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恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

「聖」と「俗」の危うい関係

2016年03月01日 | 日記
 宗教は、原理的に人間やその集団がつくる社会の在り様を、そのまま肯定することはありません。別の次元に価値の体系(悟り、極楽往生、最後の審判や天国)を設定するからこそ、「宗教」たり得るわけです。

 すると、人々が暮らしを営む社会的現実とはどう関係することになるのでしょうか。その社会の秩序や道徳との折り合いをどうつけるのでしょう。

 絶対神は「絶対」であるがゆえに、人間の社会で通用している善悪や秩序を超越することになります。つまり、人間が理解する善悪の区別は、神には無意味だということです。

 仏教の場合も、ニルヴァーナに善悪はありません。「諸行無常」の教説が、善悪を区別する確実な基準を維持するわけがありません。

 この場合、一番よく使われるアイデアは、宗教の教説や価値観などは、それはそれとして考え、毎日の生活はその社会のルールや価値観に従えばよい、というものです。つまり、宗教の領域たる「聖」と社会的現実の「俗」を峻別して、結果的に「俗」をまるごと黙認・容認してしまう考え方です。

 もしこのアイデアに従うなら、たとえば、ある国に独裁体制が登場して強権政治を行い、無謀な戦争に突入しても、「殺すなかれ」を第一に標榜する宗教は、にもかかわらず「それはそれとして」、戦争と戦時体制を「肯定」することになるでしょう。

 ことは「肯定」で終わりません。「聖」と「俗」の関係を自覚的に検討する手間を省いて、安直な区別ですませるなら、ついには「聖」の理屈を「俗」に合わせて改変し、これを根拠づけ支持する強力な論理を提供するようになるのです。

 実際、古今東西、宗教者や宗教団体が戦争を支持し戦時体制に協力した例は、枚挙にいとまがないところです。

 このような、いわば「聖俗二元論」とは違う、もう一つの関わり方は、「聖」が「俗」を自らの価値体系に合わせて徹底的に改造しようというアイデアです。いわゆる宗教的「原理主義」です。

 けだし、これらのアイデアは、結局のところ破綻します。前者の「聖俗二元論」は事実上宗教の自己否定であり、後者の原理主義は地上に天国を造ろうとする妄想ですから、最後には自滅することになります(「地上」に「天国」ができたら、それはもはや「天国」ではありえない)。

「俗」への追従(聖俗二元論)にしても、「俗」の改造(原理主義)にしても、その危険と錯誤は、「聖」と「俗」の矛盾を無視することなのです。この矛盾の中に生きようとしないことなのです。

 ゴータマ・ブッダとその弟子たちは、まさに出家して「俗」を離脱した集団です。その一方で、彼らの集団は托鉢可能な距離を考慮して、都市や村(=「俗」)周辺を遊行していました。象徴的なのはこの絶妙な「距離」です。「俗」に迎合しても、「俗」を否定しても、「出家」は成り立たないわけです。

 かくして私は、「聖」の役割は、「俗」に対して、それとは別の考え方があり得、それとは別の生き方があり得ると提示することだと考えます。すなわち、根本的な批判精神です。

 批判は否定ではありません。それは相手の存在を前提に、その在り方を問い続けることです。これこそが「聖」と「俗」の矛盾に耐えることだと、私は思うのです。

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277 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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Unknown (Unknown)
2016-03-01 05:37:52
前回のコメント群を見る限り、誰もが不安と不満を感じる時代に入り、それゆえに社会が分断され、負のスパイラルに入っている、ということでしょう。

南さんの今回のお話では、仏教は世間の視点を客観視して、問い直すものとのこと。在家である自分は、客観視した後、どう問い直し世間を生きるか、という話でなければ、何の意味がありません。

現在の社会状況を考えるに、自分よりも他者のために尽くす菩薩行が意外にも現実味を帯びてきている、と思います。分断された社会を再構築するには、まず、他者のメリットを赦す気持ちが無いと、社会を再構築し、プラスのスパイラルに入ることは不可能だからです。

現在既得権を持つ人は、既得権を失うことに繋がる意見に不満を持ちます。既得権の無い人は既得権を持つ人から剥奪しようとしています。それでは全員が不幸になってしまいます。誰も積極的な行動をする気になれません。社会は更に疲弊するでしょう。

それぞれが、自分の立場を客観視し、誰もが損をし、得をするバランス感覚を養う必要があるな、と思います。難しいことですか。
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Unknown (Unknown)
2016-03-01 07:26:30
そうね。

共有や分け合い精神がないと
難しいかもね。

相互が折り合い付けて
意識を変えていかないことには
いがみ合っていても始まらないよね。

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Unknown (Unknown)
2016-03-01 07:37:12
そうですよね。
批判と否定は違いますよね。

まずそれに気づかないことには
話になりませんよね。

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Unknown (Unknown)
2016-03-01 18:42:58
何とか分断を超えて共有と分け合いの精神は確かに必要だろうね。
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Unknown (Unknown)
2016-03-01 22:01:53
ハイ。

ルーシーを見た。
ロバート ゼメキスのコンタクトを思い出し、ニュージーランドのワイトモ洞窟が待ち受け。

もうしばらくお待ちくださいませ。
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過激発言お許しあれ! (アメ知ろう途)
2016-03-01 23:43:34
「聖」の役割は「俗」に対して「別の生き方」が在る事を提示する事、すなわち『生きる事は死ぬ事と見つけたり!!』成程&mmmmm、死んだ気になれば何でも出来るし・・・・。

強権を発して戦争を仕掛けて来る独裁政権の外敵国に対しての思考方式は、
ゲーム理論(戦力的意思決定数値モデル)によれば、

ニッポン「俗」男DNAとすれば「自分からは喧嘩は売らないが、売られた喧嘩は買う」、

ニッポン「俗」女DNAとすれば「売りません、買いません、平和主義者」、

ニッポン「聖」人DNAとすれば、「お互い少しの利益で我慢しようよ、協調しあった方が上手くいく」んだよと狂った猛獣をなだめすかす事。

結論;
ニッポン「聖人」DNAは狂人から宗教弾圧を受けて滅びる。
ニッポン「俗」男DNAは喧嘩に負けて
滅びる。
ニッポン「俗」女DNAは凶暴異国DNAを受け入れて、より強く優秀な混血子孫を創り出していく。

mmmmmなんか歴史的にもあった感じ・・・・。
インドで仏教が滅びたのもこんな感じ・・・・。
今もチベットあたりで起きてる感じ・・・・。

そ~言えば無抵抗主義者のマハトマ・ガンジーが、ナチスに敗れて収容所で滅ぼされたユダヤ人に対して「なぜナチスの意向通りに動物の様にされたんだ、なぜ人間としてのプライドを持って自死しなかったのだ」と批判の言葉を言ったそうな・・・。
しかしフランクルは生きて嵐が過ぎ去る事を選んだそうな・・・。

さて、今するべき事とは???
日本国民の声の結集??
黙して語らず無関心の無明を装う??

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既得権 (ZIP)
2016-03-02 01:08:35
既得権とはいったい何を指して言っているのか?既に得ている権利とはどのようなものか?
既得権の排除に反対はしないが、排除対象となるものがそもそも何故存在しているのか?あってはならないはずの権利を容認していたのは誰なのか?知らなかったで済ませられるのか?知ろうとする態度はあったのか?自らの無関心さを棚に上げ、持たざる者が持っている者に対して不平不満の感情を込めた物言いを表す言葉に過ぎないのではないだろうか?
下手な既得権の排除は合成の誤謬につながる。
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Unknown (Unknown)
2016-03-02 01:31:14
Zipのディスりが怖くてコメントできねーわ
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Unknown (Unknown)
2016-03-02 02:29:52
国の庇護うけた特権階級が根本的批判ってできるんだろうかね。その矛盾のほうが耐え難い。
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Unknown (Unknown)
2016-03-02 02:46:07
徳川時代、仏教各宗派寺院は幕府権力に従属。
末寺は幕府の下部行政機関であった。
思想的指導性は儒教が担った。
民衆への指導力も権力への批判も仏教に望めなかった。
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