日本庭園こぼれ話

日本の歴史的庭園、街道、町並み。思いつくままに
Random Talks about Japanese Gardens

「こんぴらさん」(下)と「金丸座」---香川県

2020-10-30 | 古道

旭社から、御本宮に至る門をくぐると、周囲は神域の雰囲気を漂わせ、鬱蒼とした森の中を石段が、さらなる高所へと導いてくれます。

そして最後の階段を一直線に上れば、視界がぱっと開け、目の前に御本宮の社殿。規模はさほど大きくありませんが、品格のある社殿が、御神木のクスの巨木に守られるかのように建っています。

(上: 御本宮。江戸時代、「こんぴら参り」は庶民の夢であり、一大イベントであったという)

(上: 御本宮を守るかのように立つクスの巨木)

クスノキは、かつては船を造るのに使われた木です。だから水上交通の守護神である金比羅宮には、とてもふさわしい御神木と言えます。

全785段。海抜251メートルに位置する御本宮の展望所から見渡せば、讃岐平野が眼下に広がり、讃岐富士が、ポッカリ浮かんでいるかのように、優美な姿を見せていました。

(上: 疲れを吹き飛ばすかのような、讃岐富士の優美な姿)

さらに石段を極めたい方には、ここから奥社に至る583段の石段が待っています。

そして帰り道。上って来た時より急坂に感じる石段に、少々、足がすくみそうになりながらも、無事下山。途中参道をそれて、旧金比羅大芝居「金丸座」(重要文化財)に立ち寄りました。

(上: 下りは、下を見るのがちょっと怖い)

天保6年(1835)に建てられた、現存する日本最古の芝居小屋で、移築、改修を経て、現在は、江戸時代の手法そのままに歌舞伎が楽しめる芝居小屋になっています。

(上: 江戸時代の芝居小屋が復活した「金丸座」)

内部は、「廻り舞台」や「セリ」、「奈落」、役者が宙乗りするための「かけすじ」、天井から花吹雪を散らすための「ブドウ棚」など、興味深い仕掛けがいっぱい。様々な仕掛けや工夫を目の当たりにし、技術の高さに感心。江戸の芝居小屋の興奮が目に浮かびます。

--「こんぴらさん」終わり---


「こんぴらさん(金刀比羅宮)」(上)---香川県(改編)

2020-10-24 | 古道

「こんぴらさん」の名で親しまれている金刀比羅宮は、香川県琴平町、象頭山中腹に鎮座しています。

「こんぴら」の語源は、サンスクリット語で、インドのガンジス川に棲むワニを神格化した水神を意味するそうで、このことからも分かるように、明治元年の神仏分離令以前は、神仏習合の寺社であり、海の守護神として古来より信仰を集めてきました。

特に江戸時代中期になると、庶民の間に信仰が広がり、「こんぴら参り」は、お伊勢参りに次ぐ庶民の憧れだったとか。

JRまたは琴電の琴平駅から5分ほど歩くと、金刀比羅宮の門前町らしい雰囲気が漂ってきて、まもなく有名な石段の一段目の始まり。ここから「御本宮」まで、785段の石段を上って行きます。

(上: 琴平駅近くにある「高燈籠」。瀬戸内海を航行する船の指標として建てられたもの)

(上: 御本宮まで785段の石段が名物の「こんぴらさん」。途中で何度も上を見上げてため息)

最初は勾配も緩やかで、快調なすべりだしですが、100段目あたりにある一之坂鳥居を過ぎると、坂はかなり急になり、足取りが重くなってきます。約半分上った365段目が、神域の総門となる大門。

振り返れば、讃岐平野の眺望が開け、上って来た石段の急なことを再確認。初代高松藩主・松平頼重公寄進による大門(下の写真)は、二層入母屋造り。堂々の風格です。

門をくぐると、参道の左右に、大きな傘を広げて、5軒の露天商が飴を売っています(下の写真)。特別に大門内での営業を許された「五人百姓」と呼ばれる人々で、金刀比羅宮の境内に風情を醸し出しています。

そこから、両側に石燈籠がずらりと並ぶ参道をひたすら上っていくと、青銅の鳥居の足元に人だかりが・・・。

何だろう?と覗くと、愛くるしい犬の銅像がありました。参拝客が頭をなでるらしく、その部分がぴかぴかに光っています。台座には「こんぴら狗」の文字。

(下の写真)

その謂れはというと、江戸時代、讃岐の金毘羅大権現(現・金刀比羅宮)への参拝は、庶民の夢でしたが、当時の旅は容易ではなく、本人が行けない場合には、「代参」も盛んに行われたということ。そういえば、森の石松も清水次郎長親分の代参で、この金毘羅大権現に参拝来たのでした。

        

そして、この代参は「人」だけでなく、「犬」によっても行われたというのです。飼い主の変わりに、「こんぴら参り」と記した袋を首にかけた犬が代参にやって来たとか。それが「こんぴら狗」

袋には、飼い主の名前を書いた木札と、初穂料、道中の食費などが入っていて、街道を行く旅人が、代わる代わる世話をしてくれたそうです。何という良い時代だったのでしょう

「こんぴら狗」の銅像から数10段上ったところには、書院があります。(上の写真)

表書院、白書院、奥書院からなるものですが、表書院のみ一般公開されています。表書院は入母屋造り、檜皮葺き。江戸時代初期の建築と伝わり、かつては客殿であった建物で、内部の5部屋を飾る丸山応挙の障壁画は、見応え十分。

とりわけ「上段の間」の瀑布図の構図は、部屋の右上から迫力ある滝が落ち、激しい波しぶきとともに左方に向かう渓流図が、廊下を挟んで、あたかも、外にある実際の林泉(下の写真)に注ぎ込むかのような、内と外とが連続した見事な趣向になっています。

書院では、伊藤若冲の「百花図」も拝観したいものですが、基本的に非公開のようです。特別拝観の時を待ちましょう。

書院で休憩した後は、さらに上を目指して石段にアタック。ここから百数十段を上ると、天保年間(1873)建立の「旭社」(下の写真)です。

彫刻に飾られた、二層入母屋造りの壮麗な社殿が、ドーンと鎮座していて、建物のあまりの豪華さに、代参に来た森の石松が、御本宮と間違えて参拝して帰ってしまったという逸話が伝わっています。

ここから本家本元の「御本宮」までは、あと一息です。

---つづく---

 

 

 

 

 

 


富田林・寺内町の町並み(下)・・・大阪府(改編)

2020-10-19 | 歴史を語る町並み

寺内町の散策は、家々のディテールが興味深く、一軒一軒に、足が止まります。 

家の二階は、「厨子」と呼ばれる、天井の低い屋根裏部屋構造。そこに明かり取りと通風のために開けられた虫籠窓のデザインも、町並みウオッチングの楽しみを増してくれます。

それらは、例えば、江戸時代には丸みのある瓜形で、幕末の頃には次第に横長となり、明治時代には、長方形のものが多くなるというように、時代によって形が変化していくそうで、ここには、様々な形の虫籠窓が並んでいます。

  

 

 

 

 

 

 

  

さらに目を凝らせば、屋根の「鬼瓦」や「煙出し」、塀の上の「忍び返し」、牛馬をつないだ「駒つなぎ」---柱に丸い金属の輪が取り付けてあったり、穴を開けた大石が置いてあったり---などなど、どの家も実に表情豊か。この町が「旧家の博物館」と言われる所以です。

(上: 忍び返しのある家)

 

(上: 土蔵の窓、屋根のむくりなど、細部まで端正な旧家の建築美)

散策しながら、ふと足元を見ると、いくつかの家の軒下に「防火貯水槽」が。(下の写真)

寺内町は、火の用心にも心が砕かれていたようで、貯水槽の他にも、城之門筋には、現在は排水路として機能している「用心堀」と呼ばれる溝があり、また町の南の出入り口には、「町中くわへきせる、ひなわ火無用(町中、くわえキセル、火縄火無用)」と刻まれた石の道標が立っているなど、今もその名残が見られます。

大規模な商家建築の建ち並ぶ寺内町の中でも、ひときわ豪壮な外観を見せているのが、町の南に位置する杉山家です。四層の大屋根の重なりが美しく特徴的。

昭和58年に重要文化財に指定され、富田林市によって保存修復工事が行われた後、「旧杉山家」として、内部の一般公開を行っています。

杉山家は16世紀半ば、寺内町の創立に関わった八人衆の一家で、江戸中期以降、造り酒屋として財を成したということ。

なにしろ「富田林の酒屋の井戸は、底に黄金の水が湧く」という俗謡があるくらいで、当時の寺内町では、酒造業が大いに栄えたそうですが、その筆頭格でもある杉山家の財力は、推して知るべし。

(上:スケールの大きな商家建築が軒を連ねる寺内町の中でも、杉山家の存在感は格別)

現存する母屋の建築年代は、土間部分が江戸時代初期(1644)のもので、後に座敷や二階部分を増築、18世紀半ばには現状の形に整ったということ。

内部もまた贅を尽くしたもので、能舞台を模したという「大床(おおどこ)の間」をはじめ、数寄屋座敷や茶室、太い梁の土間、あるいは欄間や違い棚の意匠など、重厚な中にも、洗練と粋が随所に見られます。

また明治時代末、「明星」派詩人として知られた石上露子は、本名を杉山タカといい、この杉山家の出身。モダニズムの洗礼を受けた彼女は、屋敷内にもお洒落な螺旋階段を取り付けるなど、モダンな意匠を取り入れました。

その結果、杉山家は、土間に見られるような寺内町のルーツともいえる農家的技法、江戸時代の豪商の造り、そして明治のモダンの精神と、それぞれの時代の建築美が融合し、見どころいっぱいの住宅になっているのです。

杉山家の向かいには寺内町センターがあり、休憩所を兼ねた郷土館になっています。そしてそのまた向かいには、やはり酒造業で栄えた仲村家。

このあたりが寺内町の南の端で、「東高野街道」を示す石の道標があります。眼下にはゆったりとした石川の流れが望め、寺内町が段丘上に開かれたことがよく理解できます。

(上: 寺内町南端からの展望)

富田林寺内町は、古い形をそのまま保存するのではなく、歴史の遺産を新しい感覚で現代に生かすことで、より魅力的な町にしたい。そういうコンセプトの町並み保存です。

長い年月をかけて磨き抜かれた歴史的景観と、現代の人々が住み易い住環境との両立。土地の記憶を大切にした町づくりの一例がここにあります。

・・・終わり・・・


富田林・寺内町の町並み(上)---大阪府 (改編)

2020-10-15 | 歴史を語る町並み

戦国時代の自治防衛都市と、江戸時代の商業都市が融合し、ユニークな町並みが形成されているのが「富田林・寺内町」です。

大阪の市街地から近鉄長野線で約30分。奈良との県境に聳える金剛山が近づいてくると、まもなく富田林(とんだばやし)駅。

駅を出て、向かい側の小道を入っていくと、重要伝統的建造物群保存地区に指定されている「寺内町(じないまち)」の町並み。一歩足を踏み入れると、丈の高い腰板に白漆喰壁、そして格調高い本瓦の屋根・・・。風格のある町並みが、目に飛び込んできます。

(上: 自治防衛都市と、商業都市が融合した富田林寺内町)

駅の案内所でもらったマップを便りに、町並ウオッチング開始。寺内町は、東西約400メートル、南北約350メートルの地区に、幾筋かの小道が碁盤の目のように走り、その両側に重厚な商家建築が軒を連ねています。

「寺内町」とは、一般的に「戦国期において、浄土真宗(一向宗)などの寺院を中心に、濠や土塁などで防御された自治都市」と、定義されています。

富田林寺内町の誕生は、16世紀半ば、永禄初年(1558~1561)。段丘の上に開かれ、周囲には土居を巡らせ、竹藪にして(有事には、竹槍にするためとか)、町筋が交差する部分は、直交ではなく、「当て曲げ」といって、半間ほど道をずらし、見通しを悪くするなど、戦時における防衛上の様々な工夫が見られ、都市計画の観点からも興味深い町並みです。

(上: 当て曲げの道の碑)

江戸時代は、幕府の直轄地となり、水運、陸運の要衝地として、一大商業都市に発展。現在の寺内町にある建物約500棟のうち、約180棟が、江戸から昭和初期にかけての建築で、主だった建物は、ほとんどがそれら豪商の店造り建築であることからも、その繁栄の歴史が窺われます。

町割りは六筋七町(後に六筋八町)で構成され、町の中央を南北に走るメインストリートが、「日本の道100選」にも選ばれている「城之門筋」で、その中心に、町の礎となった興正寺別院があります。

(上: 白亜の鼓楼は、町のランドマーク)

どっしりとした表門は、伏見城の門の一つを移築したものということで、通りの名の由来になっています。隣に聳える白漆喰の鼓楼もまた、城郭建築を思わせるもので、寺内町の景観に格調を与えています。

富田林・寺内町の建物は、商家ということもあり、見応えのある土蔵がたくさん見られます。中でも、庄屋をつとめたこともある越井家の長大な黒漆喰の土蔵や、南・葛原家の「三階倉」は、存在感があります。

全国的にも珍しいという「三階倉」は、文字通り、三階建ての土蔵。高腰板から続く白漆喰の壁面には、水切りのための小庇が、三層に重なり、それを支える「持送り(庇などを支える構造物)」や、明かり取り窓などが、外観に趣を添えています。

 

    

(上: 三階倉のある風景)

……つづく……

 

 


「塩の道」の中継点・足助の町並み(続き)---愛知県豊田市

2020-10-08 | 歴史を語る町並み

町並み見学の後、巴橋まで戻り、今度は「巴川」に沿って歩きます。そこは紅葉の名所で知られる「香嵐渓」。その名の通り、こんもりと横たわる「飯盛山」の山裾を流れる清流・巴川。そこに架かる朱塗りの「待月橋」が紅葉見物の起点です。

(上: 清流に映える待月橋と紅葉=11月の景)

秋の光景は見事ですが、訪れた時期は春浅い頃、広い駐車場もガランとして、眠ったように静まりかえっていました。

標高250メートル程の飯盛山を背景に建つ「香積寺(こうじゃくじ)」は、15世紀の創建と伝わる曹洞宗の古刹。木立ちの中に風格のある佇まいを見せています。

(上: 眠ったように静かな早春の香積寺の境内)

江戸時代初期に住職だった三栄和尚が、参道にモミジを植えたのが、モミジの名所としての香嵐渓の始まりとか。この地は、中世には足助氏の居館のあったところで、門脇の土塁が、その歴史を伝えています。

香積寺から川岸に下りると、左手に長屋門様式の大きな門が見えます。そこが「三州足助屋敷」の入口。

足助屋敷は、必要なものは自分で作った、かつての山里の暮らしぶりを今に甦らせた、一種のテーマパーク。3000平方メートルという広大な敷地に、山村の原風景が再現されています。

(上: 山村の風景を再現した足助屋敷)

中央の畑を囲んで、農家や土蔵、そして紙漉き小屋、炭焼き小屋、籠屋、木地屋などなど、なつかしい作業場の建物が建っています。それらの建物は、ただあるだけでなく、中では作業が実際に行われていて、様々な手仕事を見学したり、体験したりできます。

(上: のどかな時間が流れる山里の情景)

「自然とともに生きる暮らし」。大いに共感しながらも、現実には、なかなか難しいテーマ。こういう施設を訪れるといつも、遠くに置いてきた大切な何かを思い出します。

---終わり---