この植物名を探すのに1週間ばかり費やしてしまった。まあずーとこのことばかり考えていたわけではないが、ほとんど毎日散歩する。決まったコースを歩くのです。カメラと双眼鏡を首にぶら下げて歩く。
日本の山野(ほとんど平地)を歩き始めたのが、20歳の頃から、日本野鳥の会に入会してからです。旅行や仕事の出張の時カメラと双眼鏡は必ず鞄の中に入れて出かけてきた。これまではだいたい双眼鏡と超望遠レンズつきカメラ(超というのは600ミリ以上の望遠という意味で超と書きました)。
歩き始めの頃、40年くらい前、当時は豊島区の学習院下というところに暫く住んでいた。早朝下駄履きで我が家を出て学習院大学の下の道から大学構内の林に群れる野鳥を見ていたとき、近くにパトカーが止まって、「何をしているんですか」と聞かれた、職務質問ではなかったと思うけれども、お巡りさん行き枯れた。「鳥を見ているんです」と私が応えると、「鳥を見てどうするのです」と聴く。「観察してるんです」というとそれ以上は聴かなかったが、お巡りさんに質問されるというのは、あまり良い感じはしなかった。
当時は、日本野鳥の会会員が2000名を少し超えたくらいの頃で、町中で野鳥観察をする人はいなかった頃だから。
広島もよく行った、昭和50年頃だったろうか、朝早起きして宿の近くの墓地を歩いていたとき、キクイタダキを初めて見た。千葉県八千代市の花見川も良く歩いた。ここでは望遠レンズを担いで一日中川の堤防で過ごすことが多かった。八千代市から幕張のロッテ球場まで歩いたこともあったから当時は元気があったのだ。途中に旨いラーメン屋があった。決まって海鮮ラーメンを食べた。椎名誠さんが高校生時代過ごした町を彼の文章を思い出しながら歩いたこともあった。このコースは野鳥が多かった。
習志野市の谷津干潟も良く出かけた。まだ埋め立て真っ最中の頃から行っていた。捨て猫や野良犬もいた。ほこりっぽい埋め立て地には夏は、アジサシが雛を孵していた。谷津干潟保全の運動をしている人たちが、掘っ立て小屋を建てていて、そこの人に谷津干潟の歴史を教わったりした。野鳥の会東京支部には当時からがんばっていた人がまだたくさんいらっしゃる。東京支部報が届くと、お名前を拝見して懐かしい思いがする。
今は鹿児島に帰って早いもので10年以上経った。帰省して間もなく植えた実のなる木も今年はたくさん実をつけている。望遠レンズはカビが生えてしまい数年前修理にだしたら、もう手に負えないといわれて帰ってきた。鹿児島は住むには良いところだけれど、カメラやレンズのメンテナンスにはいろいろ不便である。
この植物は、なかなか名前が思い出せないでいた。今日散歩の途中に1本抜いて(あまりすすめめられないけれど)見たら、ツユクサの仲間だと気づいた。それで家に帰って名前がわかった次第です。