立ち小便の好きな偉人といえば坂本龍馬だ(あくまでも『竜馬がゆく』のなかの司馬竜馬ですが)。
広く世間に知られているかどうかはわからないが、少なくともわたしのなかではとてもフェイバリットなことである。
以下、『竜馬がゆく』から引用する。
「よし、そのシジツガンを読む」
「読めるか、訳註をしてくれる師匠が要るぞ」
「師匠?」
竜馬はあきれた。
「そんなものが要るのか」
「要るとも。おれがなってやろうか」
「半平太ずれに」
と竜馬はいった。
「教わらん。教われば半平太と似た人間ができるばかりじゃろうが」
「それでは、どうする」
「自分で読むばかりじゃ」
と竜馬は相好をくずし、
「おれは剣術だけは師匠についたが、学問は、べつに学者になろうとは思わんから、師匠はいらん」
「こいつ、学問のこわさを知らぬな」
「知ってたまるか」
わっ、と笑った。
「知れば、小心翼々たる腐れ儒者ができるじゃろ」
竜馬は辞した。
門を出ると、すぐ武市家の塀にむかって小便を放った。
べつに遺恨があるわけでもなんでもなく、尿意をもよおしただけのことである。竜馬には、尿はかわやで行なうもの、という法がないようであった。
これが竜馬の癖になった。武市家へ訪れるたびに、帰りはこの塀でやる。武市は、謹直で作法のやかましい男だし、女房の富子は、きれいずきで通った女である。
塀のその部分だけが、ひどく臭くなった。
ある日、富子はこまって、半平太に苦情をいった。
「坂本さまはいいお人で、来てくださるのはうれしゅうございますけど、あれだけはおよしになるよう、おきかせねがえませぬか」
「いや」
と武市はいった。
「あいつはあいつなりの法で諸事やらせておけ、やがてどんな漢になるか」
(『竜馬がゆく』立志篇、P.332)
初読のとき中学生だったわたしは、見事にこれに感化され、そのままなんとも行儀の悪い大人になってしまって今日に至るのだが、とどのつまり「どんな漢」にもなれてはいない。
あれから45年。
我ながら汗顔の至り。
昨夜、外に出て季節外れの嵐を嘆き、予定どおり行かぬであろう現場のことなどを考えるついでに小用を足したあと、今は昔のミーハーな少年時代を思い出し、
「アホやなあ」
と苦笑いして、
「今でも変わらんか」
と頭を掻く。
↑↑ クリックすると現場情報ブログにジャンプします
有限会社礒部組が現場情報を発信中です
発注者(行政)と受注者(企業)がチームワークで、住民のために工事を行う。