ゴータマ・ブッダの言葉を伝えるとされる初期経典に、次のような趣旨の話があります。
<言葉には「かつて存在した」「いま存在している」「これから存在するだろう」というように、過去・現在・未来の時制がある。このことは、立派な修行者はみな承認していることである。
しかるに、無因論者(因果律を認めない者)・非行為論者(「業」を説かない者)・虚無論者(偶然主義者)らは、この時制を否定して当たり前なのに、そうしない。世間から時制を否定する者だと非難されるからである>
この話が面白いのは、我々が意識する時間の秩序と因果律(「原因ー結果」概念)の相関性を明瞭に述べているからです。このとき、私が思うに、過去・現在・未来の時制が成立しているから、因果律を設定できるのではありません。
自らの体験を、因果律で秩序づけるから、そこに前後関係が創発され、過去・現在・未来と一方向に「流れる」、線形イメージの「時間」が現象するのです。つまり、「流れる」線形時間は、言語が構成するわけです。
ということは、言語の作用を減殺すれば、「流れる」「時間」は消失するでしょう。すると、どうなるか。
けだし、『正法眼蔵』「有時」の巻はこう言います。過去・現在・未来という秩序を持つ「時間」は解体され、感覚される事象がいかなる方向性も持たずにただ持続し・遷移し続ける「而今(しきん・にこん)」が現成します。そして遷移し続ける「而今」の運動は「経歴(きょうりゃく)」と呼ばれます。
このとき、事象がその「上」や「中」に展開する「流れる」「時間」それ自体の存在は否定されて、事象と「而今」は区別できない状態になります。この状態が「有時(うじ)」です。
「時間」ではなく「而今」、「流れる」のではなく「経歴する」。その時、我々は「存在している」と言うよりも、「有時している」のです。
<言葉には「かつて存在した」「いま存在している」「これから存在するだろう」というように、過去・現在・未来の時制がある。このことは、立派な修行者はみな承認していることである。
しかるに、無因論者(因果律を認めない者)・非行為論者(「業」を説かない者)・虚無論者(偶然主義者)らは、この時制を否定して当たり前なのに、そうしない。世間から時制を否定する者だと非難されるからである>
この話が面白いのは、我々が意識する時間の秩序と因果律(「原因ー結果」概念)の相関性を明瞭に述べているからです。このとき、私が思うに、過去・現在・未来の時制が成立しているから、因果律を設定できるのではありません。
自らの体験を、因果律で秩序づけるから、そこに前後関係が創発され、過去・現在・未来と一方向に「流れる」、線形イメージの「時間」が現象するのです。つまり、「流れる」線形時間は、言語が構成するわけです。
ということは、言語の作用を減殺すれば、「流れる」「時間」は消失するでしょう。すると、どうなるか。
けだし、『正法眼蔵』「有時」の巻はこう言います。過去・現在・未来という秩序を持つ「時間」は解体され、感覚される事象がいかなる方向性も持たずにただ持続し・遷移し続ける「而今(しきん・にこん)」が現成します。そして遷移し続ける「而今」の運動は「経歴(きょうりゃく)」と呼ばれます。
このとき、事象がその「上」や「中」に展開する「流れる」「時間」それ自体の存在は否定されて、事象と「而今」は区別できない状態になります。この状態が「有時(うじ)」です。
「時間」ではなく「而今」、「流れる」のではなく「経歴する」。その時、我々は「存在している」と言うよりも、「有時している」のです。
「実存」にあたることでしょうか。
時間の概念について平面図化できた。
平面図は3次元のものを線と面積で表したものである。
その平面図を立体化するには、視点を定める。
その視点から全ての角度を辿ると
空間を描くことができる。
その空間の線に動線が生じる。
筆者のいう経歴の一種である。
道元禅師は「而今」「経歴」という言葉に置き換えたのであろうか。
置き換えなくても、龍樹の教えで十分な気もしますが。
解体後、どのように生きるのかが今の私には重要であり、
地球、自転一日、公転一年
人間が作った概念に合わせて生きていかないと社会不適合者になる。
南京ハゼさんのような、事象を優しく奥深く捉えることの出来る実存を、無自性から作って行きたい。
でも坐禅をする前に、「時間」などに疑問を抱くところから始めないと、わからないのかもしれません。
さらに言えば、わかったのかどうなのかも、わからないのかもしれません。
そもそも、わかるというのはどういう状態なのか・・・というような、無限遡及するような「問い」を抱いてしまった場合にも、坐禅は一定の有効手段になるのではないのかと思うのですが、どうなのでしょうか。
もちろん坐禅よりも前に、まずは体調を整えることが何よりも大事だということは、私自身よく知っておりますが。
だからこそ「言語批判」が重要となる。
「言語」は、「自己」を虚構して、
人は、この「自己」に縛られる。
「言語」は、直線の「時間」を虚構して、
「現在、今」を、「手段」として生き、
「未来」の「目的」の方を重視するようになった。
「未来」の「悟り」が目的となり、
「現在」の「坐禅・修行」がその道具に貶められた。
「言語批判」によって、流れる「時間」が否定されて、
ただ「今」の一点に、全てが集約する生き方が現れる。
それが「有時」である!と思う。
踊れ 踊れ
間もなくやってくる
踊れ 踊れ
何もかも無くなるまで
生は語るまい 死が語るばかりだ