採り手がいないゆず畑。
道では熟れきったゆずがそこらかしこに落ち、車に踏みつぶされている。
きのう、久しぶりに行った村の北部で、そんな光景をいくつも目にした。
次の世代に向けてのパッサーとして生きている。
と書いたのはつい3日前。
そんな威勢のいいことを言ったその舌の根も乾かぬうちに、
「そりゃ”次の世代”とやらがあればの話じゃないのかい?」
「現実は・・・」
などとネガティブな言葉が口をついて出そうになり、「なんてこったい」と舌打ちひとつ。
ライク・ア・ローリングストーン、有為転変。「キープする者としてではなくパスする者として生きている」というのは、あくまでも心持ちの問題であって、パスするボールの形や大きさは不変ではない。「なるようにしかならないのだもの」というスタンスをとることは厳に戒めたいが、ときには「なんとかなるさ」という楽観も必要だ。
熟れきったにもかかわらず採り手がおらず残されたゆずの黄色は、あまりにも鮮やかすぎて哀しいが、だからといって、いたずらに感傷的になるのは止めよう。
今という時代に辺境の村で生きる、というのは大なり小なりこういうことだ。
てなことを思いつつ、帰路についた。
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