日本庭園こぼれ話

日本の歴史的庭園、街道、町並み。思いつくままに
Random Talks about Japanese Gardens

養翠園・番所庭園=庭園回廊・和歌山(4)・・・(再編)

2021-01-29 | 日本庭園

前回ご紹介した和歌山城西之丸庭園を後に、和歌山城前からバスに乗り、30分ほど南下すると、次の目的地、養翠園(名勝)です。養翠園前バス停で降り、庭園を囲むウバメガシの生垣(下の写真)に沿って進むと入口がありました。

(上: 姿の良い山を借景に、広々した池と池畔の松が大名庭園の華やぎを伝える養翠園庭園)

ここは紀州家第十代藩主・徳川治寶により、別邸からの清遊の場、迎賓の場として、文政年間(1818~1825)に造営された庭園。敷地面積約33,000平方メートルのうち、池の面積が半分を占める広々とした池泉回遊式庭園です。

この池は、湾に面した立地を利用し、海水を引き込んだ珍しい「汐入り」の池。池畔には船着き場(下の写真)があり、「藩主が船で来園するのが常であった」という歴史を物語っています。

池を囲む植栽はマツが主体で、1,000本以上あるマツは「立華すかし」という、マツの豪快さを際立たせる手法とか。

池の中島へは、中国の西湖堤を縮景した三つの反り橋が連なる「三ツ橋」を配し、湖面の景を直線で区切り、借景となる章魚頭姿山(たこずしやま)という、文字通りタコの頭に似た形の山とともに、特徴的な景観をつくっています。

(上: 章魚頭姿山と「三ツ橋」)

直線と曲線を効果的に配し、大らかで華やかさもあり、またモダンでもあるという、まさに大名庭園らしい庭園です。

(上: 反り橋でつながれた半島と中島)

 

紀の川に沿って粉河寺庭園から辿ってきた和歌山の庭園回廊の終点は、番所(ばんどこ)庭園。「養翠園前」からバスに乗り、5分程で着く「雑賀崎遊園」停留所で下車。道標に従い15分くらい歩いて到着です。ここは「番所の鼻」という海に突き出た岬にある庭園。しかし実際には、庭園というより、公園といった趣。植栽に縁取られた芝生広場で、バーベキューなどもできるスペースです。

この地は、江戸時代、紀州藩の海岸の10数ヶ所にあったという海の防備見張り番所の一つ。和歌山城に最も近い番所として重要な所だったそうです。

異国船の出現が頻繁になった安政元年(1854)には、この芝生地にお台場が構築され、大砲・鉄砲が配備されたという記録があります。

この庭園の見どころは、なんと言っても、海岸美。この岬は、万葉集にも歌われたように、古くから海の眺めが素晴らしい景勝地として知られていました。海に浮かぶ大小の島々が、正真正銘、天然の紀州青石の造形美を見せてくれます

時代劇をはじめ、数々のドラマのロケ地にもなっている、というのが頷ける景色です。

(ただし、入園料600円は、ちょっと立ち寄るだけでは勿体ないかも?)

・・・「庭園回廊・和歌山」終わり・・・

 

 

 


和歌山城西之丸庭園=庭園回廊・和歌山(3)---(再編)

2021-01-22 | 日本庭園

和歌山市の中心街に、こんもりとある小高い丘・虎伏山の頂上の緑樹の中から姿を見せる白亜の天守閣。

和歌山城は、天正13年(1585)に紀州を平定した豊臣秀吉が、弟の秀長に築城させたのが始まり。その後、浅野氏などを経て、元和5年(1619)、徳川家康の第10子・頼宣が入城。徳川御三家の一つとして、長い歴史を刻んできました。

城郭は第二次大戦時に焼失し、戦後の再建ですが、その規模も風格も、名城といわれた往時を彷彿させます。

公園として開放されている城内を散策すると、石垣にも石畳にも、青石が多く使われているため、頭上の樹木の緑と溶け合って、視界は青緑の世界に。

そして、積み上げられた石垣をよく見ると、下の写真にある記号のようなものが彫られた石がたくさん見つかります。

和歌山城の石垣のうち、2,110個もの石にこの刻印があるそうです。なぜこのような刻印が彫られたかは不明で、石材所有者の表示や鬼門除けなど諸説あるようですが、これらの刻印が、浅野家が城主だった時代に修築された石垣にしか見られないことから、浅野家の家臣が、城普請の協力の印として彫り込んだという説が有力なようです。

名勝・西之丸庭園は、そうした一画にあります。

江戸時代初期に、西の丸御殿に築かれた庭園で、別名を「紅葉渓庭園」というように、モミジの名所でもあり、起伏に富んだ地形を巧みに生かした庭園には、渓谷の雰囲気が漂っています。

崖地から小さな滝が落ち、巨石の石組で護岸されたその池には、巨大な「御舟石」が据えられて豪快。

視線を反対側に移せば、内堀を利用した池に、釣殿を思わせる「鳶魚閣(えんぎょかく)」が、雅趣のある姿で佇み、その背後には屋根付き橋の「御橋廊下」が姿を見せています。

水墨山水画を彷彿させる幽邃かつ風雅な庭園です。

 


根来寺庭園=庭園回廊・和歌山(2)・・・(再編)

2021-01-17 | 日本庭園

「根来(ねごろ)」と聞いて、根来忍者や根来衆、根来塗りを思い浮かべる方も多いと思いますが、忍者はともかく、根来衆も根来塗りも、この根来寺と強いつながりがあります。

アクセスは、前回の「粉河」から、再びJR和歌山線に乗り、和歌山方面に10分ほど戻った「岩出」が最寄り駅。そこからバスで約10分です。

根来寺は、寺伝によれば、平安時代後期(1130年頃)、高野山の僧・覚鑁(かくばん)上人によって開創された新義真言宗の総本山。

室町時代末期には、堂塔2,700、寺領72万石という最盛期を迎え、真言宗三大学山の一つとして、全国から10,000万人余りの僧侶が集まったとあります。

同時に根来衆と呼ばれた僧侶の勢力も、鉄砲隊を有するなど強大となり、これを恐れた豊臣秀吉の根来攻めに遭い、天正13年(1585)、大塔、大師堂など数棟の堂塔を残して全山焼失。

現在ある主要な伽藍は、江戸時代に、紀州徳川家の庇護のもとで復興された建物ということです。その一つが、入口に聳える巨大な山門(下の写真)。

根来一山の総門である「大門」は、嘉永3年(1850)の再建。高さ約17メートル、幅が約17.6メートル。

そして、そこから本坊に至る道のりの長さが、根来寺のかつての繁栄を偲ばせます。畑や公道を横切り、しばらく歩いて行くと、ようやく、山の懐に抱かれるように、本坊などの伽藍が建ち並んでいるのが見えてきます。

下の写真は、境内左手に広がる浄土を模した池と、池に突き出た聖天堂。そのお堂内の朱塗りの壇は、古くから伝わる「根来塗り」で、根来寺の僧たちが日常雑器として使っていた漆器が、今ある根来塗りのルーツということです。

庭園は、本坊と、紀州家から拝領した御殿などに面した「逆コの字型」の敷地。奥の部分は裏山を取り込み、山裾に組んだ滝石組と、手前に架かる鉤の手に組んだ石橋が、景色をつくる池泉式蓬莱庭園(下の写真)。

その池からの流れに沿っては、砂紋の美しい、すっきりした平庭(下の写真)が広がり、両者が組み合わさって、格式ある寺院にふさわしい、格調高く、清浄感漂う庭園になっています。

ここでは、浄土池を含めたこれらの庭園が名勝に指定されています。

そして焼き討ちから生き残った国宝大塔は、日本最大の木造多宝塔というだけに、拝観者から思わず感嘆の声が洩れるほどの大きさと美しさ。建物には、戦闘のすさまじさを物語る弾痕も・・・。

(上: 明応5年(1496)建立の大塔。高さ40m、横幅15m)

発掘調査により、重要な中世遺跡としての価値も認められている根来寺の盛衰を見つめてきたこの大塔には、何とも言えない存在感がありました。

※アクセス: JR岩出駅からバス10分、「岩出図書館前」下車徒歩10分(バス路線は複数ありますが、本数が少ないので要注意)。または岩出駅からタクシー10分。

 

 


粉河寺庭園=庭園回廊・和歌山(1)・・・(再編)

2021-01-12 | 日本庭園

ある時、国指定名勝庭園のリストを眺めていて、和歌山市とその周辺には、いくつもの名園が集中していることに気づきました。まるで庭園めぐりの回廊のように・・・。さすが紀州徳川家のお膝元。

最初に訪れたのは粉河寺(こかわでら)。西国三十三所観音霊場第三番札所に数えられています。

和歌山駅から、紀の川を遡るように延びるJR和歌山線で約30分、粉河駅下車。駅から約800メートル、はるか前方に見える朱塗りの大門が目印になります。

この大門、近づくとかなり巨大な楼門です。その傍らに、小さな神社があるのですが、脇にあるクスノキの巨木も必見です。

ここから右折する参道に従い進むと、広い境内には、仏足石や本尊・千手観音の化身が出現したという池やお堂が並んでいます。

上: 千手観音の化身が現れたという出現池と、化身を祀るお堂)

粉河寺は、寺伝によれば奈良時代(770)の開創。『枕草子』にも「・・・霊山は釈迦仏の御すみかなるが、あはれなるなり。石山。粉河。志賀。」とあるように、古くから多くの人々の信仰を集め繁栄しました。

しかし、天正十三年(1585)、豊臣秀吉の紀州攻めにより全焼。現在の伽藍は、江戸時代の再建です。

四天王を安置した中門をくぐった広場の先に見えるその本堂は、西国三十三所の中で最大級という規模。そしてその前には、巨大な本堂にも負けない、圧倒的な迫力を持つ庭園(名勝)があります。

(上: 本堂と庭園。どちらもスケールが大きい)

本堂前に、3メートルほどの高低差の擁壁を兼ねて築かれた庭園は、大量の巨石を自由奔放に積み上げたと見える豪壮な石組と、サツキの刈込み、ソテツなどの植栽で構成された、「枯山水観賞式蓬莱庭園」と呼ばれるもの。

使われている石は、紀州産の青石、紫石、龍門石などの名石が目白押し。色味のある石が一層の豪華さを醸し出し、日本庭園の一般的イメージとは、一線を画す造形美を見せています。作庭は桃山時代。茶人としても知られる武将・上田宗箇の作と伝わっていますが、真偽は不明。

本堂脇のクスノキもまた、年代を経た巨木で、枝振りもさることながら、根元の自然造形に目を奪われます。

* お断り==最新の記事ではないので、変化しているところがあるかもしれません


安芸市・土居廓中(地方色豊かな武家屋敷)・・・高知県(改編)

2021-01-06 | 歴史を語る町並み

土佐くろしお鉄道「ごめん・なはり線」。何か謝っているようなユーモラスな名前ですが、高知の東「後免」から、土佐湾に沿って室戸方面「奈半利」に至るローカル線です。高知県出身の漫画家・やなせたかし氏によるキャラクターが沿線各駅や車両を飾り、目を楽しませてくれますが、なによりの魅力は車窓からの太平洋の雄大な眺めです。

海を見て、ゴトゴトとワンマンカーに揺られていると、慌ただしい日常を忘れます。のんびりした気分で安芸に到着。目的地は駅から北へ約1.6キロほどのところにある、藩政時代の武家屋敷の面影を残す「土居廓中(どいかちゅう)」という一画です。

散策の起点となるのは野良時計。(下の写真)

明治20年頃、野良仕事をする村人たちに時を知らせるために作られた櫓(やぐら)時計で、当時、地主であった畠中源馬が、舶来時計を参考にして、独学で組み立てたというもの。田園風景の中に建つ一群の蔵造りの建物の屋根に聳える瀟洒な時計は、安芸市のシンボル的存在。

野良時計からさらに150メートルほど北に進むと、土居廓中の家並みが見えてきます。家々の外周を流れる清冽な水によって、清々しい雰囲気。

さて、どう行こうかと、土居公民館の庭にある案内板を眺めていると、不意になつかしい童謡のメロディーが聞こえてきました。「叱られて」です。なつかしいと言うと年齢が分かってしまいますが、足元を見るとそこに歌碑がありました。安芸は、「春よ来い」「浜千鳥」「鯉のぼり」など、童謡の名曲を数多く世に出した作曲家・弘田龍太郎の出身地でもありました。安芸市ではこれらの「曲碑」を随所に建立し、童謡の里づくり活動が行われています。

そして、土居廓中。これは安芸城跡の周囲にある家並みで、すなわち城の「土居」の外に整備された家臣団の居住地「廓中」を指します。写真のように、武家町からイメージされるいかめしさはなく、家々の外周に、清らかな疎水が走り、土用竹やウバメガシの生垣がずーっと続いている、すっきりした家並みが印象的。

「日本風景街道」の一つであり、「重要伝統的建造物群保存地区」でもあります。

個人宅のため、外からの見学ですが、雨から壁を守るために「水切り瓦」を壁面に取り付けた土佐漆喰の土蔵や、土壁に石や瓦を塗り込めた「練り塀」など、風が強く雨の多い土佐の風土に合わせた造形を垣間見ることができます。

その中で、上級家臣であったという野村家の内部のみが公開されています。家屋は簡素ですが、武士の住まいらしく、敵の襲撃を防ぐための工夫のあれこれ、たとえば、塀の内にも門のある「塀重門」や、立ち回りが困難となる狭い玄関、そして「武者隠しの壁」などが興味深いことでした。 

表の間に面しては狭いけれど手入れの行き届いた庭。また裏手には広い菜園があり、味噌部屋や布を織る機屋もあったということで、自給自足的な暮らしぶりも窺えます。

そして、三菱グループの創始者・岩崎弥太郎の生家がこの近くにあるということを、後で知りました。