「いつも思うが、君は一体どういうつもりで仏教に取り組んでいるんだ?」
「どういうつもりだとは、ご挨拶だな。何を言いたい?」
「君はいつも、自分の抱えている問題に、それも解決不能の問題にアプローチする方法として仏教を使っていると言うが、それじゃあまりに考えが狭くなあいか? いやしくも大乗仏教の徒なら自分ばかりの問題にかたよってはまずいだろう」
「すぐに人の役に立つことをしていないことは認める。しかし、僕が抱えている問題は、僕だけの問題でないことは確信している。僕のアプローチが、誰かの参考になるに違いない。そう思わなければ、坊さんとしてこれをやる意味もなかろう」
「それはそうだが、やっぱり狭い。仏教に限らず、宗教には、様々な儀礼があり、芸術的な表現あり、文化的な意味があり、社会的な救済活動もある。君が日ごろまくし立てている理屈以外に豊かに拡がる領域がある。それを無視するのか?」
「無視してはいない。その領域に関して誰かの需要があり、自分に供給する能力があるなら、自分が応じる必然性があるかぎり、そういう領域にも取り組む。ただし、それは自分のメインテーマではない。その領域は、自分の問題に直接関わらない」
「そういうやり方は聊か不誠実ではないのか?」
「どうしろと言うのだ? 全部一人でできないといけないのか? あの世の有り難いお話で聴衆を安心させて、見事な儀礼パフォーマンスで気分を盛り上げ、高度な仏像鑑賞に薀蓄を披露して、ボランティアの先頭に立たないと、まともな坊さんと言えないのか?」
「そう興奮するなよ」
「一人の坊さんにできることは限られる。何をテーマに選ぶかは、当人が決めるしかない。ならば、僕もまた、まずは自分のテーマに少ない能力を投入する。そして、異なるテーマに取り組む他の坊さんに期待するし、できる協力をする」
「それじゃあ訊くが、そういう君は時々依頼があった人と面会して話を聞き、対話しているだろう。あれは君のテーマへのアプローチにどういう意味があるんだ?」
「よく『対話』と言ってくれたな。そうだ、僕は対話している。あれは『お悩み相談』でも昨今流行の『傾聴活動』でもない。僕は自分の話が通じるかどうかを試しているんだ」
「要は実験か?」
「失礼なことを言うな。そもそも、僕は実験すべき『理論』を予め持っていない。ぼくは対話の相手が直面している『問題』を知りたい。というよりも、問題を自分にも相手にも露わにしたいのだ。次にそれが仏教の問題なのかどうか考える」
、
「で、仏教の問題でなければ切り捨てる」
「馬鹿を言え。問題に応じてアプローチを考える」
「そして?」
「そのアプローチに沿った言葉を語りかけ、相手の反応によって、自分の言葉がどのくらい効いているか判断する」
「それで問題が解決するのか?」
「するわけないだろう。この程度のことで解決するなら、僕に会う必要もない」
「じゃ、何をしているんだ?」
「僕はこのような言葉のやり取り、対話を繰り返して、自分と相手が共有できる、ある存在の場を開きたいのだ」
「こむずかしい話だな」
「簡単に言えば、相手に『この問題の切なさは、自分一人だけのことではない』と感じてもらいたい」
「えっ、そんなことなのか?それだけ?」
「相手にとっては、それ以上のことは起こらない」
「つまらんな」
「そうかもしれない。しかし、中にはこの対話がきっかけで、自分で何かを考えだす人がいるかもしれない。答えのない問いに耐える方法を見つけるかも知れない。いつもそう期待している」
「では、君にとってのメリットは?」
「相手に『通じる』『効く』言葉しか問題に取り組む道具として使えない事実を、こういう対話だけが僕に教え続ているんだ」
「どういうつもりだとは、ご挨拶だな。何を言いたい?」
「君はいつも、自分の抱えている問題に、それも解決不能の問題にアプローチする方法として仏教を使っていると言うが、それじゃあまりに考えが狭くなあいか? いやしくも大乗仏教の徒なら自分ばかりの問題にかたよってはまずいだろう」
「すぐに人の役に立つことをしていないことは認める。しかし、僕が抱えている問題は、僕だけの問題でないことは確信している。僕のアプローチが、誰かの参考になるに違いない。そう思わなければ、坊さんとしてこれをやる意味もなかろう」
「それはそうだが、やっぱり狭い。仏教に限らず、宗教には、様々な儀礼があり、芸術的な表現あり、文化的な意味があり、社会的な救済活動もある。君が日ごろまくし立てている理屈以外に豊かに拡がる領域がある。それを無視するのか?」
「無視してはいない。その領域に関して誰かの需要があり、自分に供給する能力があるなら、自分が応じる必然性があるかぎり、そういう領域にも取り組む。ただし、それは自分のメインテーマではない。その領域は、自分の問題に直接関わらない」
「そういうやり方は聊か不誠実ではないのか?」
「どうしろと言うのだ? 全部一人でできないといけないのか? あの世の有り難いお話で聴衆を安心させて、見事な儀礼パフォーマンスで気分を盛り上げ、高度な仏像鑑賞に薀蓄を披露して、ボランティアの先頭に立たないと、まともな坊さんと言えないのか?」
「そう興奮するなよ」
「一人の坊さんにできることは限られる。何をテーマに選ぶかは、当人が決めるしかない。ならば、僕もまた、まずは自分のテーマに少ない能力を投入する。そして、異なるテーマに取り組む他の坊さんに期待するし、できる協力をする」
「それじゃあ訊くが、そういう君は時々依頼があった人と面会して話を聞き、対話しているだろう。あれは君のテーマへのアプローチにどういう意味があるんだ?」
「よく『対話』と言ってくれたな。そうだ、僕は対話している。あれは『お悩み相談』でも昨今流行の『傾聴活動』でもない。僕は自分の話が通じるかどうかを試しているんだ」
「要は実験か?」
「失礼なことを言うな。そもそも、僕は実験すべき『理論』を予め持っていない。ぼくは対話の相手が直面している『問題』を知りたい。というよりも、問題を自分にも相手にも露わにしたいのだ。次にそれが仏教の問題なのかどうか考える」
、
「で、仏教の問題でなければ切り捨てる」
「馬鹿を言え。問題に応じてアプローチを考える」
「そして?」
「そのアプローチに沿った言葉を語りかけ、相手の反応によって、自分の言葉がどのくらい効いているか判断する」
「それで問題が解決するのか?」
「するわけないだろう。この程度のことで解決するなら、僕に会う必要もない」
「じゃ、何をしているんだ?」
「僕はこのような言葉のやり取り、対話を繰り返して、自分と相手が共有できる、ある存在の場を開きたいのだ」
「こむずかしい話だな」
「簡単に言えば、相手に『この問題の切なさは、自分一人だけのことではない』と感じてもらいたい」
「えっ、そんなことなのか?それだけ?」
「相手にとっては、それ以上のことは起こらない」
「つまらんな」
「そうかもしれない。しかし、中にはこの対話がきっかけで、自分で何かを考えだす人がいるかもしれない。答えのない問いに耐える方法を見つけるかも知れない。いつもそう期待している」
「では、君にとってのメリットは?」
「相手に『通じる』『効く』言葉しか問題に取り組む道具として使えない事実を、こういう対話だけが僕に教え続ているんだ」
ということで♪
南さんとお話ししたい人って
そういう感じがメインなの?
じゃあ南さんもそういう感じなのかしら?
わりとびっくり
とりあえず、「対面」してみて、後は和尚さんにお任せということで。
多分うまいこと、ある場所へ誘導してくださるよ。
あれだけ講義コーギ言ってたんにね。
対話はダメとな。
ありゃま。
存在の場を提供される とな
そりゃまた困ったねえ
せっかくお知らせ書いてくれたんだし
どうせなら対話すれば
会わずに、「色んな」はないでしょ。
なら、お会いしてみなよ。
そんくらい、できるでしょ!
あなたこそ
往かないと!
がんばれ
一編、志んでこよっかな。
>『この問題の切なさは、自分一人だけのことではない』と感じてもらいたい
仏教に出逢うって、こういうことなのかな、って思いました。
>「僕はこのような言葉のやり取り、対話を繰り返して、自分と相手が共有できる、ある存在の場を開きたいのだ」
完全な共感はなくても、共有できる「存在の場」を、提供されることによって、自他が保たれているのかな、って思いました。
何かした?
何でもいいわけじゃないよね。
ただ此処は、和尚さん以外の人が、書いてるとは思えないし、インチキからは、邪魔されないよね。
お葬式ですか?
…やれやれ
ふと思い出したっていうか頭をよぎったことがあって
お坊さんがつくってる掲示板みたいなやつ(ネットの)があって
もう、すごーく曖昧な記憶なんだけど
掲示板の主じゃなくて別のお坊さんが
本山に自分の寺の檀家さん?といっしょにお参りしたんだかなんだかの体験談?を書いていた
本山の偉い人が境内のどっかの道?門?を通るとかで通行止め?になって、メインのお参りができなくなったかなんかそんな感じ
んで、時間で区切るとかすれば、檀家さんも時間をずらしてお参りするとかできるし
壇信徒の方々の信仰あればこそなんだからそこんとこもうちょっと考えた方が
的なはなしだったんだけど、やっつけられてた
あんた匿名のくせに、調べれば通行止めかけた(偉い)人が誰なのかわかるようなこと書いて、って
え?そこ?
そういう世界なのかー
ご丁寧に一般人に見えるところでそんなことばらして、
あ、匿名だからいいのか
とか、もうさっぱりわからなかったっていう遠い思い出
そんなことに、尽力するようなお坊さん達が、見え隠れするから、故に寺離れにも、行き着いてるかのようにみえる。
がポイントですね。
普段は制約があるから、それらを意識すると、中身が曖昧になったりするんじゃない?
誰が書いたか?ではなくて、何が書かれてるか?が、大事なんじゃないの。
名前あってもさ、
何者かわかんないんじゃ、ただの記号でしょ。
英語や日本語と、さほど変わりないんじゃない?
名前があろうとなかろうと、誰かが発信してる。
親方が名前しょってるからって、だから何?
誰かか言ってるだけのことでしょ。
ってそれぞれを批判だって認めてるから
匿名のは批判じゃないっていってるわけじゃないのか
仏教のなんやかんやを引用する競争がしたいんちゃう?
親方ってww
コメント欄は匿名ばっかだから
匿名のなんやかんやは批判じゃない
そんなものの中身は認めないっていうなら
ああそうなの?
だけど
中身っていってる人が匿名だしなー
なんだろう
してるよね、ここの親方
親方の批判は中身がある
なぜならば親方だからだ
そんな感じですかね
よろしいかと。
中身に目を向けないとね。
日本語しゃべるのぺらぺらだって
それで何しゃべってるかっていったら
びみょう
いっしょ
自己実現というのは意味が無い
才能やお金を求めるきりの無い欲求でございます
んだからここで経済のお話をしているじてんで
お釈迦様のおはなし 大して聞いてないのねみんな
ある程度の学がある親だと
外国語の身につけ方ぐらいは把握してるとおもう
外国語は座らされて勉強したぐらいでは身につかない場合が多いとおもう
やる気や環境の問題
それを無理強いする親は教育というより
わが子を記号としてステータス化したい傾向があるのではないかな。
子供の英語教育に関して親としての立場から、行政の表層的、関連業界の功利的
側面は理解できるのですが、そこに文化を含めた実社会という関数を代入する事によって得られる解は、一概に英語教育低年齢化の批判という答えにはならないのではないかと思えるのです。
人口減と高齢化による経済の縮小、業界における不祥事、為政者の失言・失態、
世間の大人がしでかす子供に言い訳の出来ない愚行、などを通して、はたしてこの日本という国には文化というおよそ自己満足的概念は存在するに値するのだろうか?と思わざるを得ません。
文化の自己満足という解を得る為に、現在の政治が持つ公正性、経済が追求する効率性からは自己満足は算出できそうにはなっていません。
英語教育の低年齢化に賛成している親ののなかには、上記のように日本の将来を見限って、真剣に考えている方が少なからずいるのです。自己実現の為には必ずしも日本という国にいる条件は必要では無いという事を如実に感じておられるのです。これはただ単に、グローバル的な発想からではなく、その意味を取り違えなりふり構わず短絡的に行動する、日本語を話す日本人の文化的体質に由来する原因ではないかと思います。
寝る前に汚い話はやめましょう。
うん、寝ましょう。
お休みなさい。
透明じゃないよ
やってからねる
南さんも脛曲がったらしいよ
ほら、足長西洋人って、正座が苦手じゃん。
逆立ちでもする?
ほんとは痛くないのかも。
足痛くない?
ああまさに座ってんなコレ
とおもいましたが
そういうのがいいの?みんな
意識かな?
透明は絶大ですね なるほど
確かに苦はありますけど
考えぬいたらなんか変わるのか?
気分しだいでもあるっていう意見
別に仏教やる前から普通の人はそう思ってる
汚れてないしね。
透明は、どの色からも邪魔されないよ。
なぜ
薪は薪。
アイデンティティー見失うかもだしな
慣れれば、フランス語の方が、話しやすいらしいね。
国民性や文化の違いもあるかもね。
恥ずかしいから外国語使わないから
必然と上達しない
ってか、どす白いとは、言わないのは何故?
グレーってとこでしょ。
中道なんだから。
本当って、正しいこと?
凄いね
なんで日本人は英語苦手なん?
フィクションの中から、ノンフィクションを観るしかないんじゃない?
リアリテーの定義かぁ。
何だろね。。
とかって話じゃない?
なんか、持たせた、ってとこがいかがなものかな感じだな。
私は「自分的に本当だと思えること」とか
南さん的にいえば「自分に刺さるもの」とか
そんな感じで使ってる。
ってこと?
っていうこと?
不眠や、空腹とか
も含まれますか?
宗教はフィクションじゃない、って話はないの?
でも「正法眼蔵を読む」みたいな本がいくつもあるってことは、その内容についてはいろんな考え方があるんでしょ。それはフィクションでしょ。
そもそも公案てなに?
それそのもの、じゃなくて南さんの見解でしょ?
フィクションじゃないよね。
現成公案って、何?
現実では図々しくお話いただくのは難しい
諸々めげずに頑張ってください
異次元から応援してます
自分を宗教的素材として扱ってるのかな?
まあいいや。
フィクションでしょー?
だって、扱う素材が宗教だよ?
ノンフィクション作家じゃないの!
フィクションに、拘り過ぎじゃない?
地震の例えでいうと、
いくらフィクションで語っても、被災者にとってのリアルには、到底及ばないんじゃない?
フィクションとしてのリアリティしかねえんだよ
っていうのが南さんってわけ、かな?
でも、だったらなんだっていうのかしら?みたいな。
何にリアリティを感じるかってなるとそれはフィクションなんじゃないのかしら?
「釈尊の深さにはとうてい及ばない」
あかんわろてまう
「生きることは苦でない」って人は、自分はそれでいいのかもしれないけど、他者への言葉としては、全然、刺さらないんだよね。
釈尊があえて、
「生きることは苦である」と、言われたことの深さには、到底及ばない。
輪廻あっての○○っていうか
それ抜きに考えるなんて考えたことのない人だっているよ。
ヤでもなんでもそれはしょうがない。
あーあ。
輪廻が無駄じゃない人がいる限り、永遠に続きそ。
あーヤダわ。
そんなのあったっけ?
リアリテーのない輪廻以降から、消えてるよ。
このごろはちょくちょく消えてるよね。
リアリティのあるコメント欄てわけだな
地獄とか天人とかね。
三善道とか三悪道とか、言われてるみたいだね。
つまり「道」のこと?
これも、「今」そう思うだけの関係であって、将来的に何の保証もなく、アテにもならないことだよね。
ただ、縁起で繋がってるだけのことかもしれないし、利害関係ともいえそうだし、微妙で曖昧な表現かもね。
私は、仏教がどうとか、人のなりをした畜生がどうとか、無駄とか、やれやれって思うぐらいかな。
愚かな人間の喩えじゃないの?
「死んだらすべて終わり(輪廻の否定)、しかも生きることは苦ではない。
従って、生きることを全うする。」
と主張してる人物が実際いる。
論理的には、矛盾してない考え方だろう。<
そもそも、輪廻の否定って、
「死んだら全て終わり」ってことなの?
そこのとこにも、疑問を感じるんだよなぁ。
また輪廻かよ。
養殖の鯛とかハマチとかは、たぶん畜生じゃないよね?
イルカクジラシャチのたぐいも違う感じ。
畜生って、何?
自分は、この10年一度も風邪をひいてない、と言った。
嘘つけ!アンタ去年、風邪で寝込んでたろ!
その坊さんはどういうわけで悩み相談をうける羽目になってるんだろう?
そそのかし、は罪になるから。
お坊さん、なんだ~
「はやく人間になりたぁ~い」
っていうアニメあったよね。
妖怪人間ベムだったかな。
「相手がどうのこうのと、なんで悩む暇があるの?」
言い訳でも重ねようものなら、
「自分が変われば良い。」と。
甘くは無く、恐ろしい速度の返球があり、そこに、会話のラリーも、へったくれも無いらしい。
「死にたい」と言えば、
笑顔で「ちょうど坊主も居るし、今すぐ死んで良い」と。
サイヤ人もビックリらしい。
ブログに出てた。
で、自死した人から生前に、死にたいと打ち明けられたそうだけど、その「選択」を尊重するって言ってた。
何に出てたの?
M氏以下抜粋。
>『自殺を止めるか止めないか』なんて、大して意味のないことだと思う
問題は、ちゃんと向き合って話が聞けたかどうか
その選択がなんの曇りもないものだと納得するかどうか
『自殺を悪い事かどうか』は、憲法で保証する『宗教・信条の自由』にも関わってくる問題なので、
一人の感情的な意見を(人情だとか愛情だとか)基盤に置いて論じることは、『机上の空論』であり、『論じるための論議』だと私は思う…
『死ぬ権利』は誰にあるのかと<
誰にとっての意味を聞いてるの?
死ぬ権利は誰にあるのか?
だってよ。
鯉のぼりも、風に左右されて、泳いでるんだよね。
フィクションの批評で言ってそうじゃない?
つまり、餓鬼の日?
枠決めて編集して一本だよ?
逆になったかも。
「リアリティ」って「フィクション」みたいなもん?
のほうがいいのかな
体に害が及ぶんじゃ意味ないでしょ。
要るもの要らないもの、整理しないとね。
虫を増やしてもね。。
虫が湧いても。
自然発火しちゃうとか、虫沸いちゃう、とか。
人に成ってなくても、成人っておかしいよね。
げんなり。
欲しいものといるものは別
なんてのも、ありがちだよな。
「言葉」は、
色や柄も似合わないし
なにより「今それってことはないでしょー?」ってものだったり
それでもブランドとか値段とかで捨てられない
なんてありがちだと思う。
「言葉」も。
「フィクション」なのかなって思うけどね。
「言葉」だって似たようなもんだと思ったり。
身はひとつしかないのに
たくさんのブランドの服
着ていく場所もないのに
会う友達もいないのに
使わずにおいてい る
邪魔なんだけど
説得しても聞かない
そのうちに
人の距離感が近すぎて絡まれるようになる
話が通じない人っていますよね
どの宗派もおなじだから
辛いならとにかく仏様においのりしなさい
って意味不明なことを言ってたので
儒教みたいな仏教本のせいではないかとおもいました
それぞれの苦に対して悟りに導いて救った
大乗と雖も救われる側に悟りがなければ、ただのおねだり人のままで救われることはないでしょうね
人身(にんじん)受(う)け難(がた)し、いますでに受(う)く。仏法(ぶっぽう)聞(き)き難(がた)し、いますでに聞(き)く。此(こ)の身(み)今生(こんじょう)において度(ど)せずんば、さらにいずれの生(しょう)においてかこの身(み)を度(ど)せん。大衆(だいしゅう)もろともに、至(し)心(しん)に三宝(さんぼう)に帰依(きえ)し奉(たてまつ)るべし。
これをじっくり味わうことでしょう
人に生まれても人にならなければ、ただの畜生ですわ
居るでしょ、人のように見える畜生
そこから・・・・でしょう
南さんのような真摯な方が世の中にふえたらよいですね
師匠がいない孤独が似てるきがします
期待してますから大丈夫ですよ
南さんの問題が、変わってるかもしれないよね。
ん、もしや!
近日、出版予定とか!
後は、読んでのお楽しみとか!
だから、ブログに問題を書かれないのかなぁ。
いや、対話しよう!
という事かもね。
浅野さんは、今もやはり南さんにとって「死とは何か」「私とは何か」は問題だと思いますか?
いろいろね。
束縛はやだね。
安心した!
縛っちゃやーよ!
精神科医・春日武彦氏から、、。
僕が、南さんの、自己とは?存在とは?から創られる文脈によって、自己ってそういう存在なんだ、て共感し、理解したんですよ。
「死」や「私」を通して実感を得るというアプローチ
ということでしょうか?
自己を縛っていたのだと思う
高尚な耽美主義とはちがって
書き手の生をきょうゆうするものと
じぶんは考える
南さんは他者とのかかわりによって
それをしているような?
だから自己のワクを狭めず
視点をすこしずらせばいいだけのことでは
南さんの言葉は、インパクト大なので、精神分析でいう、暴露療法的なものがあるので、精神が健全で、相対的に考えられる余力がないと、ある意味危ない。僕は囚われていたかな、。
私も嫌かも。
でも私の好みだもんね。
同じ人を「いい」って言う人もいるから。
選ばれているのかもしれない、というふうに思うことはない、と。
先延ばしは、もうやめだ。ってとこに至ってたんですね。
(おっしゃる通りなので何を書こうかと考えていたら)
そういえば、恐山、5月から開山でした。
災害続きからの半年、お忙しいでしょうが
お寺の皆さまとも、お元気に過ごされますように。
自分も、軽い5月病状態から気持ちを新たにしました。
記事の主旨からは外れますが、今回連想したのは
自分の場合、深くコミットしている分野に関しては
大袈裟な言葉を使えば
その分野に対する敬意や覚悟、礼儀を欠いた人と
対話するのが生理的に嫌で
コミットを深めるほど結果的に人を選ぶようになって
いったことでした。
自分も、記事の後半のように考え
行動していたつもりだったのですが
高い最低ラインを厳しく求めすぎたのか
幅広い相手と協力関係を築けなかったようです。
その分野で成功すれば通用する場合もある態度でしょうが
・・・おいおい考えます。
あ、失礼しました。
それが動いてるんじゃない?
なぜ、四角じゃないんだろうね。
惑星って、大体丸いみたいね。
気が向いた方で南さんが抱える問題とそれに対するアプローチを知ってる方がいたら教えて。
でも、南さんの「つもり」なんか知らない人もいるのよね。その人達にとっても南さんの「つもり」は関係あるのか?
地球は丸いのでとか、空間が曲がってるのでとか。
菩薩には彼岸に渡す能力はあるの?
渡した先は確かに彼岸なの?
彼岸という方便の地じゃなくて?
相手に感じてもらいたい、のね。
なるほど。
でも、本人も片付いてないのに?
全てとの一体感なんていうロマンチシズム?
気づいてないこととも関係ある
と、なんだってんだろう?
で、地球は動いてるの?
(ρ;△;)
誰かが、地動説で言ってたから。
丸いのも、写真やTVで観たから。
何にもなければ、わかんないよね。
それに〇〇本、多すぎ!もう!ノーって感じ。お腹いっぱい。
「運がよくなる仏教の教え」という本を、書店で見かけたけど。。
欽ちゃんと曹洞宗の千葉さんの対談本みたい。
何か、刺さんない感じww
どこいくの?
「気づいてないこと」なの?
英語だけ話せるバカが世界中で恥をさらさない様に国語や歴史をしっかり教えろって。。
よくわからないけど。
またそれに偏りがあるとの事だが、どんな偏りなのか知りたい。
って
なんのこと?
気づいていないだけで。
といえるってことは
関係あるんだよ実際のところ
できることか。。
何だろ。掃除かな。
出来ることを、やるだけ。
倒れないように。
まだ話したことないの?
何が起きるかわからないからね。
阿蘇山、今は噴火しないで!
説教も、鑑賞もしなくていい強制されていない。
古来より崇高な意識を改革するため儀式が必要な衆生もいるのです。
ただ、他の方が言われているのは、邪道であるゆえの華々しさや益を疑問視されているのではないかとおもうんですが、
邪道であること自体を批判されているのとは違うし、受け入れられています。
確かに儀式や邪道をいやがる大物さんもいますから、衆生は何をきいていいか迷ってしまいますよね。
単純に表現の問題なのではないかとおもってしまいました。
そうそう。
何となく思っていたことを、南さんは、的確に言葉にする。
してくれる。
私もこの”切なさ”を持っていても良いんだと思って、たいそう安心しました^-^
それらの”切なさ”は今まで、云わば、誰もテーブルにも乗せてくれなかった様な状態だったので、
たとえば、”課せられた生”などという言葉を聞いた時、やっと生きた心地がして、助かったと思いました。
修行、修行。
あまり余計なことは考えないよにしよっと。
全てとの一体感とかそんなロマンチックなもんで済むかよ
というときのロマンチック、ロマンってなんだろ
文学にロマン主義ってあったっけ?
南さんが、プレイボーイじゃなくて、ホントによかったね。
その言葉で、落とされたり、泣かされたりしたら、世の女性は、たまったもんじゃありません!
スッキリです!!!
私も好きですよ。影踏みみたいで。
やっぱり、、
言葉なんだろうな、という思いが湧いてきます。
別の日にまた何か書く。
それが「こーゆーつもり」を体現しているかどうかはまた別、というのが面白いのよね。
自分の視点と他人の視点、とかいうより、「つもり」と「やっていること」が重なってないことがままある、って面白いよね。
言葉ってそんなものよねっていうか。
和尚さんに確固としたメインテーマがある限り、他のことは余計な領域ですよね。
私の問題が、和尚さんの問題でもあり、
和尚さんの問題が、私の問題であることが、救いに繋がるように思いました。
衆生に寄り添う姿勢は、お坊さんのあるべき姿ではないでしょうか。
素晴らしいと思います。
>あの世の有り難いお話で聴衆を安心させて、見事な儀礼パフォーマンスで気分を盛り上げ、高度な仏像鑑賞に薀蓄を披露して、ボランティアの先頭に立たないと、まともな坊さんと言えないのか?
南さんが、このような和尚さんでなく、真剣に、問題に目を向けられてるいことが、何より有り難いです。
対話という程のものになるのかも不安で。
構えてしまいそうな自分がいる。
素直に。愚直に。
私は今まで随分、南さんの言葉に救われてます。いつか直接お話し出来たらなあ、と思います。
ある存在の場を開き、相手に通じる、効く言葉しか道具として使えない、とは、そこには自己も他者も存在しない場が開いていると思うんです。
それは、一人ではない、ということを露わにしていると思います。(おばちゃん達は日ごろ井戸端会議である存在の場を開いている?)。
すくわれております!