朝8時半すぎ出発。府中のあたりで、高校時代からの友達何人かが集まってバーベキューをするのだというので、kananagaもなんとか午前中参加。ゆっくりできなくて残念だったけど、楽しかった!また遊んでください。
コラボシアターフェスティバル3日目。今日はまず、音遊びの会(音楽)。kananagaは、ここがやってきた「音の城(kananagaのこの日の日記、
1日目、
2日目)」、「音の海
(kananagaのこの日の日記)」というコンサートのうちの、「音の海」に参加した。知的障害児(ひとりだけ34歳の方がいる)と、ゲストミュージシャンとで即興的に作っていく音楽。今回のタイトルは、「音の公園」。音遊びの会は、エイブルアートオンステージとしてのプロジェクトが終わったあと、地元に根付いた活動として、継続されている。地元外のメンバーとしては、今回は、東京だし、ってことで、「音の海」に出演した大友良英さんをゲストに迎えてのライブ。
さて、久しぶりに会った子どもたちは、随分大きくなっていた。音楽的にも、成長・発展・展開していた。ふーむ、これだけできるひとたちなら、まーだまだ色々なことができるなあ。ぱっと見た感じ、子どもたちがより成長したのは、コミュニケーションのとりかたの部分だ。ひとりで勝手に、ではなく、みんなでやりとりしながら音楽を作っていくことの楽しさ、を、より知ったように見えた。しかし、それは同時に、(これから作っていく新しい社会ではなく)現在までの社会にあわせてのルールを学び覚えてきたってことかもしれなくて、それはいいことづくめとはいいきれない(もちろん、現実に即したいいことでもあるだろうけど)。両刃の剣でもあるかもしれないことを承知して、やっていく音楽をなるべく一本化しないことを気をつける必要があると思う。
ライブがなかなかよかっただけに、欲が出る。kananagaが客として思ったこと。今関わってる大人たちの今のアプローチは、音を聞いて作るタイプをやっているひとが殆ど。子どもが出している面白い音を聞いて、それを生かすように、やっている、サポートタイプだ。それは、どんなに短いスパンだとしても、考えてから行動しているので、タイムラグができる種類のものだ。もちろん、それはそれで、素敵な音楽を作り出している。しかし、全部それだと、客としてはちょっと飽きてくる、というのが、kananagaの本音。反射で出た音や、ひとの音を聞き過ぎずにでも耳は開いててお互い勝手にやっていた結果起こる、「あ、今同時に、変わった!すごい!」みたいなミラクルな瞬間には、タイムラグのあるアプローチでは、なかなか出会えない。
即興演奏の面白いところの大きなひとつは、音のコミュニケーションによって役割が色々交錯するところにあると、kananagaは思っている。それが、今割とみんな一緒の雰囲気・役割のまま、あまり動かないので、客としては、もっと色々なアプローチのものが見たいと思った。この子たちなら、できるようになるはずだ。
それに、この方法しかできないとなると、このグループ外の誰かとのセッションは、難しい。バンドとして、誰とコラボレーションしても大丈夫な強度を持つことを、ぜひ望んでほしい。
というわけで、あくまで、また次を観たい客として、願うこと。大人たちがもっと色々なアプローチをしてくれたらもっと面白くなるだろうなあ、と。子どもたちをソロ的役割に据えて、サポート、伴奏に徹することが悪いわけではない。むしろ、それでできている音楽も、kananagaは大好き。それに、ここまでは、子どもたちのことをもっとよく知るためにやってきたアプローチだったのだと思う。でも、このやり方は、たくさんの音楽の中の、ある狭いジャンルというか種類のひとつに過ぎない。別に全てを網羅して欲しいわけではなく、湯水のようにあふれ出る、子どもたち、参加してる大人たち自身のそれぞれの可能性を、見続けて、探し続けて欲しいという気持ちだ。
大人と子どもの役割がシフトしそうになったところも、ちょっとあったように思ったが、子どもに遠慮したり躊躇してるような気がしたんだな。手伝うときもあっていい。でも、子どもたちを信じて、本気で真っ向から向き合うときもあっていいんじゃないかなと思うなあ。それは別に、戦いでもなんでもなく、むしろもっと仲良くなることだ。同時に思うこと、もし、子どもたちに本気で向き合っても、とてもかなわない、という目にあうとしても、そむけずに、挑戦し続けていってほしいなあと思う。それは、大人にとって、ものすごく成長できることだと思うし。
kananagaが音楽や、なにか表現を観るときに思うこと。技術や方法に関わらず何かひとつバーンと強いものを発しているものに、心動く。それは、リラックス系を排除しているわけではない。やわらかな音楽にも激しい音楽にも、どんな音楽にも共通して言えるタイプの、強度・存在感のようなことを言っている。
とにかくやっぱりkananaga、気になること、っていうのが、ひとつ、あるんだな。それは、狭い方向に一本化されないでいてほしい、ということだ。これでいいのだ、と、結論を急がず、もっといいところがあるかもしれないと、願い続けて、取り組み続けて欲しい。今がまずいと言っているのではない。でも、ちょっと狭まる傾向を感じたのは確か。子どもたちの成長をしのいでやわらかく成長していくことを、大人たちに期待する。
音遊びの会、どんな意見も、どんなアプローチも受け止められる、強いグループに育っていきますように。歩き続けられることが、すでに才能だ。
ほうきぼしProject (音楽/朗読)。kananagaはここの公演を、大阪で観た。そのときもすごくよかったが、今日観てもやっぱりいい。このグループは、ものすごく暖かく、ゆるやかで、強いもの、を、発している。
障害者のメンバーは、全員、身体障害の大人のひとたち。あとは、詩人の上田假奈代さんと橘安純さん以外は、みんなヘルパーさんだ(マキさんや浜村さんとかは、ミュージシャンでもある)。身体障害者のみなさん麻痺があるので、言葉がなるべく不明瞭にならないよう喋り方がゆっくりだったりするんだけど、なんていうのかな、その間が、ほんとに、なんともいえない面白あったかい雰囲気を存分に作り出している。
進行は、その場で、障害者の方(矢野さん)が決める。ものすごーくゆるい構成だ。矢野さんの指示に従って、みんなが順々に朗読したり、歌ったりする。みんなよかったけど、印象に残ったのをいくつかメモ。
「私のヘルパーさん いつも同じ服 『それ似合ってるね』と褒めてしまったその日から~」は、やっぱ、いいね。サビをみんなで大合唱するのが、たまりません。
できたての矢野さんの新作、よかった。矢野さんは朗読の合間に、酸素らしきものを吸うんだけど、マイクにその音が入るのが、おかしくてたまらない!まるで、ダースベイダーだ。
コウちゃんの「君にありがとう」は、やはり素晴らしいね。コウちゃんは、読むのが、ものすごく、ものすごく、遅い。その遅さがまた、強烈な表現の一部になっていて、ひじょうに強い!客であるkananagaも一緒になって息を呑んで聞く長い朗読のあと、同じ歌詞を伴奏(ベース)入りの歌でみんなで歌う。これが、また、おかしいったらありゃしない!歌になると、平気で流暢に歌えちゃうコウちゃん。なんでやねん!
もっと、色々あったけどね。ものすごい、笑った。あー、面白かった!客席にいた音遊びの会のTaくんも、ほうきぼしの朗読や音楽に、むちゃくちゃ反応していた。かなり気に入った様子。
3日間コラボシアターフェスティバルを観て、どれがどれ、っていうのではなくこの3日間で思ったこと、また、直接関係ないけど思ったこと、など、ちょっとメモ。
「障害者」と「アーティスト」が一緒に作る舞台表現を探求するためのムーブメント、エイブルアートオンステージ。この、「障害者」「アーティスト」のくくりがよくわからんし、ものすごくうさんくさい感じがする、と、主催者側も一緒になって論を交わした2つのトークには、好感を持った。その「うさんくさいのはなんでだ」「一体どうすればいいのだろう」ってところは、もちろん、言葉や構造に関しても、追求し続けて、いつか素敵なやわらかい結論を見つけてほしいと思う。でも、よくわからなくてうさんくさくても、答えが(言葉で)出るまで待たずに行動を起こしていることは、とっても評価したいところだと思う。みきり発車、全てにおいてではないが、でも、とても大事だ。直感で動くこと、とても大事だ。理屈や理屈をともなった言葉は、必ず遅れるから。
kananagaがこのムーブメントに関わるスタンスは、どっぷりつからないスタンス。あえて、そうすることを選択する。例えば、別のことで言えば、子どもとの仕事が多いし、好きだけど、kananagaは学校の先生にはならない。kananagaの仕事は、違うところにあると思う。ちなみにどっぷりつからない、というのは、かなり肯定的な意味に使っている。どっぷりしないというところを土壌に、信頼関係を作っていくイメージでいる。
「障害者」の表現を遠慮なく笑い飛ばせることが、いつの間にかすっかり普通のことになっているのが、とてもいいと思った。「かわいそう」「ひどい」などの逆差別が、この企画に参加してる、観にきてるひとたちにおいては、とっくに遠い昔のことになっているんだ、と思う。この、自然な状態が作れてきているのは、まず、ほんとに、いい。なんでも完璧にはいかないが、誰もみたことがない新しい表現に取り組み始めている人々の第1歩あたりの動きが、こういう風だというのは、さいさきがいいな、と思う。
言葉、いや、「言語(と言ったほうがしっくりくる)」の武器を持つ者が自分を守ろうとすることは、ものすごく気づかぬうちに、ひとを傷つけていくことがある。それは、同時に自分をも切り裂く。kananagaは、生まれながらに持っていた強靭なその武器を、折り合いをつける形で、ある程度封印しようとしている。同じくその武器をもったひとに出会ったときが、要注意だ。気をつけないと、引きずり出されて、相手を傷つけてしまう。相手にもそれを気づかせようとすることは、あまりよくない。何か一石を投じて、待つことを、やっと最近少し覚えたkananaga。
完璧なものを求めることは、白黒はっきりつけることは、また、現実の時の流れに背を向けることは、やはり戦争を増長&承認することになると思っている。
いいことも悪いことも、見方によってどういう風にでも見えるものだから、ひとから言われることは、取捨選択したらいいと思う。でも、聞く前から耳をふさぐのは、もったいない。歩みを何年も遅らせてしまうことがあるから。
いや、しかし、3日間、面白かったねえ。