いまジャーナリストとして

 いま私たちの目の前に、次々と現れるニュースをどうとらえ、どう判断するか・・・ジャーナリストの日誌。

時代閉塞の現状(1)・・・明日はきょうよりいいという思いを持てるか。野田首相への期待。

2011年08月29日 18時05分52秒 | 日記

 民主党の代表に野田佳彦氏が選ばれました。


国会の手続きを経て、そのまま、日本の首相に就任します。
いまは、だれが首相になっても厳しい環境にあります。

日本だけではありません。
アメリカでは、あんなに期待を背負って就任したオバマ大統領が
アメリカ経済の低迷に有効な手を打てず、苦戦しています。
欧州では、ギリシャの財政破たんを契機に、域内各国の財政的な
危うさが一斉に表面化しました。
イギリスでは各地で暴動が発生し、政府が対応に苦しんでいます。

明治の時代に、石川啄木は、「時代閉塞の現状」という痛切な社会
評論を書いています。


21世紀の私たちもまた、
「時代閉塞の現状」
 に直面しているのではないでしょうか。

 このブログで、私たちの直面する「時代閉塞の現状」を何回かに
分けて、考えてみたいと思います。
 重い重いテーマですが、重い文章にならないよう、前向きに考え
て書いてみたいと思います。

 時代閉塞の現状というばあい、まず、日本と日本人が直面する閉
塞感があります。次に、世界の国々を覆う閉塞状況があります。そ
して、さらには、私たち人類、あるいは地球が直面するレベルでの
「時代閉塞の現状」があります。

 まず、日本の時代閉塞の現状から考えてみましょう。

 私たちはいま、日本に暮らしていて、どうにも気分の晴れない感
じがするのです。それが時代閉塞の現状ということです。
 気分が晴れない感じのする原因は、ひとつひとつ挙げていくと、
きっとたくさんあるでしょう。
 でも、そうした原因を、ひっくるめていうと、それはきっと
 「明日はきょうよりいい」
 という思いを持てないことです。
 「明日はきょうより悪くなっているんじゃないか」
 「明日は、もっと景気が悪くなっているんじゃないか」
 そう感じるのです。
 そう感じると、私たちは、生活防衛に入ります。
 給料が出ても、給料が上がっても、アルバイト料が出ても、子ど
も手当(今度なくなりますが)が出ても、どんな臨時収入が入って
きても、それを使わずに、貯金しようと思います。
 すると、デパートや商店街では、モノが売れなくなります。

 経済学的にいうと、需要が減少して、経済が縮小する負のスパイ
ラルに入るのです。
 資本主義経済において、需要の拡大こそが経済を活性化するとい
うことを理論として確立したのはイギリスの経済学者・ケインズ
です。
 逆に、需要が減少すると、経済は縮小に向かいます。

 日本が元気だったのは、1960年代、70年代、80年代です。
 とくに60年代、70年代は、高度成長期で、日本が本当に元気
なころでした。
 当時の日本人は、みな、
「明日はきょうよりいい」
「明日はきょうよりいいに違いない」
 という素朴な信念を持っていました。

 給料は毎年必ず上がり、給料が上がるたびに、家の中に洗濯機が
入り、冷蔵庫が入り、テレビが入る。
 自動車も買えるし、エアコンも買える。
 「明日はきょうよりいい」ということが、身の回りのモノではっ
きりと確認できたのです。

 経済が成長するから、企業はいつも労働力を求めており、いまと
違って、働こうと思えばいつでも働けました。
 失業率は1%台です。
 信用調査の帝国データバンクのベテラン調査員の話を聞いたこと
があります。
 「1960年代、70年代というのは、倒産しそうな企業に調査
に行っても、従業員は昼休みになるとのんきにキャッチボールなん
かやってましてね。いまの会社が倒産しても、次に働く会社はすぐ
に見つかるという状況でしたから、悲壮感がないんですよ」。

 いまとは大違いです。
 
 私たち日本人は、いつごろから、「明日はきょうよりいい」とは思
えなくなったのでしょうか。
 たぶん、90年代に入り、バブルが崩壊してからですね。
 90年代の「失われた10年」というのは、朝、目をさましてみ
ると、どこかで銀行が倒産しているという状況でした。
 2000年代に入っても、状況はそんなには変わりません。
 そうこうするうちに、今年、2011年には、日本は経済規模で
中国に抜かれたというニュースが飛び込んできたりしました。

 70年代、80年代というのは、経済成長で、すべてが覆い尽く
された時代でした。少々のことがあっても、日本経済の経済成長で
すべてがカバーされるという時代でした。
 経済成長によって、多くの人が「明日はきょうよりいい」という
思いを持てた時代でした。

 いま、そんなことはもう、望むべくもありません。
 では、どうすればいいのでしょうか。
 こういうとき、政治は、どうすればいいのでしょうか。
 こういときに、政治に求められることはどんなことでしょう。

 大きなヒントになるのが、1990年代にイギリスの首相になっ
たブレア氏です。ブレア首相は、その就任演説で、国民に深い感銘
を与えました。


 なんといったか?
 こういったのです。

      ********  
 イギリスは、かつて、大英帝国と呼ばれ、世界中に領土を持って、
日の沈むことのない国といわれていました。
 いまは、そんなことは、望むべくもありません。
 イギリスがかつての大英帝国と呼ばれたような力を持つことは、
これから、できるかというと、それは不可能です。
 もう、そんな大国を再現することはできないし、また、目指すべ
きではありません。
 われわれが目指すのは、世界の人が、イギリスっていいなあ、イ
ギリスに行ってみたいなあと思うような、そんな国です。
 かつての大英帝国のような国は、もう、目指すことはできません。
しかし、世界中の人が、イギリスはいい、イギリスに行って
みたいと思うような国を目指すことはできるのです。
 私たちは、そういう国を目指したいと思います。
     ********
 
 これは素晴らしいスピーチでした。
 大英帝国と呼ばれた大国を目指すことはできないが、世界のだれ
もがイギリスに行ってみたいと思うような国を目指そう。
 これは、国民も、感動します。
 
 政治に必要なのは、こういうことです。
 こうやって国民を奮い立たせるのは、政治の重要な役割なのです。
 このスピーチなら、「明日はきょうより良くしよう」と思います。

 翻って、菅直人氏は、首相に就任したときに、どんなスピーチを
したでしょうか。菅氏は「私は、日本で、最少不幸社会を目指した
い」と述べました。
 「最少不幸社会」って、なんですか。
 最少不幸社会を目指そうといわれて、「明日はきょうよりいい」と
思う国民はいないでしょう。
 ブレア首相のしみじみしたスピーチに比べると、なんだか、がっ
かりしますね。

 野田佳彦・新首相には、せめて、ブレア首相のようなスピーチを
してもらいたい。
 こまかいことはいいのです。
 私たちが
「いいこと言うじゃないか」
「なるほど、明日がきょうより良くなるよう、ちょっとやってみ
 ようか」
 と思えるようなスピーチをしてほしいのです。

 たとえば、こうです。

 「なるほど、日本は、経済規模で中国に抜かれたかもしれません。
これから先、かつてのような高度経済成長を実現するのは無理かも
しれません。
 しかし、世界の人が、ああ日本はいいなあ、日本に行ってみたい
なあと、そう思うような国にすることはできます。
 世界から、日本はいいなあと思われるような国を目指したい」
 
 国民が夢を持てるようなスピーチをしてほしいと思います。
 「明日はきょうよりいい」と思えるような考えを示してもらいたい。

 「時代閉塞の現状」を打破するのは、そこから始まります。



企業の愛国心・・・円高で海外に出て行く企業には、愛国心というものはないのでしょうか。

2011年08月26日 03時17分45秒 | 日記


 新聞の投書欄に、痛快な投書が載っていました。
 「企業には愛国心はないのか?」
 というものです。

 その通りですね。

 円高と電力不足で、日本企業が、生産拠点をどんどん海
外に移そうとしている。
 その結果、日本経済は空洞化し、日本は将来の展望も描
けなくなる。
 企業、そして、企業経営者には、愛国心はないのか。
 というわけです。

 その通りです。

 自民党と文部省は、学校に、「愛国心教育」というもの
を導入しようとしてきました。
 東京都知事は、愛国心を盛んにあおります。
 各界の著名人も、愛国心を口にします。
 財界人もそうです。

 君が代、日の丸も、愛国心と同じ土俵にあります。

 この場合、「愛国心」を求められているのは、私たちひ
とり一人の日本人です。
 
 そして、私たちひとり一人の日本人は、そう簡単には、
日本を離れるわけにはいかないのです。留学する人はいま
す。でも、留学が終われば日本に帰ってきます。海外の駐
在員で出る人も、やはり、任期が終われば帰ってきます。

 私たち個人個人は、この生まれ育った日本という国から、
離れるわけにはいかないのです。

 「愛国心」は、そしてまた「君が代」「日の丸」は、日
本から離れることの出来ないひとり一人の日本人に対して
要求されるのです。

 ところが、日本企業は、そんなことはおかまいなしに、
どんどん日本から海外に脱出していきます。
 この円高と電力不足では、もう日本にいられないという
わけです。

 経済学的には、それで間違っていません。
 しかし、今回は、あえて、「愛国心」を問います。

 企業には、企業経営者には、「愛国心」はないのでしょ
うか。

 円高と電力不足で困っているのは、なにも、企業だけで
はありません。
 ひとり一人の日本人だって、円高と電力不足で困ってい
るのです。
 しかし、ひとり一人の日本人は、だからといって、海外
に脱出できるわけではありません。日本で暮らすしかない
のです。
 そのひとり一人の日本人を残し、企業は勝手に海外に出
て行ってしまう。
 
企業には、愛国心はないのか。
 本当にそう思います。

 そうやって日本から脱出した企業の経営者が、
 「愛国心は大事です」
 というとすれば、それは大笑いでしょう。

 日本企業がどんどん海外に出て行ってしまうのは、政府
の無策のせいでもあります。中国に、これだけ生産拠点を
移してしまって、なにかあったらどうするのでしょう。
 中国に新幹線の技術を供与するとき、政府は、何をして
いたのでしょう。

 そうやって、企業が海外に出て行くのを、政府は何もせ
ずに見ていた。
 その政府が、「愛国心教育」をするというのは、これも
また大笑いです。

 日本から出て行けず、日本に残っているひとり一人の日
本人に、「愛国心」を教育しようとする。
 無節操に日本から出て行く企業と企業経営者には、何も
いわない。
 日本に残るひとり一人の日本人と、無節操に海外に出て
行く企業と経営者、それを引き留めようとしない政府と、
いったい、どちらに愛国心があるのでしょう。
 
企業は、経済原則とか、企業経営とか、そんなことばか
り考えず、少しは、愛国心を持ったらどうでしょう。
 政府は、企業と企業経営者に対して、ちょっとは愛国心
教育をしたらどうでしょう。
 東京に本社を持つ企業はたくさんあるのですから、東京
都教育委員会は、東京にいる企業に愛国心を教えたらどう
ですか。だいたい、東京にいる企業で、君が代を歌ってい
る企業なんて、聞いたことがないですよ。それを学校だけ
に強制するというのはちょっと変でしょう。

 企業と政府は、大きな顔をしてはいけません。
 東京都教育委員会もね。



勇気を与える?・・・この言葉は、本当に変です。再び、その理由を考えます。

2011年08月23日 12時11分50秒 | 日記

 このブログを読んでいただいた方からの反響が一番大き
いのは、
「勇気を与えるという表現は、ちょっとおかしいのではな
いか」
 という話です。

 コンスタントにコメントをいただきます。
 「勇気 与える スポーツ」というキーワードで検索し
たらこのブログに着きましたという方もいらっしゃいます。
 読んでいただいて、ありがとうございます。
 
 「勇気を与える」「感動を与える」という言い方がおか
しいと思っている方が大勢いて、心強いことです。

この夏の甲子園の高校野球が気になっていました。
 今年は、震災からの復興というテーマがあったので「被
災地への勇気」うんぬんという言い方が増えると思ってい
ました。
 その際、せめて、被災地を「勇気づける」と言ってくれ
たらいいんだけれどと、思っていました。

 開会式のリハーサルを見ていると、選手宣誓の練習で
「日本に勇気を与えるようなプレーを」と言っていました。

 またかと思い、開会式の当日は、この選手宣誓はあえて、
見ませんでした。
 しかし、やはり気になって、後日、新聞で選手宣誓の部
分を読んでみると、「絆と勇気を届けられるように」とな
っていました。
 実際の宣誓で何と言ったのかはチェックしていません。
しかし、新聞に載った宣誓の文章が「勇気を届けられるよ
うに」となっているのであれば、宣誓の文面が、リハーサ
ルのときの「勇気を与える」から、「勇気を届ける」に変
更されたということなのでしょう。
 ということは、大会の関係者にも「勇気を与えるは変だ」
と思っている人がいたということですね。
 それならよかったと思います。

 勇気を与えるという言い方が、なぜ変なのでしょう。

 まず第一に、「与える」という言い方が傲慢だから
です。上から目線というやつですね。

 私の実家は神戸にあって、阪神大震災で被災しました。
震災後、神戸には、「がんばって」という言葉を聞きたく
ないという人が少なくなかったのです。神戸の人は「こん
なにがんばっているのに、もっとがんばれというのですか」
というのが率直な心情だったと思います。

 では、そういうとき、「がんばれ」の代わりに何と言え
ばいいのか、これが難しいのです。適当な言葉がなかなか
見つかりません。
 「がんばって」でもそうですから、「勇気を与える」と
いうのは、なおさらです。

 あのときスポーツ選手が「神戸の人に勇気を与えたい」
言ったら、神戸の人は、怒ったのではないでしょうか。
 「勇気を与えるって、なによ」
 「外から、なに、勝手なことをいってるのよ」
 「いまもう、こんなにがんばっているんだから、別に、
あなたから、勇気を与えてもらわなくても結構です」
 という感じになってしまったと思います。

 第二に、スポーツ選手は、なにも、実際には「勇気を
与えよう」と思ってプレーするわけではないでしょう。

 スポーツ選手は、勝つためにプレーするのです。あるい
は、日本記録、世界記録を出すためにプレーするのです。
 そんな高いレベルの話ではなく、私たちのふつうのスポ
ーツ、たとえば、草野球とか週末のゴルフとか、スキーと
か、そういうスポーツは楽しむためにやるものです。

 今年の甲子園でも、素晴らしいプレーがたくさんありま
した。能代商の外野手は、如水館との試合で、2回も続け
て見事なバックホームをし、さよならのランナーの生還を
阻止しました。では、能代商の外野手が「勇気を与えよう
と、必死でバックホームしました」と答えるかというと、
そんなことはありえません。きっと彼は、「ランナーを刺
そうと、必死でホームに投げました」と答えるでしょう。

 練習はウソをつかないといいますが、あのとき彼は、練
習を積み重ねてきた成果として、体が自然に反応したので
す。
 そして、見事なバックホームが出ました。
 アウト!
 あれは信じられないようなバックホームでした。
 私たちは、それを見て感動するのです。
 私たちは、練習の成果であるバックホームを見て感動す
るのであって、勇気を与えようと投げるバックホームを見
て感動するのではありません。

 ただし、あのバックホームを見て、「勇気づけられた」
という人は少なくないと思います。
 絶体絶命、どう見ても、さよなら負けだろうという場面
で、素晴らしいバックホームが出て、危機をしのいだので
す。このプレーを見て、「やっぱり、あきらめずにやれば、
なんとかなるものなんだなあ」と思った人はいたでしょう。

 そうなんです。
 私たちは、スポーツ選手が一生懸命プレーする姿に、結
果として、勇気づけられるのです。

 女子サッカーのなでしこジャパンだって、なにも
「日本に勇気を与えよう」と思ってシュートしたわけでは
ないでしょう。
 あれは、ドイツに勝ちたい、アメリカに勝ちたい、
優勝したい、そう思ってシュートし、ディフェンスした
のです。
 その必死の姿を見て、私たちは、結果として、勇気づけら
れたのです。
 勇気を与えたいと思ってプレーする姿を見て勇気づけられ
たのではありません。
 勝ちたいと思って必死にプレーする様子を見て勇気づけら
れたのです。

 勇気づけられるかどうかは、プレーを見た人の受け止め
方の問題なのです。
 スポーツ選手は、自分から
 「人々に勇気を与えるプレーをしたい」
 「感動を与えるようなプレーをしたい」
 などというべきではないのです。
 言った瞬間に、それはウソになります。




円高と外国為替市場・・・外為には取引所はありません。テレビが誤解を生みます。

2011年08月22日 14時02分24秒 | 日記

しばらく東京を離れておりました。戻って来ましたので、
また、どうぞ、よろしくお願いします。

さて、円高です。
連日の円高で、テレビのニュースでも、毎日大きく取り
上げられています。その映像で、非常にミスリーディング
というか、視聴者を間違わせやすいものが使われます。
今回は、円高の本筋の話ではなく、円高のニュースの映
像の話を書きます。

知っている人にとってはあまりに当たり前すぎて、気に
もしないけれど、知らない人は何にも知らずに大変な誤解を
しているという話があります。
通貨を取り引きする外国為替市場がその例です。

 ある記者が香港に行き、外国為替市場を取材して、原
稿を書きました。
 それを読んだ関係者が「君は、香港に行ったけれど、外
国為替市場を取材しなかっただろう」と怒るのです。
 原稿を書いた記者は、外国為替市場の原稿を出したわけ
ですから、いったい何を怒られているのか分からず、「え?
どうしてですか。その原稿は外為市場を取材して書いた原
稿ですが」と答えました。
 すると関係者は「だけど君、君の原稿には、香港の外為
市場の様子が全然出てこないじゃないか。香港のどんな場
所にあるとか、大きいビルだとか、どんな人が働いている
とか、そんな話が全然書いてないじゃないか」と言うので
す。
 ここで、記者は、はっと気がつきました。
 「あの・・・、外為市場というのは、取引所とか、取り
引きする建物はありません。なにか、勘違いされていませ
んでしょうか?」
 すると関係者は、びっくり仰天して「え、君は何を言っ
ているんだ。テレビのニュースで、いつも、テーブルを囲
んで取り引きをする様子が出ているじゃないか。あれは取
引所じゃないのか?」と言いました。

 そうなんです。大きなテーブルを囲んで何人かの人間が
座り、何かを書きつけたメモをテーブルの上で投げて滑ら
せ、忙しそうにやりとりしている映像が、テレビの円高の
映像で必ず流れます。
 この関係者は、それが外為の取引所だと思っていたんで
すね。
 実は、よく見るこの映像は、外国為替を専門に扱う取引
業者の社内を映したものです。
 あくまでも、取引業者の社内の様子であって、外国為替
の取引所なんかではありません。

 これは、私が実際に見た実話です。
 でも、同じような笑い話は、多いのです 

 外国為替の取引所というものは、本当に存在しないので
す。日本にも、ニューヨークにも、ロンドンにも、香港にも、
どこにも、そんなものはありません。

では、どうやって取り引きするのでしょう。

取り引きをする人(ディーラーなりトレーダーなりと言
います)同士が電話で取り引きするのです。正確にいえば、
かつては電話も使っていましたが、いまは、パソコンとネ
ットです。
ディーラーが、自分の席にあるパソコンとネットを使い、
世界各国のディーラーとやりとりをするのです。
 ディーラーのパソコンの画面を見ていると、
 取り引きを申し込んできた相手方から、
 「HI, PAL    HOW ARE YOU DOING?」
  というようなメールが画面に出ます。
  「やあ、どうしてる?」
 というような意味です。
 これを見て、ドルを76円60銭で買いたいんだけれど、
どう?というような返事を出し、取り引きが始まるわけで
す。
 当然、相手の顔なんか、なにも見えません。

 テレビによっては、円高のニュースをやるときに、そう
いうパソコンがずらっと並んでいる大手銀行の部屋(ディ
ーリング・ルーム)の映像を流すときもあります。実態と
しては、むしろ、こちらのほうが、外為市場の実際に近い
と思います。
大手銀行の外為扱い高は圧倒的に多いのです。いまのテ
レビの映像でよく見る外為専門業者の扱い高とは、ケタが
三つも四つも違うのではないでしょうか。

ただ、大きなテーブルを囲んでやりとりする外為専門業
者の様子のほうが、いかにも、「外為市場」というイメー
ジがあるのです。
大手銀行のディーリング・ルームは、数多くのパソコン
が並んでいて、その前に大勢の人がいるという映像になる
ので、ふつうの大手企業というようなイメージになってしま
うのですね。
だから、テレビ局は、テーブルを囲んでやりとりする専
門業者の映像を流したがるのです。

 銀行のディーリング・ルームの映像を映しても、それだけ
ではなんのことかわかりません。
 そこで、テーブルを囲む専門業者の映像をつい流したく
なるのですが、しかし、その映像は、外国為替市場に、取引
所があるかのような誤解を与えてしまうのです。

 株には東京証券取引所やニューヨーク証券取引所のよ
うな取引所があります。
 しかし、外国為替は、そういう取引所がないのです。
 外国為替市場というのは、パソコンとネット上で存在す
る市場です。





アメリカの国債の評価引き下げをどう考えればいいのでしょうか。その2です。

2011年08月09日 12時03分16秒 | 日記

 S&P(スタンダード・アンド・プアーズ)がアメリカの
国債を、AAAからAA+へ、一段階、格下げした話の続き
です。

 S&Pというたったひとつの私企業による評価で、アメ
リカという超大国の信用が揺らぐというのは、本当に変な
話です。
 S&Pのほうが、アメリカという国より偉いのか?という話
になります。これからアメリカは、なにをするにもS&Pの
顔色をうかがっていかなくれはならないのか、という話にも
なります。
 たったひとつの私企業の行動によって、アメリカが、そして
世界中が振り回されるなんて、おかしな話です。

 私たちの町内に格付け屋さんがいて、町に住んでいる人の
格付けを、頼まれもしないのに、勝手にしているとしましょう。
 その格付け屋さんが、ある日突然、ピンポーンと玄関のチャイム
を鳴らして、
 「あなたの家の格付けを、きょう下げましたからね」
と言ってきたら、どうしますか。
 けんかになりますよ。

 S&Pの格付けは、そういう話です。

 リーマンショックの引き金となったのはアメリカのサブ
プライムローンですが、S&Pは、あの危険なサブプライム
ローンを出している会社の格付けを「問題なし」としていて、
大きな問題になりました。
 S&P自身の信用はどうなの? ということです。

 本当におかしい。

 しかしながら、この問題は、もう少し唯物論的に考える
必要があるのだろうと思います。

 S&Pはアメリカの国債の評価を史上初めて引き下げた
わけですが、しかし、仮に今回、S&Pがそうしていなくても、
いずれ、別の企業や組織、だれかが、アメリカ国債の評価を引
き下げただろうと思います。

 格付け会社としては、S&Pとムーディズが2大勢力で
す。それに続くのが、フィッチです。このうちムーディー
ズとフィッチは、先にアメリカの国債の評価を変更せず、
最上級(AAA)に置いたままとして、発表しました。いま
ごろ、しまった、評価を下げておけばよかったと後悔して
いるかもしれません。

 今回、S&Pが評価を引き下げなくても、次回、ムーディズ
やフィッチが、評価を引き下げたかもしれません。

 格付け会社だけが引き金になるのではありません。
 格付けがAAAのままだったとしても、外国為替市場で、
ある日、影響力のあるディーラーが「アメリカの信用は低下
した」とみてドル売りに走れば、ほかのディーラーもそれに
続くでしょう。

 あるいは、ニューヨーク株式市場で、有力な投資家が
「アメリカはもう売りだ」と考えて、株を売り始めたら、
それを見た多くの投資家が一斉に株を売るかもしれません。

 そうなんです。
 今回、S&Pの動きがなくても、似たような動きが、為
替市場や株式市場をはじめ、あちこちで起きていたかもしれ
ません。
 そうなれば、S&Pによる評価の引き下げがなくても、
世界経済は動揺に見舞われたのです。

 唯物論的に、というのは、そこです。
 今回は、たまたまS&Pがその役割を演じただけで、い
ずれ、「別のS&P」が同じ役割を演じていたのだろうと
思います。

 では、なぜ、そんなことになったのか。
 それはもう、アメリカの経済力、アメリカの政治力、ア
メリカの国力が、かつてに比べて、相対的に低下してきた
からです。
 いまでもアメリカは「超大国」ですが、しかし、かつて
のようなキンキラキンの超大国ではなくなってきた。
 そのことは、みんな知っている。知っているというより、
皮膚感覚として感じている。

 「アメリカの力も落ちてきたねえ」
 「アメリカ経済も、昔に比べて迫力がなくなってきたなあ」
 と、みんな、そう思っている。

 みんなして、心のどこかで、
 「危ないなあ」
 と思っていた。

 みんなが、なんとはなしに不安に思っていたところへ、
たまたま、S&Pがアメリカ国債の評価を引き下げた。
 そういうことです。

 S&Pという、たったひとつの私企業の評価で、アメリカ
の信用がこれほど動揺したのは、そういう理由です。
 
 すでに、アメリカの信用は、かつてほどではなくなって
きていた。
 みんなそう感じていた。
 でも、言わなかった。
 そういう状態で、だれかが
 「アメリカの国債って、このまま無条件に買い続けて
いていいのかなあ? ちょっと危ないんじゃないだろうか」
 と言ったら、ほかのみんなも、
 「ああ、やっぱりそうだったんだ」
 「そう思っていたのは、私だけではなかったんだ」
 と思ったのです。
 それが、今回のS&Pの騒動の背景です。

 原因は、アメリカそのものにあったのです。








アメリカ国債の格下げ・・・どうしてこんなに問題になるのでしょう。ちょっと変ですが。

2011年08月08日 16時47分07秒 | 日記

 格付け会社 S&P(スタンダード・アンド・プアーズ)
がアメリカの国債を、AAAからAA+へ、一段階、格下げ
しました。これで、G7が電話による緊急会議を開きまし
た。各国のメディアも、この問題を大きく取り上げ、ちょ
っとした騒ぎになりました。

 変な話です。
 S&Pというのは、ただの私企業です。ひとつの私企業
がアメリカの国債を格下げしたというので、大騒ぎになる
のですから。
 しかも、これは、アメリカ政府が格付けを依頼したので
はなく、S&Pが勝手にアメリカの国債を評価したもので、
いわゆる「勝手格付け」です。

 S&Pの格付けは、そんなに信用できるものなのでしょ
うか。
 2009年にアメリカのリーマン証券が倒産し、世界の
金融市場にパニックをもたらしました。いわゆるリーマン
ショックです。このとき、リーマン証券がかかわっていた
証券を、S&Pが格付けしていたのですが、その格付けが
AAAになっていたりして、S&Pの格付けは信用できない
というので、話題になりました。

 そんなS&Pが、アメリカの国債の格付けを下げた、し
かも、最上級のAAAからたった一段階下げただけで、ど
うして、こんなに大騒ぎになるのでしょう。
 
 素朴な疑問としては、これはおかしい、ということにな
ります。

 そこで、S&Pの格付け問題を、分析してみましょう。
 



 
 

 







卒業式を9月にするのは風土を無視しています。欧米と日本は、ベストシーズンが違うのです。

2011年08月01日 01時56分39秒 | 日記

 東大が、欧米にあわせ、卒業を9月にすることを検討し
ています。
 背景や意見はいろいろあるでしょうが、ここでは、あえ
て、その愚を指摘します。

 私たちの暮らしの中で、さまざまな行事は、はるか昔か
ら、風土や季節、環境を考えて、自然に定まってきました。

 ジューンブライドという言い方があります。訳せば6月
の花嫁です。結婚式は6月にするのがいい。6月の花嫁は
幸せになるというものです。
 本当でしょうか?
 この言葉は、欧州やアメリカの北東部の言葉です。
 これには、このブログで何度か取り上げた緯度の問題が
絡みます。
 緯度の高い欧州やアメリカ北東部では、6月がベストシ
ーズンなのです。
 
 アメリカ北東部というと代表的な街はボストンです。
 ボストンの冬は厳しく、陰鬱です。
 日本が春を迎える4月になっても、毎日、重苦しい冬の
空が続きます。
 5月でも、まだ冬の感じです。
 それが6月になると、まるで突然のように花が咲き出し、
太陽が顔を出します。
 本当に、魔法のように、いきなり暖かな春がやってきま
す。

 それが、緯度の高い地域の特徴です。

 6月は、長い長い冬から解き放たれが喜びが、街にあふ
れます。
 だから、めでたい結婚式は6月にやるのです。
 だれもが喜びを感じる6月に結婚すれば、みんな、より
いっそう幸せな気分になります。
 それが、ジューンブライドという意味です。

 この「ジューンブライド」を緯度の低い日本に持ってき
たら、いったい、どうなるのでしょうか。
6月の日本は、もちろん、梅雨です。
 雨が降り続き、じめじめした日本の6月に結婚式をやっ
て「ジューンブライド」というのは、ですから、根っこか
ら間違っているのです。

 では、日本のベストシーズンはいつでしょう。
 それは、4月の桜のころ、5月の五月晴れのころ、そし
て、10月の天高く馬肥ゆるの秋晴れのころでしょう。

 日本で入学式を4月にするのは、それがベストシーズン
だからです。
 満開の桜の下で、子供たちが入学式をするというのは最
高でしょう。
 欧州やアメリカ北東部の6月は、日本の4月なのです。

 日本でいつだれが入学式を4月にしたのかは分かりませ
ん。しかし、私たちの祖先たちが、暮らしのなかで、めで
たいことは4月にするのがいいと考えた、いや、考えたと
いうよりは、実感としてそう決めたのでしょう。


 日本の年度が4月に始まり、3月に終わるのも、間違い
なく、同じ理由だと思います。

 欧州の6月は、日本の4月です。
 日本の4月は、欧州の6月です。
 それが、ベストシーズンです。
 緯度が違うから、そうなるのです。

 思い起こしてください。
 2002年に日本と韓国でサッカーのワールドカップが
開かれました。
 6月でした。
日本の6月は梅雨の最中で、あのワールドカップは、よ
く雨が降っていました。蒸し暑い日も多かった。
日本で開くのに、なぜ、わざわざ梅雨の6月したのでし
ょうか。
 それは、サッカー連盟(FIFA)が、欧州にあるから
です。
 もっといえば、サッカーが欧州のスポーツだからです。
 欧州では、6月は、ベストシーズンです。
 私たちは、なにかにつけ、自分の暮らす場所を基準にし
ていろんなことを考えます。 
 だから、FIFAも、欧州を基準に、日本も6月がベス
トシーズンだろうと考えたのです。
それは無理からぬことです。

 では、あのとき、日本はどうするべきだったか。
 日本サッカー連盟は、FIFAに対し、
 「いや、欧州と違って、日本の6月は梅雨の季節です。
雨ばかり降って、ワールドカップにはふさわしくありませ
ん。日本のベストシーズンは、ひとつは、4月と5月です。
だから、日本で開くワールドカップは、4月から5月にか
けてという日程でやる必要があるのです」
 と強くアピールするべきだったのです。

日本のもうひとつのベストシーズンは繰り返しますが、
秋の10月です。
 10月に日本で開かれた歴史的な大会があります。
 1964年の東京五輪です。
 10月10日が開会式で、当日は、もののみごとに晴れ
上がりました。そして、五輪の期間中、ずっと秋晴れが続
きました。

 東京五輪が成功して、世界に日本をアピールできたのは、
10月に開いたというのが、ひとつの要因だったと思いま
す。
 あれをもし6月に開いていたら、世界の人は、じめじめ
した雨の印象を持って帰ったことでしょう。

 いま再び、東京五輪を誘致しようとしています。
 前回の候補地選びで東京は負けましたが、そのとき、東
京五輪は8月に開くという計画になっていました。
 商業主義になった五輪は、開会日程を、最大のスポンサ
ーであるアメリカの夏休みに合わせる必要があるので、最
近は、いつも8月になりました。
 しかし、日本で8月にスポーツの大会をやって、どうす
るのでしょう。
8月は甲子園で十分です。

 いま思えば、1964年の東京五輪を10月にした私た
ちの先人は偉かった。先人たちは、10月こそ日本のベス
トシーズンであることを、よく分かっていたのです。よく
分かっていたから、10月に五輪をやったのです。
 その先人に比べたら、2002年のサッカーのワールド
カップを6月にした人たちは、ちょっとなさけない。根性
が足りません。

 さて、東大の卒業式を9月にする話です。
 日本の学校では小学校から大学まで、年度末の3月に卒
業式をして卒業生を涙で見送ります。そして、新しい年度
になった4月、桜の下で、新しい児童、生徒、学生を、希
望とともに迎え入れるというのが当たり前です。
 それは、私たち日本人の暮らしにねざした暦です。

 そういうふうにして3月に開いてきた卒業式を、9月に
移すというのは、私たち日本人の暮らしの暦から一方的に
はずしてしまうものです。
 いってみれば、ジューンブライドがいいそうだというこ
とで、日本で結婚式を6月にするようなものです。

 東大は、卒業式を9月に移すよう検討する理由を、外国
の学校、就職に合わせるため、というような話をしていま
す。
 それなら、まさしく、ジューンブライドを日本に持ち込
むような話です。
 
 なにかするときに、なぜ外国、具体的には、欧州やアメ
リカを基準にして考えなければならないのでしょうか。
 もっと、私たちが住んでいる国、日本を基準にして考え
ればいいではありませんか。

 サッカーの女子ワールドカップのときのブログで、
 「短いパスでつなぐという日本のサッカーを磨いていっ
たら、ガラパゴスどころか、世界標準になってしまった」
 という日経新聞の記事を紹介しました。

 それが正解です。
 それがいいのです。
 「国際化」とか「グローバリズム」は大事なことですが、
しかし、大事だからといって、無批判に受け入れていいと
いうわけではないのです。