小説の孵化場

鏡川伊一郎の歴史と小説に関するエッセイ

龍馬暗殺事件・考  10

2009-10-12 16:47:57 | 小説
 早すぎるのは、犯人たちが「多分新撰組等」という「報知」内容もである。遺留品の刀の鞘から、新選組の関与という結論めいたものを出すのは、事件から数日後のことであったのに、これは何を根拠に寺村の耳に入れられたのであろうか。
 事件の一報は、まず土佐藩邸に伝えられ、そこから寺村の家来が主人を探して近喜の道筋に走ったはずである。
 寺村らは芝居見物のあと、近喜で食事をとることを、あらかじめ伝えていたのであろう。だから「近喜迄帰る処留守より家来あわてたる様ニ而注進有」なのである。
 では土佐藩邸に、事件の詳細を驚くべき的確さで、いち早くコンパクトに伝えたのは誰であったのだろうか。
 繰り返すが、近江屋新助ではない。谷干城の証言(講演記録)でも、そのことは裏付けられる。
 谷は語っている。
「そこで此坂本の斬られたと云ふ報知のあった場合に直ぐに駆付けて行った者が、私と毛利恭助と云ふ者である。是は京都三条上る所の高瀬川より左に入る横町の大森と云ふ家がある。毛利両人は其大森の家に宿をして居った。それで先づ速い中であった。土佐の屋敷と坂本の宿とは僅に一丁計りしか隔て居らぬから、直ぐに知れる筈なれども、宿屋の者等は二階でどさくさやるものだから、驚て何処へ逃げたか知れぬ。暫くして山内の屋敷に言って来たものも、余程後れ私が行った時も最疾うの後になって居る」
 談話の筆記だから、ややくどく、わかりにくいところもあるが、重要なのは土佐藩邸と近江屋は目と鼻の先だから、事件のことは「直ぐに知れる」はずなのに、近江屋の者たちはどこかに逃げてしまっていて、土佐藩邸に言って来たのは谷が現場に駆け付けた後だったというのである。
 さて菊屋峰吉は白川の陸援隊に急を知らせに走った。そのことは田中光顕の証言があるから確かだ。つまり土佐藩邸への通報者は峰吉でもない。
 峰吉が土佐藩邸に駆け込む必要がないと判断したのは、藩邸への報告者が別に居たからである。
 誰か。
 島田庄作しかいないではないか。
 藩邸への報告がリアルであるのは、その報告者が、そのとき現場に居た者だからなのだ。島田庄作を暗殺グループの一員と見なすと、事態はすっきりと呑みこめる。寺村は島田の報告内容を日記に書いているのである。
 龍馬暗殺事件には、たしかに見廻組の者たちが実行犯として関与していた。しかしそれは見廻組の公務としての仕事ではない。見廻組の者たちは、暗殺というアルバイトをしたのである。事実、明治になって見廻組は公務ではなく、「私」ごととして龍馬らを殺害したと判断する取調べ経緯があった。


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