たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

乱れ読み短評

2011年04月17日 21時11分12秒 | 文学作品

ディディエ・デナンクス『カニバル(食人種)』、高橋啓訳、青土社(11-14)★★★



1931年のパリ植民地博覧会にニュー・カレドニアから強制的に連れてこられた先住民カナック人たちは、動物(ワニ)から未開人種へ、さらにはフランス人(ヨーロッパ人)へという進化図式の枠のなかで、「ニュー・カレドニアの人喰い人種」として展示された。そこに緊急事態が起こる。
ワニが大量死したのである。ワニを緊急入手して、展示を続ける必要に迫られた植民地博の当局は、カナック人のうちの一部と、ドイツのサーカスのワニを一時的に交換しようと乗り出した。『カニバル』は、そうした史実に基づいて作られた小説である。忘れさられた植民地主義の恥部を取り上げている。パリに連れてこられた主人公であるカナック人ゴセネは、いいなずけであるミノエが、交換要員として、フランクフルトに連れて行かれたため、同郷のカナック人・バディモワンとともに、偶然出会った同じくフランス植民地のセネガル人・フォファナの助けを借りながら、カナック人の奪還に挑むというのが粗筋である。確かに、植民地主義の暗部が取り上げられている点において、ポスコロ的な問題意識が強烈だし、被植民地から連れてこられたカナック人が、パリの地下鉄に乗るときに切符というものも知らない無垢をさらけ出すという興味深いエピソードが盛り込まれていたり、ミノエたちを救おうとする件のスピーディーな展開がハラハラして面白いのだが、読み物としては120頁ほどのもので、描写がなんだか薄く感じられて、少し残念な面もあるように感じるのだ。

星野智幸『水族』岩波書店(11-15)★★★★



水族館とは、水のなかに棲む生物が展示された建物というくらいの意味だろうか。『水族』というのは、
心躍る小説であることを予感させるようなタイトルである。主人公の雨利潤介は、学校の先生から紹介され、代々木にある湖底のガラス張りの部屋に住み込みの職を得る。他方で、屋上には植物が生い茂り、やがて、すべてが水浸しになっていく。そして、「人の切れ目を狙っていたらしき若いカップルが、二人きりになるや濃厚なキスをし、急にしゃがんで下半身をむきだし、女のほうが股間からオレンジ色の大量の粒々をぽろぽろとこぼし、すかさず男がやはり股間から白い煙幕みたいなものを噴霧し、そのオレンジ色の粒々にまぶした」。人の男女は、魚になっていく。やがて、「ぼくは軽やかだった。水によく溶けていた。水がぼくそのものだった」・・・「地球どころか、宇宙までが水で充満しているようだ。きっと月もこの水中のどこかにあって、泳いでいけば行き着けるのだろう。水の星は太陽系を呑み込み、銀河を呑み込み、やがてはこの水を通じて、別の星の生命と遭遇できるかもしれない。そして、そのすべては、水であるぼくの中で起こることなのだ」。主人公自身が水そのものになったのだ。夢を見ていてその夢が実は現実であったというような、フリオ・コルタサルの短編のような幻想譚だ。こういった文学の出現を、私は心待ちにしていた。

池澤夏樹『熊になった少年』スイッチ・パブリッシング(11-16)★★★★



秀逸な変身譚である。アイヌのクマ送りが題材となっている。『静かな大地』の副産物とも書かれており、その小説のなか
にも収録されているが、絵本化されてより優れたものになったように思う。トゥムンチという、アイヌに抗する民族に生まれたイキリ少年は、トゥムンチが、自分たちが強いと思っているために熊が獲れると思っている思い上がりにつねづね心を痛めていたが、あるとき、猟に出かけて、熊の世界へとまぎれこむ。そこで、アイヌが捕獲した子熊に対してするように、熊たちがイキリを慈しみ育てて、ついには、成長した熊として、イキリを熊のまま人間の世界に送り返すのである。その後、熊であるイキリは、トゥムンチである自分の父の矢に撃たれるのであるが、そこで、ふたたび人間のイキリへと戻る。イキリは母熊たちと暮らした日々をトゥムンチたちに語り、クマ送りをするように頼んだが受け入れられず、虚しさを抱えて、高い崖から谷底に身を投げ、魂を正しい国へと送り込むのである。私たちに糧を与えてくれる動物に対して、自分たちの力のみを頼り、感謝の念を忘れたトゥムンチの奢りに対する静かながら強い抵抗の念が、本書全体をつうじて感じられるが、トゥムンチとは、実は、自らの力だけを過信し、他者としての動物の痛みに思い至ることがない、現代日本人のことなのではないかとも思えてくる。

アルベルト・モラヴィア『視る男』、千種堅訳、早川書房(11-17)★★★★



福島第一原発の放射漏れ事故が深刻さを増す
現在、イタリア人作家のモラヴィアの『視る男』のことを思い出した。それは、86年に起こったチェルノブイリ原発の事故を予言するかのように、その前年に書かれた本として、当時大きな話題となり、80年代末に読んだ覚えがある。チェルノブイリとは、ロシア語で「苦ヨモギ」という意味で、核戦争の恐怖とセックスを扱った本書のなかでも、ヨハネの黙示録の一節の相当部分が、放射能汚染との関わりで取り上げられている。ずいぶんエロティックな小説だったという点だけ印象に残っていたが、今回、再読してみて、エロティシズムの冴えは、ある種、針が振り切れているようで、心地よいほどである。「視る男」とは、主人公・フランス文学の大学教員ドドのことで、この男のスコポフィリア(覗き趣味)が、彼の性生活を綾なしていることが綴られるが、ストーリー展開の妙は、彼と、原子物理学の教授で、3か月前に交通事故で足を痛めて歩けなくなって、ベッドの上に横たわって暮らす父親との微妙なやり取りのなかにある。父は、核がやがて世界の終末に至ることに頓着ない科学者であり、大学の実力者である一方で、息子のドドは、核戦争と人類の破滅の恐怖に怯える、反核思想を持つ体制への「造反者」としての仏文教師である。父は、巨根の持ち主であり、優しく語りかけ慈しみを求めて、女を巧みに誘う。彼は、教え子であり、息子の嫁であるシルヴィアまで寝取ってしまう。子ども時代に、母が父に「雌豚」であると言わされながら、「more ferarum(野生ふうに)」、セックスをするのを覗き見たドドは、それ以後、父を受け入れることができず、妻が彼の元を離れて伯母の家で暮らすようになり、自分は「雌豚」にすぎないと言い訳したことによって、言葉の類似点を手掛かりに、直観的に、ドドは父と妻が通じていることを悟る。父=「核」は、息子=「反核」を圧倒するのだ。しかし、この本の筋は、覗き屋ドドから視た現実であり、真実のほどは謎であると感じられる。さらには、モラヴィアの書く小説を覗きみている読者としてのわたしの解釈もまた、本の覗き屋としてのわたしの理解にすぎないのかもしれない。そんなことを考えさせられた。巧緻なストーリーテリング。マラルメだのジョイスだのを引きながら描写を行う手法などを含めて、文体も優れている。

古川日出男『ゴッドスター』新潮文庫(11-18)★★★



あたしの姉が死ぬ。交通事故で。妊娠八か月だった。1500グラムになっていたはず。おばになりそこなう。いきなりゼロになった。カフェテリア。窓の外。横断歩道の信号機の手前に八歳くらいの男の子がいる。信号機のボタンを押しつづけている。一時間、一時間半。あたしは話しかける。名前もわからない。記憶を失っているのかしら。あたしはその男の子を拾う。家につれて帰って寝かせる。翌朝、職場に向かう。夜、必需品を買い出しに行く。風呂に入れて寝かせる。カリヲと名前を付ける。言葉を教える。社会常識を教える。あたしをママと呼ばせる。ママと呼ばれるとどんどん母親になるのがわかる。カリヲに記憶をためこませる。カリヲが語る記憶をじゃんじゃんあたし自身に入れる。カリヲは19歳で結婚したときにできた子で、出産のディテールを少し忘れたのだ。あたしは秘密をかかえている。あたしが昼間にいないときの
カリヲの冒険。メージという男(明治天皇)と知り合う。イトウ・ヒロブミという名の犬とともに。みなは閣下と呼んでいる。大元帥閣下の見ている現実。じゃまなものは殺さなければならない。それは、記憶。・・・揺れるという言葉がいくつも出てくる。カリヲのママの揺れが伝わってくる。スピード感のある文章に引きづりこまれてゆく。あれよあれよといううちに、東京の都市空間のなかで、現実と非現実、現在と過去が妖しく交錯する不思議な物語。

アレッサンドロ・バリッコ『海の上のピアニスト』草皆伸子訳、白水社(11-19)★★★★

大海原の船の上で生み落とされ、置き去りにされて、船のなかで成長し、一度も陸に降りたことがないノヴェチェントという男の物語。彼はやがて船の専属のピアニストになり、見事なジャズを演奏することで名を馳せるようになり、そのことを聞きつけた天才ジャズ・ピアニスト、ジェリー・ロール・モートンが決闘を挑むために乗船してくる。ノヴァチェントは、競争の意味が分からないまま、その決闘に勝つ。しかし、彼には、どうしてもやり遂げることができないことがあった。船を降りて海を見るという決心をしたのだが、陸地の佇まいに怯えて船に戻ってきたのだった。閉じ込められることを恐ろしいと感じるのではなく、広い世界に出ていくことに恐怖を感じる心情が描かれる。やがて、船は太平洋戦争で病院船として使われ、戦後に廃船にされる船の上に、ノヴェチェントは、ダイナマイトとともに一人だけ残される。文章は軽妙で明るく、詩のように流れるように書かれているのだが、その一方で、ノヴェチェントを通して、人間の不自由さ、哀切がしみわたる。

サン=テグジュペリ『夜間飛行』、二木麻里訳、光文社文庫(11-20)★★★★★


 

なぜだろう、この短い本が、読む人に比類ないほどの大きな感動を呼び起こすのは?それは、何よりも、郵便飛行会社を率いる社長・リヴィエールの傷つきやすさと、その反面の人間的な実直さや強さに惹かれるためではないだろうか。鉄道便や船便が交通の主流であった20世紀の初頭の南米大陸で、昼にはスピードで勝っても、夜になると技術的にまだまだ困難な飛行機の夜間の運航は、当時の航空業界が生き残るための死活の問題であった。リヴィエールには、強い意志で航空事業を展開し、整備不良を起こした老整備士を解雇するという一見非情な面もみられるが、従業員に対して情をもって接することも決して忘れなかった。「わたしはどの部下も好きだ。わたしが戦っている相手は人間ではない。人間を通じて姿を現すものだ」という言葉が、力強く感じられる。サン=テグジュペリの言葉は、その一つ一つが煌めいているように感じられる。「なんという異常な夜だ!つややかな果物の果肉が腐るときのように、夜はまだらに、急激に腐りつつある。ブエノスアイレスの空にはすべての星座が欠けることなく君臨している。にもかかわらずここにはひとつのオアシスでしかない。それもつかのまのオアシスだ。見方を変えれば避難港である、ところがパタゴニア便からはたどりつけない距離なのだ。不吉な風の手に触れられて腐りゆくこの夜、征服しがたい夜」。リヴィエールは、空という測り知れない自然、夜という大いなる脅威に対して、戦いを挑む。ある夜、ファビアンたちが乗った夜間の飛行機が、乱気流に呑み込まれて消息を絶つ。リヴィエールは、最後に、その苦難を乗り越えて、夜間飛行を継続することを決心する。「敗北は、おそらく来たるべき真の勝利に結びついていくための約束なのだ。ものごとが進み続けることこそが重要なのだった」という。登場人物がすべて誠実で、それでいて美しい。

Night Flight(Vol de Nuit, 1933
)


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