森崎さんが『アウトプットの重要さ』というお題でブログを書いていた。
ふむふむナルホドそりゃそうだ、と同感したので紹介する。
いわく、
なにせしゃべるのが下手なので、それをカバーするためにパワーポイントで「見える」資料を作らねばならないのだ。
しかし、多くの人の前で話す内容を考え、分かりやすくまとめ(実際に分かりやすいかは別として…)、緊張感を味わいながら限られた時間の中で話す、というのは自分を鍛えるよいトレーニングだと思えばなんとかこなせるものだ。
引き受けたことで、引き受けなかったことよりも確実に自分自身はレベルアップしているはずだ(本人の思い込み含む)。
おっしゃるとおり。
とはいえ、どこか誰かの資料をコピペしてパワーポイントで資料をつくり、ただただその文字を読むだけの人は、この貴重なトレーニングの機会を自ら放棄しているに等しい。勘違いしないでほしい。模倣が悪いと言っているわけではない。例えばこのわたしなぞは、常に模倣からしか思考をスタートさせることができない凡人だ。分岐点はそこからなのである。コピペの棒読みで終わるのか、模倣をベースにして自分の頭で考え自分の表現方法でパワポをつくり自分自身の言葉に置き換えて他人さまに語るのか。
かたやその経験は「余計なことを引き受けてしまった。次はもういいや」で終わり、もう一方は体験がじわじわと蓄積され、己の血となり肉となる。
またいわく、
インプット(学ぶ)だけではだめで、アウトプット(外に出す)することでより効果が上がるとよく言われる。
本を読んだら誰かに内容を話すことや、自分が経験したことを人前で話すことでより内容や意味が整理されるということだろう。
昨年からこのブログを週6回程度書くこともアウトプットの修行である。僅かでもなにか「おや?」と思ったり、ヒントになるようなことを情報発信したいものである。
そのためにはネタ収集が必要で、以前より新聞もよく読むようになったり、今まで以上に本を読んだり映画を見たり、いろんな施設や行事に足を運んだりするようになった。
その結果、自分の感性の肥やしに間違いなくなっている。
これもまたおっしゃるとおり。
「学び」とはすなわち「入力」することだと勘違いしている人はじつに多い。だが、入力を繰り返しているだけの人を待ち受けているのは、情報メタボという結果だ。「学び」を自分自身の腹に入れ、なおかつメタボにならないためには、「出力」することが不可欠である。「出力」するためには消化することが必須だ。「出力」と「消化」は同時進行だと言ってもいい。そういう意味では、「アウトプットすることでより効果が上がる」というよりは、アウトプットしなければ「学び」は「学び」たり得ないと表現したほうが適切だとわたしは思う。
「余計なことを引き受けてしまった。次はもういいや」という人と、「引き受けたことで、引き受けなかったことよりも確実に自分自身はレベルアップしているはずだ」という人の決定的な差異を、わたしは彼のブログから読み取ることができるのだ。
どちらを選ぶか。それは人それぞれだろう。
わたしはもちろん後者を選択するし、そう(しようと)する人を応援する。
前者を選択する人に言っておきたいのは、後者によってもたらされる恩恵やメリットが組織を強くしていくということを、ゆめゆめ忘れないでほしいということ。であればどうせなら、こっちを選んでほしいと切に願う。
「出力」するという行為は何も、大勢を前にして話をしたり、不特定多数に向けてWebで書いたりということでなくてもよい。まずは手始めに自分の周りに「出力」してみる。すると自分自身の至らなさに気づく。本当の意味での「学び」が起動するのはそこからだ。
出力しようぜエブリバディ。
れっつアウトプットなのである。
以上、森崎さんのブログに触発されて書いてみた。
「ネタ収集」の重要性についてはまた後日。
↑↑ クリックすると現場情報ブログにジャンプします
有限会社礒部組が現場情報を発信中です
発注者(行政)と受注者(企業)がチームワークで、住民のために工事を行う。