とある水曜日の昼下がり。バスに乗っていると、目の前の「優先席」に坐っていたご婦人ふたりが、
「この時間は空いてるわねえ」
「病院は混んでるのにねえ。私、明日病院なの。月曜だから大変よ、混んで」
「日曜の後はねえ・・・」
「今日ね、本当は午前に孫が来るって言ってたのよ。でも来なかったの。待ってたのに」
「ああ、で、午後に出てきたの」
「そう。日曜日に行くからねって言うから、待ってたのに」
「あらあら・・・」
「3、4日前に来たばかりだったんだけどね」
(その日が日曜でしょ!)
私はどうしようかと思いました。今日は日曜日ではなく水曜日だと、彼女たちに言うべきであろうか。
しかし、彼女たちの会話は穏やかに、問題なく続いています。それでも、言う必要があるとすれば、次のような場合でしょう。
一、会話の最中、時々不具合が生じて、二人が、どうも何か変だ、何かおかしいと感づいた様子が見えたとき。
二、このまま曜日の勘違いを放っておくと、かなりマズイ状況に至りそうだと予想できるとき。
そのいずれでもなければ、特にいま口を挟む必要もなかろう、と私が思い始めたそのとき、右横にいたランドセルが背中より大きい小学生、いきなり、
「あのね、今日、水曜日!」
「え? 水曜、そうなの」
「あれ、やだ!」
ご婦人ふたり、爆笑。小学生びっくり。住職苦笑い。
さて。このとき、素直な小学生の親切と、ヒネクレ住職の手抜き態度と、どちらがより適当でしょうか? 言うまでもなく小学生だと、私も思いますが、私はさらにヒネクレて、こうも考えました。
小学生は「正しい」ことを教えたのだが、「正しいこと」の正体は、当事者の間で「正しいと合意したこと」に過ぎない。特定の日を「水曜日」するのも、要するに決め事で、社会の便宜上そう合意してるだけで、「水曜日」それ自体が「正しく」存在するわけではない。
だったら、ストレートかつ問答無用で「正しい」ことを教えるべき理由もあるまい。当事者に不都合が生じていなければ、どうしても「正しい」ことを教えなければいけないこともないだろう。
実は、こんなことを考えたのは、バスを降りてから、ゴータマ・ブッダの「梵天勧請」の話を思い出したからです。
ゴータマ・ブッダは「悟り」を得た後、それを他人に教える気はなかったと言います。要は、教えたところで、凡人にはわかるまいと、こう考えたのです。
そこに神である梵天が現れて、是非とも教えを説くように三度にわたって懇願した結果、ブッダは語ることにした、と言うのです。
要するにこの話は、高邁な「真理」を話す気がなかったブッダが、梵天に言われて、衆生への慈悲のゆえに仕方なく説法を始めた、と解釈されるわけです。
ですが、私に言わせれば、それは違います。そもそも、他人に語ってみて、その他人が理解しない話は「正しいこと」にも「真理」にもなりません。つまり、言葉にした上での合意が不可欠なのです。
ブッダひとりの胸の内に起こったことそれ自体などは、それが「妄想」でない保証はどこにもありません。また、誰にも語られなかった教えなどは、端的に「無い」のです。
だいたい、梵天はその「神的能力」で、すでにブッダが「何かとても大事なこと」を悟ったと「わかった」から出てきたのでしょう。つまり彼の「歓請」は、アイデアが言語化され、共有され、合意されない限り「真理」は成立しないという事情を言っているのです。
ブッダもあらかじめ「真理」とわかっていたことを、請われてイヤイヤながら言い出したわけではありません。凡人が「真理」を知らないのは気の毒だと同情したから、話したのでもありません。
彼には「真理」か否かなど問題ではなく、自分がわかったことを知らないままでいると、とても苦しむ人が世の中にはいるはずだと確信したから、言う気になったのでしょう。
あるいは、自分のアイデアをこのまま黙っていると、この世に起こらなくてよい難事が数多く起こると予想したから、話そうと決めたのだと思います。
そこで、あるいは自分の「妄想」かもしれないことを敢えて口に出してみたら、「そのとおりだ!」と理解する他人が現れて、初めて彼のアイデアは「真理」になったわけです。つまり、合意が得られたということです。
ブッダがブッダになったのは、この合意以後のことです。
「この時間は空いてるわねえ」
「病院は混んでるのにねえ。私、明日病院なの。月曜だから大変よ、混んで」
「日曜の後はねえ・・・」
「今日ね、本当は午前に孫が来るって言ってたのよ。でも来なかったの。待ってたのに」
「ああ、で、午後に出てきたの」
「そう。日曜日に行くからねって言うから、待ってたのに」
「あらあら・・・」
「3、4日前に来たばかりだったんだけどね」
(その日が日曜でしょ!)
私はどうしようかと思いました。今日は日曜日ではなく水曜日だと、彼女たちに言うべきであろうか。
しかし、彼女たちの会話は穏やかに、問題なく続いています。それでも、言う必要があるとすれば、次のような場合でしょう。
一、会話の最中、時々不具合が生じて、二人が、どうも何か変だ、何かおかしいと感づいた様子が見えたとき。
二、このまま曜日の勘違いを放っておくと、かなりマズイ状況に至りそうだと予想できるとき。
そのいずれでもなければ、特にいま口を挟む必要もなかろう、と私が思い始めたそのとき、右横にいたランドセルが背中より大きい小学生、いきなり、
「あのね、今日、水曜日!」
「え? 水曜、そうなの」
「あれ、やだ!」
ご婦人ふたり、爆笑。小学生びっくり。住職苦笑い。
さて。このとき、素直な小学生の親切と、ヒネクレ住職の手抜き態度と、どちらがより適当でしょうか? 言うまでもなく小学生だと、私も思いますが、私はさらにヒネクレて、こうも考えました。
小学生は「正しい」ことを教えたのだが、「正しいこと」の正体は、当事者の間で「正しいと合意したこと」に過ぎない。特定の日を「水曜日」するのも、要するに決め事で、社会の便宜上そう合意してるだけで、「水曜日」それ自体が「正しく」存在するわけではない。
だったら、ストレートかつ問答無用で「正しい」ことを教えるべき理由もあるまい。当事者に不都合が生じていなければ、どうしても「正しい」ことを教えなければいけないこともないだろう。
実は、こんなことを考えたのは、バスを降りてから、ゴータマ・ブッダの「梵天勧請」の話を思い出したからです。
ゴータマ・ブッダは「悟り」を得た後、それを他人に教える気はなかったと言います。要は、教えたところで、凡人にはわかるまいと、こう考えたのです。
そこに神である梵天が現れて、是非とも教えを説くように三度にわたって懇願した結果、ブッダは語ることにした、と言うのです。
要するにこの話は、高邁な「真理」を話す気がなかったブッダが、梵天に言われて、衆生への慈悲のゆえに仕方なく説法を始めた、と解釈されるわけです。
ですが、私に言わせれば、それは違います。そもそも、他人に語ってみて、その他人が理解しない話は「正しいこと」にも「真理」にもなりません。つまり、言葉にした上での合意が不可欠なのです。
ブッダひとりの胸の内に起こったことそれ自体などは、それが「妄想」でない保証はどこにもありません。また、誰にも語られなかった教えなどは、端的に「無い」のです。
だいたい、梵天はその「神的能力」で、すでにブッダが「何かとても大事なこと」を悟ったと「わかった」から出てきたのでしょう。つまり彼の「歓請」は、アイデアが言語化され、共有され、合意されない限り「真理」は成立しないという事情を言っているのです。
ブッダもあらかじめ「真理」とわかっていたことを、請われてイヤイヤながら言い出したわけではありません。凡人が「真理」を知らないのは気の毒だと同情したから、話したのでもありません。
彼には「真理」か否かなど問題ではなく、自分がわかったことを知らないままでいると、とても苦しむ人が世の中にはいるはずだと確信したから、言う気になったのでしょう。
あるいは、自分のアイデアをこのまま黙っていると、この世に起こらなくてよい難事が数多く起こると予想したから、話そうと決めたのだと思います。
そこで、あるいは自分の「妄想」かもしれないことを敢えて口に出してみたら、「そのとおりだ!」と理解する他人が現れて、初めて彼のアイデアは「真理」になったわけです。つまり、合意が得られたということです。
ブッダがブッダになったのは、この合意以後のことです。
実に面白い!!!
縁起のめぐり合わせで、釈迦の真理に迄相互関係が繋がって行く訳だから・・・。実に面白い!!!
釈迦の「梵天勧請」が釈迦の脳内独自思考自灯明と見做せば、ひねくれ釈迦がひねくれついでに「こうも考えた・・・」となるか??
実に面白い!!!
でも、どちらも想いをぶつけあって
もしくは妥協して。つたわらない。
意味を失ったほうに同情したくても、一時的な結果で喜びすぎたり。
一方は経験不足から完全否定したり。
どっちもバランス悪いです。もやもやします
自分は関係ないですけど。
しかもチャンスとタイミング見計らう天才
別に褒めてないです
「言葉に言い表せない究極の真理」が存在する、と思える人は、神の存在を信じる感性がある人だ。
釈迦を神格化して「拝む」事の出来る人だ。仏教を「宗教」に仕立て上げた人だ。
そういう人は「縁起」さえ、神が操っていると信じている筈だ。「空」は神であり万能であると思っている筈だ。ブラフマンの意志に依って「空」から「色」が生れると感じている筈だ。
さもなければ如何にして「言葉に表せない究極の真理」なるものがこの世に存在しうるのか???
「答えられないけど『在る!!』というのは神をみているからに他ならない・・・『信じる事の出来る人は幸せである』という真理説に従って。。。」
今回のこの記事の内容も「南直哉流」の在りようですものね。
それもありでしょうが、『人の不幸は蜜の味』 何故か? 存在の原動力は「欲望」であり、取引が成立する理由がそこにありますよね。 お金は何故、存在するのか?
例えば、震災時のボランテア?を偽善化せず考察すると「無給で働く自衛隊」になるでしょう。
『話したい』あるいは、『話さずに居られない』つまり、自然選択ですね。 それをせずに居ると「鬱症状」をきたすでしょうね。
ヒネクレた親分は、面白いっぺ。
最終的には合意になります。
でもそれに先立って、「他人が抱えていた問題に対しても有効に働いた」という事実のほうが、より重要になるのではないかと思われます。
自己というのは、「縁起が織り成す関係性による事態」なのだから、単なる記憶に起因する意識に惑わされないようにすべきでしょうが・・・
何事においても「分かる者は分かるが、分からない者は分からない」という鉄則があるのでお坊さんの出番でしょうかね。