日本庭園こぼれ話

日本の歴史的庭園、街道、町並み。思いつくままに
Random Talks about Japanese Gardens

城下町・小幡散策と名勝庭園・楽山園(2)---群馬県甘楽町

2012-01-27 | 日本庭園

小幡の歴史的町並みの中央を走る、幅広い「中小路」の突き当たりに、名勝庭園「楽山園」があります。

(上: 復元工事によって往時の姿が蘇りつつある楽山園)

しかしこの庭園は、近年まで、庭園の遺構としてあったものでした。実際、24年前にここを訪れた時には、草に埋もれた大小の石と、うっすらと大地に残る池か流れの痕跡が、かろうじて、ここに庭園があったということを物語っている程度でしたから。

それが、平成12年に、県内では唯一残っている大名庭園の遺構ということで、そのうちの面積23000平方メートル余りが国の名勝に指定され、14年度から10ヵ年計画で、整備事業が始まりました。

(上: 右手の土盛りは復元工事中の石垣)

この庭園は『楽山園由来記』によれば、元和7年(1621)に織田信雄が、7年の歳月と数万両を投じて造営した池泉回遊式庭園であり、その名は「知者ハ水ヲ楽シミ、仁者は山ヲ楽シム」という、『論語』の故事に由来する、というのが一般的な説です。

(上: 中景、遠景に山々を取り込んだ庭園の滝石組)

しかし実際には、信雄自身は小幡には入らず、織田家が小幡に移ったのは、三代信昌の時代。寛永19年(1642)、小幡陣屋を構築、町の整備も行ったと記録され、その時に庭園がつくられたという説もあり、築庭年代については、少々幅があるようです。が、いずれにしても、江戸時代初期の作であることに変わりありません。

(上: 復元中の流れの様子)

ここに収録した写真は、私が平成20年初めに再訪した時のものですが、庭園はすでに往時の姿を取り戻しつつありました。

(上: たっぷりと水を湛えた昆明池。大名庭園の風格が漂う)

周囲の山々を背景に、中央を占める広い「昆明池」は、たっぷりと水を湛(たた)え、「いろは四十八石」が配され、築山には二棟の茶屋も建てられていました。

 

(上: 築山には二棟の茶屋)

今年は10ヵ年計画の最後の年です。完成間近の現在の「楽山園」の姿や、復元工事の詳細については、甘楽町公式ホームページをご参照ください。

www.town.kanra.gunma.jp/


城下町・小幡散策と名勝庭園・楽山園(1)---群馬県甘楽町

2012-01-23 | 日本庭園

上越線と信越線の分岐点、高崎から西に延びる上信電鉄に乗り換え約30分、上州福島駅で下車。駅から約3キロのところにある「小幡(おばた)地区」が、今回の目的地。

散策の起点は、地区の北端の小幡中町。桜並木の道沿いに、清冽な流れを見せる「雄川堰(おがわぜき)」が目印です。

「日本名水100選」の1つに数えられるこの清流は、町の西側を流れる雄川から取水した用水路で、古くから住民の生活用水、あるいは農業用水として、人々の暮らしに利用されてきたということ。川べりの所々に洗い場があるのが、その様子を彷彿させます。

(上: 雄川堰=清冽な水の流れが目と耳を楽しませる小幡散策)

甘楽町は、この用水により「水の郷100選」にも名を連ねていますが、一時期は汚染が進み、昭和50年頃には、悪臭漂う川となっていたのを、地元住民の活動によって、かつての清流が蘇ったそうです。

雄川堰の斜向かいにあるレンガ造りの建物は、甘楽町歴史民俗資料館。養蚕が盛んだった大正15年に、繭の倉庫として造られた建物です。

 

(上: 大正時代のレンガ造りの倉庫を利用した資料館)

歴史を遡れば、小幡は鎌倉時代から戦国時代にかけては、この地の豪族、小幡氏に支配されてきましたが、徳川家康の関東入国後は、複数の領主が入れ替わる時期を経て、元和元年(1615)、織田信長の次男・信勝(のぶかつ)に、小幡二万石が与えられ、以後、八代、150年間を織田家が統治。その後は、松平氏が入封し、四代100年間続いた後、明治維新を迎えます。

雄川堰のほとりに大手門跡があり、城下の町割りは、織田氏の時代に整えられたということ。その面影を残しているのが、ここから楽山園(庭園)までの、中小路と呼ばれる道筋。当時から幅員が14メートルあったという広い道路に沿って、武家屋敷が並んでいたそうです。

(上: 道幅が広い中小路)

とは言っても、現在、江戸の昔を偲ぶ家屋はほとんどなく、長い石垣や再現された白壁の塀によって、その姿を想像するのみです。

中で最もその姿を留めているとされるのが、高橋家の屋敷と庭園。ご家族が暮らしている家ですが、庭園のみ見学することができます。

(上: 高橋家庭園)

それほど広い庭園ではありませんが、中央に左心字池を配した意匠で、池の中に据えられた富士山型の「富士の浮石」が興趣を添えています。

(上: 池の中に富士山型の石が据えられている)

面白いのは、「喰い違い郭(くるわ)」と名付けられた小道。中小路の一角にあり、両側から互い違いに張り出した石垣によって、道が鉤形に折れ曲がっています。

戦の時の防衛上のためにつくられたということですが、下級武士が上級節に出会うのを避けるために隠れたとも言われ、案外、こちらの役目の方が実際的だったかもしれません。

(上: 用と景を兼ね備えた「喰い違い郭」)

この後、武家屋敷として、もう一ヵ所道標にあった「松浦家」を探したのですが、見つけることができず、その道すがら、代わりに見つけたのが「矢羽橋」。

文字通り、「矢羽」の形をしている石橋で、農地の脇を流れる雄川の分水路に架かっています。これは「破魔矢」の意味を持ち、織田時代の厄除けとして、鬼門の方角を指しているとか。

(上: 用水路にかかる矢羽橋)

幅20センチほどの細い流れには、各家に水を送るために造られた逆水路もあり、幾筋にも分けられた小水路によって、清流が網の目のように流れ、城下の家庭を潤していた様子が窺われます。

(上: 清流沿いの散歩道・「せせらぎの路」)

うっかりしていると、見落としてしまいそう。そんな小さな歴史の記憶との出会いが、古い町並み散策の楽しみでもあります。

---つづく---

 

 

 


竹内街道---日本最古の国道(奈良~大阪)

2012-01-16 | 古道

『日本書紀』の推古天皇紀21年(613)に、「難波(なにわ)より京(みやこ)に至る大道(だいどう)を置く」と記録された、わが国最古の国道ともいえる街道。その道の現在の呼び名が「竹内街道」です。

シルクロードの終着点として賑わい、遣隋使や遣唐使が通ったという、古代より外交、文化、経済、宗教の往来に重要な役割を果たしてきたこの道ですが、長い歳月を経た現在、国道166号線となり、昔の姿はほとんど消えてしまったそうです。しかし、奈良県當麻町長尾と大阪府太子町山田を結ぶ約7キロの道筋には、旧道が残り、歴史街道として親しまれています。

この古道への奈良県側からのアクセスは、近鉄南大阪線の磐城(いわき)駅。駅から徒歩5分ほどのところにある「長尾神社」が出発点となっています。

しかし、今回はその最初の部分を省略して、前記「當麻寺」から、道標に従い「竹内街道」に入りました。

(上: 古代の道の残像をわずかに留める竹内街道)

(上: 竹内集落に残る伝統的な大和棟。昔の屋根は風情豊か)

そこはちょうど、街道中で最も情緒があるという「竹内集落」でした。峠の入口にあるこの集落は、上り坂の両側に、伝統的な大和棟をはじめ、漆喰壁や格子戸、飾りのついた瓦屋根など、風情のある家並みが続き、側溝のせせらぎも心地良く、ふと覗き込んだ路地の景にもなつかしさが、あふれていました。(下の写真)

途中左手に「綿弓塚」。旧家を休憩所として開放している裏手に、松尾芭蕉が『野ざらし紀行』の旅で立ち寄った際に詠んだ句碑が立っています。

道は次第に急坂になり、家並みが尽きたところで、国道166号線に合流。でも、我慢して少し歩けば、左に上池が見え、その右岸沿いに再び旧道に入ることができます。

旧道は、すぐ上に車の往来が激しい国道があるとは思えない静けさ。杉木立の中を歩き、2キロほどで再び国道と合流。そこが「竹内峠」です。振り返れば大和盆地、前方を望めば河内平野。竹内街道が、2つの古代文化圏をつなぐ道であったことが実感されます。

ここから先は大阪府太子町。旧道に入るまでの2キロ弱は、国道を走る車に、身をすくめながら歩かなければなりません。二上山登山口を過ぎ、さらに歩いて、旧道に入る目印は、道の駅「飛鳥の里・太子」。その手前を右に曲がれば、再びのどかな小道。200メートルほど先、民家の中に、「竹内街道歴史資料館」があります。

(上: 竹内街道歴史資料館)

太子町は、その名からも想像できるように、聖徳太子ゆかりの地。聖徳太子御廟や伝・小野妹子墓、あるいは推古天皇陵、孝徳天皇陵、用明天皇陵他、数々の古墳が群集し、古代史において重要な位置を占めていたことが推察されます。

資料館は、そうした歴史を踏まえての竹内街道の、原始から現代までを学べる施設です。

(上: 何気ない道端の石の道標が、過去と現在をつないでいる)

資料館から、この街道歩きの終点、近鉄南大阪線・上ノ太子駅までは、案内によれば2.7キロ。この辺りにも、竹内集落同様、風情のある民家が並んでいます。

(上: 太子町側の竹内街道旧道も風情ある家並みが続く)

しかし、上ノ太子駅を目指して歩いていたのに、古民家が途切れて街に出たところで、道に迷ってしまい、道を尋ねたところ、まったくの方角違い。

そこは喜志駅行きのバス停前で、「上ノ太子駅は・・・?」と尋ねると、「(道が)ややこしでー。ここからバスで喜志に行ったらよろし」と言われ、喜志駅が一体どこにあるかも分からないまま、そこからでも新大阪駅に行けるという言葉を頼りに、ちょうど来合わせたバスに飛び乗ったのでした。ちなみに喜志駅は、近鉄長野線にありました。

それにしても、竹内街道には、もっと道標が欲しいものです。(私が歩いたのは、10年ほど前のことなので、現在は変わっているかもしれませんが。)