8月に終戦となって、その一ヶ月後、吉田茂は外務大臣に就任した。このとき東輝次は祝電を送っている。翌年には吉田茂は自由党総裁となり、総理大臣となった。
東輝次は決心する。もう罪に服してもよい、と思ったのである。
大磯を訪れ、総理大臣吉田茂に会った。そして、スパイであったことをあらいざらい告白した。
吉田茂は大笑いしたという。こう言ったのである。
「お互い、お国のためと思ったんだからよいよ。当時は君が勝ったけれど、今はわたしが勝ったね」
ふたりは夜のふけるまで歓談し、翌日、上京する東輝次を、吉田茂は品川まで車で送っている。
それから3年後、東輝次は弟を連れて大磯に行き、その実弟を書生として吉田邸で雇ってもらっている。自分自身は昭和25年に吉田茂の推薦で発足したばかりの警察予備隊(自衛隊の前身)に入隊した。それが前に紹介した「勤務状態、誠に良好なり」という太鼓判である。スパイとして優秀だったという皮肉も、茶目っけのある宰相だから、あるいはこめられていたかもしれない。推薦しただけでなく保証人にもなったらしい。
かって、自分を売ったスパイを、ここまで面倒見られるというのは、なんともおそれいった器量ではないか。
麻生太郎氏の著書によれば、吉田茂は孫にたったひとつの教訓らしきものを示しただけだったらしい、それは「男は決して泣くものではない。泣くのは感激したときだけにしろ」というものだった。
東輝次は大磯の任務を解かれて退邸するとき、引き止める吉田の言葉に泣いた、と前にも紹介した。あのときの東の涙を、吉田茂がどう受けとめていたのかはわからない。ひどく不機嫌だったらしいが、このふたりは最後には奇妙な親愛の情でむすばれていた。
蛇足ながら、吉田茂はイギリスのスパイ小説が好きで、原書で読んでいたという。ただ、人から愛読書はとたずねられると、「銭形平次」と答えて韜晦していたらしい。このオヤジ、かなりくえない人物なのである。麻生氏の本を読まれるとよろしい。いっぺんに吉田茂が好きになるはずだ。
参考文献 東輝次著・保阪正康編『私は吉田茂のスパイだった』(光人社)
原 彬久『吉田茂』(岩波新書)
麻生太郎『祖父吉田茂の流儀』(PHP研究所)
東輝次は決心する。もう罪に服してもよい、と思ったのである。
大磯を訪れ、総理大臣吉田茂に会った。そして、スパイであったことをあらいざらい告白した。
吉田茂は大笑いしたという。こう言ったのである。
「お互い、お国のためと思ったんだからよいよ。当時は君が勝ったけれど、今はわたしが勝ったね」
ふたりは夜のふけるまで歓談し、翌日、上京する東輝次を、吉田茂は品川まで車で送っている。
それから3年後、東輝次は弟を連れて大磯に行き、その実弟を書生として吉田邸で雇ってもらっている。自分自身は昭和25年に吉田茂の推薦で発足したばかりの警察予備隊(自衛隊の前身)に入隊した。それが前に紹介した「勤務状態、誠に良好なり」という太鼓判である。スパイとして優秀だったという皮肉も、茶目っけのある宰相だから、あるいはこめられていたかもしれない。推薦しただけでなく保証人にもなったらしい。
かって、自分を売ったスパイを、ここまで面倒見られるというのは、なんともおそれいった器量ではないか。
麻生太郎氏の著書によれば、吉田茂は孫にたったひとつの教訓らしきものを示しただけだったらしい、それは「男は決して泣くものではない。泣くのは感激したときだけにしろ」というものだった。
東輝次は大磯の任務を解かれて退邸するとき、引き止める吉田の言葉に泣いた、と前にも紹介した。あのときの東の涙を、吉田茂がどう受けとめていたのかはわからない。ひどく不機嫌だったらしいが、このふたりは最後には奇妙な親愛の情でむすばれていた。
蛇足ながら、吉田茂はイギリスのスパイ小説が好きで、原書で読んでいたという。ただ、人から愛読書はとたずねられると、「銭形平次」と答えて韜晦していたらしい。このオヤジ、かなりくえない人物なのである。麻生氏の本を読まれるとよろしい。いっぺんに吉田茂が好きになるはずだ。
参考文献 東輝次著・保阪正康編『私は吉田茂のスパイだった』(光人社)
原 彬久『吉田茂』(岩波新書)
麻生太郎『祖父吉田茂の流儀』(PHP研究所)