遅ればせながら、明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い致します。
年頭に当たって、思いつき禅問答シリーズ。
禅の語録には、仏法を誹謗すると眉毛が落ちてしまう、という文句が時々出てきます。
ある禅師が、夏の修行期間の最終日に修行僧に向かって説法をしました。
「この修行期間中、君たちのために説法してきたが、私の眉毛は落ちなかったかな?」
ある修行僧が言いました。
「泥棒も実は内心ビクビクしていますからね」
別の修行僧がいいました。
「いま、生えてきていますよ」
もう一人が言いました。
「ここは通しませんよ」
私はこの問答を次のように解釈します。
禅師が「眉毛が落ちなかったか」と言うのは、言語化できない悟りの境地を言語化するのは間違い(仏法の誹謗)だと思うか、という問いです。
最初の修行僧の言葉は、「悟り」そのものを言葉にすることは不可能だと自覚しつつも、敢えて言語化し続けるべきだという意味でしょう。
次の修行僧は、言語化しない限り、仏法も悟りも、それが存在することさえわからない(生えてくる)と言っているのです。
三番目の修行僧は厳しい。確かに言わなければならないが、言ったとしてもそれが他人に通じるかはどうかは、別問題だと言っているわけです。
ならば、語る内容の妥当性は、語る当人が何を狙って、どんな方法で語るかを吟味してから、評価されるべきでしょう。
年頭に当たって、思いつき禅問答シリーズ。
禅の語録には、仏法を誹謗すると眉毛が落ちてしまう、という文句が時々出てきます。
ある禅師が、夏の修行期間の最終日に修行僧に向かって説法をしました。
「この修行期間中、君たちのために説法してきたが、私の眉毛は落ちなかったかな?」
ある修行僧が言いました。
「泥棒も実は内心ビクビクしていますからね」
別の修行僧がいいました。
「いま、生えてきていますよ」
もう一人が言いました。
「ここは通しませんよ」
私はこの問答を次のように解釈します。
禅師が「眉毛が落ちなかったか」と言うのは、言語化できない悟りの境地を言語化するのは間違い(仏法の誹謗)だと思うか、という問いです。
最初の修行僧の言葉は、「悟り」そのものを言葉にすることは不可能だと自覚しつつも、敢えて言語化し続けるべきだという意味でしょう。
次の修行僧は、言語化しない限り、仏法も悟りも、それが存在することさえわからない(生えてくる)と言っているのです。
三番目の修行僧は厳しい。確かに言わなければならないが、言ったとしてもそれが他人に通じるかはどうかは、別問題だと言っているわけです。
ならば、語る内容の妥当性は、語る当人が何を狙って、どんな方法で語るかを吟味してから、評価されるべきでしょう。
「けがなくて、良かったですね」
『ならば、語る内容の妥当性は、語る当人が何を狙って、どんな方法で語るかを吟味してから、評価されるべきでしょう。』
おっしゃる通りかと思われます。しかしながらこれが通用するのには、ある程度相互に信頼関係が担保されている必要があるのではないかと思われます。
「受け取る側」の内容の妥当性は、まるで見当がつきません。凄まじい猛反論がくる可能性だってあります。
盲信、妄信している方に対しては、内容の妥当性の評価などを期待するほうが難しいこともあります。
注意すべきことは話す側の「話す方法・内容」よりも、話す側が普段どのような姿勢でいるかを知ってもらうところから始めないといけないのかもしれません。
(方丈様でしたら、このブログの内容などからも十分におわかりいただけると思われますが・笑)
遅ればせながら、本年も何卒よろしくお願い申し上げます。
追伸
「考える人」、非常にありがたく拝読させていただいております。書籍化を心待ちにしております。
でも、こういう表現は避けても、伝わる人には十分に伝わりますし、伝わる人もより増えるのではないかなと、少し思ったりします。
新潮社の編集ご担当者様、ご検討いただけませんでしょうか。
私は南さんたちの眉毛を犠牲にして救われたのかもしれません。ありがとうございます!
さらに、伝えようとすること、理解しようとすることの積み重ねが、原理的に検証できないことの認識に、妥当性を少しずつ与えるようにも思います。
ですので、理解できない対象にも距離は取りつつ排除はしないという点を自分の注力点にしたいと思っています。
言語化と、そうでないことの正誤も、人智に及びませんよね。
本年も、どうぞ宜しくお願い致します!
m(_ _)m
答え3は、その世界に限らず、どこでもそうだなって話だと思うし。
ま、わたしはその問答を自力では理解できないので、南さんの解釈を前提として、だけど。
話が通じても通じなくても、その次は来るっていうか。
じーさまの眉毛が落ちても落ちなくてもどっちにしろ…っていうか。
又は、竜樹菩薩の「中論」は、誰が対象読者か?
そのとき尊師は、ひとり隠れて、静かに瞑想に耽っておられたが、心のうちにこのような考えがおこった。
「私のさとったこの真理は
深遠で、見がたく、難解であり、しずまり、絶妙であり、
思考の域を超え、微妙であり、賢者のみよく知るところである。
ところがこの世の人々は
執著のこだわりを楽しみ、執著のこだわりに耽り、執著のこだわりを嬉しがっている。……
だからわたくしが理法(教え)を説いたとしても、
もしも他の人々がわたくしのいうことを理解してくれなければ、
私には疲労が残るだけだ。わたくしには憂慮があるだけだ」と。
(パーリ律蔵、マハーヴァッガ、I.5、中村元訳)
お釈迦さまの心にあったのは、「自己の内に起こったきわめて特殊で微妙な体験」を、
言葉という誤解を生みやすい不完全な手だてによって
他人に正確に伝えることへの不安であり、あるいは、
たとえ、言葉をもって正確に伝えられたとしても
感覚的な快楽の対象に夢中になっているばかりの世の人々に
さとりの意味が果たして理解されるだろうかという疑念であったのでしょう。
過去に釈尊は、出家して(家族を捨てて)、まず、「老苦・死苦」からの救いの師を求めました。当時名声の高かった二人の仙人のもとを訪れます。「禅定」の師でした。しかし「師の教える禅定」にも到達したのですが、当初の問題の解決にならないと解り、その教えに満足できず去りました。
釈尊は、初転法輪の相手として、この二人の仙人ならば、理解できるだろうと考えたが、既に亡くなっていた。
・アーラーラ・カーラーマ(サンスクリット語:Ālāra Kālāma、漢字:阿羅邏迦蘭)
「空無辺処」(無所有処とも)の教えを聞き、その境地を証得。
・ウッダカ・ラーマプッタ(サンスクリット語:Uddaka-Rāmaputta、漢字音写:鬱頭藍弗、優頭藍子など多数)
「非想非非想処」の教えを聞き、証得。
しかし、両者とも釈尊の最終解決にならなかった。
なお、これらは、「禅定の深さ」の違いであり、涅槃の時も、この「浅い禅定と深い禅定との間」を、何度も往復しながら、亡くなっていった。
つまり、最初は、「深い禅定の指導者」ならば理解できると考えた。
しかし、既に亡くなっていたので、次に、「苦行の修行者」ならば理解できると考え、遥かに遠い直線距離で200km以上も離れた、わざわざ、ヴァーナーラシーの郊外にあるサールナートに、かつての修行仲間5人の所に行った。
つまり、既に面識のある、よく人物を知っている人々の中から、「理解能力の可能性で区別して」、禅定者、苦行者と段階的に相手を選定している。
両方に共通しているのは、大脳皮質の機能を低下させ、
自我意識作用の働きを極限まで弱めて、
自我の崩壊・消滅を、実体験している事である。
釈尊は、禅定も苦行も両方を実際に体験しているから、説法の相手にできると判断して選定した。
そして、釈尊は、この「5人の苦行の友」に対して、
「数日間にわたって、あらゆる観点から、徹底的に討論」をして、
そしてその結果、
5人は釈尊の教えを理解できて、「覚者=仏陀」と成った。
ここに、釈尊を含めた「6人の宗教集団(サンガ)」が成立した。
つまり、この苦行の共通の体験(自我意識作用の消滅)が、ここで、教えの理解に於いて、重要であった。
更に、重要なことは、
言葉・言語で、「教え=仏法」を伝えることができた
ということである。
これは、
「相手の体験・経験」に対して、「その事である」と、指し示すことで可能になった。と言う事は…
相手に「その体験・経験」がないと、指し示すことができない。
先ず、只管打坐。
「唯仏与仏 乃能究尽 諸法実相」
「唯(ただ)仏と仏
乃(いま)し能(よ)く
諸法の実相を究尽(くじん)したまえり」
教えは、「外に」ではなく、「各人の中に」ある。
師は「それを指し示す」だけ。
だから、「正師」が重要となる。
いつも楽しみに読ませて頂いています。
今年も宜しくお願いいたします。
和尚さんには眉毛がないんだ!
南師は、三人の僧侶には上記の認識がある前提で発言を解釈されている。
けど、
私なんかは、最初と二人目の僧侶は上記の知恵を必要としなくても、知らなくても生きていける人で、
三番目の僧侶は、言語の限界を知っているよにに思える。
『仏法を誹謗したら「眉毛」が落ちる』
という禅の語録に対して
「それがどうした」
と、言語に縛られない。
南師の眉毛、気になっていましたが、剃られているのか。
なんだか、今回の記事はイエスちゃんさんがおっしゃっていた、言語に対する批判にもつながるような気がするけど・・・
全然分りませんが何か繋がりそうな気配がする・・・
まとまりませんが、といあえず所感。すみません。