たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

医療人類学とは何か?

2008年01月20日 21時30分00秒 | 医療人類学

昨日、大阪のI先生のオフィスで、医療人類学の研究打ち合わせ会があった。午前10時からの一般的な意見・情報交換。つづいて、1時半ころからは、アメリカをベースとする医療人類学のM先生による医療人類学教育の話題提供があり、さらには、5時半ころからは、医療人類学を学ぶこと/教えることについて、参加者の間で、意見・情報交換がおこなわれた。午後10時すぎに懇親会が終わると、ヘトヘトだった。以下、医療人類学をめぐる雑感とメモ。

改めて確認できたことは、医療人類学のニーズは、「医療人類学が、<現代社会>の健康および疾病をめぐる問題に対して貢献できるにちがいないと想定している人たちの心のなか」にあるということである。したがって、医療人類学の主流は、人類学の応用(=応用人類学)なのである。けっして、医療をめぐる人間行動の研究にあるのではない。

アメリカ人医療人類学者は、医療人類学教育の概要について、ていねいに話題提供してくれた。医療人類学教育の対象は、①医療スタッフ(医師、看護士、保健士、薬剤師・・・)、②人類学者、社会学者、③大学院生、④学部学生、⑤地域住民、の4つに分類できる。

それを踏まえて、医療人類学の教育とは、具体的には、以下のような4つのプログラムからなるという。

①実証主義のデプログラミング
すべての事象を科学や合理へ還元して考えることを終わらせ、直観や解釈を重視する態度を評価することを教える。
②相対性を培うこと
謙虚さの態度や物事に対する多様な見方があることを教えたり、バイアスや偏見を取り除かなけれならないことを教える。
③社会理論の教育
人類学の文献を読解して理論を学んだり、民族誌を読んだりすることを教える。
④フィールドワークの技芸と分析についての教育
社会的な絆を作り上げて、調査をどのように行えばいいのかについて、とりわけ、強力な調査トレーニング・ツールであるビデオ撮影の手法をもちいて教える。

思いっきり簡単に言ってしまえば、これらのプログラムは、医療(近代医療)が、より柔軟にかつ人間的に医療を行うことを目指すプログラムである。このなかで、わたしが個人的に、ひじょうに興味を抱いたのは、ビデオ機材を用いて、自らの調査のやり方について撮影し、調査手法をアップグレードしていくというメソッドである(④)。それは、文化人類学の調査手法の精度を上げることにつながると思う。

その点はとりあえず脇に置くとして、要は、M先生の話題提供をとおして、医療人類学は、主に、医療スタッフのためのプログラムとして、練り上げられているというような印象を受けた。がちがちの合理主義・実証主義者が圧倒的に多いがゆえに、仮想上もっとも扱いにくいターゲットは、医師や病院で働く人たちを含めた医療スタッフなのである。

さらに、全体の討論をとおして、現代社会の医療状況のなかで、患者=人間と直に向き合う看護士に対して、医療人類学教育を行っていくことの必要性が強調されたように感じた。つまり、医療人類学の当面の戦略目標は、現在全国で150に膨れ上がった、看護系の学部へと医療人類学を送り込んで、わたしたちの健康および疾病を一手に引き受ける牙城たる医療の領域へと、じょじょに、医療人類学の考え方、やり方を
行き渡らせていこうということなのかもしれない。

そのことは、たしかにそうであるのかもしれないと想う。「医療人類学が、<現代社会>の健康および疾病をめぐる問題に対して貢献できるにちがいないと想定している人たちの心のなか」に、深く深く根を下ろしていることはたしかである。ところが、わたしは、その考えを、単純なかたちで、わたし自身の問題として引き受けることはできないでいる。そのようなことは、医療人類学の一部であると想っている。そうではない、人間行動としての医療とは何かという、伝統的な、根源的な問いを、医療人類学は含んでいるはずであると感じているからである。伝統的な、根源的な問いへと向き合うなかから、医療人類学が行われ、教育現場で教えられることが重要であると想っている。その意味において、医療人類学は、文化人類学と道行きを同じくするのだとも考えている。どうやら、この点に関して、昨日の討議者たちの間には、大きな異議はなかったようなのだが。

わたしの胸に突き刺さるのは、医療人類学(=文化人類学)の外側から眺めていると、この学問が、しばらくのあいだ、元気を失っている、精彩を欠いているように見えるという、最近、よく聞く意見である。そのことは、医療人類学が、その知識や手法を、現代社会の問題に応用すること、あるいは、現代の医療問題を検討することだけに心を砕いてきた
ことに一因がある。医療人類学(=文化人類学)は、肥大化する「自己」を諌め、「治療」する学問であることを、いつごろから、自らの使命としたのであろうか。現代社会に従属的なチープな学問となった結果として、それは先細ったのではあるまいか。同時に、文化人類学が「他者」ではなくて、「他者」について語る「自己」について、延々と、無産的な議論を続けてきたことにも原因がある。「自己」省察的な議論が席巻し、皮肉なことに、医療人類学(=文化人類学)は、「他者」を見失い、人間を見失ったのである。わたしがいまの医療人類学に対してできるのは、未開のフィールドにおける具体的なトピックを例示しながら、そういった点へと立ち入って、問題を提起することなのかもしれないと、やや楽観的ながら、感じた。

(写真は、去る1月18日の宗教人類学の期末試験の風景。本年度すべての授業はこれで終了した!)


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