唯物論者

唯物論の再構築

ヘーゲル精神現象学 解題(3.自立した思惟としての対自存在)

2017-05-31 20:15:34 | ヘーゲル精神現象学

3)自立した思惟としての対自存在

3a)言葉としての自己意識

 意識の即自存在は、肉体として実在する生命である。一方で意識の対自存在は、自己知として自らを客観視する理性である。それゆえに自己意識は、生ける自己知の思惟として、すなわち生体的要素を包括した必然的な思考形式として現れる。唯物論で言えば、それは生きるための知恵である。いずれにせよ思考形式とは論理なので、まず言葉であり、文である。それは諸対象の理念または尺度となる形式であり、異なる自己の間での情報連繋手段であり、情報記録媒体である。言葉が持つ理念または尺度機能は、自己意識の行動規範に及ぶし、さらに人倫の習俗や法、思想や宗教として実現する。そこでヘーゲルは言葉と文の成立を語るために、直接知の汎化により知覚としての「これ」が生まれるところから「精神現象学」意識の章を始める。「これ」は現存在の切り出された一部を指す代名詞である。しかしこの代名詞だけでは、なんらかの前提と表現を補足する身振りが無ければ、単独で文章を構成できない。文章が可能となるためには、まず複数の「これ」が分離して現れ、二者が主語と述語となって結合する必要がある。ただし現存在の一部が「これ」として対象限定されるなら、既に複数の「これ」が分離して現れている。しかし事態の前後関係なしに単独に現れる「これはこれである」の文章は、単なる同語反復である。一方で諸前提を外して有意文の成立を考えるなら、「犬」や「桜」のような分解可能な名辞内容で成立する固有名詞をここでまだ登場させるわけにはいかない。それゆえにここではまだ「それは犬である」や「この花は桜である」などの文章は登場しない。またそれらと別に、「これはある」の文章は「これは実在する」の簡略形なので、やはりここでは無視する。したがってここで目指すべき有意文は、複数の「これ」で構成された「これはあれである」である。「あれ」は対象を限定する「これ」と同様の代名詞であり、両者はなんらかの差異を通じてとりあえず区別される。もちろんこの何らかの差異とは、対象の時間的差異か空間的差異である。乱立する「これ」において知覚と区別される直接知は、その現実性により物として現れ、その対極に非現実が意識として現れる。ここでは単純な物理的現実が実在と虚構を「ある」と「ない」の形で分けている。さらにその現実性による限定は、「今」と「ここ」の時間的限定と空間的限定の代名詞、さらに「我」の自己限定の代名詞を生む。「我」の登場は、自己知を通じた自己自身と自己の分離を、肉体と意識の分離として意識に自覚させる。そしてこの自覚が、肉体と意識を述語に据えた主語としての自己意識を可能にする。この段階でひとまず「これはあれである」の文章における「これ」「あれ」「ある」の3要素が使用可能となり、主語と述語の連繋も見え隠れしている。しかしここでもまだ「これ」と「あれ」は、ただ並存しているだけで、主語と述語の関係で連繋しない。また「ある」も、物理的実在を表現するだけに留まっている。そこで「精神現象学」自己意識の章が取り上げるのは、乱立する「これ」における主語と述語はどのように連繋し、直接知の物理的実在から意識の確信へどのように実在性が移るかである。つまりヘーゲルの関心の先は、思惟の成立であり、思想の発生である。


3b)主奴関係としての文章

 ヘーゲルは、現存在に乱立して現れる複数の主語の従属関係を、主人と奴隷の関係で説明する。対立する二つの主語のうち、主語aが主語bを支配するなら、主語bは主語aの述部として現れる。このとき主語bは自己を喪失した物態として外化し、主語aを修飾する。この主述関係は、意識が肉体を支配する関係、または肉体が意識を支配する関係を基底に措いて、物同士の関係にも、自己意識と物の関係にも、さらに自己意識同士の関係にも適用される。ここでの文章の主述関係は、「リンゴは赤い」のように対象を主語に措き、属性を述部に措く形で、主語が述部を包括している。また主述関係の支配関係が逆転するなら、あるいは支配関係が死滅して等価が成立するなら、先の主述関係が逆転した「赤はリンゴ(の色)である」との言い方も可能である。いずれにせよ、ヘーゲルにおける文章の主述関係は、集合論式の記号関係ではなく、もっと生々しい現実世界の関係である。ヘーゲルはなぜわざわざ現実の主奴関係で文章の主述関係を表現するのか? それは文章の有意性を決める「ある」の実在性にかかっている。もともとリンゴの実在性は、リンゴの直接知が持つ実在性である。「リンゴがある」における「ある」の実在性も、結局この直接知の実在に従う。ところが自己知に現れる自己意識の実在性は、そのような物理的実在と違う。もちろんそれは、肉体の実在に従うかもしれない。しかし肉体の実在は、そのまま意識の実在を説明するものではない。そうであるなら意識の実在は、どこからやって来るのか? もちろんここは、フッサール式のデカルト的自己知に対する神格化から推察するなら、意識の実在を自己知の真に由来させたくなるところである。ところがヘーゲルでの自己知の真は、自己意識においてはじめて成立する頼りない真に過ぎない。またヘーゲルは、そのような純論理的説明で意識の実在性を解決しようともしていない。ヘーゲルはフッサールと違い、独我論の排斥を優先するからである。ヘーゲルが主奴関係で文章の主述関係を説明するのは、述語によって全ての内容を主語に付与するためである。その説明から予想されるのは、意識の実在も述語から得たものであり、すなわち肉体の実在に由来したものだと言うことである。なにしろそれ以外に実在性が立ち昇る場所が無いからである。つまり意識が肉体を支配し、肉体が自らの実在を意識に献上することで、意識は実在性を得る。これは自己知に限らず、「AはBである」の形式になる全ての文章に成立する。「リンゴは赤い」すなわち「リンゴは赤である」では、同じように名辞としてのリンゴは、赤い色を自らの支配下に措く限りで、リンゴは赤い色が持つ実在性を得る。そうではなく、リンゴがいかなる色をも自らの支配下に措くことができなければ、リンゴは色に関する実在性を喪失することになる。したがって主語がいかなる述部をも得ないのであれば、その主語は何らの実在をも得られず、単なる無となる。このような権力支配により実在を規定するヘーゲルの発想は、意識の確信が実在を規定する実存主義に近いものに見える。しかしその実態は逆であり、実存主義の方がヘーゲルから派生したものである。またヘーゲルにおける精神は、実存主義における精神と違い、個人の精神ではない。それゆえにヘーゲルにおける実在は、個人の決意が確定させるものではなく、集団的人倫の対自存在すなわち絶対知が最終的に確定する。それは唯物論式に言えば、科学が実在を確定するのであり、国家主義的に言えば、国家が実在を確定するのであり、宗教的に言えば、教会が実在を確定することである。したがってフッサールの場合と違い、ヘーゲルにおいて自己知の実在は、物の実在と同程度の低次の実在であり、真性に乏しいものである。


3c)理性以前の思惟

 もともと文章における主語と述語の統一は断定である。その断定は、必ずしも文章の真偽確定に有効ではない。むしろ文章がその不確定な真偽を操作しようとする点に、意識の決意が現れる。そして断定の決意を感じ取る限り、文章は常に思惟を表現する。一方で単なる事実表現をする文章は、鏡やコピー機にも可能な単なる情報転写である。そのような文章は、断定の決意に無縁であり、思惟である必要もない。この思惟の不要性は、文章の不要性であり、主語と述語の統一の不要性である。逆に言えば、文章の必要性は、主語と述語の統一の必要性に従う。そしてヘーゲルはこの統一の必要を生命に見出し、無機的な文章の成立を退ける。このことから文章の成立は、意識と肉体の自己同志の二者の統一に求められた。しかしこの自己同志の二者の主述関係の始まりは、自己意識が肉体を支配する主述関係である。なぜなら意識は肉体の司令塔だからである。意識は例え生命として物の支配に従うとしても、その自覚の有無に関わらず自らを主とする。つまり主述関係の基本は、意識を主とし物を述にした形式である。他者同志の主述関係は、この自己同志の二者の主述関係の形式に従う。上記で見たようにヘーゲルは、主述関係を主語による述語支配の主奴関係だとみなしている。述語は主語を修飾することで自らの実在性を失う。主語の実在性は、述語の実在性に従うだけである。さらに言うなら、主語は述語を食い尽くすことにおいて、述語の実在を我がものにする。物の実在は、今では意識に移っている。非実在であった意識は実在となり、むしろ今では物が非実在となる。また実際に物は、喰い尽くされれば無になる。だからこそ始まりの思惟は、自らを思惟とする自己知の自己確信として現れる。それは、自己自身を思惟として対象化した自己意識の、自己自身の実在を通じた自己の実在断定である。ただしこの自己意識が自らの述語に措いて支配するのは、肉体としての自己自身ではなく、思惟としての自己自身である。つまりその自己が支配するのは、物態にある過去の自己自身ではなく、動態にある現在の自己である。この自己確信を通じて実在性は、直接知の物理的実在から自己意識の実在に完全移行する。ところがヘーゲルは、自己意識の実在に酔い痴れるストア主義を、安物の酒で気持ちに勢いをつける足元の不確かな思想に扱う。それはストア主義に対立して現れる懐疑主義についても同じである。いずれの思想においても、意識の対自存在として現れた自己意識は、自己知の確信において今ではむしろ即自的自己だからである。したがってヘーゲルにとってストア主義と懐疑主義の対立は、酔っ払い同志の喧嘩のようなものである。そのようなストア主義と懐疑主義についての反省が要請することは、当然ながら自己知の確信に対する否定である。だからこそ言葉の始まりに現れた自己知の確信は、自己意識により否定される。それは意識による自らの無知の自覚である。即自的自己に成り下がった自己意識は、このような自己否定を通じて再び対自存在として現れる。ヘーゲルはこの自己意識の不幸を、理性の始まりに扱う。


3d)実在における支配と労働

 「精神現象学」自己意識の章でヘーゲル存在論の強烈な弁証法は、文章の成立から一気に思惟の成立までを説明する。ヘーゲルは、支配する物の実在によって主語の非実在が補填されると考える。しかし主語の支配力が非実在を実在にすることができるなら、その主語は念じただけで実在を得る神的直観を手に入れている。ストア主義とは、そのように意識の支配力に自信をつけた絶対自由の思惟である。ところがヘーゲルは、ストア主義を擁護することもなく、むしろそれを自在に実在を満喫する自己暗示の虚偽思想とみなした。なぜなら主語の支配力は、非実在を実在にすることまでできないからである。ヘーゲルにおいて支配力に可能なのは、実在の移動であって、実在の創出ではない。ヘーゲルにおけるこの支配力と実在の区別は、結構重要である。と言うのも、支配力に実在の創出を見出したがる思想傾向は、多くの主観的観念論に見られる特徴だからである。しかもヘーゲルは、支配力を支配階級に、実在を被支配階級にそれぞれ割り振っており、実在の創出を労働が行うことを理解している。もともとここでのヘーゲル存在論は、剰余価値理論に慣れた唯物論者が見れば、支配労働価値説を想起させる内容になっている。また自己意識の章における主奴関係についてのヘーゲルの説明は、あたかもそのような支配力の実在創造を肯定するかのように読めるものであった。もちろん実際のヘーゲルは、自らをそのような虚偽的な実在創造の否定者として自己意識の章を終えている。ちなみに支配労働価値説は、現在では形を変えて限界効用理論として隆盛している商品価値理論である。その理屈で商品価値を決定するのは、商品の支配する労働力量である。それは投下労働価値説、すなわち商品生産に要する労働力量を商品価値に扱う労働価値論と異なる。したがって支配労働価値説の示すところの商品価値は、支配労働力量と表現されても良いであろうし、もっと単純に支配力と表現しても良いであろう。もっぱら商品の生産コストは確定しているのに対し、商品の売却額は不確定なものである。生産は過去の話だが、売却は未来の話だからである。それゆえに商品の売却額は、もっぱら生産コストを基準にする。しかし生産コストから自由な売却額も実際には可能であり、その場合の売却額は売買の双方に現れる個人の恣意によって決まる。おおざっぱに言えば、前者の生産コストに縛られた売却額は投下労働価値説の商品価値であり、後者の個人の恣意によって決まる売却額は支配労働価値説の商品価値である。ただし後者の論者であっても、あからさまに恣意が価格を決めるとは言えないので、需給関係が価格を決めると言ってお茶を濁すのが決まり事になっている。それと言うのも、規則性のある恣意は恣意ではないので、ことさらその商品価値を労働力量などの異なる度量単位に結び付ける理由が無いからである。それゆえに支配労働価値説は、端的に言えば、もともと労働価値論ではない。支配労働価値説における価格は自己原因であり、価格自らによって決定される価格となっている。すなわち価格が価格によって決まる自家撞着にこそ、支配労働価値説の神髄がある。一方で思惟の成立を示したヘーゲルは、自己確信した思惟の自己否定で「精神現象学」自己意識の章の閉じる。そこでの確信を失った思惟は、思考停止をして宗教教団の言いなりになる情けない存在である。確かにその不幸の意識は、我欲を離脱している。しかしそのことが理性的に見えるのかと言えば、そうでもない。むしろそれは、支配者に魂まで吸い取られて物体化しただけの自己意識である。それゆえに理性となった自己意識は、次に自らの幸福を知らねばならない。もちろんその幸福は、即自的かつ主観的な幸福ではなく、対自的かつ客観的な幸福であり、ストア主義における幸福の錯覚と異なるものである。その解決は「精神現象学」C章から後の論理展開における一つの主眼になっている。
(2017/05/31)


ヘーゲル精神現象学 解題
  1)デカルト的自己知としての対自存在
  2)生命体としての対自存在
  3)自立した思惟としての対自存在
  4)対自における外化
  5)物質の外化
  6)善の外化
  7)事自体の外化
  8)観念の外化
  9)国家と富
  10)宗教と絶対知
  11)ヘーゲルの認識論
  12)ヘーゲルの存在論
  13)ヘーゲル以後の認識論
  14)ヘーゲル以後の存在論
  15a)マルクスの存在論(1)
  15b)マルクスの存在論(2)
  15c)マルクスの存在論(3)
  15d)マルクスの存在論(4)
  16a)幸福の哲学(1)
  16b)幸福の哲学(2)
  17)絶対知と矛盾集合

ヘーゲル精神現象学 要約
  A章         ・・・ 意識
  B章         ・・・ 自己意識
  C章 A節 a項   ・・・ 観察理性
        b/c項 ・・・ 観察的心理学・人相術/頭蓋骨論
      B節      ・・・ 実践理性
      C節      ・・・ 事自体
  D章 A節      ・・・ 人倫としての精神
      B節 a項  ・・・ 自己疎外的精神としての教養
         b項  ・・・ 啓蒙と絶対的自由
      C節 a/b項 ・・・ 道徳的世界観
         c項  ・・・ 良心
  E章 A/B節    ・・・ 宗教(汎神論・芸術)
      C節      ・・・ 宗教(キリスト教)
  F章         ・・・ 絶対知

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