小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

左行秀と龍馬  1

2009-11-01 17:39:46 | 小説
 慶応3年10月18日、つまり龍馬暗殺の一か月前に、板垣退助は谷干城に一通の意味深長な手紙を書き送っている。以下はその抄録である。

「…過日豊永久左衛門関東より僕が中村への私簡を携来り、榎派に合して姦を為し申候。実に無由にて今に始めず殆ど姦術に係り申し候。(略)然るに右久左衛門なる者近日又東行仕趣、、京師に至ても何等の姦を為し候も難図、関東迄も同断之義ニ付精々御用心可被成、其故に申上候間屹度御覚悟被成度奉存候。心事固ヨリ筆頭に難尽候。御推察可被下候。恐惶再拝。
                               退助    」

 この手紙を谷干城が講演『坂本中岡暗殺事件』で披露したことは、前回の『龍馬暗殺事件・考』で書いた。「(土佐の)頑固党の勤王派に対する軋轢の情態を、証拠をあげてお話して置きたいと思ふ。ちょいと面倒でありますが、板垣の慶応三年十月に寄越した手紙を読みます」
 といって、彼は全文を読み上げ、いきなり「是から此両人(坂本・中岡)の殺された実況を御話申ますが、」と本題に入るのであった。
 さて、板垣の手紙が意味深長なのは「心事もとより筆頭に尽くしがた」いから、あとは推察してくれといっている点である。ともあれ板垣の言いたいことは、近々京都に行って、なんらかの姦計をなすかもしれない豊永久左衛門に注意しろということだ。
 この時点で予想された豊永久左衛門の「姦」とは何か。どうしても龍馬暗殺とリンクしてしまうではないか。
 豊永久左衛門はもと筑前の浪人であった。『明治維新人名辞典』によれば、左行秀(さのゆきひで)という項目で記載されている。筑前の伊藤五佐衛門の二男だが、なぜか伯父筋の豊永姓を名乗った。刀工佐文字の流れをくむところから左を称したらしい。
 土佐に来て弘化3、4年頃、幡多郡入野郷で鍛刀に従事、安政3年5月に刀工・鍛冶職として山内家に仕官し、職人支配となっている。万延元年2月から慶応年間には江戸詰になっていた。鍛冶職というのは鉄砲づくりである。彼は鉄砲製造に熟練していたというのだ。
 この左行秀には、おそらく龍馬に対する私怨があった。


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