倫理的実存 2016年11月20日 | 日記 3.11の原発事故後、福島から自主非難を余儀なくされ、転校先の横浜で「いじめ」られた少年の手記。 「なんかいも死のうとおもった。でも、しんさいでいっぱい死んだからつらいけどぼくはいきるときめた」 私が考える倫理は、この「きめた」の一言にかかっている。 彼に深甚なる敬意を表します。 « 番外:今、ちょっと所感メモ | トップ | 反省など。 »
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(Unknown) 2016-11-20 02:36:23 南さんも、自分の意見(見解)を「ごもっとも、御尤も・・・御意(ぎょい)でござりまする!!」とバカの一つ覚えみたいに拝聴されることは「ハナハダ迷惑だ」、って言っていたことがあるよね。「俺は倫理的実存神じゃあないぜ!!」「完全無神論者の俺を神にさせるなよ!!」って事だと思うよ。神に祭り上げられちゃうと、間違える事を許されなくなっちゃうからね。倫理的想定外が南さんに新しい活力と新しい覚悟を生んでいる。今回の短い記事でも、この少年の心意気に触れて、ハッとさせられた・・・想定外の意見にふれた・・・だから南さん自身の再覚醒に繋がった・・・。これだよ、これだ!!そこだよ、それだ!!成人の肉体は後ろに進む、しかし思考は常に前に進む・・・もし思考も後ろに進むようになったら今度は老害がドンドン前に進む・・、オーこわ!! 返信する 後釜 (Unknown) 2016-11-20 02:57:18 う~むこの少年にはミドコロがある!!引き抜いて俺の弟子にして将来おれの後釜に据えよう!!・・・・・S長老 返信する 新型禅問答 (Unknown) 2016-11-20 03:11:27 しんさいでいっぱい死んだ人の無念をみた。だから僕がいじめに敗けてじぶんで死んだら申し訳ない。。。ここでの仏(仏性)の有無は如何ばかりか??仏によって外から課せられたのか??自己の存在理由を与えられたのか??生きて成すべき役目を仏から与えられたのか??論理的実存の根拠とは何か?? 返信する 訂正 (Unknown) 2016-11-20 03:16:17 論理的実存・・・>倫理的実存 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-20 03:17:59 生徒は、小学6年だった昨年7月、学校や加害者側との話し合いをする中でノート3ページにわたって思いを書き留めた。(原発事故の)賠償金をもらっているだろうなどと言い掛かりをつけられて金銭を要求されたり、ばい菌と呼ばれ「放射能の影響ではないか」と不安になったりした経緯が記されている。いじめは、小学2年から5年まで続いたという。代理人によると、手記は生徒が「同じようにいじめられている子どもの励みになれば」という思いで公表した。原発事故を「ネタ」にしたいじめに傷ついた心情や、抵抗できなかったことへの悔しさが記されている。金銭の要求については、「ばいしょう金あるだろと言われむかつくし、ていこうできなかったのもくやしい」と心情を吐露。「ていこうするとまたいじめがはじまるとおもってなにもできずにただこわくてしょうがなかった」とつづった。ばい菌と扱われたことには、「ほうしゃのうだとおもっていつもつらかった。福島の人はいじめられるとおもった」と明かした。また、学校の対応について「いままでいろんなはなしをしてきたけど(学校は)しんようしてくれなかった」などと振り返り、「なんかいもせんせいに言(お)うとするとむしされてた」と絶望感をにじませた。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-20 03:21:44 保護者は声明で「学校は金銭の要求を知っていながら、(保護者に)連絡もしてくれなかった」と批判。問題発覚を受け、市教育委員会の第三者委員会が公表した報告書のうち、いじめの内容を記した多くの部分が黒塗りだったことに触れ「詳細を公表してほしいと市教委に伝えたのに遺憾だ」と訴えた。避難先の小学校で2年生から5年生の間、名前に「菌」を付けられて、からかわれたり暴力を振るわれるなど、いじめを受けていた。今月15日、男子生徒の弁護士が会見を開き、いじめの行為の具体的な内容について改めて説明をした。弁護士によると、男子生徒は同級生から「賠償金があるだろう」などと言われたうえで、同級生らとゲームセンターで遊んだ際、その代金の支払いを負担させられていた。家にあった親の金を持ち出して、一回につき約10万円、これまでに150万円ほどを支払っていた。学校は、男子生徒が家から金を持ち出していることを把握していたが、男子生徒の親に対してそれを伝えていなかった。市の第三者委員会は、学校側の対応について「生徒への配慮が足りない」「教育の放棄に等しい」と厳しく非難する報告書をまとめていて、今後、市は事実関係について調査する方針。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-20 03:26:28 金額を聞く限りでは、子供が持ち出せるような額ではないが、それが事実だとしたら、事件とは別に、保護者の金銭管理も、どうなっていたかを問われることだろう。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-20 03:47:23 小学2年という幼い子供が、原発の1次被災から2次避難、さらに、3次被害に遭っていたのですね。この5年間が、ずしりと重くのしかかってくるようです。 返信する 「倫理的実存」、キルケゴールの哲学論 (Unknown) 2016-11-20 03:50:02 出典、ネット検索「倫理的実存」@キルケゴール(1813-1855)ーー哲学入門。キルケゴール曰く、実存の三段階:「美的実存」、「倫理的実存」、「宗教的実存」「実存」論とは「在るから在るのだ」という現成受容に視点を置きながら、「重要なのは、私にとって真理であるような真理を見出す事、私が其の為に生き、かつ死ぬことを願う様な理念を見出す事である」と述べ、主体性が「真理」であるという思想を追求した。(コメ者発言)南師の追求しているモノは何??仏教者であるという事??哲学者的「真理の探究者」であると言う事??だから「実存の無根拠性」が南さんの追求する【真理】なわけですね。 返信する この分岐点は、何なのか? (イエスちゃん) 2016-11-20 03:57:23 悟った後、ジャイナ教の教祖「マハーヴィーラ」(偉大な勇者の尊称)は、最後は、断食で亡くなった。他方、仏教の教祖「ブッダ・覚者・仏陀=釈尊」は、最後まで生きるを選んだ。しかし、80歳にもなり弱った体だったので、供養物に食中りして、とうとう亡くなった。この分岐点は、何なのか?南師曰く:「僧になったら、もはや自殺できなくなる」出家に際して、このハードルが、一番高かった。(第一戒:生きものを傷つけないこと(アヒンサー、ahiṃsā)、このアヒンサーを守るための最良の方法は「断食」であり、もっとも理想的な死はサッレーカナー(sallekhanā)、「断食を続行して死にいたる」ことである。マハーヴィーラも断食の末に死んだとされ、古来、段階的な修行を終えたジャイナ出家者・信者のみがこの「断食死」を許された。出家者のための五つの大禁戒(マハーヴラタ、mahāvrata)、(1)生きものを傷つけないこと(アヒンサー)、(2)虚偽のことばを口にしないこと、(3)他人のものを取らないこと、(4)性的行為をいっさい行わないこと、(5)何ものも所有しないこと(無所有))もう一度「戒」を考える。戒とは、他律ではない、自戒である。神からの命令ではない。生物には「生きろ」という声がいつも聞こえてくる。だから、殺してはならない。殺させてもならない。戦争、絶対反対。南スーダンに、自衛隊を送るな!自衛隊員が殺す場面に立たされる。別の支援の方法を模索すべきである。日本は。 返信する キルケゴールはクリスチャンだからそうなる。 (イエスちゃん) 2016-11-20 04:06:40 キルケゴールは、キリスト教の世界で生きているからそうなってしまう。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-20 04:10:29 「倫理的実存」キルケゴールのコメを書いている間にコメ(03:17:59---03:47:59)が這入って、今更ながら現状の残酷さを知った。南さんの短い記事だけでは何一つ分からなかった真理(=現実の事情)が其処に遭った。教えてくれてありがとう。倫理的実存を【決めた!!】の一言にかかっている、という話に引っ張って終わらせないで、書かれている内情についての南師の私流思想も披露してほしいと思う。 返信する 第一戒 (Unknown) 2016-11-20 04:48:11 生き物を殺してはいけない、傷つけてはいけない、と言う根拠はなにか??「実存の無根拠性」がその根拠となるのか??幾ら遺産が「生き物を殺してはならない」と叫んでも、日本人の小学生の子供からして、同級生を「いじめ」で殺し続けている。結局のところ我々の全ては黙して語らずで「臭いものには蓋をせよ」、であった。外部の単なる論評家に過ぎず、何の結果も産むことが出来なかった。それが見せかけの調和の美だからだ。(へっぴり腰日本人のだれがこれからの世を変える事が出来るというのか??)遺産の言う理想論を現実論に進化させる提言が出来なければ、その理想論は死語に等しい。世界の誰も認めない空論にすぎない。外野がよくやる常套手段だ。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-20 05:14:25 遺産が「キルケゴールはキリスト教徒だからそうなってしまう・・・」、と言ってもキルケゴールが「倫理的実存」という言葉を最初に使いだし、西洋哲学も読み込んでいた南さんが「倫理的実存」という思考法を私流南式仏教論の中に取り込んでいった、という事じゃあ無いの。キリスト教徒でない南さんが使う「倫理的実存」ってどういう意味だと遺産はい言いたいの?? 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-20 06:50:06 見識表明をする主役は遺産なので、遺産に疑問が集中するのを御赦し頂くとして・・・(大変有難く感謝していますよ・・・胸をお借り致します!!、の感じ)さて、遺産言では、キルケゴールはキリスト教論理(倫理)だから仏教論理(倫理)とは違う(暗示的にだが・・・)、とか貴方は西洋論理の頭で論議しているから仏教は理解出来ない、とかの前提を設けて、他者の意見を誤解(誤読)として排除している(様にみえる)。しかし南さん自身が、著書『眼蔵を読む』結びで、自分の抱えている問題の解答を探すべく、多くの仏教書を探し回ったが答えが得られなかった。で西洋哲学書(即ち西洋論理学の粋!!)の中を探して見ると、反って答えのヒントとなる鍵を見つけられた、的な事を公言している。今回の「倫理的実存」という言葉もその流れから来ており、私流南式仏教論は西洋哲学と深くリンクしている(・・・だから私流となるのだ!!)。つまり南さんを読み解くには西洋的論理(倫理)思考を用いる事が欠かせないという事だ。これが南さんの特異的仏教者の実存という事でないか、しかも無神論的無根拠信奉者。。。う~む成程難しい訳だ!!そう考えてみると、誤解者(誤読者)は私なのか遺産なのかどっちなんだろうかと思う?? 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-20 06:52:42 神とか梵天とかが主語に、「在るから在るのだ」かな。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-20 07:32:46 私流の確信犯的思考によれば・・・、2500年前の釈迦の時代では、目にする全ての森羅万象の「実存の根拠」など分かり様も無く、すべてを「アートマンとブラフマン」に帰せざるを得なかった。で釈迦が部分否定的に「非我、非常」と仮定(仮設)した。それだけでも主流バラモン教(ジャイナ教)へ対する大きな謀反的思考法であった。それを後代の仏典作家たちが「無常・無我」として絶対真理的に固定した(形而上学のてっぺんを行く絶対的無常・絶対的無我として)。その後になってそれでは布教出来ない事が解って、梵天思想(12神信仰)を仏教思想に混入させていった。だから仏教界には無神論者と有神論者が混在する形となった。遺産得意の「~~は釈尊の仏教で無い」は、釈迦の心理状態を正確には言い切っていないと感じる。釈迦は形而上学的論争に振り回されない為に(自分の眼に触れる範囲での)「非常・非我」を言っただけな筈だから・・・ 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-20 08:15:49 あら、今回は「深甚なる敬意」なのね。 返信する 言葉の意味を共有し、混乱を避けるために・・・ (イエスちゃん) 2016-11-20 10:00:19 http://www.l.u-tokyo.ac.jp/dls/cleth/web_cleth/part1/about_more.html「倫理」と「道徳」は大体同じ「倫理」と「道徳」は ≒ イメージ 倫理:・理(なぜそうなのか)が伴う・適切な心のあり様であっても、どうしたらよいか、迷う場面もある 道徳:・心の持ちように重点がおかれる・心のあり様と行為が直結しているような場面が念頭にある 倫理は一般に、人々の行動やその際の姿勢・態度などをめぐる「こうすべき/あるべきである」あるいは「こうせよ/こうあれ」といった〈指令〉として表現されます(「嘘をついてはいけません」、「人には親切にするべきだ」など)。こうした指令のなかでも普遍的なもの(つまり、いつでも、どこでも、誰にでも該当する)が、私たちが社会の中で生きていく際の「倫理的」ないし「道徳的」〈ルール〉ないし〈規範〉です。「倫理」と「道徳」はほとんど同じ意味で使われますが、現代の日本語としては、「道徳」は、私たちの文化がもっている諸規範を事実として前提して、それを教育したり、身に着けたりするものとして考える文脈で使われる傾向があります。これに対して「倫理」は、私たちの文化の中で流通しているそうした諸規範を、理に適ったものとして理解した上で、あるいは時には規範のあるものをより適切なものに改訂する作業をした上で、自分たちが主体的に携えるものとしようとする傾向があります。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-20 10:02:28 そ~だね、そ~そ~。年寄をうやまわなければ社会は崩壊するからね。根拠はないけどね!!五木寛之がこれからの世(日本)は「嫌老社会」になるって憂いているからね。南ちゃんも嫌老されない様に、分かり易い日本語しゃべってね!!遺ちゃんもね!! 返信する 明確化⇒「私が考える倫理」は(神・世間からの命令ではなく)この「きめた」の一言に(自分のこの決断を基盤としている)「かかっている」。 (イエスちゃん) 2016-11-20 10:17:14 南師の発言の「意味の共有化」の為に・・・『「なんかいも死のうとおもった。でも、しんさいでいっぱい死んだからつらいけど「ぼくは」「いきるときめた」」 「私が考える倫理」は、この「きめた」の一言に「かかっている」。』明確化⇒「私が考える倫理」は(神・世間からの命令ではなく)この「きめた」の一言に(自分自身の、この「決断を」基盤としている)「かかっている」。全てのその後の行為は、これを基盤として行われる。そして、これは、誰の責任でもない。自分自身の責任である。「神」も「世間」も「社会」も「国家」も、あらゆるものに、自分は、これの責任を押し付けない。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-20 10:24:30 はー…「明確化」って言葉の意味がわかんなくなってきますわね、↑こうなるとね。 返信する 『殺してはいけない』は、誤訳、意訳 (イエスちゃん) 2016-11-20 10:32:32 旧約聖書の『殺してはいけない』は、誤訳、意訳です。原文では、平叙文です。「私は殺さない」神の祝福の中においては、「私はたとえ殺そうと思ってもそれは出来ない状況です」という神を賛美している、神に感謝している、「人間の側から」の神への応答です。だから、神からの、一方的な、理由なしの、命令ではありません。原文では。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-20 10:34:41 これ(原発事故避難者)に対する差別っていうんでインパクトをつくってるかもしれないけど成績が悪いから、顔がまずいから、背が低いから、しゃべるのがへただから、年寄りだから、なんだからどうだから理由なんてどうとでもつくれる。差別したいんだったら。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-20 12:28:04 胃酸に質問旧約聖書の中では「神」は「我々の神」ですか?つまり、「それを神とわかってない者」は旧約聖書の中にいますか?「神の祝福を受け取っていない者」とか。それに対しては「殺そうと思えば殺せる」という現実があったりしないんでしょうか? 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-20 12:31:47 または、正しい神を受け取らせる、とか。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-20 12:38:45 リスペクトしてます!!!ハリーポッターかな。反省文を自分の血で書いてたんだっけ?リスペクトしてます!!!私は機械的に機械にその言葉を映し出させる。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-20 23:14:52 決めてしまうと、無我、空、との折り合いがない。難しい、決めれない。道具である言語内で、自己を神としていきていきましょう。しかない、ということか。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-20 23:28:26 ああ、そうだった、神とか絶対真理なんてあるのかないのか無記。何だか分からない実存が尽きるまでやり過ごす知恵が仏教にありますよ、ということでした。 返信する 「旧約聖書」のご質問へ (イエスちゃん) 2016-11-21 03:50:12 旧約聖書は、勿論、人間が著述したものであり、その内容は複雑であり、中には矛盾している。先ず、次のように大きく変化した。・前期の「イスラエル十二部族の宗教」紀元前900年頃から・後期の「ユダヤ教」紀元前500年頃・バビロン捕囚後前期では、「拝一神」であり、自分以外の多くの民族には各々守護神が存在することを認め、「イスラエル十二部族は、その中で「神ヤハウェだけ」(=つまり、拝一)を崇拝する」だった。だから、戦争は、人間レベルの戦争だけでなく、この「民族の神」同士の戦争でもあった。しかし、バビロニア帝国に敗けてしまい、エリート層(貴族と神官たち)が、敵の首都バビロンに捕囚されてしまった。(大多数の農民はそのまま残り農業を続けた。当然だが)これによって、バビロンの捕囚の地において、神はなぜ敗けてしまったのか?「敗けた弱い神ヤハウェ」を今後も崇拝し続けるのか?の大問題が発生した。この「信仰共同体の危機」に対して、「唯一神」が発明された。神ヤハウェは、「バビロニアの神と民族」を使って、不信仰のイスラエル十二部族を罰した。と「起死回生の神学」を創造した。発明した。ここから、神ヤハウェが「唯一の神」であり、「バビロンの神」は偶像である。という事になった。この信仰が「ユダヤ教」であり、これを信じる民が「ユダヤ民族」である。(だから「人種」ではなく、「信仰共同体」である。)旧約聖書も最初に造られたのが、紀元前900年頃で、「ダビデ王朝神話」であり、「ダビデ王朝の正当性」を保証する政治イデロギーである。「聖書の物語の時間としては最初」である「創世記」は、それから大分後の、紀元前500年頃のバビロン捕囚の期間に創作された。これは、「強力なバビロン神話」巨大な宗教を目の前にして、それに対抗する「ユダヤ神話・神学書」を創作した。ここで、初めて「世界で神は、ヤハウェだけ」とされたので、「日本人の神」ともなった訳です。(まだ日本人はいませんが。)しかし、直接に神ヤハウェを知らなくても、「神が創造した自然」を知って、それを手掛かりにして、神を知る事ができている。という考えも生まれています。旧約聖書の中には、「殺そうと思えば殺せる」という考えもあり、そうでない考えもあります。「600年間以上の長期の信仰」ですから、その間に信仰内容がどんどん変化していきますが、だから「新しい書物」も追加しますが、「既存の書物」に対して以前の文章を変更や削除するのではなく、新しい信仰を「書き加える方式」なので、「当初・原本」から10倍近くに膨れ上がるものもあります。だから「一つの書物の中でさえ」その中の信仰記述が矛盾することもあります。長大な時間と膨大な人々によって、「旧約聖書」が創作されています。紀元前300年頃に、ほぼ現在の旧約聖書は完成しますが、正式には、紀元後、ユダヤ戦争で敗北した時に、「旧約聖書とする文書の範囲」が確定されました。「エルサレム神殿」がなくなったので宗教儀式ができなくなり、それ以降「旧約聖書」が「信仰の中心」になりました。なお、各部族に至聖所があり神殿があったのを、破壊させ、礼拝を「エルサレム神殿だけ」にしたのは、ダビデ王の息子・ソロモンです。その「統合された唯一の神殿」が破壊され、「旧約聖書」だけが拠り所になったのです。 返信する 「仏教は、なんでもあり」ではない。…と思う理由 (イエスちゃん) 2016-11-21 04:24:42 まず、歴史上の釈尊は(1)「ヴェーダの宗教」を捨てた。 多神教であり、儀式で(呪文や火を焚いたりして)この神に、影響を与える、が基本。 後にヒンドゥ教になった。(2)仏教と同じ、当時の宗教家「六師」の教えではない。アジタ・ケーサカンバリン(Ajita Kesakambalin 阿耆多翅舎欽婆羅) - 順世派および後世のチャールヴァーカ(Carvaka)の祖。唯物論者で、人間は地・水・火・風の4元素から成ると考えた。パクダ・カッチャーヤナ(Pakudha Kaccayana 迦羅鳩駄迦旃延) - 七要素説(地・水・火・風・苦・楽および命)。プーラナ・カッサパ(Purana Kassapa 不蘭那(不蘭)迦葉)) - 道徳否定論者。悪業というものもなければ、悪業の果報もない。善業というものもなければ、善業の果報もないという考え。マッカリ・ゴーサーラ(Makkhali Gosala 末迦梨瞿舎利) - 裸形托鉢教団アージーヴィカ教(邪命外道)の祖。決定論者。サンジャヤ・ベーラッティプッタ(Sanjaya Belatthiputta 刪闍耶毘羅胝子) - 懐疑論者マハーヴィーラ(ニガンタ・ナータプッタ Nigantha Nataputta 尼乾陀若提子、本名ヴァルダマーナ) - ジャイナ教の開祖。相対論者。(3)仏教の旗印「三法印」の範囲に入っている。「諸行無常」「諸法無我」それを明らかに知って「涅槃寂静」この(1)(2)(3)を満たすものを「仏教」と呼ぼう。これでいいでしょう。結論:「梵我一如」で、「我」を「梵」で補強する思想は、ヒンドゥ教の本質であり、これは「釈尊の教え」に反する。「龍樹菩薩の教え」「道元和尚の教え」は「釈尊の教え」を引き継いでいる。補足南師は「諸行無常」を知って、救われた。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-21 04:32:28 >「私が考える倫理」は、この「決めた」の一言に「かかっている」・・・・>「自分自身の決断」として・・・@11-20,10:17:14遺産語録西洋論理では「自分自身の決断」という事象が絶対的真理(真実)即ち、独立性を持ったモノであるかどうかの疑念をも問うている。「真の自立的決断=他者から課せられない、他者から何の影響も受けない、自己絶対的独自性の思考の果=つまり因がない果」みたいな事・・・そんなことがホントに在り得るか??また縁起説を説く仏教思想からも「偶発的・自立的・自生的」な「自分自身独自の決断」なんかが有り得るかを問われて来る。議論の根拠は西洋哲学と同じ「因なくして果があるか??」今回の少年の場合では、彼が(生きると)決めた根拠(因)は、震災(津波)で必死に生きようと逃げ悶(もだ)えて、結局命を落とした人々の無念さ・(生への)執念が、少年を虜にして(=心・脳裏に焼き付いて)、何が有っても自分は生きなければ、彼らに対して申訳けが出来ないという、外部から課せられた(=託された)思いであった(=或る意味では脅迫観念という意味となる)。これが「いじめが有るから死を選ぶ」という選択(=決める)より強度であったが故に、結果として「生きる」を選ばされた、ということであろう。別に「自分で決めた」という大袈裟な事では無く、状況判断的(体験的)にそう決めさせられちゃった。この観点からは、今回の記事からは「倫理的実存」は現成していない。(という気がする、私的には・・・)。 返信する ユダヤ教の「サドカイ派」と「パリサイ派」について (イエスちゃん) 2016-11-21 04:49:05 ユダヤ教「ヘブライズム」とギリシャ思想「ヘレニズム」の関係。本来のヘブライズムでは、人間は塵から造られ、死んで塵に戻る。神の祝福は、子孫・民族の「永遠の繁栄」にあった。「産めよ増やせ、地に満ちよ!」これが、一番の信仰の源泉であった。(「個人」ではなく、「民族」が対象。中心の関心。)だから、子供が生まれないのは最大の不幸だった。サラは、80歳の老女になって、初めて妊娠した。そもそも、ここには「個人の復活」などは、なかった。しかし、ギリシャ思想と遭遇して、「個人」というのを知った。ここで今までなかった「個人の復活の願望」に目覚めた。サドカイ派は、元からの、正統的な「個人の復活はない」の信仰であり、パリサイ派は、モダンな、「ヘレニズムかぶれ」の「個人の死後の復活はある」の信仰だった。またどちかかというと合理的な傾向があった。ただし、両者とも「旧約聖書」の律法は厳密に守った。「神ヤハウェとの、救いに至る契約」「約束」なのだから当然である。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-21 04:51:24 デジタル大辞典、心理療法カウンセリングルーム「ジューク」より・・・自殺願望=疾病や人間関係などの解決しがたい問題から死を選択しようとする事。生きているのが嫌だから死にたいと思ったり、死ねるモノなら死にたいと想う思い。体験している困難に対する心的反応。だからその原因が除去されれば死にたいという願望も消える。希死念慮=具体的な理由は無いが漠然と死を願う状態。なんか訳分からずに死ななければならないという脅迫観念。客観的に理解し難い理由で死にたいと願う欲求。南さんは希死念慮があったので自分を仏教に封じ込めて自死を封じた。芥川龍之介は漠然たる不安感に憑りつかれて希死念慮を実行に移した。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-21 05:03:09 おお、成程!!今回の遺産の説明は分かり易くて良かったですね。Thanks!@11-21,04:49:05サドカイ派・パリサイ派でついでに『旧約聖書』に出て来る数々の奇跡に対して、サドカイ派、パリサイ派はどう受け取って(信じて)いたのか遺産の所信を教えてください。 返信する 追加 (Unknown) 2016-11-21 05:18:37 つまりキリスト教は「ヘレニズム」かぶれの粋をなす思想と遺産は言いたいわけですね。キリストはそれを信じていたのでしょうかね??サドカイ派も、旧約書世界での神が起こした奇跡を、「神ヤハウェとの救いに至る契約」「約束」の証拠(=実証)として信じていたという事で良いのでしょうか?? 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-21 05:57:14 仏教と呼べる条件@11-21, 04:24:42遺産語録諸行無常、諸法無我、涅槃寂静の三法印。では4法印(目)を構成する「一切皆苦」を除外して考えても良いのですね???南さんは(第3法印の)涅槃寂静が解らないと言ってる筈ですが、分からなくても良いのですね???(遺産曰くでは)南さんは「諸行無常」を知って救われたと、いうけど、諸行無常の何を知ったので救われたのか今一つ分かりません。もう少しかい摘まんで説明して下さい。「この世には常なるモノは何一つない!!」事は今では現代人はほぼ誰でも知っているが、ただ単にそう知る事ではいけないのですか??? 返信する 康成ちゃん~のばあいにわ~ (Unknown) 2016-11-21 06:31:07 川端康成ノーベル文学賞受賞作家、1972年72歳でガス自殺(ノーベル賞は1968年受賞)。若年からの、孤独な憂鬱な気分が彼の中に巣食っていた。1970年三島由紀夫の自刃直後の現場を目の辺りにして以来、しばらく床に臥せるなどを繰り返していたが、それまで見られなかった言動をする様に成り、他者に対する攻撃性もあらわになった。で、1972年にガス自殺をとげた。(コメ者コケコメ);彼も潜在的希死念慮がズウッ~と有ったのかもしれない。彼も南さんの様に仏門に入って、自死を封印するべきだった、勿体ない事をした。。。無情でやるせなし!! 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-21 06:37:37 ・・・・決めてしまうと、無我、空、との折り合いがない・・・・ひゃー。理屈に殉死するのか。 返信する AI(人工知能)実存の根拠 (Unknown) 2016-11-21 08:01:48 日立AI幸福研究の技師長、矢野和夫氏へのインタビュー記事@河合薫、日経オンライン矢野氏曰く、宇宙の138億年の歴史に於けるあらゆる事が数学的に説明出来ているのに、この宇宙の端っこにいる地球の中の人間の心だけが説明出来ないのはおかしいと思って居るんですよ。だって、それって人間だけは特別なんだって言ってるようなものでしょ?~~、物理学の見方からすれば、宇宙の謎が方程式で解けるのに、人間だけは解けないのはおかしいですよね。何と言うかそういう事はあっちゃいけない。みんな統一的に説明出来ないとおかしい。~~、物理学の窓から覗いたら宇宙も人も同じだ。物と、人とか心というものは違うんだという二元論が言われているのはこの数百年に過ぎない!!(最近の妄想ですね!!)(コメ者コメ)。人間の「実存の無根拠性」という概念もAI物理学で「統一理論」の方程式で「実存の根拠」として変更が余儀なくされるのですかね?? 返信する 一切皆苦と涅槃寂静について (イエスちゃん) 2016-11-21 08:49:26 『4法印(目)「一切皆苦」』追加して、厳格化しても、いいです。どちらでも、お好きなように。ここでは、わざと外して、条件を「緩く」しました。みんなの合意を「得易くする」ために。『南さんは(第3法印の)涅槃寂静が解らない・・・』いいえ、違います。「悟り」「涅槃」が、どういう事か解らないと言っているだけです。後半の「寂静」は「静まる状態」であり、これは明確です。「欲望が、静まる、消える」「死苦のこだわりから、解放される」です。だからこそ、釈尊自身が、それまでの「課題」を解決できたと自覚し、その「理論と実践と」を、布教するように変わりました。 返信する 発菩提心 (御坊哲) 2016-11-21 14:36:51 多くの人が死ぬのを見た。何度も「死にたい」と思うほどの不条理がわが身にも降りかかってきた。それでも生きて行こうと「決めた」。 返信する Unknown (いわし雲) 2016-11-21 17:29:25 今日の記事で、何年か前に南さんが仰っていたことを思い出しました。『生きる決意を決めない限りは、善は生まれない』『善も悪もない世界に入ることを選ぶのか、悪いことをするかも知れないが、この世に善があるかも知れないことに賭けて生きるのかという選択』 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-21 18:31:54 生命を持つ生き物は生命体の自然法則(DNA)によって生きることを課せられている(と思う)。これは自分の自由意志で「生きる事を選択した(決めた)」と言う意味ではない。単に今此処に現成している自分の生命を当然の事として無意識に受容しているに過ぎない(=自然の成り行き、現成受容)。それがDNAの設計図な訳だ。では自死する(=死ぬ事を決める)とは何を意味するか。それは生きているという生命の自然則を自らの決意で破壊する事である。これこそ自分の意志の作用であろう。人間だけが自死を選ぶ(=決める)事ができる。「生きる」という事に関しては、他の動物と同じように単にDNAの自然則に従っているだけで、そこに自己の決意なるモノは存在しない。(注)人は「生きる」か「死ぬか」の選択を他者から選ばされる時のみ(=選択を強いられた時のみ)、「生きると決める」という状況(決意)が発生するという事に過ぎない(と思う)。左様な論理からすれば通常では、「生きる」ことを自分の意志で選択した(決めた)という事にはならないのではないかと思う。 返信する 追加 (Unknown) 2016-11-21 18:45:31 生まれつき希死念慮が強く、自分は死(=自死し)なければいけないのだという脅迫観念に駆られる体質の人は「生きる決意」というものは必要であろう。自殺願望者もおなじであろう。しかし通常のケースではそうならない。 返信する 追追加 (Unknown) 2016-11-21 19:07:54 「生きることに決めた」と言う言葉は面白い表現法である。時間概念が這入っていないからだ。生きる事に決めたから、今は死なずに生きている。では明日はどうか。明日も生きる事に決めたから明日も生きている。では明後日はどうか、生きるのか死ぬのかどっちなんだ???かくのごとく毎日毎日決意し続けなけれ「生」は成立しない。それに対して「死ぬことにした」なら今、死んでしまえば全てが終わる。一度の決意で済む。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-21 19:19:55 それいうなら毎日っていうより刹那滅でしょ。その都度決意しなきゃね。 返信する Unknown (ZIP) 2016-11-21 19:20:08 原発政策と国家の倫理原発交付金と自治体の倫理原発事故と電力会社の倫理いじめと学校の倫理いじめッ子とその親の倫理社会にとって倫理とは幻想である。倫理なき社会に背を向けて生きること人間の自由意志を否定することいずれも宗教の役割である。いじめを受けた少年の決断は倫理的である。倫理とは責任である。責任とは他人の行為を引き受けることである。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-21 21:40:45 胃酸さぁ。「ナントカについて述べよ」ってお題を出されると「カクカク然々」ってドッサリ引っ張り出してくるけど「それだけ」って感じがするわ、なぜだか。正直、悪いけど、全部は読んでないんだけどね。なんか、そんな感じ。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-21 21:47:14 …………菩薩って倫理的なの? 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-21 21:49:12 胃酸きっと、ここに書いてるみたいにして書いたレポート?論文?が花丸付き「優」だったんだね。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-21 21:58:32 原発避難民の少年がいじめを受けて、っていうのは。なんか、いやで。その子は今も生きてて、どんなふうにかして暮らしてるんでしょ?その子のあるときの決断はその子の人生の重大な何かなのかもしれないけど、その決断をしたところで話が終わってるわけじゃないでしょ。だから、その決断が「何」なのかを解釈するよりやることは他にあるんだろうなきっと、って気がするみたい。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-22 00:24:08 倫理的実存、言語内的実存、南さんは実存主義のようです。だとしたら、その少年に深く関わって、もっと具体的な話し合いをしたら良いのではないか。新聞記事によると、少年は「なんかいもせんせいに言(お)うとするとむしされてた」ってあります。南さんも、恐らく、具体的な話が進むと『「深甚なる敬意を表し」ましたが、それを発言したのは私ではあるが南ではない。非南である』とか言ってスルッとかわすような気がする。だって無根拠なんだから。もう、言語遊びせず、はっきり、分かりやすくおっしゃったら。空の暴露。 返信する 生命体はオートノミー(自律、自主)の組織体 (Unknown) 2016-11-22 00:37:07 生きている生命体は、DNAデザインによりオートノミー(自律的)に生きている。生きるとは、生命体にとって自然現象である。(注;自然現象とは意志や働き掛けとは無関係に自然の法則によって起きる事柄という事)。生命体の本来の根拠(=今、存在している理由)は、心の意志力・意識性を発揮して「生きると決めた」のでは無く、DNAの生存戦略が自律的に働いていて、いま此処に自己としての実体を構成していると言える。更に生命体は種族保存のDNA則により『善』を行う。互いに助け合う事により共同体がうまく機能する事を知っているからだ。『悪』を行えば個体としては繫栄する事が有ったとしても共同体としては滅亡に向かう事を潜在意識下で知っているからだ(経験則)。善の根拠は此処に在る訳だ。処が希死念慮が有る人は、死ぬ事が善であると思ってしまう。だからこの世に存在する為には「生きると決める」事に多大な決心・決意が必要となるのだと思われる。希死念慮の或る人にとっては「死」は善であるのだから「死苦」概念は存在していない。注)今回の少年の場合は、他者からのいじめが原因で自殺願望を起こしたケースだから希死念慮とはちがう。いじめという原因が無くなれば自殺願望も消えるわけだ。どうしたらいじめが無くなるか????更に極度にいじめが続けば、この少年は「生きるに決めた」を容易に撤回してしまうかも知れない。倫理的実存とか何とか、へったくれになってしまうかも知れない。 返信する 追加 (Unknown) 2016-11-22 00:48:14 上記の様な視点から見た場合、自己の実存の根拠とは・・・、オートノミーな生命体の、共同体組織で在るという観点から、善を行うという役目(=存在の理由)が付与された、という言い方も可能となる。誰から付与されたのか??親である生命体からである。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-22 00:50:41 生きている生命体は、DNAデザインによりオートノミー(自律的)に生きている。って後付けです。私の心は女だが、体は男で出来ている。この男の体では既存社会では生きづらい。身体は男、しかし、女が好きではない。どうしても男を求める。こんな人もいる。 返信する 追追加 (Unknown) 2016-11-22 01:06:46 と言う事は、もし道元師の現成公案が現成受容を唱えている(?????)とすれば、生命体のDNAデザイン思想を肯定しているという事になり、「自己と言う実体の無根拠性」を主張する事は、道元師の主張に反するという事になるのではあるまいか??どなたか道元師の現成公案では現成受容を言っているのか、現成否定を言っているのか講釈してたもれ遺!! 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-22 01:14:35 >DNAデザインDNAがデザインしてるの?DNAってATGCの物質でしょ?だったらなんで自律する意思あるの?物質に意思なんてないよね? 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-22 01:15:25 ありがたいなぁこの、コメ欄。教えて誰か。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-22 01:19:10 オートノミーはあとずけ??此の世は統計学正規分布でできている。『存在』はすそ野のひろい釣鐘?富士山?状で構成されている。同性愛者は多分左翼のすそ野、希死念慮者は多分右翼のすそ野。つねに一定数(2σの下部、3σの全てで)存在する。当然である。科学が実証的に認知した事はすべてあとずけという事であろうが、実際にそうであると認知されればOKである。父親が子供を自分の息子だと認知するのはあとずけである。認知しさえすればそれでよい。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-22 01:26:45 DNAは単なるATCGの無意味な羅列ではない。有意味性を帯びた遺伝情報である。DNA配列はジノタイプ(生まれながらの個性)を構成している。人の性格はジノタイプが50%、フィノタイプ(後天的に取得した個性)が50%で構成されている。 返信する 一億「死にたくない」という執着!自分の死の受容・覚悟 (イエスちゃん) 2016-11-22 01:34:50 「釈尊の教え」は、結局は「自分の死の受容」の「テクニック、向かい方」だと思う。一億「死にたくない病」に罹っている。大部分が無宗教だから、自分で「自分の死」のことを考えなければ、ならなくなっている。無暗に、老人向けに、若返る体操・食事・ボケ防止の心得、…が氾濫する。それでも、最後は、仕方なく死ぬしかない。「自分に日々確実に迫っている死」それへの「死にたくない」で、必死の延命で、医療費が膨大になっている。老いた場合の「自然な死」の受容。老人が「体力がなくなっている」から、「軽い風邪」で亡くなる。「簡単にこじらせて肺炎」で亡くなる。これは非常に自然な風景である。逆に、若い人の死は、非常に痛ましい限りだ。自死はなおさら・・・。「自分」「家族」「社会」が「「老いによる」死の受容」を真剣に考える必要がある。そして、一番に重要なのは「老いが原因で、肉体と頭脳とに起こる、自分の死を、自分が納得して受容する」事である。(周りからの無言の「早く死ね」の圧力があり、「生きているのは申し訳ない」と肩身の狭い老人がいるかもしれない。「早くお迎えが来てほしい」願望もある。)「自分の死」を考えることを拒否し、逃げまくり、「アンチ・エイジング街道を、只管、突っ走る」これが幸福なのか。この頃、日々体力がなくなり、横になっていることが多くなっているが、よくこの事を考えている。大分、昔、最初のインドでの観光旅行で(安いツアーだったので列車で移動)田舎で、列車を待っていた時に、暑い日中、プラットホームに、行き倒れの老人が横たわっていて、もう、干からびた体だが、瞳だけが濡れていて、そこにハエが集まってきていたが、ぴくりとも動かない。周りのインド人は、みんなそっとしていた。単に物体が存在するだけというような無視をしていた。(そのように思えた)。その隣では少年たちが騒いでいた。多分、このまま静かに死が訪れるのだろう。子供が成人し独立して生きていけるようになり、老人になったら、家族から離れ、出家・家出し、「遊行」して、どこかの「道路」や「駅のプラットホーム」などで、旅の途中において、「行き倒れ」て、そのまま一人死んでいく。もしも、永久に輪廻転生するのならば、「親」も「子」も、別々に輪廻し、他人同士であり、「或る家庭に或る時に勝手に、他人が侵入して、誕生した」という関係なのだろう。だから、自分の死に際して、家族の看取りが一人もなくても、それも覚悟の内だろう。(「ガンジス川」が神様そのもの、という感覚も、よく理解できなかったが。)ここには別の「自分の死の受容」が完成していた。インド土着信仰の深い智慧。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-22 01:35:28 いあいあ意味があるのは調べればなんとなくわかった気にはなるんだけど。そのDNAがデザインしてるのかって聞いてるの!物質が自律という意思をもった運動するのかってこと。核酸かなんか知らんけどアミノ酸やらタンパク質が単体で動かないでしょってこと。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-22 01:36:22 生きたい、生存したいというのが生命体の基本戦略である。DNAが存在するからそれが出来ている。細胞の中にDNAがなければ増殖出来ない。生命体が存在出来ない。DNAは石から抽出できない。石は自ら増殖できない。つまりDNAデザインで生命体が存続できている。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-22 01:36:52 一生言語批判してたらどう?死人に受容なんていらんのでしょ? 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-22 01:48:31 じゃ聞くけどさ。一つの細胞が分裂し決め打ちのように自動配置され器官ができるってどういうことなの。その器官はすさまじい機能をもつとか意味わからん。複写だけだったら分化はしないよね?DNAという物質だけがこういうことやってるっていうの?物質が自律的、自動的にとかありえんとおもうんだけどどう? 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-22 01:49:01 タンパク質単体は生命体ではない。たんぱく質が有機的に無数に結束すると生命体となる。命として動き始める。内胞されるタンパク質が光(光子)に励起されて、特有活動をおこす。それで有機体としての回路が成立し始める・・・でそれが生命と呼ばれてくる・・・なんかそんな事らしい。私的にはその組織体の何時の時点から生命体と呼ぶのかは知らないが・・・それは事実の様だ。・・・さもなければ全ては妄想だと言わなくてはいけない。実体もくそもない訳だ。生命も存在し無い訳だ。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-22 01:57:46 >たんぱく質が有機的に無数に結束すると生命体となるふむふむ。なんかよくわからんですな。なんかテレビでタンパク質の合成実験みたような記憶を思い出した。しかしわからんものを無根拠と断定するとはこれまたいかに。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-22 01:58:20 無機質物体がどういう過程をえて、有機質生命体に成るかは、まだその根拠は完全解明されてはいないのかもしれない(=わたしは知らない)。科学は因果関係をいずれは究明し尽くすのだろうか、あるいは諦めて神を持ち出すだろうか。。。私は知らない。しかし私と言う実存が実存する事だけは確かだ・・・実存とは何かしらないけどね。それともなにかな??僕は幽霊で君も幽霊って事??透明人間ちゃんでない幽霊、手でも触れることが出来る幽霊が南ちゃん?? 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-22 02:00:29 僕はアメ知ろう途の幽霊です。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-22 02:09:16 生命の無い物体から、いつの間にやら生命のある生命体になった。その奥義は如何に??これを最新の禅問答の公案としたらどうだろう。果は此処にある、因は何だ!! 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-22 02:16:13 因はあるようでいてないようである。と仮設されたunknownが個人的にいっておるような気がします。 返信する 『生きている生命体』何が生きているのか? (イエスちゃん) 2016-11-22 02:39:25 人間の「DNA」は、自分の子孫に「遺伝情報」を、丸々そっくり遺伝させる。父の「精子細胞」と母の「卵子細胞」とで、合作して、(遺伝情報のコピーミスを含みながら)、「新しい遺伝情報」となる。コピーミスが失敗作・失敗設計図なら、細胞分裂で破綻して、流産となる。コピーミスが成功作・成功設計図ならば、「より優秀な人類」が、ここで発生する。有性生物となって、進化の原動力が強化加速された。しかし、ここで「人類」になったら、質的に変わった「巨大な偉大な変身」。遺伝情報を「物質であるDNA」の外に、持つことが出来るようになった。「家族」「社会」「国家」「言語」「文明」「文化」「教育」「学校」「図書館」…もう人類は、DNAを用いて、進化する必要がなくなった。肉体の進化に依存する必要がなくなった。(今、それが暴走して、人口爆発、金融資本主義の破綻、…これで人類は滅びる。自然からの、外部からの、歯止めがなくなった。誰も止めれない。釈尊の仏教の叡智だけが、これを救える。)ユダヤ教は、生きているのは「個人」「一人一人の個体」ではなく、それの集合体の「民族」「信仰共同体」と考えた。人間の場合も、生きているのは、個々の「細胞」ではなく、「五臓」と「六腑」である。否、それの複合物「ひとつの人体」である。いや違う、「人体という肉体」だけでなく「精神」を含めて、生きているのだ。いやいや違う、「一人ではなく、家族と、さらには共同体として、そういう組織体が、本当は生きているのだ。ナチスのヒトラーは「第三帝国が真に生きている」といい、「貴方方・個人は、その一つ一つの重要な細胞である」という主旨の演説を膨大な回数、ドイツ国民に訴え続けた。白人のゲルマン民族が「優秀な人類」白人のユダヤ人は「劣等な人類」黄色人の日本人は「人類ではなく、猿」進化論から、劣等なものは滅ぶべきであるとと主張して、実行に移した。日本も「人材」を前面に出して、役に立たないと「勝手にみなした人々」を無価値と考え、社会から排除する方向に向かっている。「正社員」が減らされ、「非正社員」を増やし、低賃金とし人生設計をできなくさせている。結局は「少子化社会」を造り出し、自分で自分の首を絞めることに向っている。個々の会社が自分の利益だけを考えているから、一部の「細胞」が生き残るが、「人体」は滅びる。一体、生きているのは、何が生きているのか。「諸行無常」この世は、大きな大河が生きている、ようなもの。一人一人は「水滴」。しして、どこに流れ着くのか誰にも解らない。この地球の結末・人類の結末が、どうなるのかは誰も解らない。 返信する 実体ちゃん (Unknown) 2016-11-22 03:23:20 生命体の最小単位が単細胞生物と定義されている様だ。アメーバとかバクテリア(細菌)がそれだ。それでもそこに多数の遺伝子が存在する事がわかっている(ゲノム解析)。大腸菌の場合、ゲノムの数が4.6x10の6乗、遺伝子の数が4149個であるそうだ。アメーバの場合、ゲノムの数が大腸菌の20万倍。(コメ者・・とすると遺伝子も数えきれないほどあるか??)。単細胞生物でもそんな物凄さだ。注)但し意外と人のゲノムは3x10の9乗で推定遺伝子が29000個らしい。大きな顔してのさばっている割には単細胞並みだね!!(涙😿)。で、遺伝子の本体がDNAという化学物質だ(多分に複雑な構造を持った化学物質だが・・・)。だから 全ての生命活動はDNAの化学反応に過ぎないが、(それでも何とかご苦労さんに)、DNAは生命の設計図となっている(人のDNAの95%は生命活動に関係ないDNAであるんだとしても・・・)。注)DNA生命設計図の中には「テロニア」という死時計が仕込まれていて、自分がいつ死に到るべきか、「自己の実存の根拠たる全細胞」の【絶滅】が着々と計画実行されている、のも・・・科学で実証された「あと付け!!」である。生きる事と自然死はDNA設計図に書かれているが、自死・自殺願望・希死念慮はDNAさんの想定外の出来事(の様だよ??当然想定内にしておかなければいけなかったんだろうけど、それは仏教の分野だからね!!)。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-22 03:35:48 どこから来てどこへ行くのか。始まりも終わりも何も知らない。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-22 03:36:00 今回の遺産はいいことをいうよね。非常に含蓄がありますね。全くその通り(約95%)遺産言語録11-22,02:39:25(再度!!)深甚なる敬意を表します。ほんとどうしたらいいんじゃろうかね!! 返信する ほんとどうしたらいいんじゃろうかね?? (Unknown) 2016-11-22 03:49:42 遺産音頭で、仏教者総決起集会をひらいて、孤島を買いとり、自治区として日本から独立宣言する、っていうのはど~お?!?!名称は仏教バチカン国!! 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-22 04:28:32 >どこから来て、どこへ行くかも知らない・・・ってS長老的にいえば「君は修行が足らん!!・・・喝!!」ケースだね。確かS長老は95%は自分の過去生はだれだったか大体わかってきており、それが100%確認できた時が、解脱を得た時で、永遠涅槃後はブラフマンに列席して、輪廻を超える・・・だから真面目に修行すれば、自分がどこから来て(=前世が誰で)、行く先がどこかは分かるようになる、・・・と言ってるんじゃあ無かったっけ??(うろ覚えだけど・・・)。 返信する 正解だと思います (ひかげ) 2016-11-22 05:52:18 >「ナントカについて述べよ」ってお題を出されると>「カクカク然々」ってドッサリ引っ張り出してくるけど>「それだけ」って感じがするわ、なぜだか。>正直、悪いけど、全部は読んでないんだけどね。分かろうとする気のない人が、いくらイエスちゃんさんのコメントを読んでも理解できる訳がありません。まさに馬に念仏、時間の無駄ですよ。読まないのが正解です。悪いなんて思う必要は全くないと思いますよ。 返信する 実存する (ひかげ) 2016-11-22 05:56:36 「実存する」という言葉を「実際に存在する」とか「実体が存在する」といった意味に捉えている方が多い様ですが、それは違うと思います。和尚様(院代を名乗る方)は、5月30日の『「業」について』の記事へのコメント欄で、「実存」とは、>「何が存在するのか」という問いへの答えでもなく、>「なぜ存在するのか」という問いへの答えでもなく、>「どのように存在するのか」という問いへの答えとして把握されるような、>〈あるものが、現に存在する、その存在の仕方〉>くらいの意味と説明されていらっしゃった。なぜ存在の仕方とか様式のようなことを「実存」という言葉で表現するのかと当初疑問に思いましたが、「存在するとは行為すること」という縁起の見方をすれば、そうなるのかなと思案中です。「存在に本質はない」というサルトルの実存主義に通じるところがあるので、そこから言葉の選択されたのかもしれません。哲学者がexistentialismeを「実存主義」と訳してしまったのがそもそもイマイチですね。ですから、この文脈での「実存する」という意味を生物学的な観点から検討するのは、生物学で「縁起」とか「空」の概念を理解しようとするのに等しく、果たしてそれは有効な手段なのでしょうか。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-22 06:08:36 津波警報!!! 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-22 07:12:35 だとすると、実存て、いつも、遅いか、まだないもの、なんだな。だからへんな気がするのかもしれない。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-22 07:20:26 >日本も「人材」を前面に出して、役に立たないと「勝手にみなした人々」を無価値と考え、社会から排除する方向に向かっている。日本をイエスマン勝手にみなした人々を梵我一如に置き換えて己に問うべきである。イエスマン おい!排除する人間がいえるセリフではないだろう。身の程をしるべきである。(キリところで単細胞生物は代謝するのか代謝せず一生を終えるということ?生殖するんだっけ?えーと生殖?接合?ためのDNA?細胞が分裂するとすれば2つの細胞になるわけでこれは単細胞ではなくなるね。なんだこの難解さは。細胞一個でアイデンティティが確立し、自ら捕食し同化させ異化させる。単細胞がうんこする場合うんこは私か私ではないか判定済み。ということは単細胞の中にうんこがある。うんこと単細胞という構成になるがこれは単細胞といっていいのか。単細胞がうんこと私と判断する瞬間とは?捕食する場合も厳格に判断が下っているとみなせる。これ難解じゃないですかね。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-22 07:30:38 接合ってややこしいわー。どっちが吸収し吸収されるのか。どっちが主でどっちが従なのか。会社が吸収合併した場合の社名みたいになるんかな。うおおお 誰か助けて。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-22 08:04:09 わしの頭脳は単細胞以下であった。あーわからん。生命とはわからん。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-22 08:27:33 単細胞生物が自己分裂するということはDNAが同じであるから完全なクローンができるということだ。自我があるとすれば(おそらくないだろうけど)「わたし」が複数あるとなる。別なわたしか同じわたしか。うおおお ややこしい。 返信する 「実」際ご「存」じ?? (Unknown) 2016-11-22 09:10:02 南さんが西洋哲学用語の「実存」という言葉で何を意図するか再考の余地がある(らしいbyひかげさんコメ)が・・・、一般的には「実際に在る」「現実に存在する」という事を広く表した概念である。サルトル、ハイデガー、ニーチェ等が実存主義哲学を論じだした背景は、当時の人々が「現実を疎かにしていた」「非実存的だった」「誰もが現実を見失い、在りもしない虚構ばかりを見て生きていた」と言う風潮に対する強烈な(言語?)批判からであった(そうですね!) 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-22 09:44:00 単細胞生物アメーバは細胞分裂して、その後分離して二個の個体として別行動する(=クローン)。人間の細胞は細胞分裂して、その後くっ付いたまま増殖を続け細胞分化して五臓六腑となる。まあそんな感じ。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-22 09:44:04 なんか勘違い野郎がおおいから説明しとく。アートマンっていわれるのは実在:英訳するとrealityつまり現実。究極の「現実」のことを指す。ヨーガ行者は現実主義者ってこと。SFとかファンタジーみたいな幻想を追求するわけじゃない。むしろ幻想を打ち砕く破壊者で真逆なんですわ。(ニサルガダッタ・マハラジ、ラマナ・マハルシ読んでみるとそれがわかるだろう。ネットにもあるよ)せめて批判する場合はそこらへん理解してください。正直いって自分は真髄はわからんので受け売りで信用するしかないんだが。絶対世界の説明がわからない。だから私はここでコア部分のヒントを探りにきてるんだ。で仏教って実在論じゃないのかね?で如来って現実なんですよね?道元さんの言葉をみても現実主義者にみえるのだけど。実存だけに焦点をもっていかず実在、存在そこらへん絡めて説明できるひといない? 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-22 10:20:33 どの細胞にも細胞膜があって、細胞膜を仕切りとして様々な物質が選択的に出入りする。酸素や栄養素など細胞の生命活動に必要なモノは細胞内に入り、老廃物は細胞外に出す。個々の細胞は貴方が食べた食物から出来ている(=ジャンクフード喰えばジャンク細胞だぜ、ハハハ半分冗談!!)。人の個々の細胞は3か月で死ぬ。つまり3か月後には全く別人の貴方になっている(=ジャンクフードばかり喰ってたら3か月後はジャンキー野郎だぜ、ハハハ全く冗談!!) 返信する 実存=存在の仕方 (Unknown) 2016-11-22 10:41:58 「自己の実存の無根拠性」とは、=「自己の存在の仕方には根拠がない」と言う意味だ!!ああ、やっぱりわからない。そう言える根拠を教えて貰わないと、どっちにしろ解らない。私は完璧無神論者だからありとあらゆる全ての「存在」を否定する、と言っているという事か??ありとあらゆる「存在の仕方」を否定する??根拠性がないけど存在している事、存在の仕方は認めるよ??、なのかな。でででで、そう主張する根拠は、根拠は、根拠は、根拠は??? 返信する 人間においては、DNAはそう重視せずに!「一卵性双生児」は全く同じDNAだが、まったく異なる人格に育つから。兄さんは兄さんらしく… (イエスちゃん) 2016-11-22 10:43:54 先天的か後天的かで、激論が闘われます。人間においては「DNA」は、そう重視せずに!「一卵性双生児」は「全く同じDNA」であり、人体の設計図が同じだから、同じ構造で構築されています。その結果、「体つき」がそっくり、「お顔」もそっくり、だから「頭脳の内部構造」も「子宮内まで」は、そっくりだろう。しかし、この子宮から出てくると、先に世の中に出ると「兄」となり、後が「弟」にされてしまう。その後は「兄」扱いにされると、本当に心から「兄」となってしまう。兄さんは兄さんらしく…弟は…外貌・外観は同じだが、「まったく異なる人格」に育つ。だから、人間は「DNA」によって、「決定論・運命論」にならない。「経験」つまり、「吸収する情報」の相違から、別の人格に育っていく。そして、この教育(新情報吸収)が重要である。「環境の影響」が最も重要である。しかい、貧困で無法の巣の「スラム街」から、「偉人」が生まれ出たり、貴族から、「極悪人」に育ったリ、…人間は、「細胞内のDNAからの影響」は限定的です。それは、人間が「頭脳」を持ち、「意識」を持ち、「言葉」を持ち、多くの人々の経験・ノウハウを「知識情報」として残し、その情報を「受け継ぐ」からです。この情報が、世代を超えて、「物理的に」伝わる「遺伝する」のです。だから「自己の消滅(死)を予想して、現在において、不安になり苦しむ」ことも発生する。これには「言語」が、決定的な役割を演じている。「釈尊の仏教」が、「諸法無我」と喝破した。「言語批判」が重要となる。道元の「正法眼蔵」が著作された。 返信する 実体・実存・実在・存在 (Unknown) 2016-11-22 16:13:49 誤解と誇張と独断を恐れずに私見を言えば、for11-22,09:44:04コメ応答。南さんは子供の時から、自分が何故存在しているのか、自分が何故いま此処にいるのかが不思議でならなく、そればかり考えていた。ちょうど科学少年が、ビッグバン説によると、宇宙には果てがあるが(=風船の内部を形造るところの外側・風船の壁みたいな境界面が在るという事)、ではその外壁(=風船)の向こう側には何が有るのか常に疑問して悩み尽くすように・・・、少年南直哉は、自分と言う存在の不確かさ・実感の希薄さに悩み続けていた。それが死の向こうには何があるのかの強烈な興味となって、死の向こうを覗いてみたいとさえ思った(=希死念慮)。で、「俺はあぶないな~」と思って自死を封印する為に出家し、「存在とは何か?」を追求する為に仏教に賭けた。仏典に答えを探し回った。しかし見つからなかった。西洋哲学も漁った。そしてそこにヒントを見つけた。で、途中をはしょって、南さんの得た結論は、実存の無根拠性、存在の無根拠性、実在の無根拠性、実体の無根拠性、この世の無根拠性、宇宙の無根拠性、あの世の無根拠性、仏道の無根拠性、仏性の無根拠性、空(くう)の無根拠性、森羅万象の無根拠性・・・、という「無根拠性の哲学」に到達した。それが少年時代の「存在する」という事に対する疑問・実感の無さに対処する為に自ら選んだ答えであった(=補填作用)。だからそれをベースにして南さんはすべての「私流」を創り上げる。 返信する 追加 (Unknown) 2016-11-22 17:17:11 存在の無根拠性があるゆえに、それでもなおかつ「生きる事に決める」という決意が南さんには必要なのである。それが今回の記事のテーマとなっている。 返信する Unknown (自死遺族) 2016-11-22 17:35:28 自殺者は罪を犯したものですか?自殺者は敗残者ですか?自殺は追い込まれたうえでの精一杯の選択です。娘を亡くしたあの日から私の時間は止まったままです。 返信する 自殺は倫理に反することではない (ひかげ) 2016-11-22 18:53:44 自殺者は罪を犯したものではありません。敗残者でもありません。私ごときが出しゃばる幕ではないかもしれませんが、和尚様は僧侶なので、自殺を考える人には、「生きるべきだ」とおっしゃるでしょう。しかし、自殺するのが悪いことなどとは言いはしません。倫理が「生きる」という決断にかかっているというのは、それは生きるものの世界での善悪の判断の基盤をこの決断に見出したということだと思います。キリスト教徒であれば、モーセの十戒に求める様な判断の基盤です。ですから「生きる」という決断をしなかった方が倫理に外れるという意味ではありません。生きるという決断が無理であれば、それは他にどうしようもなかったという辛いことで、そこに善も悪もないと思います。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-22 19:12:56 今回の少年の場合は、津波で命を落とした大勢の人の事を見聞きしていた事(=縁)によって、いじめでも自死しない決心ができた。もしそういう見聞がなかったら、自死していたかもしれない。全ては因と縁のめぐり合わせで、人は生きたり死んだりする。やむを得ない事情で人は死ぬ。死ぬことを選ばされてしまう。自死した人が悪いなんてことは在り得ない。生きている方が反って地獄だったのだから・・・。もし阿弥陀仏が実存すれば、その様な人こそあの世で救い出して呉れるはずでありましょう。観音様も彼女を優しくその懐に包み込んでくださることでしょう。じゃあ、後に残された人としては、「阿弥陀仏を信じるが故に阿弥陀仏は在しますなり」「私は観音様を信じておりますから私の娘を宜しく」と念ずる事はできましょう。または、娘さんの姿に似たみ佛を見出して、その仏さまにすべての思いを託すことが出来ましょう。でももし万が一、残された人が浄土を信じる事が出来ないのであれば、人が亡くなった後には、生前の苦から一切解放さて、今は宇宙の元素に戻って「空」に溶け込んでいる事を思い、自分の想い出の中に生きている娘さんとの、楽しかったひと時、幸せだったひと時の中に共生していく道は常にあなたの中にある、という事ではないでしょうか。そういう時は必ず来るのだとおもいます。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-22 21:07:43 いきるってつくづく不思議なもんですな。生かされるのか生きるのかもうどうでもよくなってきた。ねえねえこの不条理に残酷さにありながら生きなければならない不条理、残酷さ。死ぬことも選ぶ勇気もなく生きる勇気もない。どうせ死ぬというのに。すべて中途半端だ。ただ馬齢を重ねるのみ。死んだほうがましといいながら死ねず。かといって予想される死の恐怖に慄き。全身全霊で生ききれず。ああつくづく自己嫌悪。 返信する 『自殺者は罪を犯した者ではない』原始仏典 (イエスちゃん) 2016-11-22 23:40:40 中央公論社 世界の名著 第1巻「バラモン教典 原始仏典」P451「七 病厚きヴァッカリ」阿含経 相応部22・87から「長老ヴァッカリは、病に臥し、困苦し、重病であった。・・・中略「師(釈尊)よ、私は辛抱が出来ません。元気もございません。強い痛みが増して、薄らぎは致しません。痛みは増すばかりで薄らぎはしないように思われます。」・・・中略その時、長老ヴァッカリは、この比丘たちが出て行くや否や、刀を取り出した。(注:そして、自殺した)・・・中略釈尊は、比丘たちに話された。「…善男子ヴァッカリは、…完全な涅槃に入った。」〇 〇 〇 〇釈尊は、「弟子の病苦による自殺」に対して、少しも批判・非難をしていません。地獄に落ちるとも言いませんでした。むしろ「(それまでの修行で)完全な涅槃に入った」とまで、おっしゃいます。釈尊は、病苦による自殺を勧めはしませんが、批判もしませんでした。こころの病気も同じです。死の方が楽になる事もあります。釈尊自身は、結果となってしまっては、それしか仕方がなかったと受容なさっているように見えます。こころから、心痛の癒しと、ご冥福を祈ります。 返信する 娘さんをうしなって、時間が止まってしまった遺族の方 (Unknown) 2016-11-23 01:24:01 津波で子を失った親、交通事故で娘を失った親、争いに巻き込まれた息子を失った親、~~。いつの世でも、いつの時でも、親の時間は止まる。何故だと悔やむ。涙する。それは残された者にとっては「悔やむ時」だからだ。とことん悔やみ抜かなければいけないのかも知れない。全てには時があるからだ。でも瞑想・坐禅してみて下さい。いつしか全ては仏性のなかに包まれている事を知り、そして悟る。人生のありのままの真の姿を悟る。娘さんも自分も宇宙のなかでは、生と死の壁を通りこして生きている・・・肉体を持った形でも、「空(くう)」の中に生きていると言う形でも・・・大きな宇宙の縁起の中で命は生き続けるという事を・・・そして時間は動き出す。貴方は、娘さんに代わって、娘さんと同じ悩みを抱えた人へ同情し、共感し励まして、娘さんの止まった時間を、貴方の止まった時間を、今悩んでいる悩める魂に寄り添って、一緒に一歩一歩と歩み出す。左様に時間は動き出す。進んでいく。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-23 03:08:25 解剖学者・作家の養老孟司氏は言っている。人には二人称の「死」しか実在しない。一人称の「私の死」を自ら知る事(知覚する事)は出来ない。自分の死んだ肉体を、死後の行事を、自分で取り仕切る事はできない。誰かによって取り仕切られている事を知る事も感じる事も出来ない。よって私にとっての「死」は実存し無い。夜眠りに入って、明日の朝そのまま目覚めなかったという現象に過ぎない。そして、科学の解明の喜びの知らせは、人は死ぬ時には天国を見るという事だ。そういうホルモンが臨終時多量に脳に分泌され恍惚感に浸れるようだ。では三人称の「死」はどうか??全くの他人の「死」は人の脳をかすめない。残念ながら、今回トランプ政権の国防省長官に予想されている何とか元大将は、戦争で人を殺すのは楽しいとのたまわった事があるそうだ。人は第三者の死を気にしない。遺産がインド旅行で目撃した行き倒れ人の横で無邪気に遊ぶ児童と同じだ。だから人にとって、一人称の死と、三人称の死は実存し無い。人に実存している死は二人称だけだ。残された者に想いが起こり、死後の行事を執り行う役目が課せられているからだ。そこで人の心が動く。動揺する。自分の事の様に悩む。死苦を感じる。左様に、二人称の死だけが実存する。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-23 03:24:44 掲示板拝借契さん連絡乞う、アドレス不通!! 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-23 07:08:28 ジェノザイド。アイヒマン。 返信する 不生不滅 (Unknown) 2016-11-23 16:49:21 目に見える現実社会(=色)は「空」が此の世に色として現成したものである。「色空一如」であるからだ(色即是空・空即是色)。物理学的表現でいえば、空はエネルギーに該当し、エネルギーの凝縮で物体(=色)が現成していると言う事となる。色が燃焼・分解すれば色が見えなくなりエネルギー状態に解放される。E=mc二乗が成り立っている。Eがエネルギー(=空)で、mが物体(=色)だ。cは物理学上の係数(=光速)。色としてこの世に現成した全ての物(者)はやがて色の形を止めて空の形(=エネルギー状態)に戻る。そしてまた空はエネルギーの凝縮で色に変化する。諸行無常の縁によって循環するのだ。この大きな循環を「大生命体」の活動(大活動体)と呼べば、其処には「生」も「死」も存在ない。単なる現象的変形に過ぎない。それ故に不生不滅とよぶ。色なる人間は「生命」としてこの世では現成しているが、色(=生命)を止めても「大生命体の世界」の中では存在し続けている!!。人の命も大生命体の中では不生不滅である。道元禅師『現成公案』色=『諸法の仏法なる時節』(=哲学的には世界の差別相)。空=『万法とも、われに非ざる時節』(=哲学的には世界の平等相)。全宇宙は一大生命体のあらわれであり、それ故に全宇宙は、そのままにして仏のあらわれであり、仏は今此処にいきている。 返信する そう言える根拠?全て無根拠? (ひかげ) 2016-11-23 19:54:46 やはりこのような議論をする際には、何をあきらかにしようと、どのように質問が設定されたのか、そしてそこに使われる言葉は何を意味するのかということを明確にしないと、話は混乱するばかりだと思います。言葉の定義を明確にする、そしてその言葉で何かを正確に表現するということは、究極的には不可能というのが仏教の発想かもしれません。しかし、だからといってその作業を怠っては、何事の議論も説明もしようがありません。では、存在に関するいろいろな言葉が出てきましたが、それらの言葉は何を意味するのか。いみじくも和尚様は、「実存」の意味を説明する際に、三つの問いを並べられた。「何が存在するのか」「なぜ存在するのか」「どのように存在するのか」以下は私の解釈です。「なぜ存在するのか」に対する答えを「存在の根拠」と言うのであれば、「根拠は解らない、知りようがない」と私は思うのですが、仏教では、それについて「何も言わない」とする様です。「どのように存在するのか」に対する答えを「実存」と言うのであれば、それは生きると決断した一人一人がどう生きていくかによりますね。「業」的実存、倫理的実存、「なぜそのように実存するの」と問われたら、「私がそう決めたから」と答えるしかないでしょう。「何が存在するのか」に対する答えを私はよく理解できていません。しかし「自己」に関しては、それが自分だけで確立し存在する「実体」のあるものと思ってしまうのは錯覚である、ということだと思います。私は以上のような議論の構成じゃないかと思うのですが、これを十把一絡げに「全ては無根拠」としてしまうと、「じゃあどのように生きるの」と考える際には全く役に立たない、意味のない議論になってしまうと思います。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-23 21:38:47 他から課せられた私なら「私が決める」とはならず他から規定され決定されるともいえる。なぜ決定するときにだけ自己がでてくるの?自己は錯覚だとすれば錯覚とされた私がなぜ決定するのは錯覚ではないの? 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-23 22:14:26 『仏教教理問答』の中で南師は「二人称の死とか三人称の死って、あると思いますか?私はないと思いますよ。(省略)起こったことは『不在になった』ということでしょう」と熱心に語っていた。私は南師の言葉に何度も救われている。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-23 22:35:24 >「どのように存在するのか」そう問う主体は誰になるのか?無我なら問うのは誰か?問わせるものがあるとすればそれはなにか?存在すると認めるのは誰か? 返信する そうなるのは仕方がないのですが… (イエスちゃん) 2016-11-23 23:48:31 『娘を亡くしたあの日から私の時間は止まったままです。』それは当然だと思います。そして、同時に、そのことを、娘さんは喜ぶのでしょうか?そのことを、悲しむのでしょうか?なぜ死のうとしたのかは、結局は親でも知る事はできないように思います。勝手に想像を無限に繰り返すことに陥るようになります。もはや、過去に戻してやり直しはできません。だったら、娘さんがどうすれば喜んでくれるのかを、これから探して行くしかないと思うのです。娘さんの供養の為の人生が始まると思うのです。事態を諦める、というのは、本当は、明らかにするということです。今の事態を諦める、他の人に悲しみを訴え続ける、・・・自分も死んだら、再び会える。その時に、どう生きてきたのかを話せるように、生き続ける。亡くなった娘さんを忘れるのではなく、新しい対話を続けながら生き続ける。それがいいと思っています。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-24 00:26:35 死後の世界があるのか、ないのか、人間には分からない。だから、ある、と、信じて生きていくない、と、信じて生きていくどちらも正解、不正解はなく、どちらでも良くて、それに対する批判は根拠がない。他者の意見で、自己が傷つく必要はない。 返信する 私なりの答え (ひかげ) 2016-11-24 02:13:34 自信を持っては答えられない質問も多いのですが、答えるとすれば次の通りです。>他から課せられた私なら「私が決める」とはならず他から規定され決定されるともいえる。なぜ決定するときにだけ自己がでてくるの?生まれてくることは誰も自分では決めない(他から課せられる)。しかし自分で死ぬことは決めることができる。その違いだと思います。>自己は錯覚だとすれば錯覚とされた私がなぜ決定するのは錯覚ではないの?「自己がそれだけで成立する実体を持つ」と思うことが錯覚であり、「私」が錯覚ということとは違うと思います。>「どのように存在するのか」そう問う主体は誰になるのか?無我なら問うのは誰か?「無我」というのは、誰もいない、何もないという意味ではないと思います。>問わせるものがあるとすればそれはなにか?それは生きていく上での苦しみではないですか。>存在すると認めるのは誰か?これは質問の意味がよくわかりません。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-24 05:29:19 南さん曰くの「死」には二人称、三人称の死は無い、単に不在になったという事だ・・・。@11-23,22:14:26(コメ者注;ならば死苦はないね!!)ならば「一人称の死」もただ自分がこの世から不在になったという事に過ぎないのであろう。しかも死んでいる本人自身は自分が不在になった事も知らず、自分が死んだ当時の事を(=死んだという行為を)確認・追認できないのだから、明らかに「一人称の死」は存在しない@アートマン否定論者。(コメ者注、だから死苦もないね!!)。(追;)エエッ、一人称の死のみ実存するって言う(らしい?)南さんはアートマン論支持者ってこと???ーーーーーーーーーー結局の処、言語真意の厳密性を問うならば、「死」という言葉を死語にして、「死」という言葉の代わりに、「この世に於いてという限定版での、永劫的な実存的【色の不在】」って言うのが正解っぽいよね。(これでも、じゃあ私の頭の中で常住している、自分の脳内では生き続けている娘の存在をどう定義・処遇するかという命題は必要だけどね)。ーーーーーーーーーー通常の人は「生」が因で「死」が果だと受け止める、或いは「生」が消えて「死」という状態に変形・変質する、と考えているが、どうも道元師的思考では、生が前で死が後という前後関係はあるが、生と死は継続性を持って生から死へと変形変質し移行していくたぐいのものでは無い。ハッキリと二分された別個に存在している別の法位(=諸事情の在り方)だといっているようだ。(生は色で死は空だ、かな??)例えて言えば、春は春であって、夏ではない。春という法位・在り方・存在様式は独立している。また夏という法位は夏という独立した存在だ。春が夏に変質し存在状態を変化させたのではない・・・とかなんとか!!つまり「生」と「死」は別々の存在(概念?)だ・・・という事らしい???生きている人が変化して死んでいる人になるという事ではない。これが『不生不滅』・・・、現成公案の趣旨らしい??多分に禅問答っぽいけど、この奥義がわかれば、死苦など無くなるようだね。 返信する 生きる・自死するの脳内決定は如何になされるのか?? (Unknown) 2016-11-24 06:35:45 それは現時点自分を悩ましている問題に対して、各人の脳内に蓄えられた全情報(表層意識+無意識)を総動員して考慮した結果、その中から最適解を冷静に選び取った・・・、といういうケースもあるし(まれなケース、ダニエル・カーネマン曰くの【スロー!!】決定プロセス)、今では死への願いが、他の選択の全ての思考を抑え込んで、ただまっしぐらに死を選ぶ・・・、(衝動的、直観的、ダニエル・カーネマン曰くの【ファスト!!】決定プロセス)、と言う事もあるかと思われます。だから自性独立的に自分の自由意志で「死ぬこと(=自死)をえらぶ」という言い方では括り切れない気がします。「生きる」を選ぶについても、それを「倫理的実存」という言葉で結びつけるのは第三者の評論家の言葉に過ぎず、本人が自分は倫理的実存だから「生きる」を選んだのだという事ではない。どちらかと言うと、課せられた問に反応して自分の脳内の色々な情報の足し算・引き算をした結果「生きる」を選べと脳に指令された・・・が実情に近い感じがします。(=他者の評する倫理的実存との間に乖離がある、もし死ぬことを本人が選んだとしたら、本人にとってはそれが倫理的決定なのだろうから…)。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-24 06:46:57 ナンカ「倫理」だとか「実存」だとか「課せられた生」とか~~は純粋な西洋哲学思考法な気がしてきた。「課せられた生」を「生きると決めた」から「倫理的」で「善」が発生した・・・と言う事と「仏教思想」とどう繋がるのか解説してほしいと思うね・・・ 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-24 07:04:37 そ~か、南さんは西洋哲学思想を用いて、仏教思想を再定義しているって言う事なのかな。両者のすり合わせって言うか、西洋哲学思想と仏教思想の一元化への試み!!!う~む、興味深いよね、異ちゃん。 返信する 遺産に質問 (Unknown) 2016-11-24 09:29:56 遺産は良く「キチンと読む大切さ!」とかいって、読み手の日本語読み取り能力不足を言語批判いたしますが、禅問答の公案などは、キチンと言うことの大切さに欠けており、言い手の言語発言能力不足が見られる処です。其の為、聞き手がバッ致死、誤解討ち死にしてしまいますからね・・・。で質問に入りますが、遺産の、ひろさちや氏への言語批判で、ひろさちや氏は「全宇宙は仏性である」と言った。(だから??)ひろさちや氏は反仏教である・・・と遺産がいう理由は何なんですか??道元師の【現成公案】とは、現象界(=全宇宙)の全てが生きた仏道だと言う意味だ。これは馬祖禅の【作用即性】の思想と同じ考え方である。注;作用即性=本性とその用(機能)は同じであるという意味。全宇宙は一大生命体のあらわれであり、あらわれているもの以外に仏を求める事は出来ない。道元師の説く仏とは、朝は日は東より出て、夜は月は西に沈む。朝は鶏がコケッコーと啼く。3年後とに閏が訪れる・・・。それがそのまま仏のあらわれる、というのである。即ち仏は世界として現成しており、現成している世界に於いてしか仏はない。これが現成公案の意味で在る。つまり現成公案とは、不変なる仏は変化する世界として現れていま此処に生きている。全宇宙はそのままにして仏のあらわれである・・・。という考え方を表明している二つの記事を見ました。なんかひろさちや氏の「全世界は仏性である」というのと共通していると思いました。こんどは遺産がそれは違う。それは反仏教だと言うならその根拠を教えて下さい。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-24 09:43:13 >しかし自分で死ぬことは決めることができる。その違いだと思います。自殺した本人の動機を推察することしかできないが経済問題、健康(うつ、精神疾患)、人間関係これらが原因だとするとほとんどの場合自分で決定できる要素はない。お金もちになりたいと思ってなれるわけでもない。貧困を自分でどうにかできるなら貧困問題は解決されているはずだ。現実はそうではない。以下同決めることができるとみなすのは錯覚ではないか?>「無我」というのは、誰もいない、何もないという意味ではない相依性縁起から導出されたのであろうか。相依性とはなにか不明だが相互依存性、相互関係性と仮定しよう。相互とは分裂した個人各々という概念を前提とする。私とあなた、もしくはあなたがた(互い)ということだ。つまり個人は私が中心核となった概念だ。では無我という仏教は個人という概念を認めるのか?個人を認めないなら自己決定もありはしない。個人はあくまで「仮設」されたものであってなんちゃらになるんかの。「仮設」だの「個人的」にだので説明したつもりになるのはやめてね。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-24 09:51:11 独我論でもないとすればいったい誰が錯覚だと判断し決定できるとするのか? アナートマン(無我)かなにか知らないが新概念で言い換えるような論法はなしにしていただきたい。非思量を体験した仮設された自己のみ錯覚ではなくて正しい決定をすることができると考えていいのか?であれば非思量を体験できない自己は錯覚であって正しい判断はできないとなる。正しいとは所謂「仮設」であるなら余計判断に迷うことになりはしないか?で結局のところ仏教って相対主義で拠り所にするものはなにもないといいたいだけなの?それって虚無主義とどう違うの?で如来ってなに?形而上学的要素を無記とし拒絶したというなら如来は形而上学ではないとなる。でこういう場合のみ踏みとどまるべきだなんだと説明回避するのはなぜか。如来は常住不変と言い切っている道元さんの言及はなんなのだ?不生不滅とはこの常住不変を言い換えてるようなものではないか。 返信する 「作用即性」の補足 (Unknown) 2016-11-24 09:54:50 作用=現象している世界=全宇宙、性=その現象の本体である仏性よって全宇宙は仏性、仏の現成であるとなる。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-24 09:59:16 あーそっか如来は形而上学ではなくて形而外学だったんですね。どうみても説明回避にしかみえんわ。 返信する 無我、自我(自己) (Unknown) 2016-11-24 10:39:04 「色空一如」が仏教の基本的スタンスのようだ。「色」=自我、自己意識を持って今、現成している。だから脳が機能していて、自己決定ないし自己決定まがいの行為をする。現成受容【作用】だとみてよい。しかし同時に色は空でもあるのだから、空(=無我、本性)の側面も持つ。宇宙に同化した姿という意味となってくる。これが本【性】とみると、「作用即性」思想がでてくる。人は両面もっている(色空一如、又は作用即性)。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-24 10:53:22 日常生活は「色」で意識的に行動する。坐禅時は意識機能を弱めて、無我(=空)の世界に触れる。意識活動(錯覚・サンスカーラ)を一旦リセットして、ものごとの本質を探そうとする。纏まったいいアイデア、本質的な解決案なども出て来るチャンスが高い。もちろんそれも又錯覚(サンスカーラ)かも知れないけど、重症度の低い錯覚内に収まる…いい気分になってやる気が充満する・・・そんなところかな!!ど~お!! 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-24 10:59:10 >重症度の低い錯覚内に収まるワロタでもさ空ってなんの概念も拒絶するって南氏はいうわけだ。そしたら一如とさえいえないって思うんだけど。縁起とも拒絶して・・・さっぱりだわ。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-24 11:06:27 左側大脳の言語野の活動を坐禅で意識的に抑えると、言語から生まれる錯覚(サンスカーラ)作用が弱まって、右脳の感性の部分が有力になって、間脳部分の海馬が活発化して、海馬が自動検索を開始して、海馬が無意識分野をサーチして、言語野からのノイズが混じらない良い解決策を引き出して来て呉れる(=海馬の自動操縦機能!!)。そんな事らしい・・・ためしてガッテンしてください、かしこ 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-24 11:17:26 形而右学、形而左学的にガッテンしました。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-24 14:11:53 数を追究した昔のインドあたりの人達が、たどり着いたのは何だったのでしょう。数え切れない程のものは、どう表現したらよいのでしょう。空なのか?如来なのか?沢山が沢山ありすぎる状況って?ある意味無いのと同じだよね? 返信する 南師曰く『形而外学』「只管打坐」。法華経曰く、永遠に菩薩である、あえて成仏しない。 (イエスちゃん) 2016-11-24 14:38:17 道元和尚の「只管打坐」とは、「ひたすら、坐禅を続ける生き方であった。」ということである。そして、実際に、その道を歩まれた!坐禅は、禅定であり、釈尊は、成道後も、生き方の中心であった。釈尊の、最後の説法・・・ 「比丘らよ、放逸を為すなかれ。 我は不放逸を以っての故に、自ら正覚に到れり。 無量の衆善も亦、不放逸に由りて得らる。 一切万物に常在なる者なし。 此れは是れ、如来末後の諸説なり。」(大正蔵 第一番『長阿含経』「遊行経」)「精進こそ不死の道 放逸こそは死の道なり/ いそしみはげむ者は 死することなく/ 放逸にふける者は 生命ありとも すでに死せるなり/ 明らかに この理を知って いそしみはげむ 賢き人らは/ 精進の中に こころよろこび/ 聖者の心境に こころたのしむ 」(法句経ダンマパダ)「見性成仏」を強調する宋代の看話禅となると、坐禅が見性して成仏するための方法手段となり、成仏した後には、坐禅を続ける必要がないと、誤解して、実際、坐禅をしなくなった。しかし道元和尚の中国での師「如浄禅師」だけが、毎日、修行僧と一緒になり坐禅を続けていた。老体となり、庵に引退するまでは。そしてすぐに亡くなった。釈尊の仏教は「行為論」、行為で生き方で「その人」となる。仏の生き方を生きる者を仏という。つまり、禅定、坐禅を中心に生きる。「只管打坐」 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-24 14:53:15 空を宇宙に充満するエネルギーと考えると「空の無根拠性」は何となくわかる気もする。卵が先か、鶏が先か誰にも分からないからだ。つまり、微粒子(色)の運動でエネルギー(空)が発生したのか、エネルギー(=空)の揺らぎで微粒子が発生したのか、どっちが先にあったか誰にも分かっていない筈だ(とおもう)。それ故に空(=エネルギー)は無根拠だという言い方は成り立つ様に思える。処で。色(実存)の無根拠性を無神論的概念として捉えると、低い次元(例えば3次元)で現成する色(=実存)の無根拠性は、高次元(例えば、無我とかエネルギーとか透明人間ちゃん)である「空」の無根拠性を担保しており論理学的には成り立つようだ。なぜなら高次元の「空」が無根拠でも、それが低次元的に現成して「色」した時には、「色」が有根拠性を持つ事はOKだが(=つまり現成するには根拠がいるという言い方もできるが・・・)、低次元の色(=実存)が無根拠なのに、高次元の空が有根拠だと言う事だと、いつの時点で低次元で無根拠なモノが、高次元で有根拠にすり替わって行ったのか不可解だ、という事に成る(と思う!!)。例えば今眼の前に現成している鶏が卵を産んだという関係に於いて、鶏の【存在】と卵の【存在】に関して、①.卵は無根拠だけど鶏は有根拠だとするのは理解し難い。②.卵は有根拠だけど鶏は無根拠だは、それはそれで論理が立つ。③.卵も無根拠で鶏も無根拠もOK、④.卵も有根拠で鶏も有根拠もOK.つまり変チョコリンなのは①のケースのみである。即ち、実存(色)は無根拠だけど「空」は有根拠だというケースは不可解だという事となる。無根拠の実存が存在するのだから、無根拠の「空」が存在しても良いという関係になっている。縁起も無根拠性のままでも機能出来ていると言えそうだ。勿論全てのモノが有根拠だという概念ですんなり納める事も問題ない。 返信する 報告 (外れ者) 2016-11-24 21:24:08 132まで読みました...誰か、『倫理』についてイメージが湧くように哲学用語無しで説明して頂けますか? 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-24 22:23:16 胃酸は「殺すべからず」じゃないよ「殺さない」だよって、あるとき言うわけよ。殺そうと思っても殺せないんです、神の祝福の中にあるので、ってことだよ、って。だけども、同じ神について書いてあるものの中に、そうじゃない文面もあることは知ってる、と。それはカクカク然々の理由だか成り行きだかがあってだなあ、と。で?殺そうと思っても殺せないんです神の祝福が…っていうのは、どうなったの?胃酸はなぜあるとき「殺すべからずってのは正しい訳じゃないんです、神の祝福が…」の方だけを取り出して言ったんですかね?というようなことですよ、ひかげさん。何を知りたいかなんて人それぞれですねえ。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-24 22:29:59 すばらしい人間の生き様をいくら理解したって、それと自分の人生は別物ですよね。 返信する 旧約聖書 神と契約を交わすという感覚・発想 神は人格をもって現れる・契約相手 (イエスちゃん) 2016-11-24 23:40:49 日本人には神様との付き合い方が、古来から、ある。それとは、まったく異なる。物語の構造としては、「旧約」聖書は、「神ヤハウェ」と「モーセ」と「契約を交わす」ことで成立している。だから「旧約」は「古い約束」である。(ただし、キリスト教の見方では)そして、神は人間が理解できるように「人格をもって」現れる。そこで神は、命令文ではなく平叙文で契約内容を言う「貴方は人を殺さない。」契約だから、「双方が」約束を守る。人間が、契約したのにその約束を破れば、神はそれを罰する。他方、神は、決して約束は破らない。誠実な方であり続ける。現在も。〇 〇 〇しかし、この契約をしたのは、神ヤハウェとモーセとの間でだけであり、誰もそれの目撃者や立ち合い証人はいない。一方的に、モーセ一人が事実であると証言するだけである。マホメットも、一人、神の声を聞く。同じく、「大本教」でも、出口なおが…。京都府綾部に本部を置く神道系の宗教。 教祖出口なお(1836‐1918)は丹波国の生まれ。 出口家の養女となったが、夫の放蕩のため、大変な生活苦を体験した。1890年三女が発狂し、金光教の布教師の祈祷によって正気に戻るという体験を機に金光教に帰依する。さらに92年、なおは突然神がかりし、 「三千世界一度に開く梅の花、艮(うしとら)の金神の世になりたぞよ」と口走り、世の中の立直しを叫んだ。なおは病気治しを中心に宗教活動をすすめ、その中で、大本教の教義の原典「筆先」を表す。94年、なおは金光教の布教師となる。〇 〇 〇一人、神の声を聞く。本人は事実と思っている。(しかし、本当に事実かどうかは、他人には解らない。)「イスラエル十二部族」は、このモーセの証言を事実として受け入れた。ユダヤ教の最大の祭り「過ぎ越しの祭り」は、歴史出来事「出エジプト」を思い出すものであり、歴史出来事「神との契約」を思い出すものでもある。神の一方的な命令と受け取っていいのか?西洋では、人間の側の人格・主体性を認め、それを重視していると、私は、受け取っている。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-24 23:45:05 で、胃酸は西洋人である、と? 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-24 23:47:45 だって、当然じゃないですか。部族がありいの敵がありいの。そんな状況で「私達」「敵味方」なんてのははっきりしてるでしょう?「主体性」はっきりしてるでしょうよ、そりゃあ、と思いますけどね。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-24 23:54:54 ん?大本教も西洋の宗教なんですか?胃酸は神の声を聞かないんですか?あっ!実はウチにも神の声を聞くヤツが…ま、いっか。私は西洋人ではありません。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-24 23:58:21 西洋人 かー。これも、もしかしたら随分ザックリした話かもねえ。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-24 23:59:24 ザックリした主体性。ザックリした「私」ザックリした「アイデンティティ」いいな。なんか。 返信する ご質問「放逸を為すなかれ」には意味がありますか? (Unknown) 2016-11-24 23:59:35 『・・・勿論全てのモノが有根拠だという概念ですんなり納める事も問題ない。』これからは、釈尊の教え、「比丘らよ、放逸を為すなかれ。」は出てこないと思います。個人的には。ひろさちや氏の「梵我一如」もどきから、「只管打≪坐≫」でもいい。「只管打≪睡≫」でもいい。どちらでもいい。全宇宙の中にいるのだから。これは、釈尊の仏教ではないと思います。個人的には。 返信する 漏れました。質問者は胃酸です (イエスちゃん) 2016-11-25 00:02:54 済みません。老化。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-25 01:13:19 限りなく近づける作業、というのは限りなく違いを見つけ続ける作業、ということかもしれず。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-25 01:15:29 こんなにも近い、ということは絶対に、決して、同じではない、ということに他ならず 返信する サムシンググレート (Unknown) 2016-11-25 01:17:24 何か偉大な存在ねぇ。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-25 01:18:43 あと「1」で上がりなんだけど「1」の目がないさいころをふりつづけるみたいなもんで。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-25 01:23:56 あ、でも4の次に3が出たら上がっちゃうのか。じゃあ~ね~0.1で上がりなんだけどさいころふっちゃうんだな。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-25 01:26:22 なぜならば「双六じゃない」ってことに気がついてないから、みたいな。 返信する 設計者と使用者の関係 (Unknown) 2016-11-25 02:17:37 キリスト教(ユダヤ教)の神は、自動車の設計者(製作者)と、自動車(及び自動車の使用者)との関係に似ている。設計者は自動車を或る設計基準で作る。「色」の現成とはそういうものだ。「色」の現成としてはそうならざるを得ないからだ。運転者(含む自動運転)が設計仕様・道交法に準じて運転し、ちゃんとメンテすれば・・・、毎日にこにこ楽しく、クルマっていいよな~、で済む。間違って運転すると人も殺す。車も大破する。メンテが悪かったので、ブレーキが働かなかったのかもしれない。飲み捨ての空缶がブレーキペダルの下に挟まったのかもしれない。ペラペラタイヤが破裂したのかギョッ、或いは高速道路運転中ガス欠??助手席彼女とふざけあっての運転だとか??総じて不注意運転、無知。でたらめなメンテ・・・。「色」には常に取り扱い注意書が実存する。その規則を無視したら、車はみずから壊れるのだ。自分で自分を破壊するのだ。設計者が壊したのではなく、壊れる様に設計したのでもなく、ひとえに車の設計基準・保守基準・道交法などを無視した者の自己破壊行為という事だ。設計者が罰を与えて車(運転者)を破壊・殺しをしたのではなく、罰として地獄に突き落とすのではなく、車(車使用者)が自殺的行動をしたから車(運転者)が自らを滅ぼしたという事にすぎない、という事だ。勘違いしてはいけない!!(注;相手の車が無法にぶつかって来るという事もある、悪縁に引きずり込まれる事も在る。注意が必要であるよね~、ハイ!!)これは親と子の関係でも成り立つとも言える(場合が有る)。共同体の人間の心構えでもある。「仏性」と(「色」として現成している)「人間」との間でも成り立つとも思える。これが自灯明・法灯明という意味であろう。 返信する 追加 (Unknown) 2016-11-25 02:47:09 左様であるから無事なる今を楽しくすごし心やすけく悩める命を慈しみ励まし生きている事を感謝し生かされている事に天の恵みを感じ日々、注意を怠らず日々、慎ましく暮らし日々、坐禅につとめ時として宇宙の無我となって宇宙の生命活動体の内に息ずくそういう人に私はなりたい!! 返信する 再追加 (Unknown) 2016-11-25 03:12:24 車の設計者も車も有根拠。ここから「放逸を成すなかれ」が出て来る。何も問題ないと思います、個人的には。只管打≪睡≫は不注意運転自己破壊。釈尊の仏教ではそういっている、個人的には。「天に全てを預ける」とは、「自らを宇宙に放り投げる」とは、惰眠許可書獲得と言っているわけではない、自灯明・法灯明が初めっから前提になっている、個人的には・・・ 返信する 敷衍 (Unknown) 2016-11-25 03:28:26 「天に全てを預ける」「自らを宇宙に放り投げる」とは、宇宙の摂理、仏性の光の中に、自らを委ねる、天の摂理によって生きる、宇宙の中での共存を図り、天に向かって唾しない、と言う意味だ!! 返信する >生きる・自死するの脳内決定は如何になされるのか?? (ひかげ) 2016-11-25 03:40:34 繰り返しになりますが、何が問われているのかを明確にすべきです。ここでは、脳内決定がどうかとか、「自由意思」なるものがあるのかという話をしているのではありません。「自由意思」は、取り敢えず「ある」として考えないと、「どのように生きるか」などという問いは全く意味をなしません。>他者の評する倫理的実存との間に乖離がある、もし死ぬことを本人が選んだとしたら、本人にとってはそれが倫理的決定なのだろうから…。これも繰り返しになりますが、生きると選ぶことは倫理的ではありません。生きると選ばないことが非倫理的ではありません。死を選ぶことは、倫理的でも非倫理的でもありません。善悪を判断する根拠がないからです。善悪とか倫理という話がでるのは、生きると選択した後のことです。また、本人が選んだことが全て倫理的と思うなら、それは倫理の意味を勘違いしています。 返信する 生き方を決める (ひかげ) 2016-11-25 03:44:09 >ほとんどの場合自分で決定できる要素はない。>お金もちになりたいと思ってなれるわけでもない。少し前に書いたことの繰り返しになりますが、人生思い通りにならないなんて当たり前のことですね。しかし、人生の困難に直面した際にどう対処するのかは、人はそれぞれ決めることができます。お金が欲しくてもお金がない。その状況で、お金がないから生きるのをやめてしまうのか、「お金持ちになりたいなあ」とぶつぶつ言っていきるのか、「お金がなくてもなんとかなるよね、人生楽しめるよね」と考えて生きていくのか。精神疾患ともなれば話は違うかもしれませんが、一般的には人はそれを決めることができますね。>では無我という仏教は個人という概念を認めるのか?私に答えられるかどうか分かりませんが、まず、あなたが思う「個人」とは何を意味するのか定義してください。ここを曖昧にすると話のしようがありません。 返信する 非思量 (ひかげ) 2016-11-25 03:46:04 >非思量を体験した仮設された自己のみ錯覚ではなくて正しい決定をすることができると考えていいのか?さあ、どうでしょう?私は「非思量」とは何のことか分かっていないですし、そんな具合なので、おそらくそれを体験したこともないでしょう。しかし、私は「縁起」というのを人間の認識の仕方を考える上での一つの見方だと割り切っています。「縁起する世界」なるものを体感しようとしまいと、それを理屈で理解しようとすることは可能です。後は、その見方を「役に立つ」と思うか思わないか。それだけの話ではないですか。 返信する 倫理のイメージ (Unknown) 2016-11-25 03:50:41 健全な共同体の中でうまく遣っていく為には・・・、皆が幸せに遣っていく為には・・・、誰もが順じなければいけない規則・正しい考え方というモノがある。もしかしたら火星では別体系の倫理が有るのかもしれないが・・・。道徳もそれに近いかもしれない。倫理と道徳の違いは遺産が今回コメの前の方で説明していたよね。参照して見て下さい。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-25 04:02:58 自分は世間に何の役にも立っていない、自分が生きていると世間に迷惑をかける。と思い込むこと(=錯覚だけど)は充分あって、其れ故に、自死は充分倫理的行為だと本人は思う事になる。自己の存在理由を正当化出来ない時には自分が生きる事は非倫理的だと判断(誤解)する事から起こる。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-25 04:10:46 生きるべきか死ぬべきかそれが問題だ、とハムレットは言った。どちらが正しいか煩悶した。死ぬことが正しいとの答えを出した時は、それは本人にとっては倫理的決断だ。生きる事を前提に倫理が発生するのではなさそうだ。 返信する 倫理とは? (ひかげ) 2016-11-25 04:14:51 南和尚の著書『善の根拠』からの引用ですが“本書が問う善悪は第一義的には社会秩序の問題ではない。ある共同体における行動基準の、つまり「道徳」の問題ではない。そうではなくて、個々の状況における「自己」の存立の問題、つまり「倫理」の問題である。”(24頁)この道徳の倫理の区別の仕方が良いか悪いかは別として、南和尚のブログの書きこみをめぐって議論している訳ですから、この用語の使い方にならうのが、ここでは自然かと思います。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-25 04:15:23 国の為に命を奉げる、というのも自死への決断だ。それも十分倫理的である。三島由紀夫も倫理的脅迫観で割腹してみせたのであろう。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-25 04:20:58 三島由紀夫の生首(の写真)をみたことがあるような気がする。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-25 04:25:38 ・・・・個々の状況における「自己」の存立の問題、つまり「倫理」の問題である。・・・・わからん。たぶん「実存」がわからないのと同じようにわからん。それは「誰にとって」の問題なの? 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-25 04:26:01 「善の根拠」は私流解釈、「形而外学」も南さんの発明語(多分!!)。「自己の存立の問題、つまり倫理の問題である」という表現は、「実存の無根拠性」がベースに無ければ語れない。此処でのコメはすべてそれに同調せねばならないという事にはならない。自分(=南さん)の言う事に、全て「御意(ぎょい)、御意、御意~~」は「はなはだ迷惑だ」は南さん自身の言である。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-25 04:26:46 「三島由紀夫の亡骸」-「三島由紀夫の生首」=「?」 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-25 04:33:25 三島由紀夫の亡骸って、火葬?・・・・・・・・うーん・・・・・ 返信する 日本の神様は「人格神」でない、という相違点 (イエスちゃん) 2016-11-25 04:35:31 日本の神様は・巨大な岩・大木・山そのもの・山の神・田んぼの神・便所の神・竈の神・火の神・水の神キリスト教のような「人格を持った神」ではない。共同体の神であり、個人一人ひとりと対峙する神ではない。他方、キリスト教は、「神と個人・自分一人とが対峙する」だから、「神の持つ人格と、自分の人格とが正面から向き合う」構造になる。一人一人が神と契約し、それを破れば破った「個人」がその責任をとる、基本的には、そういう構造になる。日本人には、このような感覚はない。「何を」祭っているか解らない神を拝み、「その神様の教え」は何かを知らないで拝み、怨霊には、天神様には、「鎮める為に」拝み、悪い神もいて、その「祟りがない」ように拝み、つまり「人格を持った神」ではない状態が、常態である。このような精神風土では、キリスト教が布教できないのは、当然の結果でもある。と個人的に思う。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-25 04:47:29 さあ?どうだろう?アメリカ大陸とか、オーストラリアとかって先住民族の神々は日本の神々と似てない?ギリシャ・ローマ神話に出てくる神々も人間1人1人と対峙するって感じじゃなくない?キリスト教が広まったかどうかは、別のことのような気がする。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-25 04:50:00 あ、私なんかには「何を祀っているのかわからない神」でもばあちゃんなんかにとってははっきりしてたみたいよ。 返信する 文章スタイルの根拠 (Unknown) 2016-11-25 05:33:31 南さんの文章スタイルには「実存の根拠」がある。その「根拠」とは次の様なものである。長い僧坊生活で、訳分からない禅問答にいたぶられ続けた。それでもそのおかげで、なんとか思考も深まった。では今度は俺の番だ。多少衆生をいたぶってもバチはあたるまい。俺も地獄には落ちまい。なぜって、衆生が当惑しながらもジックリ自ら考えて思考が深化していく筈だからだ。俺の思考がそんなに簡単に衆生にわかってたまるもんか!!!左様に南語録は道元の正法眼蔵の系譜を継ぐ!! 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-25 05:54:27 日本で仏教が浸透したのは聖徳太子だかが仏教を国教にしたことが大きい。ヨーロッパでキリスト教が流行ったのは古代ローマ帝国がキリスト教を国教にしたことが大きい。そこでキリスト教信者たちが、世界に散らばって、行った先の国の政治力を占拠した事が大きい。日本ではそれが起きなかった。信長は一時キリスト教を自分の政治の為に利用したが、秀吉・家康はキリスト教を禁じた。キリスト教が民衆の間に広がって自分たち専制君主に反抗する事を恐れたからだ。現代共産党中国でも、共産党監督下で共産党の害にならないキリスト教会のみ存在を許す。遺産の言う事も正しいが、政治力が大きく関係している事も確かだ。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-25 06:12:01 胃酸、済みません、老化@11-25、00:02:08はずるい。ナンカいたぶるのは、俺が地獄に落ちるみたいじゃん。おれって倫理的実存じゃあね~かもしれんな~とか・・・ 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-25 06:52:36 ひかげちゃん!!此処の記事の読者層はそれなりに広いからね。オタクワールド、別名シンケイヤンダーワールドご入場制限がかかっている訳ではないからね・・・。常識的に議論して、自分が生きる勇気をここから引き出せれば、「何でもあり!!」でいい筈だよ。自分が生きる勇気を得られない仏教は仏教ではないってみんな言ってるよ。裏返せば、死ぬことが恐怖に成らないという意味にもなるけどね・・・そのためには「何でもアリ」も可能なり!!。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-25 07:44:43 ひかげちゃんが引っぱって来たような『善の根拠』からの【倫理】の定義は、遺産が解説してくれた「言葉の意味を共有し、混乱を避ける為に」(@11-20,10:00:19)とも大きく異なるようだ。生きるを選ぶことから倫理が発生するとすると、釈迦の周りに集まった出家達は「非倫理集団」のやから達のようだ!! 返信する その通り。だから『相違点』 (イエスちゃん) 2016-11-25 07:53:21 その通りです。『あ、私なんかには「何を祀っているのかわからない神」でもばあちゃんなんかにとってははっきりしてたみたいよ。』キリスト教は、スタートから、天地創造の、すべてを創造した「唯一神」であった。だから、他の民族の神々は「神でなく、偶像に過ぎない」として、それまでの土着信仰は禁止された。結局、西洋全体は、キリスト教の精神が占めた。キリスト教徒がローマ帝国の領土の中で急増したので、「国家」を維持する「政治イデオロギー」としてキリスト教を採用した。これの逆ではない。『あ、私なんかには「何を祀っているのかわからない神」でもばあちゃんなんかにとってははっきりしてたみたいよ。』だから、キリスト教の西洋人には、日本の神様は、理解できないし、同時に、日本人には、キリスト教の神様が理解できない。だから『相違点』なのです。150年間も布教していて、人口の1%にも達しない。敗戦をきっかけに、欧米から大勢の宣教師がやってきて、多大な物心を投入し、大きなキリスト教ブームが起こり、信者が非常に増えた。しかし、「日本教」である広大な農村においては、布教は、全然というほど、成果がなかった。現在「戦後の一大ブームでの信者」が高齢化しており、その人々がいなくなれば、日本では、ますますキリスト者が少なくなっていく。日本でのキリスト教の布教は、人数・数量で評価すると、失敗であった。(隣国の韓国は、大成功。国民の40%近くがクリスチャンに。どこが違うのか?)しかし、質で評価すると、少し違う。NHKの宗教の時間では、キリスト教は頑張っている。 返信する 釈尊は、その『常識』が、間違っていると指摘した。 (イエスちゃん) 2016-11-25 08:03:25 だったら、オーム真理教、ヒンドゥ教、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、・・・何でも良いとなる。『常識的に議論して、「自分が生きる勇気をここから引き出せれば」、「何でもあり!!」でいい筈だよ。』釈尊は、その『常識』が、間違っていると指摘した。「諸法無我」 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-25 08:05:03 政治力を占拠というか土地の人間を駆逐し、生き残りを片隅に追いやり「新たに人のすむ世界を築いた」のかもしれない。「"あれ"は『われわれ』ではない」から、「殺せる」というわけで。みたいなことだって、言おうと思えば言えるかも。さて、そうした場合、翻って"あれ"の方は、土地を追われ生活の基盤を失い文化を失い仕事をしないから貧乏なんだと言われそれでも「祖先の生き方」を継承していこうと「きめた」りなんかしてるかもしれない、なんていう話だってあり得るかもしれない。…あれ?こんな話、どこかで…?キリスト教徒であるということは、なんなんでしょう、胃酸? 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-25 08:10:21 なんなの。「そうですね。そこが相違点です。」それなら4年間の史実がなんなんですって? 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-25 08:12:07 そうそう、胃酸は西洋人ですか?(再度質問) 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-25 08:22:14 うわさに聞くところによると釈迦は「悟って」直後「こんなの誰もわかんないだろうから、もう、死のう」と思ったとか。でも誰だかが「いやいや、そういわんと、みんなに教えたってんか、ええと思うでぜったい」とか言ったので「生きることにした」んでしょ?倫理的、なの?「菩薩は倫理的」と同じぐらい、妙な気がする 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-25 08:25:43 そうそう、胃酸ばあちゃんは日本人で、(何を祀っているのかはっきりしている)わたしは非日本人ですか?(何を祀っているのかしらない) 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-25 08:28:15 というわけで・・・・「何を」祭っているか解らない神を拝み・・・・これは、「胃酸は知らない」ということでは?とすると、胃酸は非日本人ですね? 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-25 08:33:51 ・・・・だから、他の民族の神々は「神でなく、偶像に過ぎない」として、それまでの土着信仰は禁止された。結局、西洋全体は、キリスト教の精神が占めた。キリスト教徒がローマ帝国の領土の中で急増したので、「国家」を維持する「政治イデオロギー」としてキリスト教を採用した。これの逆ではない。・・・・何と何が逆じゃないの?「外道は駆逐しろ!!」というわけで「われわれ」ばっかりになった、だったら当然「われわれの神」を祭壇に据えるでしょう。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-25 08:34:36 攻撃力の差じゃないの? 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-25 08:39:35 だって、胃酸自身が書いてたんじゃない?戦いに勝つことが神の正当性の証明って。そこから始まってるんでしょ?筋金入ってますけど、みたいなもんじゃない。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-25 08:48:12 あれ?何を祀っているのか知らないのが日本人?するとばあちゃんが非日本人?すると「それが相違点です」って、何と何の相違点?深まる謎だのう。 返信する あっちの水はァ~苦~がいぞォ オレの水だけ甘~ァいぞォ(童謡)( (Unknown) 2016-11-25 22:43:35 私はホタル誰かが呼んでいるオレの指に留まれって俺んち水は甘いってオレの道のみ救いだぞってほかへいったらダメだってほかの水は苦いってほかの道みな滅ぶって救いの道はオレの指オレだオレオレわからんかオレオレオレだよ、σ(゚∀゚ )オレ~ムムム、俺ってだれだァ??該当者は名乗り出て下さい!! 返信する 外れ者さんへ (飯田) 2016-11-25 22:49:14 倫理=春夏秋冬。というような、長い循環的な概念。(理論)哲学=春と夏を比べる。というような、広い相関的な概念。(対比)俺は、大体こんな感じで認知してるね。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-25 22:53:16 >「外道は駆逐しろ」というわけで「オレオレ」ばかりになった。と遺産が言った訳かな?? 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-26 00:51:31 南氏は道元氏の語る仏性について、何か、批判なり言語を下さいよ。道元さんが神ですか。そろそろ、道元さんの言う仏性について、南さんの見解を希望します。ひろさちや氏、曰く、全てが仏性であって、その中に自己がある。しかし、それはイエスちゃんが批判しました、母体の中にいる胎児、ということ。私は仏性をどのように認識したらよいのか分らない。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-26 01:10:25 ってなると、私の神は南氏となってしまう。前提を与えた、あとは自分で考えて。自灯明法灯明 、ということか。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-26 04:31:32 わたくしは、倫理的実存+道徳的実存+善的実存+博愛的実存+慈悲的実存+利他的実存+真我的実存+無我的実存+菩薩的実存+共同体模範的実存+仏性的実存+宇宙の大生命体の正規会員的実存+~+~+~~=私を実現した「なんでも有田(ありだ)」さんです。。。でも私は「釈迦+龍樹+道元+南直哉+遺産」系譜の事は知りません。って言うのは「外道」の道ですか???私は滅びの道を歩んでいて、「外道のやから」として駆逐され駆除され抹殺されてしまうのでしょうか??お~、こわ!!。注)善人で、正しくて、守るべきものが有る人は、他人に対していくらでも残酷になれる(内田樹氏の言葉)・・・なぜなら、自分の信念が絶対的真理で、他者の想いは全て間違いで外道なら・・・自分のみ実存の根拠を有していて、存在許可書保有者で、従って、外道は存在理由が無くて死罪にあたいする虫けらだ!!となる。ポアは仏行だという何やらと一つも違わない!! 返信する 「原理上言語で表現できない或るもの」が、言語で「もの=色」と表現される。 (イエスちゃん) 2016-11-26 04:47:36 蘊とは、「集まり」の意味で、「五蘊」とは「人間の肉体と精神」を五つの集まりに「分けて示したもの」である。色・受・想・行・識(しき・じゅ・そう・ぎょう・しき)。この五蘊が集合して「仮設されたもの」が人間であるとして、五蘊仮和合(ごうんけわごう)と説く。これによって五蘊(=人間)の無我を表そうとした。古くは阿含経の中に言及されている。色蘊 - 人間の肉体を意味したが、後にはすべての物質も含んで言われるようになった。(例:桜そのもの) 受蘊 - 感受作用(例:桜の木をみて「美しい」と感じること) 想蘊 - 表象作用(例:眼をつむって「桜」というイメージを思い浮かべること) 行蘊 - 意志作用(例:桜の枝を瓶にさしてみようと思い巡らすこと) 識蘊 - 認識作用(例:「桜」と認識すること) 阿含経 相応部 22・87から「ものごとの理法を正しく見る」とは・・・「生物を構成する要素」の五つに対して、・「もの=色」は、無常である。・「無常なもの」は「苦」である。・無常であり、苦であり、(常に)変化し止まないもの、それに対して、(何らかの)欲望も私には生じないし、貪る心もなく、愛着の気持ちもない。・「感受=受」、「想念=想」「因果的存在=行」「こころ=識」は、無常である。・ (同上の繰り返し)しかし、部派仏教(とりわけ、説一切有部)では、「人間は、「五蘊」として「法・ダルマ」として、永久に存在する(=有)」と、誤解するようになった。これを正すために、大乗仏教が興り、部派仏教の「五蘊」を否定して、「空」「無」と説いた。照見五蘊皆空。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識亦復如是。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。無眼界、乃至、無意識界。無無明・亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。無苦・集・滅・道。中国、唐代末期の、洞山良介禅師は、小僧の時に、「実際、眼や耳があるではないか」と、この言葉に躓いた。それを修行僧の時代に常に温めており、「無情説法」の物語が解って、この「無眼・耳・鼻・舌・身・意」が領解できた。「空」とは、「原理的に2分法」の「言語=情報」では、表現できないという意味である。「もの=色」は、「原理上言語で表現できない或るもの」。「原理上言語で表現できない或るもの」が、言語で「もの=色」と表現される。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-26 05:11:35 形而外学ということが許されるなら形而内学、形而右学、形而左学、超形而下学 おk。形而中学、形而低学、形而高学、非形而上学、無形而上学、不非形而上学 なんでもおk。徹底的に無限増殖させて言葉遊びをしよう。言語批判はいいんだよね?批判されて困ったら「仮設」「個人的に」「言葉にならない」でいいくるめましょう。更に執拗に批判する人間には「絶対矛盾的自己同一」「矛盾に耐える」「踏みとどまるべき」でスルーしましょう。もうどうにもならない場合は聖なる沈黙で直ちにその場を去る。(逃げだと思わせないように注意!!) 返信する Unknown (真実のイエスちゃん) 2016-11-26 05:19:23 わしは真実のひかげである。わしのHNをパクっとる輩がいるが幻影であり偽りである。わしこそ元祖であり真実であり実相のイエスちゃんである!わしこそ究極である。と個人的に思うような気がしないわけでもなかった。個人的に錯覚と思われ、仮設されたかにみえた真実のイエスちゃんが個人的に仮定的に暫定的にいってるような声がどこか遠くのほうできこえたようなきがしないでもなかったと言う否定も肯定もしない状態が個人的にありうると感じないわけでもなかったという可能性が(以下略 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-26 05:25:52 >個々の状況における「自己」の在立の問題、つまり「倫理」の問題である・・・ーーーーーーーつまり「自己が在立すべきかどうかを」問う・決める・・・、が倫理学の命題だと言う意味だという如くに見える。(注;圧倒的多数の人が、倫理学を自覚・選択した結果「今、生きている」訳ではないが・・・・。)問うた結果、生きるを決めたら「倫理的実存」となずけよう。問うた結果、死ぬを決めたなら「倫理的希死念慮体」となずけよう・・・とか?ところで「生きると決める」のも「生きないと決める」のも今此処に【実存】体があって初めて成り立つのだから、倫理的希死念慮も倫理的実存の一形態であるにすぎず、要は「生きると決めたも、生きないと決めた」も(その本体はともに)【倫理的実存】である!!、と言うのが論理的に見える・・・。(どちらに決めようと、人はみなそれ自体、「倫理的実存」である!!) 返信する Unknown (真実性のイエスちゃん) 2016-11-26 05:50:20 >生きると決める」のも「生きないと決める」おい君!無回答が抜けておるではないか。君も現象界にいる幻影なのかね?真実性になるんだ!この場合真実性であって真実とはいってない。 返信する Unknown (仮のイエスちゃん) 2016-11-26 05:55:38 みんなが言葉に執着しないようにとわしの配慮は慈悲の心に満ち溢れちょる。みんなわしのようになるんやで。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-26 06:48:59 そっか!!「生きるときめるのも」「生きないと決めるのも」「無回答ときめるのも」「生きるときめたのも」「生きないときめたのも」「無回答ときめたのも」・・・実存体が決めるのだから、皆すべて「倫理的実存」である。 返信する Unknown (深寝身の眞イエスちゃん) 2016-11-26 06:57:20 年寄の俺σ(゚∀゚ )オレをいたぶるヤカラタチのいたちっぺよ!!俺が脳卒倒したらお前たちを地獄に落とすぞえ!! 返信する Unknown (至高のイエスちゃん) 2016-11-26 07:25:20 決めるもなにも存在自体が無根拠だから決めるのも無根拠だ。むしろ倫理だけ根拠が降って湧いたほうがおかしい。無根拠なら否定も肯定もできないと取るか否定も肯定もできると取るかどうでもいえるしどうでもいい。 返信する Unknown (即身仏的イエスちゃん) 2016-11-26 07:40:41 >いたぶるヤカラタチ誤解してはならぬ。これは慈悲。遍満する虚空のようなものからの慈悲の顕現なのである!!よって感謝されることはあっても恨まれることはないであろう。(と個人的に。。) 返信する 仏性体験記 (Unknown) 2016-11-26 08:03:30 「禅と悟り」サイト。1941年生まれ・理学博士・某大学名誉教授による道元「現成公案」、もう一つの私流解釈;道元言語録(の解釈)は、①.自己(心)とその中心たる脳の働きが「祖仏」だ。②.仏=人の「心清浄」が即ち是なり。心こそは仏であり、心こそが仏になるのだ。③.仏=バガヴァッド(bhagavat)=至福者。④.仏=正見を持ち、脳全体(上層脳+下層脳)が健康になった最高に幸福な人。⑤.仏性=本来の自己、即ち【脳】⑥.仏法=我々に必要不可欠な真理の世界なのだ。単なる狭義の宗教では無く宇宙の摂理を含む自然界の真理や法則を含むのだ。(注、法とは物事の在り様)。⑦.仏法=自然科学の真理を含む大きな真理の世界を指すのだ。⑧.心=山河大地なり、日月星辰なり(即心即仏)。⑨.日常生活は活きた仏道そのものである。⑩.仏法の真理は前から在ったというものでもなく、今現れたというモノでもない。ただそのように人々が本来具有しているモノなのだ。それに気付く事が大切だ。⑪.信仰=現実に目前に現れている事物は皆尽十方界真実であるから、その時その時の尽十方界の環境に素直に随順して、全てを受け入れなさい。⑫.無処不周底=禅問答での問:「衆生本来仏なり」で仏性は、常にあり、どこにでもある、と言われているが、では何故修行して悟りを開く必要があるのか??禅問答の答:あなたは「仏性が未だどこにも至らないところはない」ということを未だ知らない。⑬.作用即性=色の行動(=作用)は即ち性(=仏性=脳)、よって仏性はつねにある。人の脳がそうだ。よって仏家の眞風(作用=扇で風を起こす)を修行を通して証明していかねばならない。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-26 08:39:34 >問うた結果、生きると決めるなら「倫理的実存」となずけよう。>問うた結果、生きないと決めるなら「倫理的希死念慮」となずけよう。問うた結果、無回答と決めるなら「倫理的フーテンちゃん」となずけよう。 返信する Unknown (変容するイエスちゃん) 2016-11-26 09:41:12 無回答①決めないことを決める。②決めたことを明示しない③単純に決められない④仏か何かに一切を委ねるいかようにも解釈可能。他にもあるんでないかね?>脳が仏性これは違うと思うよ。植物とかどうなるん?石にも仏性があるとかいってませんでしたっけ? 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-26 09:41:59 僧侶軍曰く、わしたちは、言葉に出来ない真理を衆生に伝えるべく、言葉を駆使しておる!!衆生たちは、それをユメユメ言葉遊びだと揶揄すべからず!!地獄へドつくぞえ!! 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-26 09:50:13 宇宙が仏性なら当然脳も仏性!!石も仏性!!だから道元師曰く、心(=脳)は山河大地なり、日月星辰なり!!らしいよ。。。。per物理理論家 返信する 補足 (Unknown) 2016-11-26 10:07:16 ⑥、⑦、⑧によりますと、道元師定義の仏法=仏の在り様とは全宇宙の在り様、すなわち人、植物、石の在り様だ。人の在り様とはモチロン「脳」のことだ・・・で仏性とは【作用即性】の性の事で、作用(人なら動作、植物なら植物として活動している事、石ならそこにデンと構えている事)は、即ち「仏性」だと繋がる語呂合わせ成立、フウッ!!とすべて繋がっちゃうって事 返信する Unknown (現象的イエスちゃん) 2016-11-26 10:08:50 なんかさー君は唯脳論者みたいでちょっとちがうんじゃない?脳ばかり焦点いきすぎだ。脳がない生物を考えて中立になるべきだ。疑似中立かもしれんけどあいつらはなんで動いとるのかの?イエスちゃん(別形態のわし)がいってたけど一卵性双生児で別人格だったら相互脳移植したらどうなるんかの?記憶は引き継がれるのかとか興味ない?クローンの臓器移植関係は「倫理的」にアウトだけど。 返信する ね!! (Unknown) 2016-11-26 10:13:00 そ~だね。無回答がベストだね。放っといたらその内みんなの熱病がやむからね。これが釈迦のやり方だったよね。当時はブログもなかったしね!! 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-26 10:18:38 一卵性双生児同士が面と向かって「お前は誰だ?」と千回くらいいったら自我は破壊されうるか?鏡に向かってやることより高ダメージが期待される。 返信する 現象的イエスちゃんに応答 (Unknown) 2016-11-26 10:37:56 だから人はDNA個性(=ジノタイプ=先天性)50%、後天的な個性(フィノタイプ)50%で出来ている。(注;アッ50・50は単なる語呂合わせ、30・70、80・20かも知れないけど突っ込み禁止条令発令)ジノタイプ、ジーン(DNA、遺伝子)に起因する個性と言う事。フィノタイプ、フィノ=pheno=showという事で外部要因で変化した後天的なモノという意味。だから五蘊自身(感覚器官)に記憶保持機能がなくて、脳のみが意識・無意識世界を全て決めているとすると、一卵性双生児であろうとなかろうと、脳交換をすれば、人Aと人Bは完全にいれかわる。顔つきが変わるかどうかは不明だけど、姓名も入れ替わっちゃえば、脳交換する根拠が失せちゃうけどね・・・ 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-26 10:47:56 そ~いえば、会社でトップの首を据え替えれば、脳の無い手足のみの社員なら新トップの言いなりになるよね、たぶん!!。そうならないとしたら手足たるべき部下社員にも脳があって、その部下の脳が災いをこしらえて居るからだ、といえるね。やっぱり唯脳論もみどころありそうじゃない!! 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-26 10:57:14 まあ、日本では実権を持つのはナンバー2、だけどね。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-26 11:03:07 右手や右足を失った人でも、脳のなかでは右手・右足のイメージが残っていて、両手とか両足を動かすイメージを脳がすると、その人は自分にはまだ右手・右足が有ると思うとからしいね。パラレンピックの熟達した競技者では、義足・義手が自分の身体そのものとして肉体と同化している。だからその機械部品が肉体より優秀なら、健常人より優れた成果を発揮できるそうだよね。だから差別的に競技しなければ健常者に不利となる、とかが研究されてるらしいよね。これも唯脳論支持説だね。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-26 11:28:32 道元さんの種子の話って100分で名著にあったけど。種子を受精卵に見立てると脳は受精卵に存在するとなりますな。受精卵研究したほうがいいんでないか?受精卵から赤ん坊の世界が立ち上がるまでのプロセスが気になってしょうがない。 返信する Unknown (絶対無的イエスちゃん) 2016-11-26 11:42:30 ぬ!わしは悟った。受精卵→排卵→月経→月月をさすあ~!!こ、これは!!悟っちゃったかもーーー!言葉にならない真理(キラ~ン☆ 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-26 15:48:29 受精卵は単細胞で両親のDNA情報を半分ずつ持っている。受精卵の大きさは0.14㎜でDNA総長2メートルのものが46組の断片に分離している(染色体と呼ぶ。染色体は細胞分裂する時だけ姿を現す)。さて受精した受精卵は30時間後、卵割し始め、二分裂を繰り返し、数サイクル(5サイクルとすれば2の5乗で32個)位、受精して4日後位から細胞分化が始まる。脳に成る為の細胞分化では、DNAの脳情報を取り込んで来る。それと同時に脳細胞の分裂増殖では脳情報以外のDNA遺伝情報は活性活動を鎮静化(=ストップ)させられる。かくして五臓六腑ができあがる。そんな具合でト月10日後赤ちゃん誕生、おめでとうございました。(アッ、此処でも日と月が出て来たぜ!!、悟ったかな、キラ~ンちゃん!!)人は3歳までに人格・個性・方向性がほぼ決まってしまうとも言われている。其の頃、右脳と左脳を繋いでいる電線がそれまでの裸線から、被覆線へと変化するので、情報の交錯性・臨機応変性が収まってしまうらしい。あとはだいたい一本道だ。乱取りヘンゲから一本刀(がたな)土俵入りという訳で小さくおさまる。あ~ら、どっこいしょ!! 返信する 言葉の幅 (ひかげ) 2016-11-26 16:06:11 いつもそうですが、特にこのコメントは私の解釈だけなので、間違っていると思う方は是非指摘してください。南和尚は、「実存」とは「どのように存在するか」という答えになる「存在の仕方」のようなことだと示唆された。しかし「どのように存在するか」という問いは、二通りの意味に取れます。① 「私が存在する」とはどのような形で起こるのか。つまり「生は課される」、「困難、不可解なことに否応なしに直面させられる」、「存在の仕方を一方的に決められる」といったように説明されることです。② 私はどのように存在しようとするのか。「業的実存」にしろ「倫理的実存」にしろ、そこには決断があり、主体的要素がある。つまり私はどの様に生きようとしているのか。言わば存在のメカニズムを問う最初の「どのように」と、「生き方」の様なことを問う二つ目の「どのように」ではだいぶ違いがあります。①の実存が先にあり、それを自覚し、それに対する決断があり②の実存になるのかと思います。しかし、私がややこしいと思うのは、「実存」という漢字の組み合わせからは、②の方がイメージしやすい。そして「実存の根拠は何?」「なぜそのように存在するの?」という問いに対する答えは、①と②では全く違ってくると思います。 返信する いいえ違います。ひろさちや氏の話です。 (イエスちゃん) 2016-11-26 17:51:21 『「道元さんの種子の話」って、(注:さちひろや氏が執筆した・・・)「100分で名著」にあったけど。』これは「道元和尚の教え」ではありません。「さちひろや氏の教え」です。さちの教えでは、『種子を受精卵に見立てると脳は受精卵に存在するとなりますな。』だから、無駄骨だと思いますが・・・『受精卵研究したほうがいいんでないか?受精卵から赤ん坊の世界が立ち上がるまでのプロセスが気になってしょうがない。』 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-26 17:54:45 その境目が「在り様」じゃないのかな。①って外側のことでしょ?②って内側のことでしょ?でもそれ「単独」では在り様がないでしょ?だから無常なんじゃないの?って思ったりなんかしてー。 返信する Unknown (イエスちゃん) 2016-11-26 18:11:07 お前がそう思うんならそうなんだろう お前ん中ではなこれ至言だわ。悟りだろうが教えだろうがなんでもこれで言い得て妙。ネットスラングのほうがよっぽど正鵠を射てる気がする。 返信する 2016-11-26 18:11:07の偽者さん!貴方の心は汚い。 (イエスちゃん) 2016-11-26 18:35:15 2016-11-26 18:11:07の偽者さん!貴方の心は汚い。 返信する Unknown (イエスちゃん) 2016-11-26 18:55:37 別にイエスちゃんを名前にしてはならない理屈も根拠もない。ユニークにする義務もない。ただ重複してるだけですよ。言語は虚構だったらすべて偽。私の名が偽だったらあなたの名も偽。遊んでいるだけですので気にしないでくださいね。 返信する Unknown (イエスちゃん) 2016-11-26 19:06:18 ついでに申し上げますとすべては我が物ではないなら「貴方の心」この表現おかしいですよね。私は心ではないとなります。残念でした。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-26 19:20:21 じゃあ「お前ん中」も、へんじゃん? 返信する Unknown (イエスちゃん) 2016-11-26 19:25:17 >じゃあ「お前ん中」も、へんじゃん?ぬお それを言われると苦しい。聖なる沈黙。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-26 20:01:07 あ。来月の今頃は「クリスマス」も終わって年末も佳境に入ってく感じじゃん。「イエスちゃん」お誕生日おめー。 返信する 「倫理」とは美醜を識別する能力、「仏性」とは「美」を知る本性の事ではなかろうか (Unknown) 2016-11-26 21:55:50 ずっと昔、キリスト教信者で生物学者の知人の某氏が、進化論では決して「美の存在」を証明する事は出来ないと主張していた事を突然思い出した。それは神から与えられた能力なんだと・・・。それで今思い付いた。「倫理」って美醜を見分ける能力の事なのではないかと。元来人にはその能力がDNAの中に刻印されている(と思う)。又、美を感じる人の本性を「仏性」というのでないかと。それが「倫理的実存」という事でないのかと・・・。言い換えると「感動する能力」ということであり、それは「右脳の能力」という事だ。仏教は右脳の機能を指している。人は石を見ても、植物を見ても、動物を見ても、空や雲を見ても、日の光、月の影、砂漠を見ても、宇宙の広大さを感じ、風のそよぎを感じても、又、人のけなげに生きようとする姿、真剣に物事に立ち向かう姿、無邪気な微笑み、ありがとうの言葉、人が坐禅する姿、無我に徹する姿、心地よい音楽・絵画からも、実に様々な事に、「美」を感じ、「感動」をうけ「涙し」「生きるエネルギー」を貰う。「醜い事」をしたくないと思う・・・健全な精神ならば・・・。DNAはそれが人の「生存・存立」を存続させ継続させ、「共同体」をうまく機能させる事を、経験的に学び、DNAの設計図の中に刻印していった・・・と考えられる。それが倫理的実存の存在根拠であろう。そう、人は生まれながらにして仏性をもっている。だから世の中がうまく回っていくのであろう。それに気が付いて精進し、気が付くために修行する、曇った心を修行で浄化する・・・そういう事ではないか。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-26 22:14:56 提案。もうそろそろHNもどきのオレオレ詐欺は止めましょう。だんだん醜くなってきました。 返信する 2016-11-26 18:11:07の偽者さん!皆の前で、謝罪を要求する! (イエスちゃん) 2016-11-26 22:18:29 他人のハンドルネームを、勝手に使用し、「他人を」偽装し、自分の主張をするのは、インターネットの世界では、禁じ手である!卑劣な行為である!南直哉師を、騙すことである!このブログの読者を、騙すことである!皆の面前で、謝罪を要求する!南師は、「2016-11-26 18:11:07の偽者さん!」のこの不正な行為を、ここのブログで許可しない!このブログの読者も、許可しない! 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-26 22:38:40 …「何」に、美を感じ、感動するか、っていうのも時代とか地域性とかに影響されるような気がする。もっと個別にいえば、例えばシャガールの絵なんて、私にとっては「なんか…うざい」ようなもので、でも、最大級の賛辞を捧げるような人もいるらしいし。例えばミスターオリンピア(ボディビルダー最高峰)の身体を美しいと思うかどうか、なんて、分かれるでしょー?絵描きさんで「美しい色なんてない」と言った人もいて、なら「美しいものなんてない」のかもね、とかね。美は、どこにあるんでしょうね? 返信する Unknown (イエスちゃん) 2016-11-26 22:39:29 一切謝罪などしない。自分のブログでいうならまだしも私物か?根拠も義務もない。貪瞋痴って知ってる?名前の重複ごときで見苦しい。醜いのはどっちだ?自己愛で肥大化した己を見よ!それを気づかせるためにやっているのだよ!小学生 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-26 22:42:52 ・・・・・・・・・・・・あのさあ胃酸「南直哉師を、騙すことである!このブログの読者を、騙すことである!」これって、どうなの?あなたは南直哉師でこのブログの読者全体なの? 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-26 22:44:41 自己愛で肥大したイエスちゃん。ご自分の文章、客観的に読んでみたら? 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-26 22:52:10 名前ごとき単なる記号なのだ。どうして卑劣になるのか皆目わからない。死人になりはてて 彼がよく引用する言葉だが死人が怒り狂うか?つまり言ってるだけなんだよ。言うだけ。言うだけ引用するだけなら誰でもできる。内実は自己愛でいっぱいなのである。エゴの塊。矮小でみすぼらしく思うから余計飾りたくなる。そんな心理が見え隠れする。いずれ必ず人は死ぬ。不可避だ。ここでいいこと言ったつもりで悦にいってどうなる?俺も人のことをいえないあんたと同じさ。お互い自己に向き合い自由になろうじゃないか? 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-26 23:01:03 でも胃酸、よかったじゃない?「イエスちゃん」て同じ名前使ってても胃酸のことはみんな判るみたいよ? 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-26 23:02:09 南師経由と言う「ひかげ」ちゃんの「実存とは?」の分析は頭が痛くなりますね。【実存】とはアッサリ【実際に存在している事】の一般的概念であり、①は実存の「発生根拠」は何か?、という質問で在り、②は実存の「意義・意図・目的」は何か?、という考察であり、ともに「実存」と言う言葉自身の定義と言う事では無い。いくら南さんが意味深に色々横道概念を引っ張り込んで来ても、単に複雑になって、余計に焦点がボケてしまう。禅問答になってしまう。だから一般読者としては「実存」って未だに何だかわからない・・・、となってしまう。実存とは「実際にここに存在している事」、という事で一区切りしておいて、次の段階で深度を深めて、オタクたちの間だけで、では「実際とは何を意味するのか?」、「此処とはどこの事か?」「存在しているとはどういう意味か?」とかの哲学論(禅問答)に這入って行った方がよいと思う。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-26 23:19:34 >美は、どこにあるんでしょうね??美は人の感性!!、右脳の機能。但し感性は人ごとに、場所ごとに違う部分もある。しかし(ある地域で)共通項で括り出した部分を(その土地での)「倫理」として総括できる、ということかもしれない。なぜなら人間各人が「美」について全く共通項を持てないならば、「美」という定義は存在出来ず、人類共同体も永続出来ない(多分・・・)。シャガール自身も含め、100%の万人が彼の絵を(シャガール自身も自分の絵を)醜いと思えば、そんな絵はこの世に存在出来ない。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-26 23:41:04 >美しい色なんてない、と言う画家もいる・・・きっと彼は、「美」は無根拠な色をつかって私が「美」を生み出すのだ、とか主張したいのでしょうね。でも、赤色でも無限のグラデーション(色合い)があって、太陽光線、照明灯との反射・透過によって、さまざまに変化し、人をして「美」を感知させる。夕焼けの赤はその色自身で美しい。世界は広い。美しい色なんてないという画家は世界を知らない。美は俺だけにしか作れないとうぬぼれている(お前ん中???)。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-27 00:12:45 私が美を生み出す、とかは、思ってなかったんじゃないかなあ。わかんないけど。その人の描く絵も、うまくいくときもあればうまくいかないときもあっただろうし。色一色を取り出して、きれいな色きたない色なんてない、みたいな。取り合わせ?組み合わせ?バランス?そういうものらしいよ、その人によれば。夕焼けの赤、なんて、それこそ「色々」じゃない。「夕焼けの赤はその色自身で美しい」っていうのは、あなたの脳内にあるとき浮かんだ、なんだ?なんかの思い込みというか、ある日の夕焼けの記憶をモトにした空想上の「美なるもの」に酔いしれる言葉だったりとか、じゃない?そういうとこにはあんまし「美」は感じないかな、私は。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-27 00:39:19 イエスちゃんのHNが乱用されている。私たちは、誰かが言ってた「放言集団」だけれども・・・なりすましは辞めましょうよ。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-27 00:54:52 おお。判らない人もいるんだぁ。残念。なりすましてないと思うけどね。名前だけおなじなんでしょ。Unknownだらけはなりすましって言わないのにね。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-27 01:00:19 悪解 返信する 2016-11-26 18:11:07の偽者さんへ!発言には責任がある! (イエスちゃん) 2016-11-27 01:48:02 2016-11-26 18:11:07の偽者さんへ!発言には責任がある!他人のハンドル名を語って、主張するのは、卑劣な行為である!貴方の心は、汚い! 返信する 2016-11-26 18:11:07の偽者さんへ!ここで、正に今、倫理を話しているのです。 (イエスちゃん) 2016-11-27 01:59:54 2016-11-26 18:11:07の偽者さんへ!ここで、正に今、倫理を話しているのです。そして、発言には責任がある!他人のハンドル名を語って、主張するのは、「卑劣な行為」である!貴方の心は、汚い! 返信する 美 (Unknown) 2016-11-27 02:25:07 私のポイントは美醜を対立用語としてみると、人は美を好ましいものと思い、醜(しゅう)を醜い(みにくい)ものと嫌う・・・ということかな。此の世に美しいと思うモノがなければ感動するという事も起きない訳だし、創作活動も起きないだろうし、プラスのエネルギーも出ないだろうし、想い出に浸ることもできないだろうし~~、多分「美」とは「好ましい」とか「善」とかと同義語で存在している、という事かもしれない。そう言う概念がなければ右脳が活性化されることはないと思うんだよね。まさに右脳が存在する根拠が此処にあるんじゃあないんだろうかな。勿論何に対して美醜を感じるかは多少の差があるんだろうけど・・・・ 返信する 追加 (Unknown) 2016-11-27 02:31:40 そこで降り懸かる難問は、釈迦は解脱後「美醜」を感じたのか感じなかったのか、という問題だけど、晩年では「この世は美しい。人生は甘美だ」と言ったという事にされてるからね、ど~なんだろうね。新な執着を生んでいるという解釈もなされる筈だからね。ワカラン!! 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-27 02:45:37 ハンネなりすましは、やはり悪意が背景にあって醜い、即ち醜悪だ、という事になるよね。相手をあざけり喧嘩を売り攪乱戦法を是とする「孫氏の兵法」な訳だけど、国際政治の汚い局面では「勝利」目的で多用されているようだね。 返信する 2016-11-26 18:11:07の偽者さんへ!区別するために、名前を付ける! (イエスちゃん) 2016-11-27 02:47:24 2016-11-26 18:11:07の偽者さんへ!人間は、区別するために、名前を付ける!日本国民の全員の名前が、山田太郎だったら、名前をつける意味がなくなる。「Unknown」は、区別をつける必要がないという「発言者の意思表示」なのです。2016-11-26 18:11:07の偽者さん!は、愚かだから、「その違い」がわからない。ただ、2016-11-26 18:11:07の偽者さん!貴方の心は汚い! 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-27 03:01:53 「ハンネなりすまし」の定義は、今回の例で言えば、「イエスちゃん」というハンネの人Aが実存しているのに、実存している別の他者Bが意図的・作為的にAさんと同じハンネ(=イエスちゃん)を用いてモノを言う事、という定義となるね。「真のイエスちゃん」、「仮のイエスちゃん」、「~~のイエスちゃん」というハンネの付け方は「なりすまし」とはよばないし、実存の人Aが色々なハンネを用いて登場するのも「なりすまし」とはいわないからね。念の為・・・ 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-27 03:11:43 「ハンネなりすまし」は特定な相手の人格破壊を招く、人格破壊を意図しているという点に於いて、マナーを欠いた行為である!!に尽きる。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-27 04:00:21 書いてる内容が全然違うじゃない。特徴も全然違うじゃない。なんか、そんなに「名前」をアテにしてるの?すごく意外。例えばだけど。胃酸が、あるときは「イエスちゃん」として、あるときは意図的に「Unknown」として、書いてるかもしれないじゃない?うまくやればわからなかったりするかもしれないじゃない? 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-27 04:04:06 あ、もしかしたら実際どれも「イエスちゃん」で、なりすまし事件を創作してるだけかもしれないけどね。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-27 04:06:56 フェイスブックとかなら「人格が」もわかるけどここで?実際の紐付けって、南さんでもできないんじゃないの?……「人格」って、なんのこと? 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-27 04:24:27 実名をハンドルネームに使うならまだしも仮設されたハンドルネームに人格ですか?マナーの定義も曖昧ですね。「イエスちゃん」≠「イエス ちゃん」≠「 イエスちゃん」≠「イエスちゃん 」これでもあり?unknownで同意見をつくってアジる手法もあり? 返信する 仏性・美醜を感じ取る本性、倫理・善の存在の根拠は皆同じ (Unknown) 2016-11-27 04:38:35 その根拠とは、人と言う実存体が継続的に実存出来る為に、経験則として学習して来たDNAの在り様として規定されているからだ、といえる。即ち、それを欠いた或る人類種(人的グループ)が過去に一時的に存在していたとしても、自己崩壊を起こし絶滅した(絶滅する絶滅種だった)と考えて良い。理由はそれを欠いては【共同体】を構成出来ないからだ。つまり「仏性は人に生まれつき備わっているモノ」であるという論理は、これで根拠が与えられる、と考えられる。(ならば善の根拠も同様であろう。生きると決めたからと言うよりも、その様に生まれついている、という方が妥当であろう)。石、植物、日月星、宇宙は仏である、仏性であるという考え方がなぜ同時に成立するかと言えば、人を介してそれらを眺める(=評価する)時に人の持つ感性の働きによって左様に合意できるという事であろう。此の世に人類がいなければ、どこにも仏性は顕現しない。猫には仏を感じる脳機能がない。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-27 04:42:15 トリップないしIPアドレスもないからどうにでもなりますね。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-27 04:56:16 ハンネを付けて意見発表をする人に対しは、読者は常に、「ああ、あの人だな」と特定の個人を想定する。だから同じハンネの人が支離滅裂の事を言ったら、必然的にその人を非難する結果に成る。戸籍謄本に登録される事のない、ここのコメ欄でもハンネはその様に機能する、ということであろう。ハンネを付けない人は無名者の一般的な声という立場をとる。読者も特定の一人を想定しない。その独立単体の意見に対しての論説の受容・拒否を考察するのみである。人格問題は起きない。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-27 05:22:54 gooブログのコメント利用規約の何条に違反するとなれば問題だ。でなければ個人的基準に基づく個人的見解の域をでない。実在する個人名ではなく仮想化された名前の点も考慮するべきだ。イエスちゃんはなぜunknownで投稿しないのか?なりすましをこうも断罪するのか。今回の問題の核心は名前そして自己への執着であろう。自他対立を越え、我執を捨てよとされる仏教においてこれらの執着はどう考えるべきなのだろう。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-27 05:33:11 ハンネには人格がついて回る。必ず特定個人の亡霊が付きまとう。良寛さんはああゆう事を経験したからこういうことを言ってるのだな、とか、イエスちゃんの過去の体験談を聞けば、彼の統一した人格(=自己同一性)が浮かび上がってくる。ひかげちゃんもしかり、ZIPちゃんもしかり、透明ちゃんもしかり、千里眼ちゃんもしかり、最近での外れちゃんもしかり、たびたび同じハンネでこの場に現れれば、人格とか個性がうかびあがってくる。極々マレのハンネの人は、読者の無意識下に収められ、まだ人格は現れて来ないが、コメ回数が増えると、特定の個人として人格(自己同一性)が成立してくる。それが(その人の)人格という意味となる。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-27 05:39:18 名前をつけることは自己主張を強めることである。それは自己を強化することに他ならない。オレがオレがの我の張り合いになる。仏教は「オレがオレが」を虚しくさせ他と等価とすることを是とする。まるで逆行ではないか。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-27 05:47:06 ハンネは執着か??執着ではない。自分の言った言葉に対して連続的・継続的に責任を持ち続けたいという意志表明であろうと思う。それがハンネ人の個人的信条だからだ。彼には勝手気ままな放言や暴言・汚い言葉はもはや許されていない。彼には自己統御メカニズムがしっかり働いているということだ。だから、他者から「なりすまし」をされると、そこで一貫した論理を展開できなくなる。はなはだ迷惑千万な訳だね。あんまり邪魔しない方がいいんじゃない?? 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-27 05:54:38 仏教とハンネは逆行していない。釈迦は釈迦として言葉を人に伝えている。釈迦が無名として単に一般意見を言ったんだったら仏教の成立はなかった。イエス・キリストもマホメッドも道元師も南師も皆同じ、エホバの神もアラーの神も皆すべて個人名を持って言葉を伝えたから、言語録としてのこる訳だ。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-27 07:42:42 今改めて思ったけど、或る画家が、色には美しい色(綺麗な色)とかは無い・・・って言うのは何か私的には全然理解出来ないかな!!なぜって、画家が幾つかの絵具を混ぜて、自分の好みの色に仕上げて、キャンバスに向かって、「ム、そうだ、この色だ!!」と意思決定して塗っていく時は、この色こそ綺麗だ、美しい色だ、この絵にマッチする色だと思って、自分で自分の気に入った色を作り出した事に満足している、と思う訳だよね。その画家がどういう意味で、美しい色なんて無いと言い切ってしまうのか、理解できない。彼の理屈を説明して欲しい… 返信する Unknown (浅野) 2016-11-27 08:10:26 少年の「生きると決めた」の手記の中には、辛く、苦しく、不安や恐怖があるけれど、主体を持って、他者に課された自己を引き受け生きる、という信念と志向があると思います。しかし、「震災でたくさん死んだから」「決めた」のならば、そこに至る跳躍は、いかにして生み出されたのか、生み出したのか、育んだのか、、。そこに思い至るまでには、矛盾や葛藤、不条理が横たわっていたと思います。南さんの思想を通して、少年の境遇や手記の内実を、共感や想像に至れることに、有難みを感じます。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-27 08:20:24 此の世に「美」というものが有るか疑問だ・・・と言うタイプの論理は、「美」はそれ自体で「自性」「実体」なものでは無い、単に脳の錯覚に過ぎない・・・というモノであれば、それは、私が信じるが故に阿弥陀仏は在しますなり、つまり【私の頭の中】では生きている、実存している、という概念と同一論理上で、その存在を議論しているという事なのだろう。これは仏性も全く同じだ。仏性には実体とか自性はないと考えられるからだ。仏性、美、阿弥陀仏みな同じ概念上の意味で(脳内に)存在可能という事なんだと思う。すべてのモノに実体は無いとするなら当然な論理的帰結だ。 返信する 2016-11-26 18:11:07の偽者さんへ!意見を主張する場での「ひとり二役」「なりすまし」は倫理の問題である! (Unknown) 2016-11-27 08:46:30 2016-11-26 18:11:07の偽者さんへ!意見を主張する場での「ひとり二役」「なりすまし」は「倫理の問題」である!インターネットの世界では、禁じ手である!もしも、日本政府が、原発推進の目的で、原発反対派になりすまし「東電の社員は全員殺せという」と叫び続けて、これで国民の反感を造り出して、原発反対派を潰したら、この日本政府を許すのか!「ひとり二役」「なりすまし」は倫理違反である!日本政府は、持論を、正々堂々と主張すべきである。意見を主張する場合は、「意見の一貫性を保つために」、ハンドル名を、用いるのである。更に「主張の補足を続けていく」ことになる。だから、「ハンドル名が同じで、意見が変わったら」、その人の考えそのものが変わったことになる。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-27 08:47:10 再び記事のテーマにもどって、浅野さんの云わんとしている事は十分納得の行くものです。少年としては、震災でみんなだって死んじゃったんだから、僕が辛いいじめから逃れる為に死んじゃってもおかしくない、と生を諦めるのか、僕は震災で生かされたのだから、生きたかったであろうあの死んだ人々の想いを引き継いで、いじめを耐え抜きたいと思った、という選択の中に【自由意志の決定】が在った、という事なんだろうと思います。自由意志の一般的定義としてはそれでよいのだと思います。しかし哲学的に「では自由意志とは何か??」という議論にまで話を引っ張っていくと、南さんのお得意の禅問答に突入するのでしょう。その南さんが、「倫理的実存」はひとえにそれ(生きると決める)にかかっている、という論理に話を引っ張るから、色々異見が飛び出してくるのだと思いますね。 返信する 直前はイエスちゃん (イエスちゃん) 2016-11-27 08:47:38 老化です、直前はイエスちゃん 返信する 2016-11-27 08:46:30がイエスちゃん (イエスちゃん) 2016-11-27 08:52:09 間にUnknown (Unknown)2016-11-27 08:47:10が入ってしまった。これが「イエスちゃん」の主張です。2016-11-26 18:11:07の偽者さんへ!意見を主張する場での「ひとり二役」「なりすまし」は倫理の問題である! (Unknown)2016-11-27 08:46:30 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-27 09:05:02 実際の処、南さんの哲学的定義なる「自由意志」とは何か聞きたい処ですよね。そしてその「自由意志」が「倫理的決定」を保証する為の必要条件(前提条件)になっていると考えているのか??強制的に決定させられる状況の時は「倫理的決定」と言わないのか?あるいはそれも「倫理的」の範疇に含めるのか?? 返信する クジャクの雄は、なぜ「美しい羽根」を持つようになったのか? (イエスちゃん) 2016-11-27 10:25:55 偉大なるダーウインは、早くも、進化の動因のひとつとして「性淘汰の問題」を考えていた。クジャクの雄だけが、なぜ「美しい羽根」を持つようになったのか?他方、孔雀の雌は、小柄であり、「非常に地味」である。要は、「雌が」雄の方を「選んでいる」からである。「性淘汰」の動因。オスは美しくなるほど、メスに好かれる。そして交尾ができ、子孫を残すことができる。この孔雀の雌は「羽根に、美しさ」を感じているのだろう。だから、孔雀の雄は、「ますます美しくなる」ように努力するようになる。「美しくなろう」という「これ」は「自由意志だろうか?それとも、「生物の本能」だろうか?そもそも「自由意志」は「言葉の世界」にしかない。孔雀のメスは、オスの生殖能力ではなく、その「扇のような大きな羽」の「美しさ」に、引き付けられ、自分の運命を任す。これは自由意志なのか?右のオスを選ぶか、左のオスを選ぶか、「孔雀のメスのこころの中」は知れない。 返信する きめるということ (takizawa) 2016-11-27 11:52:31 困難にあったとき、夢を失ったとき、生きる決断に至る覚悟とその勇気について、南さまの想いが伝わる言葉だと思います。ありがとうございました。 返信する 美しさ (ひかげ) 2016-11-27 21:07:40 少なくとも20年くらい前までは、孔雀の雄が「美しい」のは、そうでないと嫁さがしの競争に勝てず、子孫を残せない。結果として、美しい羽根をもつ孔雀の遺伝子のみが伝えられていき、雄の羽は美しくなったとされていました。そこには努力もなにもない。自然淘汰の結果だけです。生きていく上で得た「羽が奇麗だと有利」という経験によって、伝える遺伝子を変えられる訳ではない、と学問的に解説されていました。しかし、その当時でも「それだけでは説明がつかない」という見方もあったと思います。その後の研究はどうなったのでしょうか。では、人は何を美しいと思うのか。美男美女の好みは人それぞれですが、ほぼ誰にも共通しているのは、より左右対称であるということだそうです。またそれとは別に、体が左右対称である方が身体能力は高いという研究結果もあるそうです。そうなると、人は自分の遺伝子を残すチャンスを大きくするために、生存競争に強そうな身体能力のある人間を「美しい」と思う、と説明ができます。しかし、人間は本能だけで生きている訳ではないので、そういう名残もあるといった程度でしょうか。では、芸術的なものはなぜ美しいと思うのか。まったくの私見ですが、まず、生きるとは苦しみである。にもかかわらず、人間はどうあがいても自分のいる根拠をみつけられない。よって、衣食住満ち足りれば、生活は退屈で陳腐なものとなる。そういう状況で、生きるとはそんなことだけじゃない、違う可能性もある、と示唆してくれるものに惹かれ、それを美しいと思うのではなにでしょうか。今まで想像できなかったことを想像できる様にさせてくれる。それは芸術の一つの定義でもあります。音の世界はまた別で、言語が入ってこない、より本能的な反応があると思います。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-27 23:26:10 「美しい」っていうのは、なにかをそう判断してるんだよね。クジャクの羽を美しいと判断する、みたいな意味じゃなくて、ひかりものが美しい、わびさびが美しい、ナチュラルなものが美しい、みたいな。判断基準は色々だし、美しいものも色々になる。芸術的なものは美しい、か?また絵画の例だけど、ピカソとか有名な芸術家でしょう?「ゲルニカ」とか有名でしょう?あれ、美しい?ピカソの絵に描かれる例えば人物の顔っていうと、大幅に失敗した福笑いみたいな感じのを思い浮かべる人は多いと思うけど、あれ、美しい?ピカソは「わかりやすく美しい女性の姿」の絵も描いてるんだよね。でもたぶん、そっちより失敗した福笑いみたいな絵の方が有名なんじゃないかな。変わったことをしたから珍しがられた、のかな?ゲルニカって戦争(内戦)がテーマになってるんだよね。 返信する 「実存」の概念byキルケゴール (Unknown) 2016-11-28 01:27:51 キルケゴールはヘーゲルの「存在論」を痛烈に批判した。抽象的で、脳のサンスカーラ世界でのみ存在している空想概念(=思惟的存在)に過ぎぬと・・・。キルケゴールの実存論は、「今、現に、此処に居る、そこに居る具体的な人。時間・空間に限定されて、今此処に生活して息している私」を指していた。「実存」を人間本来の在り方と捉えた。実存に生きている者は絶えず「新たに生まれ出た自分」を生きている。常に「新しい自分」を生み出している。「あらかじめ決められた生」を生きるのではなく、よって「必然性を生きる」のではなく、「自由を生きる」のである。成熟した実存の人は、常に否定的で在り、同時に肯定的で在る。彼は世界を一刀両断にしない。常に否定し肯定し、常に真理を追い求め続ける。「おかしみ」と「かなしみ」をごちゃまぜにして同時に感じ取る、理屈では割り切れない存在なのだ・・・とした。キリスト教徒のキルケゴールは物質的な物には「実存」という言葉を使わない。人と神が実存の対象だった。キルケゴールにとっては、「キリストの生き方」に準じて生きるという事が「本当の実存」するという意味で在った。(出典;知の快楽。哲学の森に遊ぶ「キルケゴールの実存概念」)。(コメ者言)南さんにとっての実存的自分に生きるとは、釈迦の生き方を生きる(生き抜く)という事なのだろうか、道元師の生まれ変わりを生きるのが自分の実存の根拠としているのだろうか、或いは何もかも全て無根拠、実存も無根拠??? 返信する 追加 (Unknown) 2016-11-28 01:52:05 或いは、「私らしく生きる」・・・が、実存的自分??そこで南さんは仏教的自分と実存的自分とどう擦り合わせていくのか??注)仏教的自分は極めて思惟的で、脳内に描いた現象的存在論(サンスカーラの仮想形態として世界を扱う)の立場らしいから、今此処に息している実存像とはそぐわない・・・か????? 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-28 02:04:26 ムムム無無!!!仏教の存在論は、実存概念と正反対って事か??? 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-28 02:22:10 ソッか!!「実存的自己」って仏教用語ではないんだね。仏教では「妄想的自己」になるのかな?? 返信する キルケゴールの実存三段階説 (Unknown) 2016-11-28 03:33:57 第一段階:美的実存人生を享楽しようとする直接性の段階。健康・富・名誉を求め、才能を発揮させ、己の欲望を最大限に求める・・・、が行きつく先は絶望だ。第二段階:倫理的実存苦悩しつつ格闘、真摯な姿。自己の個別性(=自己中、お前ん中)を突破し、普遍的な倫理目標を持って、この世での「よき父・母・子、よき夫・妻、よき人間」を目指す。しかし己の有限性ゆえに絶対的倫理性を満たせず挫折に至る。第三段階:宗教的実存神(仏?)にわが身の全てを任せる実存。参考「死に至る病」byキルケゴール。人間は無限性・有限性・永遠・必然性の様な総合の中に存在する【関係性】であるが、その関係性自体が不均衡であり絶望を生む・・・これが「死に至る病」と言う意味で在る。「死に至る病」から抜け出す方法(=治療法)は信仰を通して「神の前に立つ実存だ」とした。(コメ者言・・・仏教者なら仏の前に立つ実存、と言う事になるのかな???)。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-28 04:06:37 考えて見ると【自由意志】(例、生きると自分で決めた)と言う言葉も西洋哲学用語の様だ(仏教で自由意志を詮議する事はない、たぶん??)。なぜ西洋哲学で「自由意志」が問題になるかと言えば、神は人に自由意志を与えた(100%の自由意志だ)。その自由意志で自分(=神)に従うかどうかを選べ(決めよ)。従えば天国に迎え入れよう。従わなければ地獄に落とすぞえ!!(注):あるキリスト教一派では、神は愛の神だから人を罰しない。人が天国に入れないのは、人間の自己破壊=自滅と言う事だという。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-28 04:38:43 左様に考えて見ると、南理論においては、【実存】とは自由意志を持った者でなくてはならず、他から課せられて「決めた!!」で在ってはならず、存在の根拠に拠ってはならず、全てが無根拠な世界で、無意味に他から課せられた「生」を、自分の自由意志で「生きると決めた!!」と言う事が決定的に重要だ!!と言いたいらしい・・・、といま私は思い至ったのでありまする!! 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-28 04:47:56 次の記事までの最終テーマ・・・自由意志とは何ぞや???少年の決定は倫理的実存条件を満たす為の自由意志決定だったと言い切れる根拠とは何か??? 返信する 追加 (Unknown) 2016-11-28 05:03:53 生きないと決めた・・・も自由意志決定か??倫理的実存のキーワードは「自由意志」??生きるか生きないかを自由意志で決める事が倫理的実存?? 返信する 遺産に質問 (Unknown) 2016-11-28 05:51:02 遺産は、ユダヤ教・キリスト教では、エホバの神と人間との間の契約が在ったと考えている様ですが、人間が契約を破った場合の罰則規定は何だったと考えているのですか。罰則が必要だとしたら何故必要なのか、罰則必要の根拠は何だと考えているのですか?? 返信する 「でも」、しんさいでいっぱい死んだ「から」死ねなくなった。 (イエスちゃん) 2016-11-28 06:02:46 いっぱい、死んだ人たちを見て、聞いて、そして、残された人々の悲しみも知って、だ「から」「自分は、死ねなくなった。」「生きようと、決めた。」親鸞聖人の「自然法爾」の世界。「自分が決めたのか」「死者が決めさせたのか」「なんかいも死のうと「おもった」。「でも」、しんさいでいっぱい死んだ「から」つらいけど、ぼくはいきるときめた」『自然(じねん)といふは、「 自 」はおのづからといふ、行者のはからひにあらず、「 然 」といふは、しからしむといふことばなり。しからしむといふは、行者のはからいにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに「法爾」といふ。 』 返信する 「自由意志」の有無は空論。「自由意志」は言葉の定義の問題。 (イエスちゃん) 2016-11-28 06:16:26 「自由意志」の有無は空論。「自由意志」は言葉の問題。どんな人間の行為に対して、「自由意志」という「言葉」を「定義したか」ということ。だから「言語批判」が必要。批判的に言語をしようしないと空論になる。 返信する 仏教の「自由意志」とは、「業生」ではなく、「願生」。 (イエスちゃん) 2016-11-28 06:48:38 仏教の「自由意志」とは、「業生」ではなく、「願生」。「業生」、自分の業に従って生きる「願生」、願に向って生きる衆生無辺、誓願「度」 - 地上にいるあらゆる生き物をすべて救済するという誓願煩悩無量、誓願「断」 - 煩悩は無量だが、すべて断つという誓願法門無尽、誓願「学」 - 法門は無尽だが、すべて知るという誓願仏道無上、誓願「成」 - 仏の道は無上だが、かならず成仏するという誓願 返信する Unknown (浅野) 2016-11-28 07:09:15 「自由意志」とは「態度自由意志」だと思うんです。ある物事・出来事に対して、また限られた中で、自分の意志や態度を決める。仏教では「業」です。「自由」と聞くと、制約も何もない印象なのですが、自由とは限定的なものだと思います(その枠がないと、判断・選択できない)。「他者に課された自己」も、特定の他者ではなく、それを自覚してから、「引き受け、生きると決めた」のではなく、我々は、「生まれてしまった存在」なので、そもそも圧倒的に世界や他者から遅れ、すでに受け身なのであり、否応なしに、他者に限らず、「世界・社会・時代」などに課されています。なので、人間は誰しも、人生のどこかで、それとは意識せずとも無自覚に「決断」している可能性もあると思うのですが(就職や結婚など)。 返信する ご質問へ『エホバの神と人間との間の契約が在った』 (イエスちゃん) 2016-11-28 07:41:06 ユダヤ教の、もとの、もとの、「始まり」は、「ヘブライ人」が、エジプト王朝のファラオの下で奴隷状態であり、そこからモーセが脱出させた出来事です。ヘブライ人という名称は、民族よりも「奴隷の社会階層」でした。脱出後、牧畜を生計にしましたが、人間関係としての「売買関係・契約」は、エジプト王朝時代からありました。日本人から見ると非常に不思議ですが、脱出した「小集団のヘブライ人たち」は、「神と自分たちとの関係」を、恰も売買「契約」の関係として、把握して、表現しました。だから、「羊の裂いた肉」の間を通る「呪詛」も行い、契約を破ったら「このように裂かれ殺される」という強い圧力を、契約の「双方に」課しました。神が、「この約束・契約を破った場合に、罰する」のは、人間が、再び自分に戻ってき、「元の契約を守る」ことを促すためです。だから、バビロン捕囚に遭っても、神ヤハウェがバビロンの神に敗けたのではなく、(バビロンの神は偶像でしかなく)、神ヤハウェが、バビロニア帝国を使って、罰したのだ。と、「それまでとまったく違った解釈」をしました。神ヤハウェは、「善き羊飼い」であり、羊が「誤った道に」行くと、その「杖を用いて」、正しい道に連れ戻し導かれます。なお、「エホバ」は間違った名前です。正しくは「ヤハウェ」です。ユダヤ教では、妄りに神の名を呼んではならないという戒律があり、神の名の代わりに「主」と呼び続け、とうとう、発音の方法が、途絶えました。(子音だけで、神の名を表記していて、母音を合成して、神の名となる)近年、神の名の子音に、「主」の母音を合成して、「エホバ」と復活させましたが、現代では、他の言語(当然、表音文字)に翻訳された粘土板が発見され、正しい発音が「ヤハウェ」であることが確定されました。それを知ってからも「エホバの証人」は、そのままです。それは「神の名に重大な意味がある」ので、もう、それを変更することができないからです。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-28 11:12:38 自由意思だと、仏教的ではないのか、仏教的にならないのかな。生かされている。だろうからね。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-28 11:19:59 仏教の「自由意志」とは、「業生」ではなく、「願生」。なるほど!イエスちゃん、素晴らしい!そう考えると、明るくなるよね。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-28 11:23:53 リンクのないイエスちゃんは、イエスちゃんに非ず、でいいんじゃない? 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-28 12:13:38 遺産、ユダヤ教の契約の解説有難う御座いました。ユダヤ教の(神との)契約書内容では、或る時から数えて6000年後に、神が自分の息子を【救い主】としてこの地上に派遣して、この世(=地球上)に新しい永遠のユダヤ王国を設立するという現実的思考でしたよね。だから信じないでユダヤ教から離れて行ったユダヤ人に対する罰則規定は特に無い。(注:キリストが自分がその「救い主」であると公言したから、パリサイ人・サドカイ人が神への冒涜だとして、キリストを断罪した)。ーーーーーーーそれがどういう事情で、キリスト教での神との契約では、神に従ったら(空中にある)天国に行く。従わなかったら地獄に落とすという罰則を科す契約書みたいな思考になって行ったのでしょうか??仏教史に於いても、いつの間にやら、あの世での極楽・地獄の存在を想定するようになったのと、えらく類似している感じが在りますよね。キリスト教においても、仏教内部に於いても、どうしてそういう思考に変遷していったのでしょうか、何か御存じなら教えて下さい。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-28 13:18:41 南さんの様に熟成した実存人は、あらかじめ決められた生を生きるのでなく、よって必然性を生きるのではなく、自由を生きるのである。常に否定し肯定し常に真理を追い求める。「おかしさ」と「かなしさ」を兼ね備えた、理屈で割り切れない男となったのだ!!。倫理的実存として苦悩しつつ格闘し真摯な姿をみせている!!(per11-28,01:27:51と03:33:57コメのキルケゴールの実存デフィニション)、そして自らの内に矛盾の苦悩も一手に引き受ける!!ーーーーーーー釈迦は「生きるの死ぬのとガタガタ言うな」と教える。道元は生死なんて無いよ、不生不滅だよと言う。遺産は11-22,01:34:50コメに於いて、「生きたがり屋さん」を批判して、「一億の【死にたくない】という執着」「一億の【死にたくない病】に罹っている(やから)」と責めたてる。インド土着信仰の深い智慧【自分の死の受容】をみたのに・・・アア、我が国ニッポンでのこのブザマさはどうだ!!(嘆)。しかし南さんは全てお見通し!!俺は敢えて言うぞ、皆の衆ヨック聞け!!「君が何としてでも生きるぞと決めたのは実に素晴らしい!!、倫理的実存の生きた鏡だ!!、今まさにこの君の上に善は成就した!!、生き抜いて生き抜いて更に更に生き抜け!!」と・・・ 返信する Unknown (イエスちゃん) ) 2016-11-28 20:12:54 鈴木大拙の自由を検索してみろ!好き勝手にする自由ではない。ただしオレオレは好き勝手に命名する自由を標榜するけどね。オレオレは例外。すべて仏性ならオレオレも仏性。イエスちゃんも仏性。よって論理的にオレオレ=イエスちゃん。矛盾なき完璧な論理構成である(キリイエスちゃんはイエスちゃんではない。だからこそイエスちゃんはイエスちゃんというのである。金剛般若経の論理を適用すれば私はイエスちゃんではなくてもイエスちゃんと言えるということだ。あーやばい完璧すぎる反論する隙が見当たらないんですけど。あとさ名前に「)」つけといてあげたので君たち煩悩で曇った凡夫は分別知を働かせてね!慈悲の心やなーオレオレ。あーそうだ不評だったら名前をイエスちゃん(公式)にしようかとおもうんだけどどう?だめ?もううんざり?そっかー揶揄やないで慈悲やで。カルナーやで。 返信する 2016-11-28 20:12:54 偽者さん!恥を知りなさい! (イエスちゃん) 2016-11-28 21:01:22 倫理の問題です。2016-11-28 20:12:54 偽者さん!恥を知りなさい! 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-28 21:05:25 500で〆だっけ?300だっけ?ポケモンGoの件だけだっけ?ちょっとー。美濃加茂市長逆転有罪だってえ?日本怖いわぁ。 返信する 美濃加茂市長 (ひかげ) 2016-11-28 21:24:25 >美濃加茂市長逆転有罪だってえ?>日本怖いわぁ。私も同感です。あんな証言・状況証拠だけで有罪になるんだったら、もうなんでもあり。法治国家、自由な社会とは言えない。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-28 23:38:48 「やで」って、あなた、大阪人をばかにしているのでしょうか。イエスちゃんに対して失礼な言語を放してその次は大阪の人に。マイナス言語を発して、その先になにがあるというのか。あなたは何を求めているのですか。ニヒリズムの先に何かありますか。自滅しないように。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-29 00:04:32 自己からの自由はありえない。凧の糸を切っても凧に残る糸があるように、死ぬまで自己の面倒を見ないといけない。完全な自由は、自死以外ない。完全な自由を目指し、結果が自死であったとしても、それは、善、悪とは関係ない。そのような在りようがあった、しかし、そこから慈悲が始まる。めちゃくちゃな文章。そんな感じ。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-29 02:01:29 ヤハウェーの神(ユダヤ教・キリスト教)に於いては「産めよう増やせよ」政策だったから「生=生きる事」を肯定し、「生きる根拠」も存在した。ーーーーーーー釈迦は「生きる」を否定した。解脱当初「死のうとした…自由意志で」(注;悟りの中身には「生きる」という項目は無かった)。しかし梵天に決心を翻す様に三度説得されて「生きるときめた・・・しょうがなくて」。此処に「生きる根拠」があるとすればそれは「伝道する=利他をする」と言う事だろう。こういう体形では大乗仏教は伝わらない。世界仏教の宗教は成立しない。止む無く大乗では、釈迦が晩年「この世は美しい、人生は甘美だ」と言ったとして「生の肯定」を企画・演じてみせた。龍樹はどうだったんだろうか??道元はどうだったんだろうか??明らかに南さんは「生の無根拠性」に悩みながらも、「生=生きる事」を肯定しそれ(=生きると決める)を、倫理的ゴウ(業)、善的道徳の域まで高めてみせた。「生の高揚」を強く主張する。生の無根拠性の補填として・・・と言う事であろうか???? 返信する 追加 (Unknown) 2016-11-29 02:17:01 元来、希死念慮を持っていた南さんにとって、「生きるを決めた」というのを倫理的実存、道徳的快挙として翔陽して見せるのは、南さんが生き続けていく為に必要な補填作用であろう。それが「南さんの生きてる根拠」となったという事だ。南さんのこの決定(倫理・善と言う言葉の選択)は必ずしも南さんの自由意志から出たとは言えない、と思う・・・・ 返信する Unknown (イエス ちゃん(本物)) 2016-11-29 02:18:23 えーとなにが失礼なのかわからんのだが?恥を知れだってひどいこというねぇ。いっとくが南氏のように実名晒して立場上文責のある立場がある。それに対し実名でもなくハンドルネームをつけようがつけまいが匿名とかわらない立場がある。職業、身分が付随してくる実名を晒す立場と匿名と重さが違うのである。つまりハンドルネームをつけようがつけまいが人間の存在かけて発言することにならんわけ。安全な場所にいて遠隔操作してるようなものである。重複したハンドルネームの有無に関わらず文責はない。オレを恥知らずといい明確に差別化したいんだったら自分の存在かけて発言せよ。>「意見の一貫性を保つために」、ハンドル名を、用いるのである(2016-11-27 08:46:30とあるがイエスちゃんの意見の一貫性はまるで無い。過去のイエスちゃんの発言では論理破綻が随所にみられ多くの人に批判されている。批判はするが矛盾指摘された場合にほとんど返せていない。イエスちゃんは倫理を盾にしているがその根拠を明示できるのか?存在に根拠が見いだせない以上倫理にも根拠はない。南氏のいう倫理と一般的通念の倫理とは若干違う。イエスちゃんのいう倫理は社会規範のような一般的通念の倫理かね?ハンドルネームの重複で倫理とは大げさだ。引用ばかりで恣意的な切り取り方をするイエスちゃんの作文をみると倫理を語る資格があるのか疑問に思う。ブログのコピペはすべて転載許可をとっているのか。引用するにも著作権や作者の意図を考えているのか。ひどい暴言は削除になるだろうがそれはここの管理者の検閲基準によるものであって我々匿名の外野が議論すべき話でもない。 返信する 再追加 (Unknown) 2016-11-29 02:47:46 釈迦の「梵天の要請によって生きるを決めた」という逸話は、本来、自己という実存は無根拠だ(=生きる自体には意味がない、存在理由がない)と言う事を先ず指し示し・・・しかしそれでも後付けで、自分で「生きる理由(=実存している根拠)」を作り出す事が出来るのだ、という哲学的ポジションがあるという事を教えているのが釈迦の逸話の真意なのだろう。「生きる」についての哲学はキリスト教的見地と仏教的見地の少なくとも二通リはある、と言う事だ。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-29 03:18:15 生きる・・・古典的諺では、働かざる者は喰うべからず。喰うべからざる者は生きるべからず。現代的追加・・・・>人を貶めようと揶揄し暴言を吐くものは生きるべからず・・・なぜなら共同体に逆縁を振り撒くから・・・ 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-29 03:51:09 コメの一参加者である私からも、イエスちゃんまがいのハンネはもう打ち止めにして頂きたいと思いますね。何卒よろしくお願いいたします。理由は、私としてはイエスちゃんから学ぶ一面もあり、彼の博識のなかの或る知識を自分の中に取り入れたいので、彼が冷静に発言できる環境を望んで居るからです。ハンネなりすましをされた人は気分を害するのは当然だと思いますよ。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-29 05:18:51 自己の実存の根拠という言葉を、今自分が存在している理由という字義通りの解釈とすれば、釈迦の悟り・解脱前の実存の根拠は、悟り・解脱を開く事がそれであった。釈迦が悟り・解脱を開いた途端、実存の根拠がうせた。よって釈迦はこのまま死のうと考えた。しかしこのまま死なせるのは勿体ないと思った梵天が釈迦の決心を翻えさせようとした。梵天の必死の三度の要請に聞き入った釈迦は伝道するという新たな「実存の根拠」を得た。80年間この根拠を縁(よすが)に生き抜いた。 仏教の礎(いしずえ)を築けた、めでたしめでたし!! 返信する 再び『Unknown (イエス ちゃん(本物))2016-11-29 02:18:23』偽物さん!恥を知れ! (イエスちゃん) 2016-11-29 06:58:47 倫理の問題です。偽者さん!恥を知りなさい!貴方の主張に賛成する人がいないことに気が付きませんか?日常の世界でも、このような行動をとるのですか?自分が同じことをされて、うれしいのですか?不思議な人ですね。『Unknown (イエス ちゃん(本物))2016-11-29 02:18:23えーとなにが失礼なのかわからんのだが?恥を知れだってひどいこというねぇ。』 返信する 再び『Unknown (イエス ちゃん(本物))2016-11-29 02:18:23』偽物さん!貴方にはこのような人格がある! (イエスちゃん) 2016-11-29 07:08:56 再び『Unknown (イエス ちゃん(本物))2016-11-29 02:18:23』偽物さん!貴方にはこのような「人格」がある!貴方にはこのような「性格」がある!どのような人生で、このようになったのか?「業」で生きている。 返信する Unknown (イエス ちゃん(本物)) 2016-11-29 10:03:33 >日常の世界でも、このような行動をとるのですか?上記で言ったように自分と私を明確に区別したいのであれば存在かけて発言せよ。日常の世界と仮想空間において匿名の世界は違うといったはずだ。>自分が同じことをされて、うれしいのですか?それは感情の問題へとすり替えだ。貴殿の今までの発言で密教など他宗批判、排除をしている。他宗を冒涜することはその信者達を冒涜することと同じだ。信者を冒涜し排除しておきながら自分だけは例外でハンネの重複で人格攻撃が可能になるのか。感情を問題にするなら冒涜はしないはずだが?倫理の根拠を明示せよ。>貴方にはこのような「人格」がある!ハンドルネームの重複で人格攻撃ですか?恥を知れと人格攻撃していい理由はどこにあるのか?貴殿のブログにおける引用すべて転載許可とっているのか?これは倫理、恥の問題に収まらず著作権法に関わる犯罪だ。 返信する Unknown (イエス ちゃん(本物)) 2016-11-29 11:05:01 孫引きがないか貴殿のブログチェックしてみますね。孫引きは倫理上いいのか悪いのか。さーてどっちでしょう。 返信する Unknown (イエス ちゃん(本物)) 2016-11-29 12:39:34 著作権法32条1項にいう『引用』とは、紹介、参照、論評、その他の目的で自己の著作物中に他人の著作物の原則として一部を採録することをいうところ、上記引用に当たるというためには、引用を含む著作物の表現形式上、引用して利用する側の著作物と、引用されて利用される側の著作物を明瞭に区別して認識でき、かつ、両著作物の間に前者が主、後者が従の関係があると認められる場合でなければならない。ほうほう最高裁でこういっておるみたいですな。引用と本文の線引が明確でありかつ引用が主であってはならない。では貴殿のブログをチェックしてみますね。 返信する 偽物さん!お望みなので、一つだけ回答を!貴方は文章を正確に読まない!だから誤解の上で議論展開している! (イエスちゃん) 2016-11-29 15:13:58 このブログのような場では、「思想としての仏教」を扱うことができ、「釈尊の仏教」「龍樹菩薩の仏教」「道元和尚の仏教」そして「空海…の仏教」とは、相違があることも論じることができる。違いがあるからこそ、私は、「仏教一般」はこうだ、とは言わない。「思想として見る」から、本質的に「同一部分」と「相違部分」とを「区別して」論じる!『貴殿の今までの発言で「密教」など他宗批判、「排除をしている」。』「排除」などしていない!「思想として」は、別物と「区別」しているだけである!「釈尊の仏教」と「イエスの信仰」とは、別物である。それと「まったく同じ意味」で「空海…の仏教」は「別物」である!「空海…の仏教」は「梵我一如」である。だから「空海…の仏教」は、「本質的には」「ヒンドゥ教」である。だから、「釈尊の仏教」と「空海…の仏教」とは、「別もの」であり、お互いに「反している」。「空海…の仏教」と「ヒンドゥ教」との本質的な「相違点」は、何なのか?貴方は、述べることができますか?ひろさちや氏と同じく「まったく同じ」というのでしょうか?「思想の違い」が区別できない。ひろ氏は、専攻が「仏教」ではなく、「インド思想」であり、それの主流がヒンドゥ思想であり、その結果、「釈尊の仏教」まで「ヒンドゥ教」に見えてきてしまい、同じとしてしまう。「釈尊の仏教」と「梵我一如」との「本質的な」「思想上の相違」が、理解できない人間は・・・。「区別」を「排除」として、「攻撃的」行為を行う。まず、「イエスちゃん」の文章を、「偏見なし」で、「正確に読み直す」ことをお勧めします。貴方は誤解の満載です。今までの「返事」がないのは、全て、「貴方の誤読」が原因です。そうそう、私はキリスト教においても、「イエス御自身の信仰」と「自称・使徒パウロの信仰」とを区別して論じている。その理由は「宗教思想的に」明確に異なるからである。 返信する 「仏教一般」ではなく「宗祖個人の仏教」と「釈尊の仏教」を正確に把握して、「知り」、「区別する」!そして、「己の信仰」を確立していく。「宗祖の仏教」と本質において共有できるか。 (イエスちゃん) 2016-11-29 15:29:19 『つまり、今後の伝統教団の「布教」の成否は、僧侶それぞれが、自分に本当に「ブッダの教え」が必要なのか、「宗祖の教え」の「どこに」共感と確信を持つのか、「ブッダ」と「宗祖」の「教えの核心」をどう把握しているのかを、「クリアに語る」だけの修練にかかっているということです。』 返信する 偽物さんへ!ご質問「梵我一如」の「空海…の仏教」と「ヒンドゥ教」との本質的な「相違点」は、何なのか? (イエスちゃん) 2016-11-29 15:47:19 インドでは、「密教」となり「仏教の本質」を失い、変質してしまい、本質的に「ヒンドゥ教」と相違がなくなり、「インド社会では、存在意義がなく」なり、「社会に必要とされなく」なり完全に「ヒンドゥ教」に、吸収されてしまった。つまり、「本質を失って、自滅」である。信仰は「弾圧では」そう簡単に消えない。日本の隠れキリシタンも信仰は生き残った。それは「それを必要とする人々」が存在するからである! 返信する Unknown (イエスちゃん) 2016-11-29 16:29:47 もう梵我一如では散々逃げとるからもう質問しないよ。インド思想やったら仏教がいかにパクっとるか自明なんだよ。仏教の本質だって?笑わせるな。で結局のところ言葉にできないだろ?言語道断の世界だとかそれっぽい話してお茶濁しとけよ。もううんざりなんだよ。話題そらして著作権侵害を誤魔化すのか?。すべて許可を取っているのかと聞いている。誤魔化すな。イエスちゃんの引用は著作権法上の引用の要件を満たさない。よって許諾を取っていなければ著作権侵害となる。引用元、作者、の明示、改変をしないことが条件であり作者への礼儀でもある。インターネットで公開されているからといって無許可でコピーしていいとはならん。法規さえ守ることができないイエスちゃん。知らんでは済まされないぞ。 返信する Unknown (イエスちゃん) 2016-11-29 18:18:55 2016-10-10 09:35:18この世界では「言語活動は停止」し、「自我意識が停止」し、その結果、自己と世界との「境界」がなくなり、「梵我一如」と見えてくる。しかし、これでは「これを大我と認めて」錯覚して、結局は、現実の「自己」の肯定に、成り下がってしまう事となる。「大我」は「言語」が生み出した虚構であるから。2016-11-07 05:57:48『梵我一如』になったら、修行する必要はなくなる!「梵」が「我」の根拠になる!つまり「自己」が、さらに強固になって「大自己」となり手が負えなくなる。だから、「密教」は、「非仏教」なのである。「梵我一如」のヒンドゥー教そのものに後退したから。バクタとジニャーニと2種類のヨーガがある。バクタはすべてを神の顕現と捉え私は神の召使とし私は神だ自惚れたことは言わない。一方ジニャーニはすべてをはかない幻とし真我以外一切を認めない。このようにヴェーダーンタ派の中でも2分した世界観がある。一筋縄ではいかないのだ。なお梵我一如であるがブラフマンとアートマン、2つ言葉がある。ということは一如で1つであるがそれぞれ違うことを意味する。シャンカラがこのことを言及しているがどう違うかは私にはわからない。ラマナ・マハルシはヴェーダーンタの正統派ではない。しかしほぼ意見は一致しているのでヴェーダといってよい。ラマナはイエスちゃんの言葉をうけて正しい理解をしているとは言わないだろう。事実ラマナがいう内容とイエスちゃんの内容は全く異なる。どれだけ理解せず語っているかがわかるだろう。イエスちゃんがどれだけ曲解し歪曲したものを吹聴しているかわかるだろう。>ヒンドゥー教そのものに後退したから。成り下がったとか後退したこの表現は区別というのだろうか?信者の心情を配慮した言葉なのか?神経を逆撫でするような表現である。 返信する 放置するしかない (ひかげ) 2016-11-29 18:45:56 私はイエスちゃんさんに、今まで通りコメントを書いて頂きたいと思っています。出典の表記も十分なさっていると思います。(もし仮に不十分な書き込みがあったなら、今後は丁寧に書いてください、というだけの話ですね。)考えの違う方との意見の交換は絶対に必要で大事だと思いますが、この成りすましに関してはどうしようもないようです。いろんな意味で残念ですが、放置するしかないと思います。 返信する Unknown (イエスちゃん) 2016-11-29 20:03:32 著作権侵害は立派な犯罪。引用する割合がアウト!そんな常識も知らんのか?知っててやってるなら確信犯である!作者に対しての礼儀もなにもない。盗作だ!呆れ果てる。問題にしてるのは彼のブログなのよ。すべて引用、転載。ニュース提供者が使用許諾を明示してる場合は例外だがこれは違う。これもし許諾なかったら犯罪者ですよ!こんな犯罪者が恥を知れだと!どの顔さげていうのか。恥知らずはどっちだ????最終警告!知らないでは済まされないぞ! 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-29 20:08:58 あーくだらね 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-29 20:46:51 成りすましてないと思うけどなあ。書いてることが違うじゃない?読めばわかると思うけどなあ。胃酸の文章をアタマから尻尾まで残さずに読んだことなんか数えるほどしかない私でも、ちょっと読めばわかるのに、なんで胃酸の書き込みを楽しみにしている人がわからないのかすごく不思議だ。これが、いかにも同一人物っぽい文章で、中身が微妙にずれていくようなものなら「誰だよ!?」って話だけど。バッティングのイエスちゃんのやってることは「どうでもいいこと」だな、私にとっては。私も胃酸の書くものって「きりばりきりばりおきばりやす」って感じだし、「私の名を騙るのは、南さんもここの皆さんも許さないぞ!!」って、勝手に南さんやここの皆さんを騙ってるし、どの口が言ってるんだって話だと思うけど、胃酸ていうのはそういう人ってことで、って感じだし、それでも彼の書くものを参考にしてる、書き込んで欲しいって、思う人は思うんだから、まあ、そんなものだよ、いいじゃない、そんなもので。胃酸のブログのことは知らんけど、ここでやるよりブログの上の方(って、どこ?)に言うとかは?こんなんでいいんですかー?って。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-29 20:53:01 ハンドルネームと人格とか、なんか言ってたけど、私にとっての胃酸の人格って「どの口が言ってるんだ?」的なものだったりするかもしれなくて、「ヤツは何を必死に守ってるんだろうなあ???」って感じ。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-29 20:55:57 やっぱ、こんな、どこの誰だか不明なままのコメント欄の書き込みで「人格」って、違和感あるなあ。「キャラ」って感じ? 返信する Unknown (イエスちゃん) 2016-11-29 21:06:35 うん!くだらんかもしれんと薄々感じながらいっとる。普通ブロガーなら真っ先に抑えるべきところだしな。小学生かって感じ。しかし考えてみてくれ。著作権違反が通ってしまったら例えば本。全部スキャンするかデータ化してブログにのっけてアクセスゲットなんかできるってことよ?そんなになったら作者どうなる?許しちゃダメでしょう。プログラム改竄や動画のDRM改竄と同じレベルよ。立派な犯罪。イエスちゃんはアマゾンのレビューとかもコピペしとるからね!やりすぎだろ!おそらく彼は習慣になっとる。無意識レベルでコピペしとる。罪悪感ゼロだから余計おそろしい。禁止して習慣をあらためる必要がある!だから通報するべき。愛があるなら通報あるのみ! 返信する Unknown (イエスちゃん) 2016-11-29 21:22:38 老いると気づきもこないのかねぇ。やだね。年とるってことは。はやく新聞の切り貼りに見切りつけていずれ来るだろう死を安らかに受容できることを願うばかりなのだが。つーかさ。苦悩のときしか自我は表面化しないのよ。楽な時は意識したりしないでしょ。君達わかってないよな?だから苦悩のときに直面するといい気づきがくるんだよなー。わかんねーだろうなぁ。って偉そうにいってみる。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-29 21:30:52 君たち、キュウイ、パパイヤマンゴーだね。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-29 21:36:31 お目出度うございます。 返信する 偽物さん!貴方は、きちんと読まない!能力がないのか? (イエスちゃん) 2016-11-30 05:18:12 『貴殿の今までの発言で「密教」など他宗批判、「排除をしている」。』思想の議論では、誤魔化してはいけない。質問は、きちんと読みなさい!多くの人々も知りたい。きっと。多分。かも。偽物さんへ!ご質問「梵我一如」の「空海…の仏教」と「ヒンドゥ教」との本質的な「相違点」は、何なのか?である。貴方には、本質的な「相違点」はないから、解答ができない!関係ないことをずらずら書く!これが「空海の仏教」とどんな関係があるのか!回答せよ!「空海の仏教」を「釈尊の仏教」の本質に同じというのだから。『バクタとジニャーニと2種類のヨーガがある。バクタはすべてを神の顕現と捉え私は神の召使とし私は神だ自惚れたことは言わない。一方ジニャーニはすべてをはかない幻とし真我以外一切を認めない。このようにヴェーダーンタ派の中でも2分した世界観がある。一筋縄ではいかないのだ。・・・』それなのに「思想の議論」を続けようとする。おかしいひとですね。 返信する Unknown (Unknown) 2016-11-30 08:15:14 本物、偽物。本家、家元、元祖とか(笑)イエスちゃん、これからも書きコしてくださいね。by院外 返信する つまり「我」の存在を認めている! (イエスちゃん) 2016-11-30 09:43:05 『バクタとジニャーニと2種類のヨーガがある。バクタは、すべてを神の顕現と捉え「私は神の召使」とし私は神だ自惚れたことは言わない。一方ジニャーニは、すべてをはかない幻とし「真我」以外一切を認めない。このようにヴェーダーンタ派の中でも2分した世界観がある。』どちらにしろ「我」の存在を認めている。だから、「諸法無我」の「釈尊の仏教」に反している。お互いに。イエスは「神の子」と呼ばれた。 返信する Unknown (Unknown) 2016-12-01 19:46:37 南さん!空海さんの次の本覚思想のお話、いつアップしてくれるの?なんで、止まってるんですかあ?楽しみにしてるのに。 返信する Unknown (Unknown) 2016-12-02 09:29:31 アップしてるの発見しました。空海さんのページから次のページへのリンク切れてたから、アップしてないかと思った。考える人のweb担当に言った方がいいよ! 返信する Unknown (Unknown) 2016-12-06 11:16:59 ネットが調子悪くて、見れない。。(;_;)でも紹介ありがとう。(^-^) 返信する コメントをもっと見る 規約違反等の連絡
生きてやる。
死者に課せられた自己。
隣の人が自殺した。
その日、私は彼女の二人の子供は
私の家でパズルをして遊んでいた。
彼女は和室で首を自ら吊って死のうとした。
救急車に運ばれて3日後に
彼女の願ったとおり
彼女は死ねた。
警察の事情調査の際に
立ち合い、どうやって
彼女が死んだかを
現場検証することになった。
彼女が死んだ和室で、
その後、私は自分の家の和室に
入ることができなかった。
私は彼女の自殺が
未だに
彼女にとって良かったかどうか
考えられない。
だが、
もし彼女が生きることを
選んだなら、
きっと
生きて良かったと思うだろうと
思う。
「俺は倫理的実存神じゃあないぜ!!」
「完全無神論者の俺を神にさせるなよ!!」って事だと思うよ。
神に祭り上げられちゃうと、間違える事を許されなくなっちゃうからね。
倫理的想定外が南さんに新しい活力と新しい覚悟を生んでいる。
今回の短い記事でも、この少年の心意気に触れて、ハッとさせられた・・・想定外の意見にふれた・・・だから南さん自身の再覚醒に繋がった・・・。
これだよ、これだ!!
そこだよ、それだ!!
成人の肉体は後ろに進む、
しかし思考は常に前に進む・・・
もし思考も後ろに進むようになったら
今度は老害がドンドン前に進む・・、オーこわ!!
この少年にはミドコロがある!!
引き抜いて俺の弟子にして
将来おれの後釜に据えよう!!
・・・・・S長老
だから僕がいじめに敗けてじぶんで死んだら申し訳ない。。。
ここでの仏(仏性)の有無は如何ばかりか??
仏によって外から課せられたのか??
自己の存在理由を与えられたのか??
生きて成すべき役目を仏から与えられたのか??
論理的実存の根拠とは何か??
(原発事故の)賠償金をもらっているだろうなどと言い掛かりをつけられて金銭を要求されたり、ばい菌と呼ばれ「放射能の影響ではないか」と不安になったりした経緯が記されている。
いじめは、小学2年から5年まで続いたという。
代理人によると、手記は生徒が「同じようにいじめられている子どもの励みになれば」という思いで公表した。
原発事故を「ネタ」にしたいじめに傷ついた心情や、抵抗できなかったことへの悔しさが記されている。
金銭の要求については、「ばいしょう金あるだろと言われむかつくし、ていこうできなかったのもくやしい」と心情を吐露。
「ていこうするとまたいじめがはじまるとおもってなにもできずにただこわくてしょうがなかった」とつづった。
ばい菌と扱われたことには、「ほうしゃのうだとおもっていつもつらかった。福島の人はいじめられるとおもった」と明かした。
また、学校の対応について「いままでいろんなはなしをしてきたけど(学校は)しんようしてくれなかった」などと振り返り、「なんかいもせんせいに言(お)うとするとむしされてた」と絶望感をにじませた。
問題発覚を受け、市教育委員会の第三者委員会が公表した報告書のうち、いじめの内容を記した多くの部分が黒塗りだったことに触れ「詳細を公表してほしいと市教委に伝えたのに遺憾だ」と訴えた。
避難先の小学校で2年生から5年生の間、名前に「菌」を付けられて、からかわれたり暴力を振るわれるなど、いじめを受けていた。
今月15日、男子生徒の弁護士が会見を開き、いじめの行為の具体的な内容について改めて説明をした。
弁護士によると、男子生徒は同級生から「賠償金があるだろう」などと言われたうえで、同級生らとゲームセンターで遊んだ際、その代金の支払いを負担させられていた。
家にあった親の金を持ち出して、一回につき約10万円、これまでに150万円ほどを支払っていた。
学校は、男子生徒が家から金を持ち出していることを把握していたが、男子生徒の親に対してそれを伝えていなかった。
市の第三者委員会は、学校側の対応について「生徒への配慮が足りない」「教育の放棄に等しい」と厳しく非難する報告書をまとめていて、今後、市は事実関係について調査する方針。