恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

T氏への応答

2017年01月20日 | 日記
 あなたの言われる通り、私はこれまで、「悟り」や「涅槃」はそれが何であるか、釈尊が語っていない以上、根本的に「わからない」のだと言い続けています。

 ただ、これまで「悟り」については、事の是非はともかく、『正法眼蔵』の記述から自分なりに、「縁起的実存の自覚における主体性の生成」などと定義したり、初期経典にある釈尊の言説や行状から、彼の「悟り」は「無明の発見」のことだろうと推定したことがあります。

 ところが、「涅槃」に関しては、はっきりした自分の解釈を述べたことがありません。しかし、あなたのおっしゃる通り、この重要な言葉に何の解釈も示さないようでは、私の考えている仏教の輪郭が明確にならないというご指摘は、もっともだと思います。

 そこで、現在の自分がとりあえず定義する「涅槃」について申し上げようと思います。

 私は現在、「涅槃」を「死の受容」だと考えています。今のところ、私たちが「涅槃」を事実だとして認識し得るのは、経典中に語られる釈尊の「死」だけです。私は、いわばこの「外形的事実」(「事実」の内容は一切考えない。考えても無駄だから)を、そのまま我々の実存にスライドさせてみました。

「死」は、いつか、どこかで、「それが何だか決してわからない」出来事が勃発し、今の我々の在り方全体を不可逆的に変えてしまうことです。現時点でこれ以上のことは言えません。

 この「死」を、欲望することもなく、解決と思うこともなく、拒絶することも嫌悪することもなく、ただ「受容する」態度と行為を「涅槃」と考えたいと、私は思います。

 私が考える「死の受容」にとって重要なのは、「生き続けたい」自己と「死にたい」自己の持つ欲望を無力化することです。

 その場合、ターゲットにすべきは、「欲望」ではなく「自己」の方です。「欲望」は時と場合で転移し変化するので(「生きたい」は「死にたい」に、「死にたい」は「生きたい」に、「所有」欲と「断捨離」欲がしばしば互いに転移するように)、特定の「欲望」を消去したとしても、それは消えているのではなく別の「欲望」に転移している場合がほとんどです。ですから仏教的アイデアは、「欲望」ではなく欲望する「自己」を解体することを目指すわけです。

 では、日常的な実践としてはどうするのか。基本は二つです。

 自意識を解体する身体技法(たとえば坐禅)を習慣的に行い、「自己」の実存強度を低減する。

 同時に「自己」を「他者」に向けて切り開く。具体的には、他者との間に利害損得とは別の関係をつくり出す。その根本は、何か行動する場合に「他者」を優先することです。

 ただ「他者」の優先は、他人の要求に無条件で従うことではありません。もしそうなると、他人から支配されことと同然になり、関係が窮乏して維持できなくなります。

 大切なのは、「自他に共通の問題を発見して、一緒に取り組む」ことです。相互理解の土台はこの行動です。そして、仮にその行動から利害が生じるなら、そのときは一方的に自分が他者に利を譲る覚悟をするのです。

 この取り組みは、工夫の仕方によっては、自己をめぐる「縁」を豊かに深くするでしょう。それは、結果的に「なすべきことをなした」という実感になるかもしれません。これが積み重なれば、満腹の人が食事を終えるように、「死の受容」が実現する可能性があると、私はいま思っています。

 

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141 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown ()
2017-01-20 02:34:40
二兔追う者は一兔も得ず。

二兔追っても死しかない。
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Unknown (浅野)
2017-01-20 06:33:58
「涅槃」と「悟り」の違いがはっきりとわかりました。
悟りは理解していましたが、今生における涅槃がわかりませんでした。
涅槃=死の受容、は納得します。
具体的方法もそれを頼りに取り組んできましたし、実感してきました。
私もTさんのような良い質問ができるようになりたいす!
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Unknown (浅野)
2017-01-20 06:55:17
~利害が生じるなら、そのときは一方的に自分が他者に利を譲る覚悟をするのです~。

これは、ビジネスや政治に関しても適用すべきなのでしょうか。
国益が前提の政治世界で、基本的には第一義は国益であり、次は相互利益であると思うのですが、。
慰安婦の件の10億円拠出などは、どうなのかな、と思ったりしました。
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Unknown (南京ハゼ)
2017-01-20 08:26:17
節目のような時、主体性としての気持ちよりも暖かさの流れの行方を追うふうでありたいと思います。旅立と向き合うことの日常の自身の逡巡が縦の瞬間の大切さを逸することは胸をしめるようにも感じます。また 都合の良さのようなことがかすめると真意とはかけ離れてしまうことも卑近ながら思ったり致します。目を向ける先が自然と身につきそこには伝えようとされた暖かさの眼差しが絶え間なく感じられるような風景を思います。空気がいよいよ冴えてくるようですが、どうぞ御自愛下さいますよう心よりお祈り申し上げます。
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Unknown (ZIP)
2017-01-20 12:59:34
悟りが周期倍分岐として機能するのであれば、存在するとは別の仕方で、ということもある意味可能ではあるのだろうが
・・・
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Unknown (Unknown)
2017-01-20 19:35:44
菩薩、ですね。
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『超越と実存』の中の浄土教 (いわし雲)
2017-01-20 19:47:37
南直哉さんの「webでも考える人」『超越と実存』を拝読しました。
「法然における「絶対」(6)」の中で、
『法然の思想では、念仏しさえすれば「誰でも」成仏し、救済されるということになる。すると、死後に漏れなく来世で絶対的に救済されるなら、生前現世では「ありのまま」でよいではないか、という発想が現れてくることが予想される。』
とされ、以降、論理が展開されていますが、ここには疑問があります。

確かに法然は『念仏さえ称えていれば極楽へ往ける』と言ったと思いますが、これが当時、生きるために非道を行っており、社会からも蔑まれ、この世でもあの世でも
自らは救済されることはないと思っていた人々に希望を与え、浄土教が爆発的に広がった原因だと思います。

大きく念仏には、「自力」の念仏が2つ、「他力」の念仏が1つありますが、蓮如上人が「御文章」の中で、
『ただ声に出して南無阿弥陀仏とばかり称うれば、極楽に往生すべきように思いはんべり。それは大に覚束なきことなり。』と言っており、
これは親鸞聖人が『念仏さえ称えていれば極楽へ往ける、というものではありませんよ』と教えているのだと思いますが、そこに言及しないで話を展開されているのは残念です。

『浄土教の教えが間違っている』ということであれば、それはそれで1つの考えなのでどうこう言うことではないのですが、「御文章」が後付けの単なる言い訳であるということであれば、その辺りに言及していただきたいと思いました。
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Unknown (Unknown)
2017-01-21 00:03:23
たぶんありがちな疑問だと思うけど
解体しても解体しても解体しても
誰が解体してるのかっていうと、「自己が」でしょ?
坐禅という技法?によって「非思量」やってるから
「自己」のボリュームは最小レベルだからったって。
「譲る覚悟をする」のも「自己」でしょう?
なんか、かなり「しっかりした自己」な気がするんだけどね。
それはどうでも良くて「共通の問題に一緒に取り組み、利は相手に譲る覚悟をする」ってことなら
坐禅しないとその覚悟は持てないってものでもなさそうな気がするし。
なんかよくわからない話だ。いい話なんだろうけど。
自己を確立する系の話なのかな?


諸行無常なら、涅槃も無常、なのかなぁ、とか。
スポーツとか踊り系とか武道系とか、よく「身体の軸がしっかりしてる」とかいうけど
身体に「軸」っていう部位はないよね。
動いてるときに登場するんでしょ。



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Unknown (Unknown)
2017-01-21 02:09:03
仏教では
利益を「りやく」と
読むらしいよ。

世俗的な利益とは
違うんだろうね。
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Unknown (Unknown)
2017-01-21 02:40:43
あなた、本格的なスポーツとかみたいな、身体をしっかり使ったことないでしょ。身体と心はつながっていて、密接な影響を与え合います。あなたの話は体験せずに妄想だけで話している机上の空論。禅の話は、まず、自分が坐ってから。
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