答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

氷筍

2018年01月31日 | ちょっと考えたこと

 

蛇口の下で成長する氷の柱を見つけ、若者を中心にしてしばし盛り上がる。

そのなかにこのオジさんもいるのだから、あいかわらず気分だけは若い。というか、「おもしろがり」なのである。世の中には「おもしろがり」とそうでないのと2種類の人間がいるとしたら、たぶんわたしは最上級の「おもしろがり」である。当然、写真を撮る。まず撮影する、という行為は今という時代の「おもしろがり」にとって必須項目だ。


「逆つらら?」

誰かがそう言った。

いちおうここは南国土佐の高知である。しかもそのなかでも気候が温暖だとされている安芸郡中芸地区である。そこでこんなものを見ることはめったにない。それが見られるということは、ことほど左様に今年の冬が寒いということの証左だし、これの正式な呼び名を誰もわからないということが、逆説的にここが南国土佐の高知だということを示してはいる。

さて・・・

「おもしろがり」としては、そこで止めておくわけにはいかない。当然、正式名称を探らなければならない。「逆つらら」で検索してみる。たくさんの画像があるが、どうも正式名称ではないようだ。さらに調べようとすると、フェイスブックで知り合いが教えてくれた。

氷筍。

「ひょうじゅん」と読むらしい。

氷の筍(たけのこ)か・・・

うまいことゆうもんだ・・・

おのれの浅学はさておいて、しばし感心する。

 

氷筍(Wikipediaより)

氷筍(ひょうじゅん)とは洞窟に発生する逆さの氷柱である。

特徴

・-3℃程度の洞窟内で発生する。

・上から滴り落ちた雫が瞬時に凍りついたもので、タケノコ(筍)のような形状をしていることからこの名で呼ばれる。

・数千本単位で発生する。

・形成過程は鍾乳洞の石筍と似ている。

 

ん?

してみると、洞窟内ではなく屋外の蛇口の下に発生したコイツは、若い衆のひとりが適当に言った「逆つらら」でもいいのではないか。そんな疑念が頭をもたげたが、これ以上の詮索はもはや無用。なんとなれば、氷筍と言ったほうがいかにも物知りのオジさん然としていてよいではないか。

 

氷筍に 流し場とられて もらい水

 

うん、またひとつかしこくなった。

 

 

 

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再見

2018年01月30日 | ちょっと考えたこと

再見。

初めてこの言葉を目にした手紙には、桜のハンコが押されていた。1978年のことである。

成田闘争で逮捕された知人が、お縄となる原因となった自身の「戦闘」とその「戦果」を、ベトナム戦争のテト攻勢にたとえた文面は、検閲の手前ささやかな表現ではあったが、「どんなもんだい」とばかりに胸を張る彼の姿が見えるようだった。

その手紙の最後に添えられていた言葉が、「再見」だ。

日本語の「さいけん」ではない。中国語の「ツァイチェン」である。

「(出所したら)また会いましょう」という意味合いで使われていたはずだ。

爾来、お気に入りワードのひとつとなった。

 

きのう、

フランスの友人から”Bonne Année !”と題された便りが届いた。

もう2月がそこへやってこようとしているのに”Bonne Année !”とは悠長なことだと微笑みながら、久しぶりに届いた便りに目を細くした。

すぐにしたためた返信には、モネの庭の夕景を添えた。

もちろん、文章の最後は「再見」だ。

 

再見。

桜のハンコが押された便箋を手にしてから、40年が経とうとしている。

残念ながら、彼とはまだ会ってない。

またいつか話しをしたいものだ。

お互いに60を過ぎた今でも、彼はわたしに熱くオルグをするのだろうか。




 



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再読:『保守思想のための39章』(西部邁)

2018年01月29日 | 読む・聴く・観る

 何をもって精神の上等と下等を区別するのか。いろいろな言い方が出来るが、おのれに懐疑を差し向けているか(それともおのれに満悦しているか)、様々な価値の葛藤のなかで平衡を持そうとしているか(それとも特定価値のみを過剰に追求して不徳にはまっているか)、近代主義を歴史の英知によって批評しているか(それとも近代主義を奉じつつ歴史の破壊に喜びを見出しているか)、といったようなことになる。(『保守思想のための39章』西部邁、P.206)


なんて一文に深くうなずきつつ、独り本を読む雨降りの日曜日。

晴耕雨読といえば聞こえはいいが、近ごろとんと「耕」のほうをする意欲がわかず、じっさいのところは晴読雨読。たまさか雨が降っているからといって、それを晴耕雨読などとは、ええカッコしいもよいところである。

とはいえ雨は降っている。

お供にと指名したのは西部邁、『保守思想のための39章』。約5年ぶりの再読である。

ほぼひと月つづいた目の痛みが、少しはましになってきたら、西部さんの遺作となった『保守の真髄 老衰狂で語る文明の紊乱』を読もうと思い、22日に注文していたが、本が届くのは2月9日だという。

 

保守の真髄 老酔狂で語る文明の紊乱 (講談社現代新書)
西部邁
講談社

 

「Kindleにしとけばよかったか」と悔やむ気持ちがないではないが、読書という行為の必然としてブルーライトを浴びまくる電子書籍はしばらくのあいだできるだけ読まずにおこうという自主規制の最中だ。それならば、とこれまでに読んだ氏の著作のなかでわたしがもっとも感銘を受けた『保守思想のための39章』をチョイスした。

文庫本である。

だいじょうぶかいな?

と、その文字の小ささに恐れおののきつつ、また、おのれの眼(まなこ)がどこまで平静を保っていられるかを疑いつつも、なんとか『保守思想のための39章』を読了した。

 

保守思想のための39章 (中公文庫)
西部邁
中央公論新社

 

 感性における(それゆえ特定の感情にもとづくいろいろな仮説のあいだの)背反、矛盾、逆理は放置されてよいものではない。それを放置するのは、まず自分の感性のはたらきを狭める。それは自業自得と見放しておけばよいかもしれないが、自分の表現障害は他者とのコミュニケーションを阻害し、そうすることによって社会を精神的貧血に陥らせる。他者の感性は、それを理解するかぎりにおいて自己の感性の一部となり、したがって自己と他者とのあいだの感性的葛藤が自己の感性のなかにいわば移植されることになる。

 それゆえ、他者とのコミュニケーションに失敗するものは、自己を貧しいものにせざるをえない。つまり、他者理解によってもたらされる自己の内部の葛藤を放置すれば、自己の表現は混乱に見舞われる。そうだからといって他者理解を拒否すれば、社会に流通するメッセージは、感性のはたらきが殺ぎ落とされたもののみになる。その意味で、機械的に定型化される。現に情報媒体(メディア)にはその種のメッセージしか流通しなくなっている。

 感性の葛藤を引き受けるということは、その葛藤においてバランス(平衡)をとることである。そしてその平衡を実現するために(葛藤を処理することのできる)総合的な感性を鍛え上げることにほかならない。(P.36)

 

なんて一文に深くうなずく、雨降りの日曜日。



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事故つづき

2018年01月27日 | ちょっと考えたこと

 

わずか5センチの段差につまずき、

右膝打撲と両手のひら擦過傷。

情けなさすぎて笑ってしまった翌々日。

 

 

ドローンをフライトさせようとしたら、

プロペラだけがまるで竹とんぼのように飛んでいき、

道路下の渓へ落下するのを口をあんぐり開けたままなすすべもなく見つめていた。

 

人生、山あり谷あり段差あり。

皆さん、

くれぐれもご安全に!

(って単なる不注意なんですが ^^;)



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南、純米吟醸無濾過生酒。

2018年01月26日 | 食う(もしくは)呑む

 

安田町ラポールでの宴。

土佐湾に沈む夕陽に茜色の「南」という文字が映える。

純米吟醸無濾過生酒。

しかも歩いて5分のところにある酒蔵から直に持ち込みだ。

よき酒

よき肴

そしてよき朋

 

酒あり飲むべし 吾酔ふべし

快なる哉 痛飲放恣を極む

(山内容堂)


な、夜。



南(みなみ) 純米吟醸 無濾過本生酒 1.8L

南酒造

 

 

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柚子農家の愉悦ここにあり

2018年01月25日 | 北川村

 

「ゆずの大馬鹿十八年」

と題したリーフレットを添えて、柚子の絞り汁(柚子酢、当地では「ゆのす」と呼びます)を贈った方から感想が届く。

 

いわく、

見るからに美味であると想像できた。

しかし実際は、その想像を遥かに上回ったのである。

最初に味わったのは、アジの塩焼き。

数滴程度かけたところ、今まで自分が経験してきた「柚子」の香りの5倍濃縮のような強い、それでいて心地よい香りが鼻を刺激する。

その香りに包まれたまだ熱いアジを一つまみ食べる。口の中になんともいえない「風味」、いや「香味」が広がるのだ。

一緒に食べていた妻も、小学5年の娘も、カルチャーショックを受けたような顔になり、「これはおいしい!!」。


そして、またいわく、

「調味料」というには、「調和」を超える何かをもたらす味わいのような気がする。

そうか、これは「超味料」である。

素材の味わいを必ず超えるのだ。

50を目の前にして、また新たな味体験をした。

感謝感激の新年早々なのだ。

 

くわしくはコチラ

↓↓

https://ameblo.jp/kotobuki5430511/entry-12347246828.html


絶賛である。

激賞といってもいい。

これほどに「わが家の柚子」を褒めてもらったことは記憶にない。初めてではなかろうか。

ゆのす。

年がら年じゅう身のまわりにあり、「あたり前としてふつうにそこにあるもの」という何気ない存在。

あまりにも「あたり前」すぎて、「これはおいしい!!」などと思うことはめったにない存在。

わたしにとってはそんな存在である「ゆのす」に対して、過分な褒め言葉をもらい、恐縮しきりになるとともに、なんだかとても新鮮な感じがしたそのあと、たしかな自信がふつふつと湧いてきた。

「そうか。そんなものをオレたちはつくっているのだ」

もとより片手間の兼業農家の身なれば、柚子農家などとエラそうなことを言いつつも「こんな余計なことを・・・」と思うことも少なからずある。ふだんはほとんど放ったらかしだからいいが(それでも柚子は柚子になるんです。そこが柚子のイイところ)、収穫時期などは、苦役だと表現しても当たらずといえども遠からずだ。そんなフマジメな南国土佐の高知の柚子農家のオジさんが、みちのくに住む友人家族の「喜ぶ顔」を思い浮かべる。

う~ん、なんという幸せ。

まさに、「柚子農家の愉悦ここにあり」。

「よし、今年からはマジメにつくるぞ!」

と、できもしない決心をしてみる朝なのだった

 

 

そうそう、わが家の「ゆのす」はコチラでお買い求めができます。

(残念ながら2017年物はすでに売り切れのようですが ^^;)

↓↓

近藤印・高知酒店

新作、搾りたて「ゆのす」塩なし!今年もいい香りです。

 

 

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謙虚とは堂々として過信しないことだ。それは断じて卑屈であることではない。(中岡慎太郎)

2018年01月24日 | 北川村

歴史上の人物で誰がもっとも好きかと問われたら中岡慎太郎と答える。

40年前なら迷わず坂本龍馬と答えていた。30年前も、20年前も、そうだった。10年前は・・・龍馬ではなかったが慎太郎でもなかったような気がする。今は躊躇することなく中岡慎太郎だ。

その慎太郎さんの言葉は、いくつかこのブログでも紹介してきた。

そのなかでもっとも多く、ことあるごとに引いてきたのはこれである。

 

志とは、目先の貴賤で動かされるようなものではない。

望むべきは、その先の大いなる道のみである。

今、貴いと思えるものが、明日は賤しいかもしれない。

今、賤しいと思えるものが、明日は貴いかもしれない。

君子となるか、小人となるかは、家柄の中にはない。

君、自らの中にあるのだ。


このごろ頭のなかを巡っているのはこの言葉だ。

 

謙虚とは堂々として過信しないことだ

それは断じて卑屈であることではない


このところ検査がつづいている。

公共建設工事に検査は付きものだ。なおかつ、今という時代の公共建設工事(一定金額以上)には検査の結果としての工事成績評定点というやつがもれなくついてくる。わたしたち受ける(評価される)側の人間は分が悪い。端から全面降伏的姿勢で受検する人も多い。ややもすれば卑屈ともいえる態度をとってしまう人もまた多い。

それをして、「負けて勝つ」だと利いた風なことを言う人もいるが、わたしはそうではないと思う。「謙虚」は、検査に限らず渡る世間ですべからく持ちつづけなければならない心持ちだ。「卑屈」ではない。「卑屈」と「堂々」は相反して共存しない。だが、「謙虚」と「堂々」は共存できる。

とはいえ現実には、そういうわたしとてなかなか思い通りにはならない。思い通りにならないことだらけのなかで、ときとして自然発生的に、場合によっては戦術的選択として、ときには媚び、ときには卑屈になりして公共建設工事という世間を生きている。しかし、いやだからこそ、その現実を重々承知のうえで慎太郎さんの言葉を噛みしめるのである。

 

謙虚とは堂々として過信しないことだ

それは断じて卑屈であることではない


さっ、今日もはりきっていってみようか。



 

  

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「まだまだこれから私発展途上人、鈍行列車はゆるゆると進みます。」(若竹千佐子)

2018年01月23日 | ちょっと考えたこと

えぇ、芥川賞受賞などという晴れがましきことが私の人生途上にあるなどとはおそらく神様さえもご存じない、ただただ感涙にむせんでいるのであります。

 

という書き出しで始まる小文が今朝の高知新聞に載っていた。書き手は「おらおらでひとりいぐも」で第158回芥川賞を受賞した若竹千佐子さん。その文章の締めくくりはこうだ。

 

まだまだこれから私発展途上人、鈍行列車はゆるゆると進みます。

 

わたしもまた、これに類するようなことをよく口にする人だ。以前からそうだったが、近ごろとみに多くなった。他人さまにそれを宣言するについては、ともすれば居着いてしまおうとしがちな自分自身に対する戒めとしての意味もあるが、心の底から本気で「発展途上人」だと思っている。

ところがコレ、使いようによってはとても危険な表現であると最近思い始めた。

人は、その人自身が好むと好まざるとにかかわらず、置かれている立場というものがある。その人が立派だとか優れているとか偉いとか、そんなこととはまったく関係なしに「置かれている立場」はある。ある程度の年齢になればなおさらのこと、ある。その「立場」を顧みたとき、「オレいつまでも発展途上人だもんネ」などという態度をとるのは、自意識の部分ではともかく、他者、特に若い人との関係性を考えると傍迷惑でしかない場合も多々あるからだ。

ある程度の齢(よわい)を重ねた人間は、落ち着かなければならない。それが大人というものだ。いくつになってもいつまでも、何かを探し求めているような「落ち着きの無さ」は正しいオジさんが身にまとうべきものではない。「発展途上人」という言葉の響きと、それを発する人間の心情のどこかにその「落ち着きの無さ」をわたしが感じるのは、多分にふらふらとして落ち着かないわが性分のせいだろうが、そればかりでもないだろう。

そこへいくと若竹さんが発する「私発展途上人」という言葉は悪くない。そのあとにつづく「鈍行列車はゆるゆると進みます」という言葉が、ふらふらとなりがちな「発展途上人」の印象をどしっと落ち着かせているのだ。そして、それを読むわたしとて齢(よわい)60、いい年をしたオジさんだもの、「落ち着き」がなければならない。これからも「居着く」ことは厳に戒めていくべきだが、「落ち着き」はなければならない。

残された仕事人としての時間に想いを馳せると、ともすれば時間が少ないと焦りがちになり、なんだか落ち着かないことの多いここ数年のわたしだが、近ごろ、そうとばかりも言えないような気がしてきた。どう計算してもたっぷりあるとはいえないが、考えようによっては、それほど少なくはないような気もしてきたのである。

そんなとき目に飛び込んできたのがこのくだり。

 

まだまだこれから私発展途上人、鈍行列車はゆるゆると進みます。

 

わたしの場合、基本的なスタンスとして鈍行列車で行く気はないが、ときにはこんな心持ちも必要なんだろうな、と思いつつ若竹千佐子さんの小文を読んだ朝。




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育てる育てられる

2018年01月22日 | ちょっと考えたこと(仕事編)

去年の今ごろ、全国の有志が集まって高知県職員向けに「CIM勉強会」(のようなもの、しかも半ば押し売り)を開いた。

↓↓

2018.01.28『踏み出せば、そのひと足がCIMである

2018.01.29『古きを知り新しきを知る~高知県東部の土木構造物めぐり

最近マスメディアが騒いでるアノ問題で、「認めたO組」「認めないK建設」を筆頭にオールジャパン級のそうそうたるゼネコン各社に加え、北の大地に燦然と輝く中小建設業の星・砂子組、そしてなぜだかそこに紛れ込んだ高知県安芸郡北川村在住スキンヘッドの還暦の土木屋。

その催しから1年が経ち、今でもわたしの耳の奥に残っている言葉がある。

「アイ・コンストラクションCIMもICTも、わが社にとっての目的は人材育成なんです」

砂子組の近藤さんが自身のプレゼンテーションの最後に放った言葉である。

はっきりいってぶったまげた。もちろん、単なる憧憬の対象から始まり10年以上の付き合いになるのだもの、「人を育てること」にもっとも重きを置いているのは重々承知していたが、まさか、i-Constructionをして「人材育成のため」と断言できるとは。いやはやまったくもって恐るべしは砂子組、と畏敬の念を深くすると同時に、「どこでどう結びつくんだ?」という疑念が浮かんだまま消えなかった。

あれから1年が経ち、そのあいだも折りにふれ思い出すことはあったが、やはり答えは出ずじまい。かといって直接それを確かめるでもなく今に至った。

答えらしきものが出たのはつい先週のことである。遠路はるばるわたしに会いに来てくれた御仁がいた。話の途中、どういう成り行きだったかは忘れたが、「わたしの場合、CCPMであれCIMであれ、コミュニケーションという柱が共通項としてある。そこから肉付けできるものしか取り組まない。もしくは、取り組んだとしても結局はそこに収斂していくものしか残らない」というような話をした。初めてする話ではない。持論である。自ら積極的に吹聴することはあまりないが、「なぜCCPM?なぜCIM?」をわたしに対して問うた人には必ずといっていいほどしているはずだ。

だが今回はいつもとチト違い、持論を披瀝したのち脳内に「はてな」が浮かんで消えなかった。

「コミュニケーション」が背骨であることに違いはない。

だがそれだけか?

本当にそれだけだったのだろうか?

 

つづける。

倦むことなく飽きることなくつづける。

と言えば体裁はいいが、現実には倦むことも飽きることもある。

「あきらめたらそこでゲームセットですよ」とはたしかに名言ではあるけれど、一度や二度あきらめたぐらいで渡る世間の試合は終了しない。

で、またつづける。

つづけはじめる。

それが「変わりつづける」ということだ。

その繰り返しのなかから「変わりつづける」文化を根づかせていく。

現実には、「根づいていくんじゃないか」という希望的観測と「根づいていったらイイナ」という願望的期待にしかすぎないかもしれないが、その繰り返しが人材育成につながる。色々さまざまな試みや取り組みには、そもそも「人を育てる」という大きな目的がその底にあったはずだ。

だとすれば・・・・

「i-ConstructionもCIMもICTも、わが社にとっての目的は人材育成なんです」

去年の今ごろ、砂子組の近藤さんが自身のプレゼンテーションの最後に放った言葉がストンと腑に落ちた。

もちろん、彼がどのような想いでその言葉を発したかについては、直接たしかめてないのでわからないが、少なくともわたしのなかではピタッと符号した。脳ではなく身体がわかった。

 

ザマアないネ・・・と頭を掻く。

これぐらいのことを理解するのに1年も要したかと思うと情けなくなってしまったのだ。

ケドまあそれでもエエやないの・・・と思い直す。

つづける。

つづけはじめる。

変わりつづける。

変わりつづけはじめる。

その繰り返しのなかから育てられるのは、他ならぬわたし自身でもあるのだから。

これからです。60ですけれども。

 

 

 

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腰は痛いが未来のためなら

2018年01月20日 | 土木の仕事

現場の全景を撮ったあと、ふと後ろを見るとグッドロケーションである。

思いつきで自撮りをしてみた。

「ひまか!」

とツッコまれそうだ。

そう、当たらずといえども遠からずである。

遠近両用メガネをかけてなかったので出来栄えはわからない。

帰ってその他の写真ともどもチェックをしてみると、悪くない。

ふと、ある画像とそれにつけられていたキャプションを思い出した。

 

腰は痛いが、未来のためなら

 

岩手県建設業協会遠野支部、「遠野かっぱ工事隊」である。

うん、これだ!

パクらさせていただくことにした。

 

 

 

 

腰は痛いが未来のためなら

 

 

お粗末 ^^;

 

 

 

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