「生きていても仕方がない」かどうかは、生きている本人以外には決めようがありません。当人の生活条件の如何にかかわらず、第三者が口を挟む問題ではさらさらない話ですし、「仕方がない」かどうかを判断する「客観的な」基準など、妄想に過ぎません。
障碍者であろうが健常者であろうが、大切にされ、受け容れられ、暖かい人間関係の中にいる人にとっては、生きていることはおそらく、「満更でもない」でしょう。
障碍者であろうが健常者であろうが、邪慳にされ、排除され、孤立と不安の中にいる人にとっては、「生きていても仕方がない」という思いもあって当然でしょう。
生きている「意味」や「価値」それ自体などは存在しません。我々は根拠も理由もなく生まれ、根拠も理由もなく死んでいきます。すでに生まれてきてしまってから考えたり、聞かされたりした「意味」や「価値」は、要するに後付の理屈に過ぎず、検証の仕様もありませんから、お伽噺とかわりません。つまり、ものは考えようということです。
ということは、所詮、我々は誰もがみな「仕方なく」生まれ出て、その生を理由もなく受け容れ、とにかく生きていくのでしょう。「意味」や「価値」は、生きていく過程で、他者との縁を紡ぎつつ織り出していくものです。
自己決定でも自己責任でもなく、理由もなく課せられた「自分であること」だったとしても、あえてそれを生きる。「意味」はそこから各々に創作されていくのだと、私は思います。
障碍者であろうが健常者であろうが、大切にされ、受け容れられ、暖かい人間関係の中にいる人にとっては、生きていることはおそらく、「満更でもない」でしょう。
障碍者であろうが健常者であろうが、邪慳にされ、排除され、孤立と不安の中にいる人にとっては、「生きていても仕方がない」という思いもあって当然でしょう。
生きている「意味」や「価値」それ自体などは存在しません。我々は根拠も理由もなく生まれ、根拠も理由もなく死んでいきます。すでに生まれてきてしまってから考えたり、聞かされたりした「意味」や「価値」は、要するに後付の理屈に過ぎず、検証の仕様もありませんから、お伽噺とかわりません。つまり、ものは考えようということです。
ということは、所詮、我々は誰もがみな「仕方なく」生まれ出て、その生を理由もなく受け容れ、とにかく生きていくのでしょう。「意味」や「価値」は、生きていく過程で、他者との縁を紡ぎつつ織り出していくものです。
自己決定でも自己責任でもなく、理由もなく課せられた「自分であること」だったとしても、あえてそれを生きる。「意味」はそこから各々に創作されていくのだと、私は思います。
人間は生かされている。
縁起によって、生かされている。
仏陀は生かされているというこの状態の維持を説いている。
自らが生きるという事は状態の忘却である。
初期設定において、自らが生きるという意思の起動を停止して、生かされているという認識から起動させるという事である。
初期設定を変えねば世間はいつまでも
生きるという意思で満たされた肥溜めである。
ガンジーが言うように、かたつむりが歩くように進む他ないとは思いますが。
今後、十日掛けて一つひとつ(第三者、孤立など)思考するに値すると思います。
初期感想として、存在の創作(意味)とライプニッツの時間論でいう『時間の創発』は同じことでしょうね。
のような人でも
歪んだ正義感をもつと、殺人者になってしまいます。
まあ皆が皆
暖かいとは言えない、ということでもあるのでしょうが。。
ホント、余計なお世話ですよね。
ただ、自分本人なら決めてよい、という法もないような?
本来、「仕方なく」生まれてきたかどうかも、不明なことですから。
ただ、生まれてきた、生まれてきてしまった。
それはつまり、何を記憶するのか考えてしているのではないということですね。
自由意志(自分?の思考)は、過去の履歴にのみ展開をみせるものであり、今という瞬間を一々思考していたならば、今というこの瞬間に人類は存在し得ませんからね。
同じ生物であっても「植物と動物」の最たる違いはそれであって、同じ動物であっても「人と他の動物」は、雲泥の差ですからね。
道元は、『自然選択を承知のうえ』で現成公案を記したのでしょうね。 だから、人を魅了する『ことば』として君臨するし続けるのでしょう。
坐禅は、今という瞬間を、一々実感することではないのでしょうか。
私が記しているのは、>今という瞬間を一々思考していたならば、 なので、「実感と思考」、は異なります。
思考というのは、概念化するための行為なので時間を要します。 座禅は分かりません。