ジュンペイブログ

2010年、職業訓練を経て転職したばかりだった当時26歳の俺が、
何となく始めた自己満足ブログ。

ひめゆりの塔と旧海軍司令部壕

2016-07-20 00:00:30 | 旅行
沖縄本島の南部をドライブしていた俺は、
広くて時間がかかりそうな平和祈念公園はスルーして、
映画や小説で有名なひめゆりの塔に来ました。

沖縄戦で看護要員として従軍させられて亡くなった、
ひめゆり学徒隊の鎮魂の為の慰霊碑なのだが、
大きな駐車場に土産物屋やレストランまであり、
周りは思っていたよりも賑やかだった…。

ひめゆりとは花のことではなく、
沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の校誌名を組み合わせた言葉なのだとか。

ひめゆり学徒隊240名(女子生徒222名、教師18名)の内、
226名が戦争で亡くなったそうで、
最後に訪れて一番多くの犠牲を出したという伊原第三外科壕跡に建てられていました。



壕として使われていたこのような自然の洞窟をガマと呼ぶらしい。

こんな劣悪な環境で重傷者や死体と一緒にいるなんて、
俺には耐えられないだろう…。

実はガマの手前右側の小さな石碑がひめゆりの塔なのだが、
建てられた当時は米軍統治下で、
物資の調達が困難だったという背景があるようだ。

310円を払ってひめゆり平和祈念資料館も見学することにしました。



俺は映画などで少しは知っていたので、
最初はすぐに出るつもりだったのだが、
実際に見てみると物凄く引き込まれてしまった!

現実にあったとは信じられないような悲惨な状況が生々しい記録で残されていて、
亡くなった女子生徒と教師の遺影で埋め尽くされた部屋は本当に辛くなった…。

突然の解散命令で戦場に放り出され、
敵の攻撃や自らの手で命を失っていった少女達のことを想うと、
帰りに慰霊碑の前で黙祷を捧げずにはいられませんでした。

想像以上に良かったので、
ここのガイドブックを購入して親父へのお土産にしました。

沖縄本島の最南端で、
太平洋と東シナ海を分けるポイントになっている喜屋武岬(きゃんみさき)。



ここにも平和の塔という慰霊碑が建っていて、
ひめゆりの塔の後に来るととても悲しい風景に見えた…。

この日もガイドブックに載っていた古民家の食堂に行くつもりだったのだけど、
14時になり時間に余裕が無くなってきたので、
諦めて豊見城市にある旧海軍司令部壕へ向かいました。

14時半頃に海軍壕公園に到着。

旧海軍司令部壕の入口があるビジターセンターは、
見晴らしが良い小高い丘の上にありました。



ここも沖縄戦の歴史を伝える戦跡でした。

那覇市方面を見ると漫湖(まんこ)がありました。



沖縄に卑猥な名前の湖が存在することは知っていたが、
こんな街中にあったとは…。

漫湖はマングローブが生い茂っていて、
さらに公園のクジラが潮を吹くらしい!

440円を払って入口の長い階段を下りていくと、
再び重い空気に…。



全長450メートルの壕で、
現在は300メートルが公開されているとのこと。

迷路のように張り巡らされた壕内の通路。



カマボコ型に掘り抜いた横穴をコンクリートと杭木で固めていました。

幕僚室の壁には司令官を補佐していた幹部が手榴弾で最期を遂げた時の破片の跡が…。



俺の前を歩いていたアメリカ人の親子はどんな気持ちで見ていたのだろうか?

壕内に3ヶ所ある発電室。



ジメジメしていてカビ臭かった…。

下士官室や兵員室では横になるスペースが無かった為、
兵士達は立ったまま睡眠を取っていたのだとか。



こんな息苦しい場所に約4,000名の兵士が収容されていたなんて、
俺なら頭がおかしくなるだろう…。

大田司令官ら6名が自決した時のままの司令官室。



壁には大田司令官の辞世の句が残されていました。

沖縄は明るい観光地のイメージの方が強いけれど、
こういう悲しい歴史について学ぶ場所も悪くありませんでした。

二度と繰り返さない為にも、
戦争の悲惨さと平和の尊さを次世代に伝えていくことは本当に大切だと思った!

もう15時を過ぎていたので、
この後は急いで名護市を目指しました。

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