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。
1:4 彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。
1:5 ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」
  1:6 そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」
1:7 イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。
1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
1:9 こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。
1:10 イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。
1:11 そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」
  1:12 そこで、彼らはオリーブという山からエルサレムに帰った。この山はエルサレムの近くにあって、安息日の道のりほどの距離であった。
1:13 彼らは町に入ると、泊まっている屋上の間に上がった。この人々は、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。

○ 再来週はペンテコステの日です。誰がこのペンテコステの祭の日に歴史を変える出来事が起きることを予想したでしょうか? 神様のご計画というのはその時にはなかなか人にはわからないものです。

Ⅰ.何故エルサレムなのか?
A.エルサレムを離れないで
1.復活されたイエス様が弟子達にガリラヤに行くように言われ、そこで再会なさいました。40日間そうして弟子達にご自身を現し、語ってこられましたが、今度は エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。 と、言われました。
2.弟子達の慣れ親しんだガリラヤでもよかったのではないでしょうか。何しろエルサレムは弟子達にとって危ない場所です。イエス様の十字架からまだそんなに時間も経っていなくて、弟子達の命も危なかった時ですから。しかし、イエス様は エルサレムを離れないで と、言われました。

B.エルサレムで起こること
1.身の危険があっても、弟子達はイエス様から言われたお言葉通りエルサレムに留まりました。イエス様のお言葉通りにしたところ、使徒2章の出来事が起こり、聖霊のバプテスマを受けるのです。イエス様の言葉に従うというのはすばらしいです。
2.イエス様は 1:5 ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」 と言われました。この「聖霊の」の「の」はギリシャ語では「エン」、英語の「in(の中に、で)」です。「聖霊の中に(で)バプテスマを受ける」と訳すことができます。聖霊にどっぷり浸される経験をするのです。

Ⅱ.何故ペンテコステの日なのか?
A.ペンテコステの日とは
1.エルサレムは過越の祭に続いて、ペンテコステの祭へと向かっていましたので、ユダヤ人が大勢いました。ペンテコステ(五旬節)は50日目の祭日の意で、大麦の初穂をささげる日から数えて50日目に行われる祭りです。大麦の収穫が終わり、いよいよ小麦の収穫となる、「刈り入れの祭」「初穂の日」とも呼ばれています。
2.この日はいかなる労働もしてはならず、聖なる会合が開かれ、男子は主の前に出ることが義務づけられました。この日は喜びの日であり、穀物収穫の恵みに対する感謝の日でした。

B.ここから始まる世界宣教
1.神様がこのようにユダヤ人にとって大事な日を選ばれたということはすばらしいことで、穀物の収穫よりもっと大事な魂の収穫の喜びが始まったのです。
2.イエス様が昇天されて、弟子達が天を見上げていましたが、天使がイエス様の再臨のことを告げます。旧約聖書のメシヤ預言は実現し、いよいよ世の終わり・新天新地へと向かう幕開けとなりました。それが、ペンテコステから始まるのです。

Ⅲ.何故彼らなのか?
A.彼らのような人が
1.イエス様が彼らを弟子として選ばれたことには何かしら不思議な感じがあります。イエス様が活動を開始された時には立派なバプテスマのヨハネがいました。でも、彼を弟子にはしませんでした。他にも立派な人はいたと思います。
2.イエス様が弟子にしたのは宗教的に立派な人達でもなく、知識があるわけでもなく、人から好感を持たれていたというわけでもないようなのです。Ⅰテモテ3章の 監督はこういう人でなければなりません。すなわち、非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、品位があり、よくもてなし、教える能力があり、・・・ また、教会外の人々にも評判の良い人でなければいけません。 と、監督や執事について書いてあるところを読んでも、彼らの姿と合わないのです。

B.人にはわからない神の選び
1.神様のご計画がどのようなものなのかわかりませんが、 1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。 と言われたイエス様の言葉にある「聖霊」が彼らを変えたのです。
2.イエス様はもちろん知識人でも、政治家でも弟子にすることはできたでしょう。しかし、イエス様が選ばれたのは違いました。後にパウロのような知識人が弟子になっていることも考えるとイエス様の選びは人にはわからないということです。

● 私はクリスチャンになって間もない頃水野源三さんのことを知りました。彼が瞬きで示す文字を書き記して多くの詩が書かれました。私はその詩を読んで感動しました。同時に身体がまったく自由がきかない彼が多くの人の救いのために用いられたことに感動したのです。人にはわからない召しです。

★ 神である聖霊が人の内側にお住まいになること自体が人には理解できないことです。その神があの弟子達を選ばれたように、私たちも救われ、神様のために用いて頂けるという神様の計画はとても人にはわからないことです。が、そこに神様の大きな恵みがあります。
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もう一人の助け主

2017-05-14 19:33:59 | 礼拝説教
2017/5/14礼拝説教
【テーマ】  約束の聖霊
【説教題】 「もう一人の助け主」
【聖書箇所】 ヨハネ14:12-17
  14:12 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。
14:13 またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。
14:14 あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。
14:15 もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。
14:16 わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。
14:17 その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。

○ 今年のペンテコステの日は6月4日。あと1ヶ月を切りました。イエス様が約束された聖霊はどのような方でしょうか? 弟子達はペンテコステの日までそのお方を理解できませんでしたが、イエス様は聖霊をすばらしいお方として紹介しておられます。

Ⅰ.私たちの内に住まれる「聖霊」
A.イエス様の昇天後に来られる
1.復活されたイエス様が弟子達に約束されたのが「聖霊」でした。「聖霊を受けよ」と言われたイエス様ですが、十字架にかかられる前にイエス様は「聖霊」のことを語っておられました。その一つの箇所が今日のテキストです
2.イエス様は十字架 → 復活の後、「昇天」されました。イエス様はその復活のお姿で天に帰られましたが、その前に弟子達に大事なことを伝えなければなりませんでした。それが「聖霊」のことです。

B.私たちの内に住まれる
1.弟子達はユダヤ人ですから、神様は霊であり、目には見えないことはわかっていましたし、神様は聖い霊であることも知っていました。しかし、三位一体の神の一位格としては理解していませんでした。
2.イエス様が伝えた「聖霊」はイエス様を信じる人の中にお住まいになるという神様です。これは弟子達にはにわかには信じられなかったことでしょう。
3.旧約時代も聖霊はおられましたし、人々に働かれていましたが、内に住むというお方としてではありませんでした。それはイエス様の十字架の贖いによって人々の罪が赦されていないからです。罪・汚れの無いところに聖霊はお住まいになるからです。

Ⅱ.もう一人の助け主「聖霊」
A.もう一人
1.イエス様は 父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります と言われました。人々にとって「助け主」「救い主」はイエス様でしたが、このイエス様が天に帰られるので、イエス様は もうひとりの助け主 のお出でになることを約束されました。
2.イエス様が十字架で死なれたので、イエス様の働きが終わってしまったのではありません。イエス様は復活され、昇天され、天でその役割を果たしておられます。言うなれば、地上生活では時空間に制限されて一時に全ての人のところにいることができなかったイエス様に代わり、聖霊が全ての人とずっと共にいてくださるようになったのです。

B.助け主
1.では、どのような助け主でしょうか? イエス様が私たちの救い主として十字架にかかられたことは明白ですが、私たちはただ罪から救っていただくだけの存在では無いのです。神様には私たちを造った目的があり、本来の人間としての生き方をして欲しいわけです。
2.人は神を賛美するものとして造られています。神と共に幸せに生活するように造られています。そのための「助け主」です。ですから、イエス様の名によって大事なことを求めるなら、聖霊は助けてくださって、その祈りを引き上げてくださるのです。また、大事なことを祈らせてくださるのです。

Ⅲ.真理の御霊なる「聖霊」
A.真理を知らなくてはならない
1.私たちは「真理」を知らずに生きていくと、その生き方は危ないものになります。「真理」は大事です。しかし、この世はサタンの支配があることを忘れてはなりません。聖霊が 真理の御霊 であるということは、真理で無い霊、悪しき霊、サタンは上手くその「真理」から私たちをそらそうとします。
2.一般的に信じにくい、処女降誕、復活といったことをはじめ、イエス様のなさった奇跡の業、救いということに関しても間違った教えを受けることは恐ろしいことです。聖霊はイエス様を正しく示してくださるお方、「助け主」です。

B.真理は広められなくてはならない
1.イエス様が言われた 14:12 わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。 というのはイエス様が限られた地域で活動なさったのと違い、聖霊が住む全ての人によって、福音宣教の働きは全世界規模で行われるということでしょう。
2.ですから、「真理」が語られなくてはなりません。私たちが真理を語らねばならないのです。聖霊は真理を広める助け主なのです。私たちは世が知らないお方「聖霊」をいただいているので、世とは違う「真理」を知っているのです。

● イエス・キリストを信じれば救われるということは単に知識だけでは役に立ちません。クリスチャンがそれを実体験しているからこそ力強く語ることができます。

★ 私たちはイエス様という救い主によって罪から贖われました。そして、さらにもう一人の助け主によっていつも助けられています。この聖霊に満たされて日々過ごそうではありませんか。

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私に従いなさい

2017-04-30 19:43:04 | 礼拝説教
2017/4/30礼拝説教
【テーマ】  主に従う
【説教題】 「私に従いなさい」
【聖書箇所】 ヨハネ21:15-19
  21:15 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」
21:16 イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」
21:17 イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。
21:18 まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」
21:19 これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現すかを示して、言われたことであった。こうお話しになってから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」

○ 皆さんはイエス様から「あなたは私を愛するか?」と問われたら何と答えますか? さらに「あなたは、この人達以上に私を愛するか?」という問いかけだとどうですか? ペテロはそういう問いかけを受けました。

Ⅰ.私を愛しますか?
A.三度、愛するかと問われた
1.今までの説教に何度か出てきた「三度」という言葉ですが、今日のテキストではイエス様が三度ペテロに「私を愛するか?」と聞かれています。三度は完全を表すための言葉だとすれば、イエス様はペテロに徹底してイエス様を愛するかを問われていることにならないでしょうか?
2.イエス様が十字架につけられる前、ペテロはイエス様を「知らない」と三度言いました。当然、イエス様から三度言われたことで自分の罪深さを深く思ったことでしょう。ですから、このイエス様の問いかけに元気良く「はい!」とは言えなかったと思います。
3.しかも、復活のイエス様と出会い、イエス様を信じたとしても、まだ聖霊のバプテスマを受けていません。まだ彼は力を得ていない状態です。

B.この人達以上に愛するか?
1.私は、イエス様の あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか が、気になりました。ペテロはユダとは形が違うもののやはり裏切り者です。もちろん、他の弟子達もイエス様を見捨てて逃げていきましたから、裏切り者みたいなものです。
2.常にイエス様の近くに置いていただいたペテロは、特別にイエス様に愛されている感があったと思います。また、誰よりもイエス様を愛しているという自負があったでしょう。しかし、イエス様を裏切ってしまったのです。「他の弟子達以上に愛します」と言えない心境だったかも知れません。このダメ人間の心はイエス様がご存知としか言えないペテロではなかったでしょうか。
3.彼はこんな風にしか言えませんでしたが、イエス様を愛していたのです。愛するというのはそう気安く言葉に出てこないものです。でも、彼の心のことはイエス様がよく分かっておられます。

Ⅱ.私の羊を飼いなさい
A.三度、羊を託された、
1.イエス様は裏切り者のペテロに悔い改めのチャンスを与え、さらに悔い改めにふさわしく働く道を与えてくださいました。 「わたしの小羊を飼いなさい」「わたしの羊を牧しなさい」「わたしの羊を飼いなさい」 です。
2.羊とはイエス様を信じる人々のことです。ここに「小羊」とあるので、ある人はこれを子どもと理解して、子どもも牧会の中に入れておられると言います。そういう違いがあるとしても、基本的にこの3つの言葉は同じことでしょう。

B.私の羊とは?
1.大事なことは、「ペテロの羊」ではなく、 「わたしの羊」 つまり「イエス様の羊」だということです。ペテロはとても自我意識が強かったみたいです。「私が・・」「私の・・」となりやすかったのではないでしょうか?
2.しかし、教会という所はキリストが頭です。ペテロもイエス様の羊に過ぎないのです。しかし、そのイエス様の羊に過ぎないペテロを牧者としてくださるのもイエス様だったのです。
3.私たちもキリストの弟子となったなら、ある一定の期間を経て成長し、次の羊の世話をする、牧する必要があるのです。自分の羊ではない、イエス様の羊があなたにも託されているはずです。

Ⅲ.私に従いなさい
A.ペテロは真の献身をした
1.さて、18節のイエス様の言葉はどういう意味なのでしょうか? あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。・・・ と、若い時は自分でできるが、歳をとるとなかなかそうはいかないという単なる老化のことを言っているのでしょうか?
2.ペテロは活動的でした。おっちょこちょいなくらい行動的でした。彼は自分にはイエス様を愛する愛が満ちていると思い込んでいましたし、イエス様のために命を捨ててでも働くと決めていました。
3.しかし、彼はあの「知らない」と三度言ったことから打ちひしがれていたのです。そこで復活のイエス様にお会いして彼は悔い改め、真の献身者となるのです。

B.ペテロは神の栄光を現した
1.続くイエス様の言葉、 しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」 21:19 これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現すかを示して、言われたことであった。 と、人間的には嬉しくない内容です。が、真の献身をしたペテロが神の栄光を現すということです。
2.彼が意気込んで頑張っていた時は神様の栄光を現せなかったのですが、肉体的には衰えて、また精神的にも力みが無くなるのでしょうが、霊的には神に委ねる生き方ができるようになるのです。
3.聖霊のバプテスマを受けてからのペテロは大きく変化していることを私たちは知るのです。神に委ねて聖霊に満たされて生きる時、人間的にはよく見えなくても、神の栄光を現すことができるようになるのです。

★ イエス様がペテロに言われた 「わたしに従いなさい」 はあなたにも言われている言葉です。イエス様に従いましょう!
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舟の右側に網をおろしなさい

2017-04-23 16:41:32 | 礼拝説教
2017/4/23礼拝説教
【テーマ】  復活のイエス・キリスト
【説教題】 「舟の右側に網をおろしなさい」
【聖書箇所】 ヨハネ21:3-14
  21:3 シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。
21:4 夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。
21:5 イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」
21:6 イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。
21:7 そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。
21:8 しかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来た。陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからである。
21:9 こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。
21:10 イエスは彼らに言われた。「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」
21:11 シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた。それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。
21:12 イエスは彼らに言われた。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか」とあえて尋ねる者はいなかった。
21:13 イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。
21:14 イエスが、死人の中からよみがえってから、弟子たちにご自分を現されたのは、すでにこれで三度目である。

○ 「復活」という事実は人類史上たった一度だけのできことですから、科学的検証というのは難しいものです。ですから、「信仰」をいただいて、新たな目で見ることをしないと信じられないでしょう。復活されたイエス様と出会った弟子達もなかなか心はスッキリしていませんでした。その弟子達がガリラヤ湖へと向かいました。

Ⅰ.復活のイエスを見てもわからない
A.弟子達は漁に出た
1.弟子達はイエス様の言葉の通り、ガリラヤに来たのですが、イエス様とすぐには会えませんでした。そこで彼らは漁に出ました。しかし、網をおろしても何も捕れなかったのです。
2.ペテロはかつて漁をしても何も捕れなかった時のことを思い出したのではないでしょうか? ルカ5:3 イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。そしてイエスはすわって、舟から群衆を教えられた。 5:4 話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われた。 5:5 するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」 5:6 そして、そのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった。 

B.弟子達はわからなかった
1.復活されたイエス様は弟子達にそのお姿を現してこられたのですが、なかなか復活のイエスだとわからないのは、イエス様が特別に輝いていたわけでもないからでしょう。しかし、その手や脇腹の傷跡は間違いなく十字架の時のものですから、イエス様が復活されたことは間違いないのです。
2.今回も弟子達は岸部に立たれたイエス様がわからなかったのです。エマオ途上の弟子二人が、イエス様とわからないまま歩いていたのも考えさせられます。私たちもイエス様だとわからないことがないでしょうか?

Ⅱ.舟の右側に網をおろしなさい
A.あの日のことが思い出された
1.イエス様によって召し出されたあの日を思い出していたかもしれないペテロは、イエス様から 「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」 という言葉が心に響きながらも悶々として網をおろしたと思います。その瞬間、大漁の感触。同時にあの日のことが鮮明に思い出されたのではないでしょうか?
2.そして、 21:7 そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。 となるのです。あの日も、自分が何と罪深い人間かと思い知らされた日でした。今度もペテロは自分の不信仰、罪深さを感じながらもイエス様に向かったのです。

B.御言葉に従った時に何かが起こる
1.なぜ、「舟の右側」なのでしょうか? 左側でもよかったのではないでしょうか? あの日は 「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」 であって、右側とかではありませんでした。
2.モーセに杖を上げさせると紅海が分かれたり、その杖で岩を打たせると水が湧き出たり、カナの婚礼では水を入れさせるとぶどう酒に変わったり、神(イエス様)が言われた通りにすると何かが起こったのです。
3.ここに理屈や科学的根拠とかいうものを越えた「信仰」の世界があります。神の御言葉に従うということです。従う決心をするということです。

Ⅲ.網は破れなかった
A.大漁なのに破れない
1.久しぶりに漁をして、何も捕れなかったあの虚しい心が、イエス様の言葉に従って網をおろしたところ、大漁の感触がやって来ました。ペテロだけではなかったでしょう。一気に、イエス様と共に歩んできた日々の喜びがよみがえってきたでしょう。まさに信仰の復活です。それも新しい信仰に!
2.普通なら破れてしまう網が破れませんでした。出エジプトをしたユダヤ人の服も靴も、荒野の40年間は破れなかったのです。神の守りはこうしたところにもあったのです。御言葉に従うと何か不思議なことも起こるのです。

B.イエス様と共に食する
1.最後の晩餐で食べたパンとぶどう酒はイエス様の十字架を思うものでした。ここガリラヤ湖畔での朝の食事はパンと魚。あの5つのパンと2匹の魚を思い出させるようなひとときではないですか。でもあの時は大勢の人に分け与えるのに必死だった弟子達です。今日は落ち着いてイエス様と共に食しています。
2.153匹の魚に意味があるのかどうかわかりません。しかし、この一連の出来事は彼らの頭にイエス様と共に過ごした楽しく劇的な日々がよみがえらせたことでしょう。

● 私も時々呼ばれた先で証をしますと、その時のことやイエス様の恵みがよみがえってきて嬉しくてたまらなくなるのです。証をすべきですね。救われた証、献身の証、数々の恵みや試練の証をすべきです。

★ 私たちもイエス様の十字架によって救われた者です。そして、今や目には見えませんが、共にいてくださる復活のイエス・キリストが私たちに「舟の右側に網をおろしなさい」と言われているのです。「なぜ左じゃダメなんだ!」なんて言っていないで、網をおろそうではありませんか。
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聖霊を受けなさい

2017-04-16 17:58:23 | 礼拝説教
2017/4/16イースター礼拝説教
【テーマ】  復活の主の願い
【説教題】 「聖霊を受けなさい」
【聖書箇所】 ヨハネ20:19-23
  20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」
20:20 こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。
20:21 イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
20:22 そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
20:23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」

○ 今日はイースター。イエス様の復活をお祝いする日ですが、同時に私たちも復活させていただける、復活の体、完全な体をいただくことができるという希望に満ちた日でもあります。十字架までイエス様は祈りをなさいましたが、復活後イエス様は祈っておられません。私たちに希望のメッセージと命令を与えてくださいました。

Ⅰ.喜びを与えるイエス
A.イエス様の体
1.世の常識では信じられない死者の復活です。復活は蘇生、単なる生き返りとは違います。蘇生は心臓が動き始めただけですから、いずれまた死にます。しかし、復活は死なない体に変えられています。二度と死にません。
2.イエス様が十字架から三日目に復活されたのはそういう体です。それがこの復活の朝、日曜日の朝から始まり、多くの弟子達に示されてきました。しかし、不信者にはその復活の姿は現されなかったようです。
3.イエス様は隠れている弟子達の家の中へ突然現れました。神の性質である、時・空間を支配しておられることがよくわかります。

B.私たちの希望
1.このイエス様の復活はイエス様だけが復活するというものではなくて、イエス様を信じる者全て同じように復活の体をいただくことができるというものです。
2.私はクリスチャンになった時から44年間、この希望を持ち続けています。アトピーで酷い皮膚、見えにくい目、さらに今は心臓病、慢性腎不全、腰痛をはじめとして体のあちこちに起こる痛み、こうした体の不調が全くないのが復活の体ですから。
3.そのようにすばらしい体をいただくというよりも、永遠に神とと共に生活できるという、何にも代えがたい喜びをいただくことの方がすばらしいといえると思います。

Ⅱ.平安を与えるイエス
A.祈ると平安になる
1.十字架で亡くなるまでイエス様はよく祈られました。人間となった神・イエスは「父なる神」と祈りを通して深い交わりを持ち続けられました。
2.祈りは人間にだけ与えられたすばらしい特権です。私たちも神様から祈るように願われています。祈ることで私たちは平安を得ることを知っています。祈ると平安になるのです。

B.平安があるように
1.イエス様が二度言われた 「平安があなたがたにあるように。」 という言葉。弟子達は自分達の命の危険を感じて恐くて隠れていたのですが、そこにお出でになったイエス様は 「平安があなたがたにあるように。」 と言われました。安心してよいということです。
2.イエス様の復活は私たちを平安にするのです。命を狙われるというのは変わらないのですが、イエス様の復活という真実を知り、真理に生きることができるから平安を得るのです。
3.しかし、二度目の 「平安があなたがたにあるように。」 の後は 父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」 と、マタイ28:19-20で言われたように、宣教に向けて派遣命令が語られるのです。復活の主によって平安を得ることで私たちは宣教に出ることができるのです。

Ⅲ.聖霊を与えるイエス
A.聖霊を受けなさい
1.宣教に遣わすと語られたイエス様の次の言葉は 「聖霊を受けなさい。」 です。宣教は聖霊の働き無しには有り得ません。イエス様が十字架前に語っておられた「助け主・聖霊」を遂に与えてくださるのです。
2.聖霊はイエス様の十字架と復活無しには与えられなかったのです。イエス様の十字架を受け入れた者はその罪が赦され、新しい霊をいただくので、そこには聖霊がお住まいになれるのです。
3.イエス様の復活はそのことが実現するためです。イエス様の体はもう人間の肉では無くなりました。天国の体です。この地上でまだ私たちはイエス様のような体はいただけませんが、約束通り、私たちの中には聖霊が住まわれるのです。

B.罪を赦しなさい
1.続けて、イエス様は 20:23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」 と、言われました。イエス様が私たちの罪を赦されたので、私たちは喜びを得たのです。
2.私たちもイエス様の弟子なので、イエス様と同じく、誰かの罪を赦すのです。私たちの祈りは聖霊が働かれているのですから、祈られた人が救われるのです。

★ 復活されたイエス様は約束の聖霊をくださいます。聖霊をいただきましょう。そして聖霊に満たされて、遣わされていきましょう。
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私の願うようにではなく

2017-04-09 16:36:42 | 礼拝説教
2017/4/9受難週礼拝説教
【テーマ】  みこころを求める祈り
【説教題】 「私の願うようにではなく」
【聖書箇所】 マタイ26:36-46
  26:36 それからイエスは弟子たちといっしょにゲツセマネという所に来て、彼らに言われた。「わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。」
26:37 それから、ペテロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。
26:38 そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」
26:39 それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」
26:40 それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。
26:41 誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」
26:42 イエスは二度目に離れて行き、祈って言われた。「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」
26:43 イエスが戻って来て、ご覧になると、彼らはまたも眠っていた。目をあけていることができなかったのである。
26:44 イエスは、またも彼らを置いて行かれ、もう一度同じことをくり返して三度目の祈りをされた。
26:45 それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されるのです。
26:46 立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」

○ 今週は受難週です。つまり、イエス様が十字架にかかられた「金曜日」を記念して十字架を覚える週です。もちろん、今週だけでなく、いつも十字架を覚える必要があります。ですから、聖餐式も行っています。今週が受難週ということは、来週はイースターです。そして、50日後のペンテコステへと繋がっていくのです。さて、十字架前のイエス様はゲツセマネの園で祈られましたが、今日はその祈りを見てみましょう。

Ⅰ.悲しみの祈り
A.ゲツセマネの特別な祈り
1.弟子達と一緒にゲツセマネという所に来て、イエス様は一人祈りに向かわれました。その間、弟子達にも離れた場所ですが、共に祈って欲しいと願われました。
2.その時イエス様が弟子達に言われた言葉が、 「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」 という言葉でした。いったい死ぬほどの悲しみとは何でしょうか? 愛する家族を失った時などに言うような言葉ではないでしょうか。

B.罪を悲しむ
1.人が死ぬものとなったのは、アダムとエバが神の命令に背いた事にあります。神の言葉に従って生きたなら悲しい死別は無かったのです。
2.イエス様は人の死、つまり罪によって入り込んだ「死」、神との関係が切れてしまったことを悲しまれました。罪が全ての人を神と切り離してしまったのです。このことをイエス様は悲しまれました。果たして私たちはそのように罪を悲しんだでしょうか?

Ⅱ.願いの祈り
A.できますならば
1.イエス様が一人で祈られた時、 わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。 と祈られました。私はクリスチャンになって間のない頃、「できますならば」とイエス様が言われるのは変だなあと思っていました。神は全能であり、イエス様は神ですから、こんな言い方をしなくて良いのにと。
2.私たちはどうでしょうか? 私は「できますならば」と祈っていたことが多くあったなあと思います。癒しの祈りもたくさんしました。その時、癒されると信じ切って、「感謝します」とだけ祈れればよいのですが、「癒されないかもしれない」とも思うわけです。それは、癒されることだけが神の栄光とは限らないということも知っているからです。でも、「できますならば、癒してください」と願っているのです。しかし、イエス様のそれとは違うように思えます。

B.過ぎ去らせてください
1.「この杯」とは、イエス様が全人類の罪の身代わりとなって生け贄となる十字架刑のことです。誰だって、殺されることは嫌ですから、取り除けて欲しいと願うでしょう。主の祈りで「我らを試みにあわせないで」と祈るのですから。
2.イエス様は救いの計画を知っておられました。ですから、ご自分が十字架にかかることが必要なこともわかっておられました。しかし、それを取りやめにして欲しいと三度も祈られました。その理由は「死にたくない」ということでしょうか? 「死」は神との断絶から起こったことです。イエス様は「死」を通してやってくる神との断絶を強烈に拒まれたのです。

Ⅲ.みこころを求める祈り
A.みこころを受け入れる
1.イエス様の祈りは次に、 しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。 と、続きます。私たちはこの祈りが大事だということを知っています。いくら自分の願いがあっても、みこころに反するならその願いは引き下げて、神様のみこころがなることを願うということです。
2.イエス様は神と切り離されることを覚悟してみこころを求めたれたのです。私たちは自分の自己中心な願いを捨てて神のみこころに従おうと努力するのですが、イエス様は神に捨てられるために従おうとされるのです。

B.みこころを求めて生きる
1.みこころを求めるというのは決して楽なことではありません。私たちは結構みこころを知っているのです。神様を第一とすること、私たちが聖くなること等々、そしてそのために礼拝を守る、祈る、伝道する、奉仕するといったことを行っています。
2.しかし、人間の世界の現実はクリスチャンにもなかなか厳しいのです。悪魔の誘惑もあります。そういう中で、神様のみこころを求めるのは大事ですが、難しいことも多いのです。それが人類の歴史でもあります。
3.しかし、みこころがなることを追い求めない人生はなんとつまらない人生でしょうか。楽をして楽しく生きるのが人生では無いです。

★ イエス様は常に御心を求めて祈られました。私たちもイエス様の祈りに倣い「私の願うようにでは無く」を忘れず、御心を追い求めて祈っていこうではありませんか。

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イエス・キリストを信じる

2017-04-02 17:44:11 | 礼拝説教
2017/4/2礼拝説教
【テーマ】  使徒信条2
【説教題】 「イエス・キリストを信じる」
【聖書箇所】 マタイ16:13-17
16:13 さて、ピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々は人の子をだれだと言っていますか。」
16:14 彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」
16:15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
16:16 シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」
16:17 するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。

○ 前回は「父なる神」を見ましたが、今回は「イエス・キリスト」です。イエス・キリストとはどの様なお方でしょうか? 
 「われはそのひとり子、われらの主イエス・キリストを信ず。」を見てみましょう。

Ⅰ.そのお名前
A.イエスとは?
1.「イエス・キリスト」の「イエス」が名前で「キリスト」は名字と思っている人がわりといるそうです。
2.しかし、キリストは称号であり、太閤秀吉の太閤みたいなものです。太閤が称号、秀吉が名前です。旧約聖書に出てくるパロや新約聖書に出てくるカイザルも称号ですね。
3.イエスは名前ですが、ヘブル語の「ヨシュア」からきており、「ヤハウェ(主)は救いである」という意味があります。そして、当時この名前は「太郎」のように一般的だったのです。ちなみにイエス様の母マリヤという名前はヘブル語のミリアムです。マリヤもイエスも一般的な名前でした。

B.キリストとは?
1.「キリスト」はヘブル語の「メシヤ」です。日本語では「救い主」「救世主」と訳されています。メシヤというのはもともと「油注がれた者」という意味です。この油は「オリーブ油」です。王や祭司、預言者が就任する時にこのオリーブ油の中でも特別な香油を注ぐ習慣がありました。
2.「メシヤ」はユダヤ人がずっと待ち望んでいた人です。人々は、王であり、祭司であり、預言者であるメシヤを待ち望みました。その方が奴隷状態の彼らを救い出してくれると信じたのです。
3.その「メシヤ」(キリスト)がイエス様です。「イエス・キリスト」というのは「イエスは救い主」という意味で、「救い主イエス」などとも言えるのです。

Ⅱ.ひとり子
A.神のひとり子
1.「ひとり子」とは誰のひとり子なのでしょうか? ヨセフとマリヤ夫婦にはイエスを長男としてたくさんの子どもが誕生しています。ですからヨセフやマリヤのひとり子ではありません。イエスは神様のひとり子です。
2.イエスが神の子であることはクリスマスの時などによく語られます。この地上での戸籍上はヨセフとマリヤの子で、大工の子として育ったのですが、マリヤが聖霊によって身ごもったことが聖書に書かれています。
3.キリスト教でよく「三位一体」と言いますが、「三位」とは「三身」ではありません。人間的な三人ではないからです。神様はお一人なのにもかかわらず、三つの人格(?)をお持ちなのです。父なる神と子なる神・イエス、そして聖霊です。これは説明できないものです。

B.イエスは神
1.聖書にはイエス様の30才頃までのことはほとんど書かれていません。大工のヨセフの手伝いをし、ヨセフ亡き後も家族を支えてきたと思われます。そのイエスが30才頃、家を出て神の国の福音を語り始められました。
2.イエス様はただ語るだけではなく、病人を癒し、悪霊を追い出し、様々な奇跡を行われました。それによって人々はこのイエスが待ち望んだメシヤではないかと思いはじめたのです。しかし、今日のテキストにあるようにイエス様は「ヨセフのところのイエスちゃんじゃないか」くらいにしか思われなかったのです。イエス様の兄弟たちもわかっていませんでした。
3.イエス様の奇跡を見た人達はイエス様を偉大な預言者と思ったかも知れませんが、やはり人としてしか考えることはできませんでした。しかし、イエス様は癒しや奇跡を行うことでその全能性と、神の愛を示された、まさに神様なのです。

Ⅲ.われらの主
A.主
1.人々がイエスこそローマ帝国から解放をしてくれる方だと思っても、まだまだそのランクは人間でした。いくら最上級の人間の位に着けたとしても人間です。しかし、イエス様は神様です。
2.使徒信条で「主」というこの言葉は確かに人間世界でも「ご主人様」という自分の上に立つ人として呼ぶことができます。しかし、ユダヤ人は神様のことを「主」と呼んできました。つまり、イエス様は神様であることを言い表した言葉なのです。

B.何からの救い主なのか?
1.人々がローマ帝国からの救い主としてイエスを祭り上げようとしましたが、イエス様はそれは全く受け入れられませんでした。ユダはそういうイエス様につまずいたのですが、それでも、イエス様はそういう活動をされませんでした。
2.では、イエス様は何からの救い主かということですが、それはアダムとエバに遡ります。アダムとエバは神様との約束を破り、罪人と化しました。つまり、神様との関係が切れたのです。イエス様はその関係を回復するための救い主です。つまりローマ帝国からの救いではなく、罪の奴隷から解放する救い主なのです。
3.このイエス様を私たちも自分の罪からの救い主として信じることが神様の願いなのです。イエス・キリストを信じるだけで救われるという神様の計画が実現するのです。

★ 私たちはイエス様が神様のひとり子であり、つまり神様であり、私たちの罪からの救い主として信じるのです。ペテロの 「あなたは、生ける神の御子キリストです。」 をイエス様はほめられました。これが大事な告白です。
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イエス様の教えた祈り

2017-03-26 16:17:52 | 礼拝説教
017/3/26礼拝説教
【テーマ】  祈りの構成
【説教題】 「イエス様の教えた祈り」
【聖書箇所】 マタイ6:9-13
  6:9 だから、こう祈りなさい。
  『天にいます私たちの父よ。
  御名があがめられますように。
6:10 御国が来ますように。
  みこころが天で行われるように地でも行われますように。
6:11 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
6:12 私たちの負いめをお赦しください。
  私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
6:13 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕

○ 前に「主の祈り」を細かく解説しましたが、今回は1回で中心的なことをお話ししたいと思います。「主の祈り」を暗記しておられる方がほとんどだと思います。つまり、見なくても唱えることができるのですが、唱えれば良いものでしょうか? これは「主の祈り」と言うより「イエス様が弟子達のためにに教えた祈り」です。そして、この祈りは模範であって、このように祈ればそれで良いというものではありません。では、どの様に祈ることをイエス様が願われたのか見ていきましょう。今回、私は大きく「神を思う」事と「人を思う」ことに分けてお語りします。

Ⅰ.神を思う(愛する)
A.父なる神に呼びかける
1.祈りのはじめに「聖霊様」という人。また、「父なる神様、イエス様、聖霊様」と三位一体の神を呼ぶ方もいらしゃると聞きました。また、「イエス様」と呼びかける方もいらっしゃいます。
2.「イエス様」と呼びかけて、最後に「イエス様のお名前によってお祈りします」は本来おかしいです。イエス様が教えてくださった祈りは、「天の父」に呼びかけることです。
3.祈りの基本は、聖霊に助けられ(励まされ)て、イエスの御名によって、天の父なる神に祈るというものなのです。でも、神様はわかってくださいますので、「イエス様」と呼びかけても問題は無いと思いますが。
B.御名を崇める
1.私たちはすぐに願い事の祈りをしてしまいやすいのですが、イエス様は、「神様のお名前が崇められるように」という祈りを教えてくださいました。
2.崇めるとは「きわめて尊いものとして敬う」、「崇敬する」、「大事に扱う」という意味です。もちろん、「崇めます」と言えばよいというのではありません。神様を心から崇めるという「心」が必要なのです。
3.祈りの要素に「瞑想」がありますが、一般的瞑想と違うのは「神を思う」という点です。神を思うと、こんな自分を救っていただいたという感謝や、神様の偉大さ、愛の深さ、慰めの温かさなど色々な事が心にジーンと感じられてきます。そういったことが神を崇めることにつながります。

C.御国を求める
1.そしてイエス様は 御国が来ますように と祈ることを教えておられます。御国を求めるというのは、神の国、神の支配を求めることであり、自分自身が神の支配をそのまま受け入れることです。
2.神の国は「みこころ」のなるところです。それを地上にも求めるとはどういうことでしょうか? それは自分だけではなく、この地上が神の支配でが覆い尽くされることを願うことです。そして、全ての人が自らの意志で御心に従うようになることです。
3.御国と御心を求める祈りというのは、祈る自分がどれほど神を思っているかにかかります。神が何を求めておられるのか、その求めに自分は何をするのか、神の命令に完全に従いたいという思いで、神を思い祈るのです。

Ⅱ.人を思う(愛する)
A.日毎の糧を求める
1.「日毎の糧」というと食べ物ですが、これはイエス様が私たちの日常に関することを総称して言われたことです。食べ物だけではなく、着るもの、仕事等々日常に関することの祈りです。
2.ただ、私たちは多く自分のために祈りやすくなります。が、この祈りは決して自分のエゴ、都合のための祈りではありません。「私の」ではなく、「私たちの」であることを覚えましょう。私たちの祈りは常にまず他の方々のために祈るということが大事なのです。

B.負い目を赦す
1.神様に赦しを乞うのは大事なことです。私たちは赦されなくては生きていけない存在です。何しろ、私たちは罪深い者で、神に赦していただくことで、天国も神の恵みもいただけるからです。
2.そして、 私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました と、私たちが他の人を赦すというとても大事なことを祈るのです。これはまさに敵を愛するというイエス様の山上の説教で語られたことです。人間的には祈りたくない人のために祈るのです。それがイエス様の「愛」と繋がっているからです。

C.誘惑からの守り
1.試練を受けると信仰が成長します。ですから、神は私たちに楽ばかりさせないで試練を与えられます。その試練が大きすぎると大変ですが、神は絶対に不必要な試練は与えません。つまり、試練は絶対に私たちに必要なもので、神様の愛から来ているのです。
2.一方、悪魔は私たちを悪に誘惑します。そして、そこにはまり込むとなかなか抜け出られないばかりか、大事なもの、大事な人さえも失ってしまいます。悪から守られる秘訣は神を思うことですし、聖霊に助けられることです。
3.そして、他の人もそういう辛さの中で闘っているものです。ですから、自分もですが、他の人々も悪から守られますようにと祈ることです。

★ イエス様の教えてくださった祈りは、神を思うことであり、人を思うこと、神を愛し、人を愛することです。
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感謝の祈りが湧いてくる

2017-03-21 06:41:06 | 礼拝説教
2017/3/19礼拝説教
【テーマ】  感謝の祈り
【説教題】 「感謝の祈りが湧いてくる」
【聖書箇所】 Ⅱテサロニケ1:3-12
  1:3 兄弟たち。あなたがたのことについて、私たちはいつも神に感謝しなければなりません。そうするのが当然なのです。なぜならあなたがたの信仰が目に見えて成長し、あなたがたすべての間で、ひとりひとりに相互の愛が増し加わっているからです。
1:4 それゆえ私たちは、神の諸教会の間で、あなたがたがすべての迫害と患難とに耐えながらその従順と信仰とを保っていることを、誇りとしています。
1:5 このことは、あなたがたを神の国にふさわしい者とするため、神の正しいさばきを示すしるしであって、あなたがたが苦しみを受けているのは、この神の国のためです。
1:6 つまり、あなたがたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え、
1:7 苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現れるときに起こります。
1:8 そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。
1:9 そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。
1:10 その日に、主イエスは来られて、ご自分の聖徒たちによって栄光を受け、信じたすべての者の──そうです。あなたがたに対する私たちの証言は、信じられたのです──感嘆の的となられます。
1:11 そのためにも、私たちはいつも、あなたがたのために祈っています。どうか、私たちの神が、あなたがたをお召しにふさわしい者にし、また御力によって、善を慕うあらゆる願いと信仰の働きとを全うしてくださいますように。
1:12 それは、私たちの神であり主であるイエス・キリストの恵みによって、主イエスの御名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主にあって栄光を受けるためです。


○ 今日は「感謝の祈り」というテーマで考えてみたいと思います。私たちは普段どういう「感謝の祈り」をしているでしょうか? 

Ⅰ.感謝の祈りをしている
A.どのような感謝の祈りだろうか?
1.食前の祈りで「この食事をありがとうございます」と祈ったり、欲しかった何かが与えられた時に「●●を与えてくださってありがとうございます」と、物質的な祝福に対して祈るということが多いのではないかと思います。
2.私たちが頻繁に感謝していることが私たちの関心事ということだと思います。癒しや奇跡的なことが起こって感謝するという場合もこうした何かが起こることを評価しているのであって、癒しや奇跡的なことが起こらないと感謝が無かったりするのです。

B.パウロが感謝していること
1.では、今日のテキストに見るパウロの感謝の祈りは何でしょうか? パウロは何よりもテサロニケの教会のクリスチャン達の間に恵みがあることを感謝しています。
2.3節で あなたがたの信仰が目に見えて成長し、あなたがたすべての間で、ひとりひとりに相互の愛が増し加わっている ことを感謝しています。それでパウロは4節、 それゆえ私たちは、神の諸教会の間で、あなたがたがすべての迫害と患難とに耐えながらその従順と信仰とを保っていることを、誇りとしています。 と言っています。

Ⅱ.パウロの感謝を分析
A.信仰の成長を感謝している
1.パウロの祈りを分析してみましょう。パウロが3節で感謝しているのは、彼らの信仰が成長している、継続していることです。救われたということはもちろん感謝なのですが、そこで留まらない、成長し続けることを見て感謝しているのです。
2.テサロニケの教会の良さは霊的成長をし続けていることです。 あなたがたの信仰が目に見えて成長し と言うように、見えるような成長があったので、パウロは感謝しています。見えるような成長、しかしそれは数量的なこととは限りません。

B.愛が増し加わっていることを感謝している
1.では、その感謝している「信仰の成長」とは何でしょうか? ここではテサロニケのクリスチャン達が神への愛はもちろんですが、クリスチャン同士互いの間の愛が増し加わっているという事実です。
2.単なる感情的な愛情では無く、イエス様が弟子達を愛したような愛でしょう。イエス様はユダさえも愛されたのです。ペテロと何ら変わりなく愛された、そのような愛がテサロニケ教会に増し加わっていたようです。

C.迫害に耐えていることを感謝している
1.テサロニケのクリスチャン達は迫害と患難にも耐えられるほど霊的に強くなったようです。4節でパウロは 誇りとしています と言っていますが、これはパウロがこのように立派な信仰を持った教会を自分が造ったのだと誇っているのではありません。また、テサロニケのクリスチャン達を誇っているのでもありません。
2.パウロが誇っているのは、彼らが神様に忠実に歩んで、迫害や患難という大変なことに耐えることができるようになった、その神の恵みに感謝し、神を誇っているのです。つまり福音を誇っているのです。

Ⅲ.パウロのとりなしの祈り
A.私たちの神が、あなたがたをお召しにふさわしい者にしてくださるように
1.続いてパウロはテサロニケ教会のために引き続き祈っていますが、そのとりなしの祈りの中身は、 私たちの神が、あなたがたをお召しにふさわしい者にし てくださるようにということです。
2.召しにふさわしくとは、キリストの弟子として忠実に信仰生活を送ることです。私たちがかってに弟子になったのではなく、神様が私たちを招いてくださった、召してくださったのです。ですから、その神様の思いにふさわしい者としていただくことです。

B.御力によって、善を慕うあらゆる願いと信仰の働きとを全うしてくださいますように
1.次にパウロが祈っているのが 御力によって、善を慕うあらゆる願いと信仰の働きとを全うしてくださいますように です。単に悪を行わないようにというだけでなく、進んで善を行うクリスチャンになることを祈っています。
2.しかし、それは自力でできるものではありません。聖霊の力によってということです。

C.主イエスの御名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主にあって栄光を受けるため
1.やはり何と言っても、人に栄光を求めるのでは無く、神様に栄光があるようにということです。クリスチャンの求めの最大のものは神様に栄光があるようにという願いであり、そのように生きることです。
2.神様に栄光を求めるというのは、クリスチャンがその口で常に神様をたたえ続けていることです。どんなに苦しい状態にあっても、迫害の中にあっても神様をたたえていることなのです。

● Ⅰテサロニケ5:18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。 の御言葉を実践してみましょう。感謝をし続けると感謝の言葉が出てくるようになります。そして、聖霊に満たされ続ける信仰生活を送れば、聖霊による感謝が満ち溢れ続けます。

★ 私たちも感謝の祈りをしたいと思います。それも自分にとって都合の良いことがあったからという感謝だけでなく、信仰の成長、愛の増し加わりを感謝したいと思います。

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