KANCHAN'S AID STATION 4~感情的マラソン論

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“黒い家畜”は生きている?

2009年07月11日 | マラソン事件簿
部屋の掃除をしていて、久しぶりに1冊の本を見つけ出した。本とは言っても、もはやページはバラバラになった、ボロボロの紙束である。

朝日新聞社が発刊していた、大判のビジュアル誌「アサヒグラフ」のメキシコ五輪特集号である。'68年の同大会の当時僕は7歳だったから、記憶もあいまいである。むしろ後になって、母親が買っていたこの本を読み返すことで、かすかな記憶を増幅させていたのだった。

この大会で、日本は11個の金メダルを獲得していた。男子の体操で6個、レスリングで4個、ウェイトリフティングで1個。しかし、この雑誌の表紙を飾っているのは金メダリストではなく、マラソンで銀メダルを獲得した君原健二さんのゴール写真だ。そのマラソンについては、我が国のスポーツ・ジャーナリストの先駆けと言われる虫明亜呂無氏が寄稿しているし、銅メダルを獲得したサッカー(「明るい誤算」と記されている)も多くのページを割いて紹介されている。

虫明氏の記事もここで紹介したいが、別の機会にしよう。メキシコ五輪を鮮明に記憶している、現在50代以上の方々には、男子200mの表彰式を忘れられないという方も多いに違いない。

金メダルを獲得したトミー・スミスと銅メダルのジョン・カーロス、二人のアフロ・アメリカンは、国旗掲揚にそっぽを向き、黒い革手袋の拳を振り上げた。当時のアメリカ国内の人種差別に抗議するためのパフォーマンスだったのだが、二人は翌日、選手村追放という処分を受けた。コラムニストの山崎浩一氏が、
「ジョン・レノンが『レボリューション』で毛沢東主義者を茶化し、ロンドンの反戦デモの中でミック・ジャガーが『ストリート・ファイティング・マン』を書いた1968年という無茶苦茶な時代に、オリンピックまでが見事に感染していた。」
と記したのがこの大会だったのだ。この年は、アメリカ大統領候補のロパート・ケネディや、マーティン・ルーサー・キング牧師という、人種差別反対と唱える二人の偉人が射殺された年でもあった。

この「アサヒグラフ」の中でも、スミスとカーロスの抗議活動は「“黒い家畜”への抵抗」というタイトルの記事で紹介され、後にモハメド・アリの伝記を翻訳する宮川毅氏によって、当時のアメリカの黒人アスリートたちの苛酷な現実が紹介されている。

この大会の男子走り幅跳びで、それまでの世界最高記録を55cm(!!!)も更新して金メダルを獲得したアメリカのボブ・ビーモン。彼が泣きじゃくりながら大地にキスをする姿は7歳の子供の脳裏にも深く刻まれた。実はビーモンはテキサスの大学で人種差別に反対する活動に参加したことで陸上競技部を除名され、奨学金も停止された状態の中でアメリカ代表の座を得て(スミスやカーロスらは、当初、五輪のボイコットを訴えていたという。)、ギリギリの境遇で産み出した大記録だったのだという。


「黒人選手は『学生』とはみられず、スポーツをやるために狩り集められた“黒い家畜”でしかない。黒人ゲットー(註・本来、“ゲットー”とは強制的に移住されたユダヤ人の居住区を意味する言葉だった。)から勧誘されていきなり大学に連れてこられた十七、八歳の黒人青年は、もちろん大学の教育を受ける素地も十分でなく(中略)ロクに教室に出る時間も与えられず、三百六十五日そのすばらしい筋肉とバネを使って『母校』のために活躍する。やがて対抗戦に出場資格のある四年がすぎると、スポーツの“使役動物”の役目は終わる。」

「プロに進むものはいい。また少数の特に優れた頭脳を持つものは卒業はできよう。しかし大部分は、卒業証書も、仕事もなく、使い古された駄馬のようになって再び黒人ゲットーの生活に帰ってゆく。」

この一文を読んで、「巨人の星」で、主人公の星飛雄馬のライバルの一人として登場するアームストロング・オズマを思い出した人もいるかもしれない。彼も、子供の頃にスカウト(と言うよりも、親から売られ)され、「野球ロボット」として成長してきた男だった。当時のアメリカで、オズマのような黒人選手はあながち絵空事でもなかったのだ。小学生だった僕はこの記事を、「教科書が教えない社会科」として、アメリカの人種差別の苛酷さを示すエピソードの一つとして記憶に刻んだ。

最近になって、この記憶が蘇るような事件の報道を目にした。ケニアから日本の高校に留学していたランナーが、「失踪」していたことが明らかになったのだ。

一人は、過去に五輪のマラソン代表ランナーも輩出している伝統校において、失踪した留学生が2年後、盗難自転車に乗っているところを保護され、入国管理局に出頭して国外退去処分になった。そして、もう一人は、昨年、創部3年目にして全国高校女子駅伝の優勝に貢献したエース格の留学生ランナーが今春、「出席日数不足」で退学となり、学校からケニアに帰国させようとした時に走って逃げ出し、そのまま消息不明になったのだという。

これまで、僕はケニア出身の留学生ランナーについて、「功罪」の「功」にばかり目を向けていた。昨年の北京五輪のマラソンでは、ついに日本に留学歴のあるケニア人ランナーが驚異的な走りで金メダルを獲得したことは皆様のご存知の通り。

しかし、このような事態も起こっていたとは。もしかしたらと危惧していたのだが、本当にこのように「あってはならぬこと」が起こっていたのだ。

両校とも、「留学生」を受け容れるようになってから日が浅い故に、受け入れ態勢はきちんと確立していたのだろうかと思った。いや、こうした事態が生じた原因として、学校側と留学生との意識のずれだと新聞は報じていた。しかし、本当にそれだけだろうか。失踪した女子ランナーなどはまさに日本の高校教育を受けるに十分な素地を持ち合わせていなかったとはいえないか?それにしても、彼ら未成年の外国人たちが、一体どうやって日本で生活していたのだろうか?背後に何かがあるのだろうか?

40年前のアメリカの大学に於ける黒人(アフロ・アメリカン)アスリートのごとき境遇に、現在の日本の高校の、ケニアからの留学生ランナーが貶められてはいないだろうか、非常に気になった。卒業後に母国の代表となるランナーもいれば、入社した企業で、ビジネスの面でも活躍するランナーもいる。しかし、近年は大学に入学するも卒業できなかったランナーもいるし、18歳未満のランナーを入部させている企業チームも存在している。

ともあれ、ケニア人留学生を「黒い家畜」とするような事は決して許されるものではない。関係者の猛省を促したい。


※参考文献
「アサヒグラフ」増刊 メキシコ・オリンピック特集号 朝日新聞社
「複眼思考の独習帳」山崎浩一 学陽書房





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